シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「おしゃべりは喫談室でどうぞ」の未来

 
子供が泣き出したら、隣の乗客が耳栓を... 「悲しくなった」母親の訴えに反響: J-CAST ニュース【全文表示】
【追記あり】子供の泣き声に耳栓されて心が折れた
 
 
最近、2018年にわずかに話題になったはてな匿名ダイアリーへの投稿についてのJ-CASTのニュース記事が目に飛び込んできた。2年前にも見た気がするが、当時はモヤモヤした気持ちを抱えながらも、スルーし、忘れてしまうことにした。
 
ところが2020年にふたたび相まみえてみると、あのとき自分が何をモヤモヤしていたのかわかる気がした。気の利いたことを書ける自信はないが、この「子供が泣き出したら、隣の乗客が耳栓をした」案件について今思うことを書いてみる。
 
 

正しいのは耳栓の乗客で、むしろ子連れの親が正しくないとしたら

 
いまどきの習慣や通念にもとづいてジャッジするなら、正しく振る舞ったのは耳栓の乗客のほうで、それについて母親が悲しいと思うのはもちろん構わないとしても、どうこう言う筋合いはないのだろう。実際、この母親は耳栓をした乗客に向かって直接にクレームをつけたわけではない。匿名ダイアリーに愚痴っただけの母親の振る舞いも、また正しい。
 
正しくて良かったですね。
 
「列車のなかでは他人に迷惑をかけてはいけない。お互いに迷惑をかけないことでお互いの自由が守られ、権利が侵害されずに済む」
「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」
 
この、日本社会における金科玉条に照らして考えるなら、母親は悲しいなどと言っておらずにデッキに移動して子どもをあやすのが望ましかったかもしれない。申し訳なさそうな顔をしていればより完璧だ。そして子供連れで新幹線に乗る多くの母親が、実際そのように振る舞っている。
 
一方、耳栓をした乗客は最低限の動作で金科玉条を守ったといえる。お互いに迷惑をかけず、お互いの権利を侵害しない。それを耳栓をつける動作で実現したのだ。子どもの泣き声が癇に障る人も多かろうところを、彼女は耳栓を装着することで意に介さないことにした。舌打ちする乗客や、神経質な顔をする乗客よりもよほどいい。解釈のしようによっては「耳栓つけているからご自由にどうぞ、私にはストレスじゃありませんよ」というジェスチャーともとれる。
 
はてな匿名ダイアリーに投稿した人は、そのさまをこのように嘆いた。
 

彼女は悪くない。じゃあどうしてもらいたかったんだって、自分で考えてみたけど、「大丈夫ですよ」とか、あるいはニコッと笑ってくれるだけで良かったんだと思う。あの人にとっては、私も子供も「無」だった。私はいいけど、私の大切な子供も無、なんだ……と思って悲しくなったんだと思う。

このくだりを2020年に再読し、興味を感じた。
どうして無ではいけなかったのだろう。
 
きみたち日本人は、お互いに干渉しあわず、お互いに迷惑をかけあわず、お互いの自由が守られ権利が侵害されない社会を望んだんじゃなかったのかい?
 
そうした功利主義を守る冴えたやりかたが「相互無干渉」であり「儀礼的無関心」であり、「コミュニケーションしないで済ませる街づくり・社会づくり」ではなかったか。親切にされることがないかわりに、無用のコミュニケーションを強要されるリスクや、見知らぬ誰かと話さなければならないコスト、あるいはローカルルールに服従しなければならない理不尽を避けるために、私たちはバラバラになり、「お互いに迷惑をかけないことを金科玉条としたうえで接点をできるだけ持たない、快適でなめらかな社会」を作ってきたのが日本社会ではなかったか。
 
だから、筆者のいう「無」とは、現代の日本人が身に付けていることの望ましい、いや、身に付けていなければならない態度だし、筆者とて、出産するまではそれを良しとしてきたはずである。この、お互いが迷惑をかけないためにもお互いが「無」でなければならないという社会的ニーズに即していうなら、大きな声で泣く赤ちゃんは「無」ではなく、「有」であり、迷惑である。ストレスという観点から健康被害だ、などと言い出す人もいるかもしれない。杓子定規に「どちらが迷惑で」「どちらがお互いの権利の侵害を避けているか」という判定をするなら、子連れの母である筆者が「無」になりきれていないから悪い、という風になる。
 
もちろん私は、こうした現代日本ならではの功利主義的状況がおかしいと思っているから・皮肉に思っているからこれを書いている。子連れの親が公共交通機関や公共の場に出ると、子どもの泣き声や突発的行動などによって迷惑をかけ得るから、もうほとんど存在するだけで迷惑になり得る。個人的には「迷惑をおぶって歩いている」といった罪悪感をおぼえることさえあった。そして口さがない人はこういうのだ──「子ども連れが電車なんて乗ってるんじゃねぇ」「子どもは自動車で移動させろ」。
 
私はこうした子連れの親の境遇をひどいものだと思う。
しかし「お互いに迷惑をかけてはいけない」「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」という現代日本の金科玉条に当てはめて考えると、子連れの親の側がむしろいけない、というより存在してはならないということになってしまう。
 
だとしたら、本当は金科玉条の側がおかしいか、少なくとも何か問題を含んでいる、はずである。
 
 

コロナ禍でエスカレートする功利主義と危害原理

 
ところがコロナ禍を経て、状況はますます窮屈になっている。
 
発声を巡って、マスクを巡って、ソーシャルディスタンスを巡って、私たちは2019年以前の私たちよりもずっと神経質に「お互いに迷惑をかけてはいけない」「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」という金科玉条を気にするようになった。
 
「電車のなかでマスクをしていない人は健康被害を及ぼすかもしれない」
「ソーシャルディスタンスを守れない人は迷惑」
「咳しながら街に出てくるってのはどういう感覚なのか!」
 
コロナ禍をとおして、たくさんの人が他人に迷惑を及ぼすこと、他人に健康被害を及ぼすかもしれないことに敏感になっている。常識や通念がより健康でより迷惑をかけない方向に傾いてしまった。2019年までは神経質のきわみと思われていた人の振る舞いが、2020年においては功利主義と危害原理にかなった「新しい生活様式」にふさわしい振る舞いとみなされる。
 
もちろんそれは、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐという大義に基づいている。
今はそれがプラスの方向にも働こう。
だが欧米諸国に比べると、その大義に基づいた「新しい生活様式」はスルリと日本社会に定着したようにみえる。そもそも、それ以前から日本は清潔大国であり健康王国であり「お互いに迷惑をかけてはいけない」が行き届いた国だった。そこにコロナ禍が到来した時、私たちはあっけらかんと社会の常識や通念をアップデートしてしまった。
 
「新しい生活様式」は新型コロナウイルス感染症だけでなくインフルエンザやかぜ症候群などの防備にも役に立つし、「お互いに迷惑をかけてはいけない」にもよく妥当するから、パンデミックが終わったとしても、ある程度は残るのではないかと私はみている。「迷惑をかけてはいけない」「健康被害を及ぼしてはいけない」という金科玉条に沿った変化である以上、これを覆すのは簡単ではないよう、思えるからだ。
 
 

行き着く先は「喫煙室」ならぬ「喫談室」

 
まだ新型コロナウイルス感染症が流行する前、twitterのどこかで「新幹線のなかで喋る奴は本当に迷惑だから、喋る時は喫談室に行って喋るべきだ、喫談室を用意しろ」といった内容のツイートを見かけたことがあった。
 
少なくとも新型コロナウイルス感染症が流行する前の時点では、「会話は喫談室で」などと言ったら、「なにを極端な、神経質すぎるだろう」と考える人のほうが多かったのではないだろうか。
 
しかし新型コロナウイルス感染症が流行した後の今では、「会話は喫談室で」に賛同する人は以前より増えているはずだ。なぜなら、会話が病原体を媒介することがよく知られ、町じゅうのどこでも会話に対する注意がアナウンスされているからだ。会話が迷惑とみなされる度合い、会話が健康被害をもたらすかもしれないと疑われる度合いが、2019年以前と2020年以後では違う。
 
となれば、私たちの行き着く先として、おしゃべりする人を「喫談室」に隔離し、迷惑で不健康なことを好んでやる自己責任な奴らとみる未来が来てもそれほど不自然ではないのではないだろうか。
 
かつて「喫煙室」が一般的ではなかった頃、「タバコは迷惑、タバコは健康被害」と主張したら「なにを極端な、神経質すぎるだろう」と考える人のほうが多かった。少なくとも、1980年に起こった嫌煙権訴訟で東京地裁が「列車での受動喫煙は受忍限度内」「日本社会が喫煙に寛容であることを前提にすべき」とし、訴えを棄却した程度には「タバコは迷惑、タバコは健康被害」は限定的な感覚だった。1980年の段階で嫌煙権を主張するのは、結構尖ったことではなかったかと思う。
 
同じく、2019年の段階で「会話は迷惑、会話は健康被害」と主張したら「なにを極端な、神経過ぎるだろう」と考える人のほうが多いに違いない。だがタバコと喫煙室の件が教えてくれるように、40年の歳月は私たちにとって迷惑とは何で、健康被害とは何かの判定基準を大きく変えてしまう。ある時代において神経質とみなされていた迷惑や健康に対する捉え方が、数十年後には疑う余地もない常識や通念になっていることはあり得る。
 
新型コロナウイルス感染症をとおして私たちは、話すということ・唾が飛ぶということに対して敏感になった。それが健康リスクをもたらす不潔な行為だと周知されればされるほど、しゃべるということ、唾が飛ぶということ、大勢で集まるということは、喫煙に近い立ち位置に寄っていく。極端な人なら、それらを不道徳でスキャンダラスな行為とみなすことだってあるかもしれない。
 
もちろん、本来人間はコミュニケーションする動物なのでしゃべるということは自然なことではある。だが、人間の文明化とは、本来の人間の行動や本能的な人間の行動を社会や文化にあわせて飼いならしていくものだったから、本来の人間の行動だからといって、話すということ・唾が飛ぶということが無条件で免罪されるとは言えない。
 
お互いに迷惑をかけないこと・他人に健康被害を与えないことの指し示す範囲は、時代や文化、社会的要請によって意外に変わる。そして変化はしばしば、神経質なほうへ・厳しいほうへと変わっていく。「おしゃべりは喫談室でどうぞ」という未来は私には極端に思えるが、20~40年後の人々が同じく極端だとみなすかどうかはわからない。少なくとも、迷惑と健康、功利主義と危害原理についての金科玉条が変わらない限り、そういう未来もあり得ると心得ておかなければならないように、私には思える。
 
 

 

オンラインゲームで社会性が求められる話

  
オンラインゲームのチームが、お互いをブロックしあう最悪の結末を迎えて崩壊した話。 | Books&Apps
 
リンク先は、books&appsに投稿された「オンラインゲームのチームが最悪のかたちで崩壊した話」だ。この投稿記事はtwitterでメチャクチャにバズってたくさんのプレイヤーが色々なことを言っていたが、そのこと自体、この問題の面倒くささと普遍性を現していると思う。
 
 

「ガチ勢とエンジョイ勢」問題はオンラインゲーム以外でも

 
くだんの記事はファイナルファンタジー14の出来事だとされているが、古来、オンラインゲームではプレイヤーのプレイスキルの差や装備の差、ゲームスタンスの差などが無数の揉め事を生み出してきた。
 
何か難しいミッションに挑もうとした時、プレイスキルの差や装備の差は問題になりやすい。それらに秀でたプレイヤーは、それらに劣ったプレイヤーに不満を抱くし、それらに劣ったプレイヤーは後ろめたさや申し訳なさを感じることもある。もちろんプレイスキルを上達しろ、装備を買いそろえろというのは簡単だが、プレイスキルや装備に秀でたプレイヤーにそうでないプレイヤーが追い付くためには重課金をするか廃人プレイをしなければならない場合がしばしばある。かなり難しい操作を身に付けるしかない・PCを買い替えたり回線を新調するしかないといった問題が発生することだってある。
 
それなら、いわゆるガチ勢はガチ勢が集まったパーティーやギルドに所属し、いわゆるエンジョイ勢はエンジョイ勢が集まったパーティーやギルドに所属すればいいのか?
 
ある程度はそうだが、ある程度まででしかない。
 
ガチ勢といってもその程度には差がある。プレイヤー平均からみればガチ勢にみえても、トップクラスのプレイヤー集団のなかでは全然ぬるい、ということは起こり得る。エンジョイ勢が集まったパーティーでさえ、いくらかチャレンジの気持ちを持っているプレイヤーだっているし、経験値やアイテムの分配について欲目が出てくる場面だってある。
 
ある程度まで近い意識を持ったプレイヤーが集まったはずのパーティーやギルドでも、プレイヤーのスキルや装備、ゲームに対するスタンスの違いがなくなるわけではない。むしろ、そういったものが近い集団のほうが、かえって小さな違いが際立つということだってある。
 
だからオンラインゲームプレイヤーの集まりは、集まるのは簡単でも長続きするのは簡単ではなく、集団が分裂したり崩壊したりすることはオンラインゲームあるあるだ。プレイスタンスの違いや将来への展望の小さな違いが、一か月、六か月、一年と経つうちにだんだんくっきりとしてきて、気づいた頃には修復不能になっていたりする。
 
でもこれって、オンラインゲームだけじゃないですよね。
 
こうした「ガチ勢 vs エンジョイ勢」のようなものは大学サークルのような場や、読書会のような場でもしばしば起こるものだった。スキルの違い、熱意の違い、可処分時間や可処分所得の違い、などなどによって参加者のやりたいことは変わるし、身の丈に合った目標も変わる。楽器が好き・読書が好き・テニスが好きといった共通点はあっても、その集まりで実現したいことは参加者によってまちまちなので、どうしても抜けざるを得ない人は出てくるし、ときには集まり自体が崩壊することもある。
 
ある程度の歴史やロイヤリティを持った集団なら、新規参加者を募集するときに適正の有無を見極めながら勧誘できるし、集団の目標やメンバーの責務を明快に示すことだってできる。ある程度の脱退者が出ることを織り込んだうえで運営することだってできよう。だがそのような集団でさえ、参加者それぞれには温度差があって、それらをひとまとめするのは一大事業だ。そしてどうあれ、脱退せざるを得ない者の胸に不全感や不満が残ることにもなる──。
 
オンラインゲームをはじめ、趣味の集団は(少なくとも軍隊や会社に比べれば)自発性が強く強制力が弱い。だからこそ好きな者同士が気軽に集まれるわけだが、皆が同程度のプレイスキルや装備を整え、同じくらい参加し、同じ思惑を持ち続けることは簡単ではない。だから冒頭リンク先の記事を読んで他人事ではないと感じたプレイヤー、胸がざわざわしたプレイヤーは非常に多かっただろうし、オンラインゲームをやったことがない人のなかにも親近感をおぼえた人がいたに違いない。
 
 

遊びではあっても人間力が試される

 
オンラインゲームは、本来、趣味として、楽しみとしてプレイするもののはずだ。なかには現実から逃れたい気持ちでオンラインゲームを遊ぶ人だっているだろう。でも結局、オンラインゲームにも人間関係という現実が追いかけてきて、そこでは社会性が峻厳に問われるし、だからこそオンラインゲームはしばしば仕事にたとえられる。仕事のノウハウや世間での社会性がオンラインゲームのありように如実に出る、というか。
 
仕事やリアルの趣味で問われ、オンラインゲームでなら問われずに済むのは、せいぜい、服装や身なりといったオフラインで目につく問題ぐらいのものだ。そうでないものは──考え方、言葉の選び方、振舞い方、そのすべて──いつもついてまわる。
 
5年ほど前、あるオンラインゲームでご一緒したグループで社会性に優れた人々を見かけたことがあった。目標意識のはっきりしたグループで、柔らかい言葉遣いながら意思表示のはっきりしたリーダー・ひとつひとつの作戦にスプレッドシートを用意し、必要な人員、必要な火力と消耗品、報酬、などをアナウンスする(そしてリーダーともよく意思疎通をしている)参謀兼報道官、競合グループについてよく知っているメンバーなどを擁していた。私のような臨時要員への対応もしっかりしていて、そのさまはいっぱしの組織だった。
 
オンラインゲームをやっていると、ときどき冗談半分か本気半分か「遊びでやってるんじゃない」という言葉を聞く。だが実際、仕事のようなゲームプレイやベテラン会社員のようなプレイヤーを見ていると、本当に遊びではないような感覚をおぼえる。「遊びでやってるんじゃない」が誇張だとしても、オンラインゲームで求められる資質と仕事で求められる資質に一定の重複があるのは事実だろう。そしてプレイヤーの社会性や計画性、コミュニケーションの機敏によってプレイの幅やクオリティが左右されるのはやむを得ない。オンラインゲームでいつも不遇だという人は、周りの人をどうこう言う前に、自分自身の社会性や計画性やコミュニケーションの機敏を省みなければならないかもしれない。
 
ところがオンラインゲームというジャンルは、あたかも誰でも卓越した冒険者になれるかのような雰囲気でプレイヤーを迎え入れる。本当は、ギスギスやグダグダを避けるために高度な社会性や計画性やコミュニケーションの機敏が──いってしまえば人間力が──必要になる遊びだというのに……。
 
まあそこが好きでオンラインゲームがやめられないという人もいれば、そこにうんざりしてオンラインゲームを敬遠する人もいるのだろう。「蓼食う虫も好き好き」という言葉もあるわけで、パーティーやギルドが崩壊するのも楽しみのうち、というプレイヤーだっているだろう。人生と同じかそれ以上に、「楽しんだもん勝ち」なのは間違いない。
 
 

『MANGA都市TOKYO ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム・特撮2020』を楽しんだ

 
manga-toshi-tokyo.jp
 
国立新美術館で開催されている『MANGA都市TOKYO ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム・特撮2020』を見てきた。目当ての作品があったからではなく、たまたま乃木坂を通りがかったこと、雨が降っていたこと、それから「美術館の人たちが漫画やアニメやゲームをどう紹介し、どんな見せ方をしてくるのか」を知ってみたくて寄ってみた。
 
コロナ禍のために、現在の国立新美術館は完全予約制となっている。入場2時間前にスマホで予約をしたのだけど、そのときの空き残り人数は20人を切っていた。展示が11月3日までなので、そろそろ混んできたのかもしれない。
 


車内および路線のアニメ広告をみせる展示(写真撮影可)

  
それでも会場は広々としているというか、上の写真を撮るのがわけないぐらいスペースに余裕があった。人の流れもゆったりしていて、好きなものを好きなだけ眺めることができた。あちこちのディスプレイでアニメやゲームや特撮のムービーを流していて、目がうつって困る。
 
そうしたなかで、ひときわ目立っていたのは、会場中心に据え付けられた巨大な東京の模型と、そのジオラマと連動した巨大スクリーンだった。『シン・ゴジラ』や『機動警察パトレイバー2 the Movie』や『三月のライオン』といった、東京にゆかりのある作品が上映されるたび、ジオラマの該当エリアが光る仕掛けとなっている。
 


こんな風に模型の一部が光る。ディスプレイの画面は撮影禁止とのこと

 
東京の模型と巨大スクリーンに次々に映し出される名シーンをぼんやり眺めていると、ただそれだけで楽しい。あまり難しいことを考えなくても、東京が広くて、その広い東京がさまざまに描かれてきたさまが頭に入ってくるようになっていた。
 
模型とスクリーンの周辺には、作中で描かれた東京の景色や風物が時系列順に展示されていて、たとえば江戸時代を描いた作品として『竹光侍』や『るろうに剣心』が、戦前期の作品として『『坊ちゃん』の時代』や『サクラ大戦』などが解説付きで展示されている。
 
戦前の作品には知らない漫画作品が多かったためか、東京とはいっても遠い世界の話だな、と思った。しかし戦後を舞台にした作品はそうもいかない。昭和の社会を覚えている人なら、今の社会と比べずにはいられないのではないかと思う。
 
高度経済成長期の東京は、薄汚くはあってもエネルギーにあふれた世界として描かれていた。バブル景気の前後は消費文化の爛熟する街として。または世紀末の東京として。そうした時系列の後に提示される"日常系"アニメのいじましさ。展示作品を見ていると、活力ある大東京を描く作風から、衰退しつつある東京の小さな美しさを描く作風へと変わっていっている、と感じられる。
  
会場の中央の模型とディスプレイの周辺に、それぞれの時代の東京を描いた作品が配置されているためか、そうした作風の変化と東京の移り変わりを意識せずにはいられなくなった。美術館の企画展示なのだから、これは、来館者がそういう意識というかパースペクティブを持てるよう、意図された配置なのだろう。
 
私はアニメやゲームを見る時には小難しいことをゴチャゴチャ考えたくないほうなので、展示が押しつけがましかったら嫌な気持ちになっていたかもしれない。が、今回はそういう押しつけがましさがなく、面白がって展示作品を見ているだけでおのずと作品たちの移り変わりと東京の移り変わりが重なってみえて、とても良かった。
 
とにかく展示作品を見てニヤニヤしたい! という人でも自然に展示コンセプトが頭に入ってくる催しじゃないかと思う。
 
 

販売コーナーの節操の無さがまた良い

 
会場の出口付近には、美術館ではおなじみの販売コーナーがあったのだけど、これもなんだか良かった。何が良いかというと、とにかく無節操に、今が旬のアニメやゲームの関連グッズがたくさん売られていたからだ。私のような人間が美術館に来た時に感じてしまいがちな、ある種の高踏的な雰囲気・教導的な雰囲気は、この販売コーナーからは感じなかった。
 

 
出入口に近い側には、こんな風に『鬼滅の刃』グッズがたくさん並んでいる。もちろん、今回の展示作品一覧のなかに『鬼滅の刃』は入っていない。その隣には『ヱヴァンゲリヲン』のグッズがあり、このカメラの撮影位置の近くには『Fate』のグッズが積まれていた。売れそうな作品のグッズなら置いてもらえるらしい。
 

 
こちら側には『ラブライブ!』や『ポプテピピック』、『転スラ』など。よそのアニメショップで買えなかった『ゆるキャン△』の耐水ステッカーが売られていたのを見つけて、迷わず保護した。こんなところで出会えるなんて!
 
この販売コーナーにも「漫画やアニメやゲームや特撮が好きな人はちょっと寄ってみてよ」という千客万来な雰囲気が漂っていて、難しい感じがしなくて良かった。
 
この、間口の広そうな展覧会は11月3日まで開催しているとのこと*1なので、東京を舞台にした漫画やアニメに思い入れのある人は、寄ってみると楽しいんじゃないかと思う。
 
 

*1:注:火曜日はお休みなので注意

リングフィットアドベンチャーのある生活。

 

 
新型コロナウイルスの影響のため、switchのリングフィットアドベンチャーがものすごく売れてしまい、なかなか手に入らずにいた。が、9月上旬にやっと実物を手に入れて遊べるようになった。
 
リングフィットアドベンチャーについては、立派な記事が既にアップロードされている。
 
[参考]:『リングフィット アドベンチャー』ゲームとフィットネス、混ぜるな危険のゲームデザインが成立するまでの苦労【CEDEC 2020】 - ファミ通.com
[参考]:開発スタッフに聞く『リングフィット アドベンチャー』 | トピックス | Nintendo
 
でも百聞は一見に如かず。ゲーム、とりわけ身体性を伴うゲームは自分の身体で遊んでみないとわかったものじゃない。で、リングフィットアドベンチャーを遊んでいるうちに自分自身が健康になり、感心させられたことが多かったので書き残しておくことにする。
 
 

身体のコンディションを整えるだけなら短時間でOK

 
まず、リングフィットアドベンチャーのある生活について。
ゲームを開始してはじめの数日は筋肉痛などを自覚したが、やがて、身体の調子が良くなっていることに気づいた。
 

 
リングフィットアドベンチャーには、非常に長いアドベンチャーモードだけでなく、個別のトレーニングモードがある。平日にアドベンチャーパートをやると翌日の仕事が辛い。そこで、休みの日はアドベンチャーモードを長く遊び、平日は個別のトレーニングを短めに遊ぶよう、マイルールを作って遊ぶようにした。
 
すると、だんだん身体の調子が良くなってくるじゃないですか!
 
アームツイストやリングアローといった上半身系の運動が平日は欠かせない。これらをやっておくと肩こりの度合いがぜんせん違う。四十代になり、肩こりがきついと思う日が増えてきたのだけど、リングフィットアドベンチャーを遊び始めてからは木曜日や金曜日になっても肩がほとんど凝らなくなった。
 
身体の柔軟性も、下半身の筋肉も、元気を取り戻してきた。はじめは少し硬かった開脚系の運動も、気が付けばスムーズにこなせるようになっていた。スクワット系も、だんだん楽にこなせるようになってきている。
 
私はリングフィットアドベンチャーを使って筋力をつけたいとか、ダイエットをしたいとは望んでいない。だから一日にプレイする時間は平日で30kcal程度、休日でも120kcal程度だ。その程度のプレイですら、身体のコンディションがかなり違う。普段はあまり使わない筋肉に息吹を吹き込んでくれるかのようだ。
 
身体のコンディションを整えるだけなら、疲れるほどプレイしなくても十分ではないかと思う。
  
 

ミブリさんはダサい。でも、それがいい

 
ガイダンスであるミブリさんについて。
 
リングフィットアドベンチャーは、インストラクターのミブリさんのストレッチに始まり、ストレッチに終わる。ただのストレッチ、ただのガイダンスなのだけどとにかくよくできていて感心させられた。
 

 
こんな感じで、ミブリさんはプレーンな外見のキャラクターになっている。ミブリさんが登場する時のBGMは昔のNHK教育の教育番組のようでもあり、ちょっとダサい感じがするかもしれない。
 
ところがそのダサさがかえって良いというか、台詞や仕草に棘が無く、あらゆる人を受け入れるかのようだ。ミブリさんとそのBGMは、ゲームに慣れていないおじさんやおばさんでも抵抗がないよう徹底的にチューンされているのではないか。
 
任天堂は、こういう「普段はゲームを遊ばない人でも受け入れられるキャラクターや雰囲気」づくりが昔から得意だったと思う。ソニーやマイクロソフトやセガは、いつもゲーム愛好家や青少年のほうを向いていたけれども、任天堂は、いつもそれ以外の人々を意識したプロダクツを作っていた。初期のファミコンもそうだったし、wiiのコンソールや脳トレもそうだったし、このリングフィットアドベンチャーにしてもそうだった。ニッチなゲーム愛好家だけを相手に商売しているわけではありませんよ、という姿勢。
 
私個人は、そのせいで任天堂のソフトとハードを長いこと避けていた。思春期を迎えた私はスーパーファミコンを最後に任天堂に背を向けて、セガやソニーやマイクロソフトのゲームハードとゲームを遊ぶようになっていった。
 
ところが思春期を終え、おじさんになった頃に任天堂のゲームハードに戻ってみると、ゲーム愛好家的な「恰好良さ」に寄せていないデザインがやけに馴染んだ。このパラグラフの冒頭に「ミブリさんはダサい」と書いたが、これはゲーム愛好家の「恰好良さ」から見た場合の話でしかない。誰にでも受け入れられるデザインとしてのミブリさんは秀逸だ。ミブリさんのアドバイスが適切なこともあって、たちまちファンになってしまった。
 
 

奇妙だが運動させてくれるリングコン

 
リングフィットアドベンチャーのコントローラは奇妙だ。
 

 
プレイしてみるまで、あの丸いコントローラでどう運動させてくれるのか半信半疑だった。ところが実際に装着してみると、スクワットやらヨガのポーズやら、本当にさまざまな運動を検出してくれてびっくりする。手を抜くとちゃんとゲームスコアが下がるから驚きだ。ゲームを進めるためにもカロリーを消費するためにも、しっかり運動するっきゃない。
 
それにしても、どうしてこんな不思議なコントローラができたのだろう?
こちらの記事によれば、任天堂は複数のコントローラを開発し続けているらしい。
 

田邨:
ソフトの開発開始からしばらく経った、2016年頃のことだと思います。
私の所属するハードウェア開発部では、普段から様々なコントローラーの可能性を研究し、試作をしているのですが、ある日、「直感的に遊べる“力を使ったコントローラー”で“リング型”のものがあります」と河本に紹介したんです。たまたま、だったのですが……。
 
──ん? それはつまり、リングコンは今回のために開発されたわけではないのですか?
 
河本:
そうです。全く別のチームが独自の開発をしていて、ある日、そんな話が聞こえて来たんです。もう我々としては、「こんな丁度いいコントローラーが社内に!?」となりました。
(中略)
河本:
任天堂では、色々なコントローラーの試作を続けていますが、このリングコンは、その中ではわりと普通なほう……かもしれません(笑)。

https://topics.nintendo.co.jp/article/e115dc48-07de-4a31-aed1-ad65b3cbeb64

 
あのリングコンですら、普通のほうだって!?
 
思えば任天堂は、昔から変なコントローラやインターフェースを定期的にリリースするメーカーだった。
 
ファミコン時代の光線銃やロボットに始まり、バーチャルボーイ、wiiリモコンと奇妙なガジェットを作り続けてきた。そういえばswitchのコントローラ自体が奇妙なガジェットだった。switchのコントローラが奇妙だったからこそ、リングコンがリングコンとして成立したし、Nintendo Laboのような奇妙な玩具が生まれたりもしたのだった。
 

 
思えば任天堂は、ゲーム会社である以前におもちゃ会社であり、ファミコンやゲームウォッチ以前にも、ウルトラハンドやラブテスターといった奇怪な玩具を流行らせてきたのだった。そういう意味では、リングコンは任天堂ならではのコントローラ、任天堂だからこそ作れるコントローラだったのだろうと思う。
 
リングフィットアドベンチャーとリングコンが売れれば、任天堂はますます奇妙なコントローラを作ってくれるはずだ。どんどん売れていただきたい。
 
 

それでもしっかりゲームさせてくる

 
運動、という面ばかり注目されがちなリングフィットアドベンチャーだけど、中盤あたりからゲームっぽさが少しずつ、じわりじわりと出てきて「ああ、ちゃんとゲームじゃないか」という気持ちにさせてくれる。
 

 
先のほうのステージになると、装備やアイテムの選択が重要になってくる。はじめのうち、そうしたゲーム性は控えめに、オズオズと登場するので、ゲームカルチャーに馴染みがなくてもほとんど問題はない。リングコンと戯れていればゲームが勝手に進行していく。
 
ところが中盤以降になると、アイテムや技の選択がゲームの進行を左右するようになる。スキルポイントを割り振ってパワーアップするシステム(いわゆる"スフィア盤")などは、すこぶるゲーム的だ。
 

 
この、「はじめは戯れていればゲームが勝手に進行し」「気が付いたらすこぶるゲーム的になっている」という手回しも、私は任天堂的だと思う。同じswitchでは『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』などが典型的だけど、右も左も知らないプレイヤーをゲームに馴染ませ、僅かずつゲームシステムに慣れさせていく手並みにかけて、任天堂の右に出る会社はあまりないと思う。なんというか、チュートリアル力が毎回すごい。
 
間口が広いのに、気が付けばゲームにプレイヤーを馴染ませる、そして運動マシンのようでもゲームであることを絶対に忘れず、プレイヤーにゲームのゲームたるところを叩きこんでくるこの手口も、まさに任天堂の血筋のなせるわざだと思った。
 
 

みんなどんどん健康になっていく

 
そんなこんなで、ようやくゲットしたリングフィットアドベンチャーは我が家で大人気だ。家族がかわるがわるリングコンを握ることで、ほかのゲームとは一風変わった団結と競争、健康ブームが発生している。
 
ゲームというと、健康に悪いもの・孤独にディスプレイと向かい合うものという固定観念を持っている人がまだまだ多い。しかし、少なくとも我が家のリングフィットアドベンチャーはそういった固定観念からはあまりにも遠い。だけど確かにこれはゲームなのだ。ゲームだとしか言えない。
 
良いゲームで良い健康を。
いまだ品薄の続くリングフィットアドベンチャーではあるけれども、もし手に入ったならぜひ、自分のペースでトライしてみて欲しい。きっと他のゲームには無い体験といくらかの健康が待っているはずだ。
 

リングフィット アドベンチャー -Switch

リングフィット アドベンチャー -Switch

  • 発売日: 2019/10/18
  • メディア: Video Game
 
 

2020年から見たエウレカセブン、良さ・しんどさ・わからなさ

 

 
2020年の夏アニメにはあまり食指が動かず、『放課後ていぼう日誌』と『ゼロから始める異世界生活 第二期』ぐらいしか見ていなかった。で、アマゾンPrimeを眺めていたら『交響詩篇エウレカセブン』が配信されていたので、これを見ることにした。
 
『エウレカセブン』は2005年にオンエアされた頃から自分の好みではない作品だとわかっていて、避けていた。オタクたるもの、自分の好きな作品と嫌いな作品はおおよそわかるべきで、好きな作品にこそ時間を費やすべきだと当時は思っていたからだ。いや、今だって本当はそうだと思っている。話題の作品を追いかけたりジャンルの系統的理解のために作品を見たりするのは、本来、サブカルや批評家のやることであって、オタクは自分の好きなものを知り、好きなものを追いかけるのが第一義だと思っているからだ。
 
なので『エウレカセブン』は課題図書のようなものだと思って視聴し、好みの作品ではなかったことを確認した。私の好みからいって『コードギアス』は見ても『エウレカセブン』を避けたのはオタクとして正しすぎたわけだが、そういう好き嫌いを抜きに2020年から眺めると色々と考えさせてくれるというか、歳月を感じて趣深かった。気づいたことを書いておきたくなったので書いてみる。
 
 

  • 第一に驚いた、というか面食らったのは、尺の長さとそれを生かした作風だった。

 『エウレカセブン』は全50話ぶっ通しの作品で、これは、いまどきの全13話作品に換算すれば4期ぶんにあたる。最近は26話構成の作品でも尺が長いと感じるところが、50話ともなれば途方もない長さだ。しかもいったん26話とかで区切るのでなく、ぶっつづけなのだ。
 
 しかし『エウレカセブン』はそのマラソンのような長さを上手く使っていて、主人公をはじめ、登場人物たちはゆっくりとしたスピードで成長していった。その成長スピードたるや、2020年のアニメからは信じられないほどの遅さで、若き主人公のレントンは40話ほど、その周囲の大人たちも30話ほどかけて成長していった。逆に言えば、はじめの20話ぐらいはみんな未熟で、その未熟な登場人物たちがギクシャクしたりぶつかったりする描写を凝視し続けなければならない。
 
 これは、登場人物の成長過程にある種のリアリティを与えてくれるという点では長所だが、いつまでも成長せずいつまでもディスコミュニケーションのたえない登場人物を我慢しなければならないという点では短所ともいえる。
 
 現在のアニメ視聴者は短い尺のアニメに慣れているから、20話も30話も成長過程を見なければならない作風が現代ウケするとは思えない。2005年の段階では……どうだったのだろう? 20世紀以前のアニメであれば、これぐらいの尺の長さは珍しくなかったので、アニメ視聴者は気長に眺めていられたような気がする。いやいや、20世紀以前のアニメを眺めている時、登場人物の成長とか、そういう小難しいことを意識していた覚えがない。それでも歴代のガンダムシリーズなどを思い出すに、登場人物の成長過程がゆっくりしていることは現在に比べて短所とみなされにくかったのではないか、とは思う。
 
 幸い、『エウレカセブン』は成長過程をゆっくりと、しかし丁寧に描いていた。レントンの未熟さがとにかく鼻につき、ゲッコーステイトの面々もホランドをはじめ問題だらけではあったけれども、彼らの未熟さや問題がひとつひとつ解決されていった。レントンがチャールズたちに拾われたプロセスも、不可欠な一幕としてきれいに挟まっていたと思う。エウレカを巡るストーリーと登場人物の成長過程がきれいにリンクしていて違和感がなく、後半は、成長した登場人物たちを大船に乗ったような心持ちで見ていられた。もちろん「丁寧に解決し過ぎだ」という批判もあり得るだろうけれども。
 
 賛否はともあれ、全50話の長さを生かして成長過程を描く手法は2020年のアニメではなかなか許されるものではないので、貴重な表現を観た気はした。視聴する側もアニメを作る側も、ゆっくりとした展開を許容する余裕を失って久しいわけで。
 

  • 前半は心細い展開、やきもきさせられる展開が多かった。

 たとえば、未熟な者同士のディスコミュニケーションが発生して、そのディスコミュニケーションによって物語が駆動するような話がごく当たり前のように展開される。物語が駆動するといえば聞こえがいいが、要は、ディスコミュニケーションの後始末に20分間付き合わされるわけだ。ディスコミュニケーションの後始末が1話完結でつくとは限らない。いつまでもディスコミュニケーションが物語を引っ張り、いつまでも後始末が続く、そういう展開を延々と見せられるのには参った。
 
 こういう、負のエモーションによって物語が駆動し、その後始末をいつまでも見せられるつくりは前世紀のアニメでは珍しくないものだったと記憶しているが、2020年にそれを直視すると「どうしてこんな後始末を俺は見ていなければならないのか」という気持ちにどうしてもなってしまう。とはいえ後始末の最中に重要な伏線が混じっていたりするかもしれないと思うと飛ばし見するわけにもいかず、苦労の視聴だった。
 

  • ディスコミュニケーションに加え、粗暴で野蛮な描写も多かった。

 まず、主人公のレントンは「余計なことばかりして、感情を空回りさせる問題児」だった。視聴者は、この、制御のきかない粗暴な少年とずっと向き合っていかなければならない。そのレントンの周りにいるゲッコーステイトの面々もすさまじく、会話をする前にまず殴る・平手打ちをする、といった描写が当たり前のように描かれていた。立小便もしばしばする。
 
 これは、2005年の水準から考えてもかなり古くさい所作ではなかっただろうか。上下関係にもとづくイジリも陰湿で、罵声、罵倒、感情の投げつけが当たり前のように行われていた。狭い意味でいえばディスコミュニケーションともいえるし、広い意味でいえば「野蛮で粗暴なコミュニケーション」ともいえる。そして衝動的だ。
 
 暴力や強い感情が描写されるアニメ自体は2010年代にもあるけれども、『エウレカセブン』に出てくる暴力や感情には、私は悪い意味で親近感を感じる。コンテンツの向こう側に隔離された、透明な檻のなかの暴力や感情を見ているのではなく、コンテンツのこちら側にも横溢していたはずの暴力や感情を思い出させる力のある描写というか。
 
 もっと言ってしまうと、ゲッコーステイトで繰り広げられるディスコミュニケーションや粗暴は、昭和時代のリアルとでつながっている気がしたのだ。アニメ『時をかける少女』に登場した、消火器を振り回す彼を見てしまった時のような気まずさ。そういう気まずさを、『エウレカセブン』の視聴中にはしばしば感じた。こういう気まずさは、平成後期のあの作品やあの作品を見ていても感じることはない。この、昭和的な気まずさを平成生まれの人にどう伝えればいいのだろう?
 
 ところで、昭和時代のリアルにおいては暴力や感情は衝動のまま発散されることが多かった。いじめやいじりもそうだったかもしれない。対して、令和時代においては暴力や感情はもっと合理的・合目的に発露される。暴力や感情がなくなったわけではない。衝動すら存在を許されている。しかし、暴力や感情にも筋が通っていなければならないというか、無理筋・無意味な暴力や感情があってはならないし、描かれてもいけないような印象がある。いや、現実には現代の日本社会の片隅に、そういった無理筋・無意味な暴力や感情が必ず残っているのはわかるのだけど、そうした無理筋・無意味な暴力や感情が青少年向けアニメのメインストリームで描かれることは減ったのではないか、とは思った。
 

  • エヴァンゲリオン後の作品としてのエウレカセブン。

 視聴している間じゅう、1995~97年の『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にある作品、という印象がついてまわった。エウレカの挙動やデザイン、アゲハ計画、呼びかけに応じるロボット……のようでそうとも言い切れないニルヴァーシュ、最終話の月の描写、等々、エヴァっぽいけどそうじゃない雰囲気やコンセプトやデザインが点在し、特務機関ネルフのかわりにゲッコーステイトがレントンたちを取り囲んでいた。エヴァンゲリオンのオマージュ的要素がありつつ、エヴァンゲリオンとは私は違うんです、と主張する意志が込められているよう、私は勝手に感じ取った。なお、制作陣がこの問題についてどのようなステートメントを出していたのかは確認していないし、私はそういうステートメントをわざわざ確認したがるタイプのアニメ愛好家ではない。
 
 20世紀末にエヴァンゲリオンから強い影響を受けた人は、私に限らず、「エヴァっぽさ」を点検してしまう目線を持っていた時期があったと思う。実際、エウレカセブンに限らず、キャラクター構成や心理描写やストーリーコンセプトに「エヴァっぽさ」を漂わせた作品がときにあった。そういった目線は00年代の後半には薄れていくのだけど、2005年につくられたエウレカセブンを見た時、私のなかにそれがくっきりと蘇った。これは一種のバイアス、色眼鏡に違いないのだけど、そういう色眼鏡を2020年に蘇らせてしまう程度にはエウレカセブンはエヴァっぽかった。いや、エヴァ二次創作的だったとでもいうべきか。
 
 こういった色眼鏡は時代遅れで、たとえば2006年以降にアニメ愛好家になった人からは意味不明とうつるかもしれない。実際、このような色眼鏡がエウレカセブンを見るにあたって必須とも思えない。ただエヴァンゲリオンが好きだった私はエウレカセブンを見てエヴァンゲリオンのことを思い出し、それから、エウレカやアネモネやレントンが幸せそうだな、と思った。思っただけではあるのだけど、それが心に残ったから、こういうことを書いている。
 

  • で、月面に、ヤンキーカップルの場末の落書きが残されたわけだ。

 エヴァンゲリオンのようでエヴァンゲリオンではない物語を全50話続けて、エウレカセブンは大団円を迎えた。特務機関ネルフとその大人たちとは異なり、ゲッコーステイトの面々はそれぞれに得るものを得て、もちろんエウレカとレントンも良い結末を迎えたようにみえた。一時はどうなるかと思ったアネモネも、まんざらではなさそうだ。終盤に向かってスケールの大きくなったストーリーを、上手に折り畳んだ……はずだった。多少の瑕疵はあったかもしれないが、長編アニメならではの成長物語をみせてくれた先に、希望のあるエンディングを見せてくれた。エヴァとは違うのだよエヴァとは!
 
 ところがエヴァとは違うのだよと主張しているこのアニメは、月面に巨大な落書きを残したのだった! あの世界の人々は、月面にでかでかと残された、エウレカとレントンの相合傘のごとき落書きを見上げながら生きていくのだろう。「アニメには無駄な描写などない、すべての描写は有意味だ」という言葉に忠実に考えるなら、あの常軌を逸したラブラブ落書きは、エウレカセブンの結末として視聴者が受け入れるよう、制作陣に期待されたものであるはずだ。
 
 つまり、エヴァとは違うエウレカセブンは、月まで届くLCLの架け橋のかわりに、ヤンキーカップルが書いた場末の落書きのような相合傘が月面に残された状況を受け入れるよう、視聴者に迫るのである。
 
 エウレカセブンにおける審美性、たとえば「格好良さ」とはなんだっただろう? それはゲッコーステイトの雰囲気だったり、LFOだったり、アングラ雑誌ray=outだったりするのだと思っていた。少し臭みはあるにせよ、格好をつけることに有意味性を見出しているのがエウレカセブンという作品だと思っていた。最終話まではそれで整合性が取れている、はずだった。
 
ところが、あの落書きである。
あの落書きを含んだかたちでエウレカセブンの「恰好良さ」の整合性を保つには、(90年代後半~00年代前半でいう)サブカル的恰好良さよりもヤンキー的恰好良さに求めなければ辻褄が合わないのではないか。サブカル的な恰好良さではあの落書きをフォローすることができないが、ヤンキー的恰好良さでなら(いわゆるヤンキーのファンシー好きの発露として)あの落書きをフォローできるとしたら。
 
 だとしたら、ゲッコーステイトとはヤンキー集団だったというのか?? そう考えてみると、2005年にしては粗暴で野蛮な描写が多い点や、上下関係に根ざしたイジリが描かれている点とも辻褄が合う。でもこんなのは深読みに過ぎない。制作陣が「こいつらは気の良いヤンキー集団で、ラストはファンシーな落書きにしてみました」と思わせるためにわざわざあの落書きを準備した、とは考えづらい。もっとシンプルな理由に基づきあの落書きは描かれたのだろう。だとしたら、そのシンプルな理由を私は咀嚼できない。なんだなんだ。最後の最後におなかを壊してしまったじゃないか。
 
 全50話にわたる壮大な成長物語のターミネーターとして、エウレカとレントンの相合傘的意匠を見せつけられて、私はディスプレイの前でフリーズしてしまった。「おれの約20時間を返せ!」とまでは思わなかったにせよ、これをどう解釈し、エウレカセブンと自分との関係を清算すれば良いのか迷ってしまった。いや、今でも迷っている。終盤に向かって盛り上がるアニメの最後の最後にはしごを外された時の気持ちを思い出してしまった。そういうところまでエヴァンゲリオン後的ということか。いやしかし。参ってしまった。