シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

2020年に出会ったすごく良かったワインたち

 

 
ワインを飲み歩いて約10年、いわゆる定番ワインのことは結構わかるようになった。ところがワインの世界はまだまだ広く、「どうしてこんなワインがこんな値段で?」と思ってしまうことはよくある。今年になって出会った、コストの割にいけているワインたちをズラズラ挙げていこうと思う。
 
 
・クズマーノ "ディズエーリ" ネロダヴォラ 2018 (シチリア・赤)
【1992】Cusumano "Disueri" Nero d'Avola 2018 - 北極の葡萄園
 

 
シチリアは安旨ワインと安いだけのワインの宝庫だけど、このワインはクオリティが価格水準を大きく上回っていると思う。クズマーノはシチリアの大手メーカーで、お手頃なワインをたくさん売っている。で、このワイン、値段が高くないにもかかわらず「いかにも葡萄酒然としたぶどうらしさ」と「森の下草みたいなオーガニックな雰囲気」が漂っている。舌ざわりがしっとりしているのも良い。それでもタンニンが無いわけではないので、結果としてこしあんみたいな飲み心地になることもある。シチリアの土着品種の赤ワインを試してみるなら、こいつは良い入口になると思う。
 
このワインには、工業生産品としてのワインでなく、農産物としてのワインらしさがあるのだけど、一般に、ワインからそういう雰囲気を感じ取るためには3000円以上出さないと難しい。ところがこのワインは1600円ほどで買えるのでリピート。
 
 
・マックマニス・ファミリー ジンファンデル 2018
【1983】McManis Family Vineyards Zinfandel 2018 - 北極の葡萄園
 

 
カリフォルニアの赤ワイン品種・ジンファンデルのなかでもバランスがとれていて、しかも1000円台!
 
こいつは、甘さと果実味で押すワインなのだけど、苦み・梅系酸味といった赤ワインの味の土台となる部分をおろそかにしていない。甘さと果実味で押す安ワインの駄目なやつは、だいたい、土台をおろそかにしているので飲み飽きる。ところがこれは飲み飽きない! 価格を考えると信じられないほど細かいところに目配りされたワイン。これより値段が高く、上っ面だけ美しくした赤ワインはいくらでもある。
 
カリフォルニアワインは値段とクオリティが比例するため、この価格帯で納得のいく品を探すのは非常に難しい。そんななか、マックマニス・ファミリーはかなり頑張っていると思う。以前から白ワインのクオリティには驚いていたけど、今年、赤ワインを発見してこれまたびっくりしてしまった。
 
 
・エミリオ・ブルフォン シャリン 2018
【2073】Emilio Bulfon Scialin 2018 - 北極の葡萄園
 

 
はじめに断っておくと、これはゴージャスな白ワインやリッチな白ワインが欲しい人には向いていない。「白ワインの味の土台は酸味」という基本原則からも逸脱している。模範的な白ワインとはいえない。
 
このワインのいいところは、白ワインにも関わらず、落ち着いた飲み心地で、なんだか重低音の効いたワインと感じられる点。こういう特徴はボルドーの赤ワインにはよくあるけれど、白ワインではあまり多くない。私は白ワインが好きなのだけど、飲むと頭がヒートアップしてメチャクチャになってしまうので最近は控えめ。ところがこのワインは静かな気持ちで飲めた。白ワインをある程度飲み慣れていて、変わり種を飲みたい人、静かな気持ちで飲みたい人におすすめ。シャリンはこのメーカーぐらいしか作っていないイタリア北東部の土着品種なので、話のタネにもどうぞ。
 
 
・ロシュバン ブルゴーニュ・ピノ・ノワール ヴィエイユ・ヴィーニュ 2016
【1972】Domaine de Rochebin Bourgogne Pinot Noir Vielles Vignes 2016 - 北極の葡萄園
 

 
ブルゴーニュの赤ワインは異常に値上がりしていて、新型コロナウイルスがやってきても全然値下がりしない。そんななか、2000円を切った価格で流通しているこのワインはお買い得の部類。ブルゴーニュの赤ワインとしては低価格帯なのに、ちゃんと化粧箱みたいな香りがあって香り映えがする。
 
もちろん、化粧箱みたいな香りの漂うワインは他にもあるし、同じブルゴーニュの赤ワインでも5000円出せばもっともっと薫り高いワインは手に入る。とはいえ、1000円台でそういう雰囲気を出してきているのはえらい。1000円台のブルゴーニュの赤ワインは結構辛いものも多いから。なお、私がリピートしたのは2016年産で、2017年産や2018年産も同じ雰囲気なのかはこれから確認してみる予定。ここに張ったリンク先は2017年。
 
 
・ネグラール アマローネ デッラ ヴァルポリチェッラ モンティゴーリ 2016
【2024】Montigolo Amarone della Valpolicella 2016 - 北極の葡萄園
 

 
アマローネは、一般的な赤ワインに比べて甘みが強めなので、正統な赤ワインとは雰囲気が違う。だけど甘みが強いおかげで「子ども時代にイメージした葡萄酒」に限りなく近い味がするように思う。舌触りが少しザラザラッとしていて果実フレーバーが強烈なのも葡萄酒っぽいイメージを駆り立てる。葡萄酒らしい葡萄酒をワイン初心者が飲むなら、一般的な赤ワインは避けてアマローネを買ったほうが納得できると思う。
 
ところがアマローネはちょっとした高級ワインジャンルなので、マトモに買おうとすると痛い出費になる。にもかかわらず、このワインは2600円とめちゃくちゃ安い。10000円ほどのアマローネに比べるとさすがに粗いと感じる部分はあるにせよ、ちゃんとアマローネらしさは揃っているのでありがたい。
 
 
グレネリー グラスコレクション カベルネ フラン 2016
【1942】Glenelly "Glass Collection" Cabernet Franc 2016 - 北極の葡萄園
 

 
南アフリカのワインは、全体的に価格の割に美味いものが多いのだけど、そうしたなかでこのワインは1700円ほどもする(※値上がりした!今は2800円ほど)。なので「南アフリカのワインにしては高価」なのだけど、それだけのことはある。このワインの品種はカベルネフランといって主にフランス中部でつくられているものだけど、フランスの同価格帯の品に比べて味の輪郭がくっきりしていて、愛嬌があるというか、人をひるませる要素が少ない。
 
サクランボみたいな果実フレーバーと鉛筆・牧草みたいな香りがしっかりと香り、渋みはそれほど厳しくないので、ぶどうでつくられたお酒を飲んでいる感を感じやすい品だと思う。街で見かけたら保護したい。
 
 
・バンフィ ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ "プラチド" 2005
【2074】Banfi "Placido" Brunello di Montalcino 2005 - 北極の葡萄園
 

 
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノはイタリア中部で作られる高級ワインなのだけど、こいつはその割には価格が抑えめ。普通、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノは安くて6000円程度、高くなると15000円程度はする。しかも10年ほど寝かせておきたいので買うのも飲むのも大変。ところがこのワインは4000円を切っていて、2005年と十分に熟成もしている。
 
このワインの特徴は、干し柿やオレンジの皮みたいな香りが香ってくるところ。この香りのおかげか、ワインに包容力があり、飲むにつれ温かい気持ちになってくる。トマトスープや腐葉土のような香りがよぎることもあって、飲み応えは抜群、リッチ、これだけの味と香りのワインは、倍は出さないと普通は飲めない。
 
これは、在庫放出か何かなんだろうか? とにかく滅茶苦茶美味くてまた買いたくなってしまう。じきに在庫が無くなって終わりになるだろうから、つい、ストックしてしまう。なくなるまでリピートする予定。
 
 

手堅いフランスワインばかり買うのはやめよう

 
この、最後に挙げたプラチドや最初に挙げたディズエーリなど、今年はイタリアワインでコストパフォーマンスのおかしいワインに何度も出会い、その個性、その豊かさにびっくりさせられた。2015年頃から私は「一定クオリティ以上のワインを買うなら、結局フランスワインを買ったほうが手堅い」なんて思っていたのだけれど、これらのワインをリピートして「フランスの手堅いワインばかり買っているのは良くない、ちゃんと他所のお買い得品を探し回ろう」と思い直した。
 
それと、ワインを知ったつもりになっていて、まだまだ知らないぶどう品種、知らない味があるとも思った。ワインが趣味のひとつになって10年ぐらいになるけれども、来年は初心にかえって、いろいろな地域のワインをまんべんなくトライしてみよう、と思う。
 
 

男性性欲が医療によって管理される未来

 
この文章は、先週twitterでつぶやいた話をブログ用に書き直したものだ。もっと長文でまとめてみたい、と思ったからだ。
 
 

「賢者タイムは生産的」→「というより、男性性欲のあれって認知や行動の障害では?」

 
「賢者タイム」というインターネットスラングをご存じだろうか。
 
賢者タイムとは、男性が射精後に性的関心がなくなり、冷静になっている状態を指す言葉だ。賢者タイムがあるということは、いわば愚者タイムとでもいうべき時間もあり、男性、とりわけ若い男性はしばしば、性欲や性衝動によって冷静さを失う。そして生産的でも合理的でもない行動、たとえば普段は欲しいとも思わないポルノグッズを衝動的に買ってしまったり、向こう見ずな行動をとってしまったりする。
 
だから若い男性のなかには、冷静さを取り戻すために、ほとんどそれが目的でマスターベーションを行う人すらいる。
 
「睾丸毒」というネットスラングも過去にはあった。これも、男性性欲によって男性の行動が影響を受けるさまを指す言葉で、「睾丸毒が溜まる」という言い回しもあったように思う。
 
こんな具合に、男性性欲は行動にしばしば影響を与え、その影響のなかには、悪影響と呼ばれてもおかしくないものも含まれる。関連して、女性との交流や女性への下心が男性の認知機能を低下させる、といった研究があったりする。
 
[参考]:Interacting with women can impair men’s cognitive functioning - ScienceDirect
[参考]:The Mere Anticipation of an Interaction with a Woman Can Impair Men’s Cognitive Performance
 
これらの研究結果に"身に覚えのある"男性は多いのではないだろうか。
 
男性は、自分自身の性欲によって認知や行動に大きな影響を受け、なかにはそれで人生をどぶに捨ててしまう人すらいる。悩みや苦しみを抱えていることも多い。
  
日本の精神医療の現場にはたまにしか浮かび上がってこないが、いちおうアメリカ精神医学会の診断基準(DSM-5)には「性機能不全群」というカテゴリが存在する。だがこれらは「性行為ができない・性行為が来ない」「性倒錯にとらわれ一般的な性機能が障害されている」といったもので、範疇的な男性性欲がたかぶった結果として認知や行動がグラつく事態を想定したものではない*1
 
他方、表の世間であまり話題になっていないけれども、男性性欲によって「さかりのついた猫」のようになってしまう状況や、本人自身の悩みや苦しみが深いことは結構ある。その程度が甚だしいもの・社会的影響や経済的損失の大きなものについては、月経前症候群(Premenstrual Syndrome : PMS)や月経前不快気分障害(premenstrual dysphoric disorder : PMDD)などと同じく治療の対象とみなされ、医療化、すなわち医療の対象とみなされる余地があるのではないだろうか。
 
 

人間ほんらいの機能なら「病気」にならない……とは限らない

 
(機能不全でも性倒錯でもない)男性性欲が医療の領分とみなされることに疑問や抵抗感をおぼえる人もいるだろう。
しかし医療の現状をみるに、私にはそうとは思えない。
 
さきに挙げた月経(いわゆる生理)も、ホモ・サピエンスの女性に備わった生理的機能のひとつだ*2。たとえ生理的機能でも、それが本人に苦しみをもたらしたり生産性を低下させたり認知や行動に影響が出たりするなら、PMSやPMDDのように"病気"として、治療の対象として扱われる。
 
なら同じロジックで、男性性欲によって本人が苦しんでいたり生産性を低下させたり認知や行動に影響が出たりするなら"病気"として、治療の対象として扱われたてもおかしくないのではないか?
 
発達障害にもそうした側面はある。
発達障害には遺伝的・生物学的な基盤があることはよく知られている。だがそもそも、(重症度の高い自閉症などを除いた)大半の発達障害は20世紀後半になるまで診断と治療の対象になっていなかった。それは診断や治療の方法が乏しかったというより、診断や治療をしなければならない社会的ニーズが乏しかったからだ。
 
今日において発達障害と診断されている人の相当部分は、20世紀初頭や19世紀以前において「正常(または定型発達)」とみなされてもおかしくない人たちだったし、多様なホモ・サピエンスの成員にはそういう人たちがたくさん含まれていて、そのことに違和感を持つ人はいなかった。発達障害の遺伝的・生物学的基盤も、発達障害が"病気"としてクローズアップされるまではホモ・サピエンスの遺伝的ばらつきのひとつでしかなかったし、そうしたばらつきを人々が持っていること、そうしたばらつきを持った人も込みで社会が構成されていることは当然だった。
 


 
だから「ホモ・サピエンスのほんらいの機能」だからといって"病気"と呼ばれないとは限らない。人間の生理的機能でも、その時代・その社会にフィットしないものなら医療の対象とみなされることはぜんぜんあり得る。この点において、男性性欲が例外とみなされる理由は見つからない。
 
 

男性性欲の医療化が進む生物学的・政治的正当性を考える

 
なにかが医療のターゲットになること──医療化──が起こるのはいったいどういう時なのか。医療社会学者のピーター・コンラートは、著書『逸脱と医療化』のなかで医療化が起こる条件について以下のように記している。
 
 

医療業務は、新しい医療的規範の創出へと通じており、その侵害は逸脱、あるいはわれわれが示した事例では、新しい病いのカテゴリーとなる。このことによって、医療あるいは一部門の管轄権が拡大され、病いという逸脱の医療的治療が正統化される。19世紀における狂気の定義に際しての医療的関与の社会学的分析(Schull, 1975)と、最近の多動症(Conrad, 1975)と児童虐待(Pfohl, 1977)に対する医療的定義の事例は、特定の逸脱定義に対して医療職が唱道者となった主要な例である。
(中略)
ある行動や活動もしくは状態を逸脱として定義する決定は、逸脱カテゴリーを付与し、その付与行為をその後正統化する政治的な過程から出現する。そして多くの場合、医療的認定の結果も、特に人間の行動に関する場合は、同様に政治的である。

大雑把にまとめると、「医療者が新たに健康からの逸脱として発見し、啓蒙し、その生物学的・政治的な正当性を見出したものが医療化される」、となるだろうか。
 
このうち、生物学的正当性については、エビデンスが見つかれば良さそうだが、たぶん探せば見つかるだろう。
 
世の中には性欲のセルフコントロールが上手な男性もいるし、性欲に振り回されやすい男性や性欲に苦しむ度合いの高い男性もいる。性欲とそのセルフコントロールの度合いには個人差があり、いわばスペクトラム的な分布があるから、性欲に振り回される度合いの高い男性たちに有意差をもって見出される遺伝的・生物学的な特徴は(ASDやADHDやゲーム障害に関連した特徴、またはII型糖尿病に関連したポリジーンのようなかたちで)見つかるだろう。
 
 
では、政治的正当性についてはどうか。
 
私は、これほど男性性欲が医療化するための政治的正当性が揃っている時代は、いまだかつて無かったのではないかと考えている。
 
1.第一に男性性欲は不潔である。なぜならそれがもたらす性行動や性探索は性感染症を媒介するし、夜の街では新型コロナウイルスなどを媒介するからだ。「たとえ生殖器をとおさなくとも、体液の交換が起こり得るような状況のコミュニケーションは感染症を媒介する、いわば不潔な行為である」という認識は、もはや医療関係者だけのものではない。
 
2.第二に男性性欲は非生産的である。冒頭で紹介した「賢者タイム」や「睾丸毒」といったネットスラングが示しているように、男性、とりわけ若い男性は性欲によって認知や行動に影響を受けやすい。ある程度社会経験を重ねた男性でさえ、性欲が仇となり、キャリアを台無しにしてしまうことがある。そして現代社会において生産性は拝跪すべき目標でもある。「みずからの性欲に悩む男性の問題を医学的に管理すれば、社会全体の生産性は○○億ドル向上する」と判明した時、医学界と産業界は大喜びで医療化を応援するだろう。苦しみを減らし、生産性を向上させるオポチュニティーは現代社会において強い正当性を持つ。
 
3.第三に男性性欲は迷惑である。
男性性欲に傷つく人がいる。男性性欲を不快に、それそのものを不潔と感じる人がいる。なるほど、性欲で男性の認知や行動がブレること自体は実際あるのだから、誇張したイメージとして「何をしでかすかわからないケダモノ」を連想する向きはあるだろう。「お互いに迷惑を与えてはいけない」「お互いに脅威を与えてはいけない」という、日本ならではの功利主義的状況のなかで、男性性欲には居場所が無い。学校や職場や家庭でソレが露出した時には、公然わいせつほどではないにせよ、たくさんの人が当惑し、持てあます。脅威とうつることだってあるだろう。
 


 
正しい場所で・正しい時に・正しい手続きで・正しい相手にだけ性欲があらわれるよう、男性性欲をコントロールできるに越したことはない──自分自身の性欲を後生大事にしている一部の男性を除いて、みんながそう思っているのではないだろうか。
 
4.第四に男性性欲は不道徳である。
100年以上前のキリスト教世界の人々は、マスターベーションや性倒錯は罪であると言った。当時は性がほとんど医療化されていなかったが、かわりにキリスト教が性道徳を厳しく管理していた。
 
20世紀後半に一時的に緩んだものの、現在の日本もまた(かつてのキリスト教世界とは異なるかたちで)性道徳が厳しくなり、性のタブー視が進んでいるのではないだろうか。親や教師は子どもの性教育や性行動を持て余し、社会もまた、猥褻なものを少しずつ社会の辺縁へと押しやってきた。低用量ピルもいまだ普及しているとは言えない。性的なコンテンツこそ豊富にあるものの、それらの社会的位置づけは貶められているに等しい。猥談は笑って済ませるものではなく、ハラスメントとして告発されるものとなっている。かつては「不倫は文化」などと言っている芸能人もいたが、2020年に同じことを言えば、その芸能人は不道徳とみなされ社会的制裁を受けるだろう。
 
そしてキリスト教道徳に替わって私たちの道徳判断の基準になっているのは、資本(主義)とそれを追求するための効率性や生産性だ*3。効率性や生産性の乏しい人や行動に対し、社会は、人々は、厳しい目を向ける。生産性を低下させるたぐいの男性性欲は、効率性や生産性の道徳基準からみて正しくない欲求、矯正しなければならない欲求である。
 
 

健康的で清潔で道徳的な社会に男性性欲の居場所なし

 
こうやって振り返ってみると、男性性欲のうち、少なくとも個人や社会の効率性や生産性に悪影響をおよぼし、本人や周囲が苦しむものに関しては、医療による治療や管理の対象になっていく可能性は十分にあるように思える。なぜ今まで医療化の標的とみなされていなかったのか、不思議に思えることさえある。
 
ではなぜ、男性性欲が医療化されてこなかったのか?
 
ひとつには、男性性欲に衝き動かされる行動が過去には好ましいとみなされていたからでもあろう。
 

 
アラン・コルバンらによる大著『男らしさの歴史』には、今日の日本でなら犯罪や迷惑やハラスメントとみなされるだろう性的な振る舞いが、男性にとって望ましいとされてきた歴史が綴られている。そうでなくても、近代以前の性風俗は現代よりおおらかで、猥談や性的接触が街や村にあふれていた。そのような社会状況のなかでは、みずからの性的機能をアピールできない男性は男らしくないとみなされかねず、沽券にかかわる問題だった。
 
もうひとつ、医療や道徳を司る立場を長らく男性が独占したことに伴って、男性性欲が管理や道徳のまなざしを免除されていた、という一面もあるのではないかと個人的には思う。
 
 
上掲ツイートにあるように、男性は、女性の生殖や性欲を管理してきた。はじめは腕力や宗教や道徳で。現代では医療によって。他方、男性自身に対しては男性性欲の奔放さを許容してきた。もちろん「男性性欲に奔放さが許容されてきたこと」と、「男性が異性獲得競争に勝たなければならなかったこと」や「男性が性的機能をアピールしなければならなかったこと」は表裏一体の問題ではある。いずれにせよ、男性性欲を管理の対象とする歴史は、女性の生殖や性欲を管理の対象とする歴史に比べれば短く、ここには不平等が潜在している。
 
だとすれば、たとえば女性目線で男性性欲を腑分けすることによって、これまでは議論されてこなかった男性性欲の問題、管理されるべき問題が詳らかになることだってあり得るのではないだろうか。男性自身は気づきにくいが女性ならば気付き得る、男性性欲に伴う認知や行動の歪みはあるように思う。それはまだまだ研究されていないし、管理されてもいない。健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会にふさわしい男性性欲のテンプレートは、女性からの目線によって彫琢されていくのではないだろうか。
 
そうやって男性性欲が検証され、研究され、それに伴う認知や行動の歪みがマネジメントされ、男性自身の苦しみが解消されれば、男性はより生産的で合理的な個人へ、より正しい個人へと生まれ変われるだろう。すべての男性が、女性や子どもからみても安心できる男性、迷惑や脅威や不快感を与えない男性になるとしたら、それはハーモニーにみちた、すばらしい新世界ではないだろうか。
 
それだけではない。男性性欲にともなう認知や行動の歪みを検証・研究し、苦しんでいる男性に手を差し伸べた医療者は、プレステージを獲得し、学界的ポジションをも獲得するだろう。製薬会社は利益を、社会は生産的で効率的な男性労働者とGDPを得る。男性性欲を医療化してしまったほうがみんなが得をするし、みんなが道徳的になれるのだ。自分自身の男性性欲を後生大事にしているような、時代遅れの一部の男性以外の皆が、この変化から恩恵を受け取り、恩義を感じることだろう。
 
だとしたら、男性性欲は、いまだ手付かずのままの金鉱脈ではないか?
 
考察を続けるうちに、私は、男性性欲に悩む男性に救いの手をさしのべ、社会の生産性を高め、より安全・安心で道徳的な社会を主導する唱道者になりたいものだ、という誘惑をおぼえた。誰からも感謝され、どこからみても正当性を獲得できそうな、そういう金鉱脈が目の前で無防備な姿をさらしているのではないか。悪魔が、もとい天使が"『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』みたいな本を書くより、悩んでいる男性を救うために、社会の生産性や効率性に貢献するためにあなたも奉仕してはどうですか"と耳元で囁いている気がする。
 
もちろん最後のほうはジョークの類なのであしからず。
だが私よりもこの問題をよく知り、私よりも社会に貢献したくてウズウズしている誰かがいれば、きっと男性性欲は医療化されていく。そして歴史を振り返る限り、そういう誰かは必ず出てくる。
 
  

*1:性嗜癖、いわば調子が悪かった頃のタイガー・ウッズが陥った状態はこれにいくらか似ているが、これも現時点ではDSM-5の性機能不全群に含まれていない

*2:実際には、新石器時代の女性はもっと妊娠や授乳に人生の多くを費やしていて月経が起こる頻度が少なかった、という話もある。もっともその場合、妊娠や授乳を繰り返すことに伴って別種の身体的問題が女性について回っただろう

*3:マックス・ヴェーバー『プロ倫』風に考えると、資本主義的道徳とキリスト教道徳は繋がっているわけで、深堀りすると楽しいのだが、ここでは踏み込まない

「おしゃべりは喫談室でどうぞ」の未来

 
子供が泣き出したら、隣の乗客が耳栓を... 「悲しくなった」母親の訴えに反響: J-CAST ニュース【全文表示】
【追記あり】子供の泣き声に耳栓されて心が折れた
 
 
最近、2018年にわずかに話題になったはてな匿名ダイアリーへの投稿についてのJ-CASTのニュース記事が目に飛び込んできた。2年前にも見た気がするが、当時はモヤモヤした気持ちを抱えながらも、スルーし、忘れてしまうことにした。
 
ところが2020年にふたたび相まみえてみると、あのとき自分が何をモヤモヤしていたのかわかる気がした。気の利いたことを書ける自信はないが、この「子供が泣き出したら、隣の乗客が耳栓をした」案件について今思うことを書いてみる。
 
 

正しいのは耳栓の乗客で、むしろ子連れの親が正しくないとしたら

 
いまどきの習慣や通念にもとづいてジャッジするなら、正しく振る舞ったのは耳栓の乗客のほうで、それについて母親が悲しいと思うのはもちろん構わないとしても、どうこう言う筋合いはないのだろう。実際、この母親は耳栓をした乗客に向かって直接にクレームをつけたわけではない。匿名ダイアリーに愚痴っただけの母親の振る舞いも、また正しい。
 
正しくて良かったですね。
 
「列車のなかでは他人に迷惑をかけてはいけない。お互いに迷惑をかけないことでお互いの自由が守られ、権利が侵害されずに済む」
「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」
 
この、日本社会における金科玉条に照らして考えるなら、母親は悲しいなどと言っておらずにデッキに移動して子どもをあやすのが望ましかったかもしれない。申し訳なさそうな顔をしていればより完璧だ。そして子供連れで新幹線に乗る多くの母親が、実際そのように振る舞っている。
 
一方、耳栓をした乗客は最低限の動作で金科玉条を守ったといえる。お互いに迷惑をかけず、お互いの権利を侵害しない。それを耳栓をつける動作で実現したのだ。子どもの泣き声が癇に障る人も多かろうところを、彼女は耳栓を装着することで意に介さないことにした。舌打ちする乗客や、神経質な顔をする乗客よりもよほどいい。解釈のしようによっては「耳栓つけているからご自由にどうぞ、私にはストレスじゃありませんよ」というジェスチャーともとれる。
 
はてな匿名ダイアリーに投稿した人は、そのさまをこのように嘆いた。
 

彼女は悪くない。じゃあどうしてもらいたかったんだって、自分で考えてみたけど、「大丈夫ですよ」とか、あるいはニコッと笑ってくれるだけで良かったんだと思う。あの人にとっては、私も子供も「無」だった。私はいいけど、私の大切な子供も無、なんだ……と思って悲しくなったんだと思う。

このくだりを2020年に再読し、興味を感じた。
どうして無ではいけなかったのだろう。
 
きみたち日本人は、お互いに干渉しあわず、お互いに迷惑をかけあわず、お互いの自由が守られ権利が侵害されない社会を望んだんじゃなかったのかい?
 
そうした功利主義を守る冴えたやりかたが「相互無干渉」であり「儀礼的無関心」であり、「コミュニケーションしないで済ませる街づくり・社会づくり」ではなかったか。親切にされることがないかわりに、無用のコミュニケーションを強要されるリスクや、見知らぬ誰かと話さなければならないコスト、あるいはローカルルールに服従しなければならない理不尽を避けるために、私たちはバラバラになり、「お互いに迷惑をかけないことを金科玉条としたうえで接点をできるだけ持たない、快適でなめらかな社会」を作ってきたのが日本社会ではなかったか。
 
だから、筆者のいう「無」とは、現代の日本人が身に付けていることの望ましい、いや、身に付けていなければならない態度だし、筆者とて、出産するまではそれを良しとしてきたはずである。この、お互いが迷惑をかけないためにもお互いが「無」でなければならないという社会的ニーズに即していうなら、大きな声で泣く赤ちゃんは「無」ではなく、「有」であり、迷惑である。ストレスという観点から健康被害だ、などと言い出す人もいるかもしれない。杓子定規に「どちらが迷惑で」「どちらがお互いの権利の侵害を避けているか」という判定をするなら、子連れの母である筆者が「無」になりきれていないから悪い、という風になる。
 
もちろん私は、こうした現代日本ならではの功利主義的状況がおかしいと思っているから・皮肉に思っているからこれを書いている。子連れの親が公共交通機関や公共の場に出ると、子どもの泣き声や突発的行動などによって迷惑をかけ得るから、もうほとんど存在するだけで迷惑になり得る。個人的には「迷惑をおぶって歩いている」といった罪悪感をおぼえることさえあった。そして口さがない人はこういうのだ──「子ども連れが電車なんて乗ってるんじゃねぇ」「子どもは自動車で移動させろ」。
 
私はこうした子連れの親の境遇をひどいものだと思う。
しかし「お互いに迷惑をかけてはいけない」「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」という現代日本の金科玉条に当てはめて考えると、子連れの親の側がむしろいけない、というより存在してはならないということになってしまう。
 
だとしたら、本当は金科玉条の側がおかしいか、少なくとも何か問題を含んでいる、はずである。
 
 

コロナ禍でエスカレートする功利主義と危害原理

 
ところがコロナ禍を経て、状況はますます窮屈になっている。
 
発声を巡って、マスクを巡って、ソーシャルディスタンスを巡って、私たちは2019年以前の私たちよりもずっと神経質に「お互いに迷惑をかけてはいけない」「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」という金科玉条を気にするようになった。
 
「電車のなかでマスクをしていない人は健康被害を及ぼすかもしれない」
「ソーシャルディスタンスを守れない人は迷惑」
「咳しながら街に出てくるってのはどういう感覚なのか!」
 
コロナ禍をとおして、たくさんの人が他人に迷惑を及ぼすこと、他人に健康被害を及ぼすかもしれないことに敏感になっている。常識や通念がより健康でより迷惑をかけない方向に傾いてしまった。2019年までは神経質のきわみと思われていた人の振る舞いが、2020年においては功利主義と危害原理にかなった「新しい生活様式」にふさわしい振る舞いとみなされる。
 
もちろんそれは、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐという大義に基づいている。
今はそれがプラスの方向にも働こう。
だが欧米諸国に比べると、その大義に基づいた「新しい生活様式」はスルリと日本社会に定着したようにみえる。そもそも、それ以前から日本は清潔大国であり健康王国であり「お互いに迷惑をかけてはいけない」が行き届いた国だった。そこにコロナ禍が到来した時、私たちはあっけらかんと社会の常識や通念をアップデートしてしまった。
 
「新しい生活様式」は新型コロナウイルス感染症だけでなくインフルエンザやかぜ症候群などの防備にも役に立つし、「お互いに迷惑をかけてはいけない」にもよく妥当するから、パンデミックが終わったとしても、ある程度は残るのではないかと私はみている。「迷惑をかけてはいけない」「健康被害を及ぼしてはいけない」という金科玉条に沿った変化である以上、これを覆すのは簡単ではないよう、思えるからだ。
 
 

行き着く先は「喫煙室」ならぬ「喫談室」

 
まだ新型コロナウイルス感染症が流行する前、twitterのどこかで「新幹線のなかで喋る奴は本当に迷惑だから、喋る時は喫談室に行って喋るべきだ、喫談室を用意しろ」といった内容のツイートを見かけたことがあった。
 
少なくとも新型コロナウイルス感染症が流行する前の時点では、「会話は喫談室で」などと言ったら、「なにを極端な、神経質すぎるだろう」と考える人のほうが多かったのではないだろうか。
 
しかし新型コロナウイルス感染症が流行した後の今では、「会話は喫談室で」に賛同する人は以前より増えているはずだ。なぜなら、会話が病原体を媒介することがよく知られ、町じゅうのどこでも会話に対する注意がアナウンスされているからだ。会話が迷惑とみなされる度合い、会話が健康被害をもたらすかもしれないと疑われる度合いが、2019年以前と2020年以後では違う。
 
となれば、私たちの行き着く先として、おしゃべりする人を「喫談室」に隔離し、迷惑で不健康なことを好んでやる自己責任な奴らとみる未来が来てもそれほど不自然ではないのではないだろうか。
 
かつて「喫煙室」が一般的ではなかった頃、「タバコは迷惑、タバコは健康被害」と主張したら「なにを極端な、神経質すぎるだろう」と考える人のほうが多かった。少なくとも、1980年に起こった嫌煙権訴訟で東京地裁が「列車での受動喫煙は受忍限度内」「日本社会が喫煙に寛容であることを前提にすべき」とし、訴えを棄却した程度には「タバコは迷惑、タバコは健康被害」は限定的な感覚だった。1980年の段階で嫌煙権を主張するのは、結構尖ったことではなかったかと思う。
 
同じく、2019年の段階で「会話は迷惑、会話は健康被害」と主張したら「なにを極端な、神経過ぎるだろう」と考える人のほうが多いに違いない。だがタバコと喫煙室の件が教えてくれるように、40年の歳月は私たちにとって迷惑とは何で、健康被害とは何かの判定基準を大きく変えてしまう。ある時代において神経質とみなされていた迷惑や健康に対する捉え方が、数十年後には疑う余地もない常識や通念になっていることはあり得る。
 
新型コロナウイルス感染症をとおして私たちは、話すということ・唾が飛ぶということに対して敏感になった。それが健康リスクをもたらす不潔な行為だと周知されればされるほど、しゃべるということ、唾が飛ぶということ、大勢で集まるということは、喫煙に近い立ち位置に寄っていく。極端な人なら、それらを不道徳でスキャンダラスな行為とみなすことだってあるかもしれない。
 
もちろん、本来人間はコミュニケーションする動物なのでしゃべるということは自然なことではある。だが、人間の文明化とは、本来の人間の行動や本能的な人間の行動を社会や文化にあわせて飼いならしていくものだったから、本来の人間の行動だからといって、話すということ・唾が飛ぶということが無条件で免罪されるとは言えない。
 
お互いに迷惑をかけないこと・他人に健康被害を与えないことの指し示す範囲は、時代や文化、社会的要請によって意外に変わる。そして変化はしばしば、神経質なほうへ・厳しいほうへと変わっていく。「おしゃべりは喫談室でどうぞ」という未来は私には極端に思えるが、20~40年後の人々が同じく極端だとみなすかどうかはわからない。少なくとも、迷惑と健康、功利主義と危害原理についての金科玉条が変わらない限り、そういう未来もあり得ると心得ておかなければならないように、私には思える。
 
 

 

オンラインゲームで社会性が求められる話

  
オンラインゲームのチームが、お互いをブロックしあう最悪の結末を迎えて崩壊した話。 | Books&Apps
 
リンク先は、books&appsに投稿された「オンラインゲームのチームが最悪のかたちで崩壊した話」だ。この投稿記事はtwitterでメチャクチャにバズってたくさんのプレイヤーが色々なことを言っていたが、そのこと自体、この問題の面倒くささと普遍性を現していると思う。
 
 

「ガチ勢とエンジョイ勢」問題はオンラインゲーム以外でも

 
くだんの記事はファイナルファンタジー14の出来事だとされているが、古来、オンラインゲームではプレイヤーのプレイスキルの差や装備の差、ゲームスタンスの差などが無数の揉め事を生み出してきた。
 
何か難しいミッションに挑もうとした時、プレイスキルの差や装備の差は問題になりやすい。それらに秀でたプレイヤーは、それらに劣ったプレイヤーに不満を抱くし、それらに劣ったプレイヤーは後ろめたさや申し訳なさを感じることもある。もちろんプレイスキルを上達しろ、装備を買いそろえろというのは簡単だが、プレイスキルや装備に秀でたプレイヤーにそうでないプレイヤーが追い付くためには重課金をするか廃人プレイをしなければならない場合がしばしばある。かなり難しい操作を身に付けるしかない・PCを買い替えたり回線を新調するしかないといった問題が発生することだってある。
 
それなら、いわゆるガチ勢はガチ勢が集まったパーティーやギルドに所属し、いわゆるエンジョイ勢はエンジョイ勢が集まったパーティーやギルドに所属すればいいのか?
 
ある程度はそうだが、ある程度まででしかない。
 
ガチ勢といってもその程度には差がある。プレイヤー平均からみればガチ勢にみえても、トップクラスのプレイヤー集団のなかでは全然ぬるい、ということは起こり得る。エンジョイ勢が集まったパーティーでさえ、いくらかチャレンジの気持ちを持っているプレイヤーだっているし、経験値やアイテムの分配について欲目が出てくる場面だってある。
 
ある程度まで近い意識を持ったプレイヤーが集まったはずのパーティーやギルドでも、プレイヤーのスキルや装備、ゲームに対するスタンスの違いがなくなるわけではない。むしろ、そういったものが近い集団のほうが、かえって小さな違いが際立つということだってある。
 
だからオンラインゲームプレイヤーの集まりは、集まるのは簡単でも長続きするのは簡単ではなく、集団が分裂したり崩壊したりすることはオンラインゲームあるあるだ。プレイスタンスの違いや将来への展望の小さな違いが、一か月、六か月、一年と経つうちにだんだんくっきりとしてきて、気づいた頃には修復不能になっていたりする。
 
でもこれって、オンラインゲームだけじゃないですよね。
 
こうした「ガチ勢 vs エンジョイ勢」のようなものは大学サークルのような場や、読書会のような場でもしばしば起こるものだった。スキルの違い、熱意の違い、可処分時間や可処分所得の違い、などなどによって参加者のやりたいことは変わるし、身の丈に合った目標も変わる。楽器が好き・読書が好き・テニスが好きといった共通点はあっても、その集まりで実現したいことは参加者によってまちまちなので、どうしても抜けざるを得ない人は出てくるし、ときには集まり自体が崩壊することもある。
 
ある程度の歴史やロイヤリティを持った集団なら、新規参加者を募集するときに適正の有無を見極めながら勧誘できるし、集団の目標やメンバーの責務を明快に示すことだってできる。ある程度の脱退者が出ることを織り込んだうえで運営することだってできよう。だがそのような集団でさえ、参加者それぞれには温度差があって、それらをひとまとめするのは一大事業だ。そしてどうあれ、脱退せざるを得ない者の胸に不全感や不満が残ることにもなる──。
 
オンラインゲームをはじめ、趣味の集団は(少なくとも軍隊や会社に比べれば)自発性が強く強制力が弱い。だからこそ好きな者同士が気軽に集まれるわけだが、皆が同程度のプレイスキルや装備を整え、同じくらい参加し、同じ思惑を持ち続けることは簡単ではない。だから冒頭リンク先の記事を読んで他人事ではないと感じたプレイヤー、胸がざわざわしたプレイヤーは非常に多かっただろうし、オンラインゲームをやったことがない人のなかにも親近感をおぼえた人がいたに違いない。
 
 

遊びではあっても人間力が試される

 
オンラインゲームは、本来、趣味として、楽しみとしてプレイするもののはずだ。なかには現実から逃れたい気持ちでオンラインゲームを遊ぶ人だっているだろう。でも結局、オンラインゲームにも人間関係という現実が追いかけてきて、そこでは社会性が峻厳に問われるし、だからこそオンラインゲームはしばしば仕事にたとえられる。仕事のノウハウや世間での社会性がオンラインゲームのありように如実に出る、というか。
 
仕事やリアルの趣味で問われ、オンラインゲームでなら問われずに済むのは、せいぜい、服装や身なりといったオフラインで目につく問題ぐらいのものだ。そうでないものは──考え方、言葉の選び方、振舞い方、そのすべて──いつもついてまわる。
 
5年ほど前、あるオンラインゲームでご一緒したグループで社会性に優れた人々を見かけたことがあった。目標意識のはっきりしたグループで、柔らかい言葉遣いながら意思表示のはっきりしたリーダー・ひとつひとつの作戦にスプレッドシートを用意し、必要な人員、必要な火力と消耗品、報酬、などをアナウンスする(そしてリーダーともよく意思疎通をしている)参謀兼報道官、競合グループについてよく知っているメンバーなどを擁していた。私のような臨時要員への対応もしっかりしていて、そのさまはいっぱしの組織だった。
 
オンラインゲームをやっていると、ときどき冗談半分か本気半分か「遊びでやってるんじゃない」という言葉を聞く。だが実際、仕事のようなゲームプレイやベテラン会社員のようなプレイヤーを見ていると、本当に遊びではないような感覚をおぼえる。「遊びでやってるんじゃない」が誇張だとしても、オンラインゲームで求められる資質と仕事で求められる資質に一定の重複があるのは事実だろう。そしてプレイヤーの社会性や計画性、コミュニケーションの機敏によってプレイの幅やクオリティが左右されるのはやむを得ない。オンラインゲームでいつも不遇だという人は、周りの人をどうこう言う前に、自分自身の社会性や計画性やコミュニケーションの機敏を省みなければならないかもしれない。
 
ところがオンラインゲームというジャンルは、あたかも誰でも卓越した冒険者になれるかのような雰囲気でプレイヤーを迎え入れる。本当は、ギスギスやグダグダを避けるために高度な社会性や計画性やコミュニケーションの機敏が──いってしまえば人間力が──必要になる遊びだというのに……。
 
まあそこが好きでオンラインゲームがやめられないという人もいれば、そこにうんざりしてオンラインゲームを敬遠する人もいるのだろう。「蓼食う虫も好き好き」という言葉もあるわけで、パーティーやギルドが崩壊するのも楽しみのうち、というプレイヤーだっているだろう。人生と同じかそれ以上に、「楽しんだもん勝ち」なのは間違いない。
 
 

『MANGA都市TOKYO ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム・特撮2020』を楽しんだ

 
manga-toshi-tokyo.jp
 
国立新美術館で開催されている『MANGA都市TOKYO ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム・特撮2020』を見てきた。目当ての作品があったからではなく、たまたま乃木坂を通りがかったこと、雨が降っていたこと、それから「美術館の人たちが漫画やアニメやゲームをどう紹介し、どんな見せ方をしてくるのか」を知ってみたくて寄ってみた。
 
コロナ禍のために、現在の国立新美術館は完全予約制となっている。入場2時間前にスマホで予約をしたのだけど、そのときの空き残り人数は20人を切っていた。展示が11月3日までなので、そろそろ混んできたのかもしれない。
 


車内および路線のアニメ広告をみせる展示(写真撮影可)

  
それでも会場は広々としているというか、上の写真を撮るのがわけないぐらいスペースに余裕があった。人の流れもゆったりしていて、好きなものを好きなだけ眺めることができた。あちこちのディスプレイでアニメやゲームや特撮のムービーを流していて、目がうつって困る。
 
そうしたなかで、ひときわ目立っていたのは、会場中心に据え付けられた巨大な東京の模型と、そのジオラマと連動した巨大スクリーンだった。『シン・ゴジラ』や『機動警察パトレイバー2 the Movie』や『三月のライオン』といった、東京にゆかりのある作品が上映されるたび、ジオラマの該当エリアが光る仕掛けとなっている。
 


こんな風に模型の一部が光る。ディスプレイの画面は撮影禁止とのこと

 
東京の模型と巨大スクリーンに次々に映し出される名シーンをぼんやり眺めていると、ただそれだけで楽しい。あまり難しいことを考えなくても、東京が広くて、その広い東京がさまざまに描かれてきたさまが頭に入ってくるようになっていた。
 
模型とスクリーンの周辺には、作中で描かれた東京の景色や風物が時系列順に展示されていて、たとえば江戸時代を描いた作品として『竹光侍』や『るろうに剣心』が、戦前期の作品として『『坊ちゃん』の時代』や『サクラ大戦』などが解説付きで展示されている。
 
戦前の作品には知らない漫画作品が多かったためか、東京とはいっても遠い世界の話だな、と思った。しかし戦後を舞台にした作品はそうもいかない。昭和の社会を覚えている人なら、今の社会と比べずにはいられないのではないかと思う。
 
高度経済成長期の東京は、薄汚くはあってもエネルギーにあふれた世界として描かれていた。バブル景気の前後は消費文化の爛熟する街として。または世紀末の東京として。そうした時系列の後に提示される"日常系"アニメのいじましさ。展示作品を見ていると、活力ある大東京を描く作風から、衰退しつつある東京の小さな美しさを描く作風へと変わっていっている、と感じられる。
  
会場の中央の模型とディスプレイの周辺に、それぞれの時代の東京を描いた作品が配置されているためか、そうした作風の変化と東京の移り変わりを意識せずにはいられなくなった。美術館の企画展示なのだから、これは、来館者がそういう意識というかパースペクティブを持てるよう、意図された配置なのだろう。
 
私はアニメやゲームを見る時には小難しいことをゴチャゴチャ考えたくないほうなので、展示が押しつけがましかったら嫌な気持ちになっていたかもしれない。が、今回はそういう押しつけがましさがなく、面白がって展示作品を見ているだけでおのずと作品たちの移り変わりと東京の移り変わりが重なってみえて、とても良かった。
 
とにかく展示作品を見てニヤニヤしたい! という人でも自然に展示コンセプトが頭に入ってくる催しじゃないかと思う。
 
 

販売コーナーの節操の無さがまた良い

 
会場の出口付近には、美術館ではおなじみの販売コーナーがあったのだけど、これもなんだか良かった。何が良いかというと、とにかく無節操に、今が旬のアニメやゲームの関連グッズがたくさん売られていたからだ。私のような人間が美術館に来た時に感じてしまいがちな、ある種の高踏的な雰囲気・教導的な雰囲気は、この販売コーナーからは感じなかった。
 

 
出入口に近い側には、こんな風に『鬼滅の刃』グッズがたくさん並んでいる。もちろん、今回の展示作品一覧のなかに『鬼滅の刃』は入っていない。その隣には『ヱヴァンゲリヲン』のグッズがあり、このカメラの撮影位置の近くには『Fate』のグッズが積まれていた。売れそうな作品のグッズなら置いてもらえるらしい。
 

 
こちら側には『ラブライブ!』や『ポプテピピック』、『転スラ』など。よそのアニメショップで買えなかった『ゆるキャン△』の耐水ステッカーが売られていたのを見つけて、迷わず保護した。こんなところで出会えるなんて!
 
この販売コーナーにも「漫画やアニメやゲームや特撮が好きな人はちょっと寄ってみてよ」という千客万来な雰囲気が漂っていて、難しい感じがしなくて良かった。
 
この、間口の広そうな展覧会は11月3日まで開催しているとのこと*1なので、東京を舞台にした漫画やアニメに思い入れのある人は、寄ってみると楽しいんじゃないかと思う。
 
 

*1:注:火曜日はお休みなので注意