シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「いかがだったでしょうか」さん、今しか書けないこと、書いてますか。

 
 インターネットを誰もが利用するようになって、ブログやSNSや動画でいろんな人が情報発信するようになった。文章を、フレーズを、コンテンツを配信するようになった。それはそれで結構なことだと思う。
 
 さて、二十年ほどインターネットに文章を書き続けていると、気づかされることがある。
 
 それは、「その年の自分には書けても、5年後の自分には決して書けない文章がある」ということだ。
 
 たとえば、私は2006年にこんなことをブログ記事に書いている。
 
これから式場の下見に行ってきますが - シロクマの屑籠

 とはいえ結婚などという難儀な選択肢を選ぶことも、結局は漏れ出る諸執着に由来するわけで、その限りにおいて落胆や絶望の萌芽から逃げきれません。一方、僕は自分が凡庸な人間である、少なくとも凡庸な人間とそう変わらない行動遺伝学的特徴を持った雄であると推定しているので、凡庸な人生の諸先輩が創りあげてきた世間智から大きく外れないほうが執着の制御が容易なのだろう、とは推定しています。少なくとも僕の場合、結婚せず家族も持たずに生きていくことは、それはそれで(おそらく五十代以降に)相応の渇望を惹起すると予測されるので、結婚という名のコストとリスクを払ってでもその渇望を回避出来やしないか、という企みが結婚には含まれています。

 
 これは、あるブロガーさんへの返答として書いたものだが、こんな内容は結婚直前でなければ絶対に書けないし、こんな漢字だらけの文章に仕上げることは今ではあり得ない。ゆえに、現在の私には貴重なアーカイブになっている。
 
 ブログ記事の集合形とも言える以下の本にも、同じことが言える。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 この本には、40歳~41歳の私が考えていた「年の取り方」についてのアイデアが詰まっている。30代の頃の私はもちろん、現在の私も、ここに書いてあるアイデアのとおりには考えない。率直に言って、この本を今読み返すと気恥ずかしくて仕方がない。
 
 ただ、いずれ気恥ずかしくなるだろうという予感は書いていた頃にもあって、私は後書きに以下のようなことを書いていた。
 

 私はこの本に43歳時点の、嘘偽りのない気持ちを書き綴りました。ということは、50代の私からみれば、相当に青臭くて、肩に力の入ったことを書いている可能性が高いと想像されます。ちょうど30歳の頃の私の文章を、私がいま読むと苦笑せずにはいられないのと同じように。この本は、10年後の私から見て、黒歴史として記録されることでしょう。私は今、すごく恥ずかしいことをやっているのです。

 
 いやー、ネットスラングでいう黒歴史としか言いようが無い。それだけに、あの時期に書いておいて本当に良かったと思っているし、この本は40~41歳の頃の私を忠実に念写したアーカイブとして価値がある。
 
 「年を取れば取るほど、書けば書くほど書けることが増える」というのは、知識やテクニックの点ではそのとおりかもしれない。しかし文章は知識やテクニックだけで紡がれるわけでなく、自意識、年齢、境遇が色濃くにじみ出るものなので、その時にしか書けない文章・今しか書けない文章というのもやはり存在する。
 
 

「今しか書けないこと」が自分史になる

 
 この文章のタイトルは「『いかがだったでしょうか』さん、今しか書けないこと、書いてますか。」となっている。薄いインクで印刷したような、量産型ブログ記事を機械的に書いている書き手をdisりたい雰囲気のタイトルだが、これはタイトル詐欺みたなもので、量産型ブログ記事を機械的に書いている書き手をdisりたいわけではない。
 
 そうでなく、今しか書けないことを大切にしていない人をdisりたい気分になっている。
 
 たぶん世の中には、ブログ記事の締めを「いかがだったでしょうか」で締めくくってはいるけれども、そういう量産型ブログ記事の呈をなしながら今しか書けないことを書いている人、今しか書けないことを書くためのフォーマットとして「いかがだったでしょうか」系のテンプレートを必要としている人もいる。
 
 「いかがだったでしょうか」でブログの末尾を締めくくっているからといって、どうしようもないブログ記事とは限らない。
 
 「いかがだったでしょうか」系のブログでも、自意識の量り売りをしている人気ツイッタラーでも、悪魔に魂を売っている動画配信者でも、その人がその時にしかできない表現をしている限りにおいて、それは「今しか書けない(表現できない)こと」というそれ独自の価値を持っている。第三者はそのような価値に気付かないし、何年経ってもワンパターンだと認識する人もいるだろう。もちろんこれは、他人に認めていただけるようお願いするような向きのものでもあるまい。
 
 けれども実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
 
 ある時期・ある年齢・ある境遇を反映したブログ記事・つぶやき・動画は、自分史(=バイオグラフィー)を振り返るうえでまたとない遺産になる。
 
 なるべく批判されにくいアウトプットを心がけるのも、なるべく沢山の人の目を惹くアウトプットを心がけるのも、それはそれで必要なことかもしれないし、価値のあることかもしれない。だけど、文章やつぶやきや動画をアウトプットするのが当たり前になった今だからこそ、それらが個人的なバイオグラフィの構成要素たりえて、他人の称賛やPV数とは異なったタイプの価値を伴っていることは、折に触れて強調しておきたい。
 
 

疎外から身を護るために「今しか書けないこと」を書く

 
 それともうひとつ。
 
 他人に「いいね」を貰いたいとかもっとPVが欲しいとか、そういったニーズに応えるためにアウトプットしていると、自分が何のためにアウトプットしているのか、なぜアウトプットしたがっているのか、そもそもこのアウトプットは自分がやらなくても構わないものなんじゃないか ……といった混乱が起こることがある。いや、混乱というより疎外というべきか。少なくとも私は、アウトプットが独り歩きすると、混乱や疎外を感じてしまう。
 
 世の中には、自分がアウトプットする文章やつぶやきや動画と、自分自身の考え・関心・境遇とが分裂していても、混乱や疎外を感じない人がいるようにもみえる。ある種のきわめてプロフェッショナルな書き手や動画配信者は、そうなのかもしれない。
 
 だけどそういう人は少数派なので、大多数の人は、自分自身と、自分のアウトプットの間になんらかの関連性や整合性を保っておいたほうが良いと思う。
 
 この、「自分自身と、自分のアウトプットの間の関連性を保つ」ための方法としてイージーで、無意識のうちに辻褄を合わせやすいのが「今しか書けないこと」をアウトプットすることだ。そういう意味では、SNSの「あなたは今なにしてる?」という決まり文句は親切だ。今やっていること・今思っていることを正直に書きさえすれば、自分のアウトプットに疎外される心配はなくなる。
 
 もちろん現実のSNSにおいて、今やっていること・今思っていることを正直に書くのは、振り返ってみれば難しい。カネやコネや政治にアカウントを売り渡してしまえば、正直に書くのは驚くほど難しくなるだろう。カネやコネや政治に魂を売れば売るほど、疎外が迫ってくる、とも言える*1。カネやコネや政治を意識しつつ、今しか書けないことを書くためには、それなりのテクニックと素養が要る。ひょっとしたら、純粋な文章のテクニックより、そういった心理的な辻褄合わせのテクニックのほうが、ネットで長生きするには重要なのかもしれない。
 
 

いかがだったでしょうか

 
 大多数の書き手や配信者は「今しか書けないこと」「今しか表現できないこと」を大切にしたほうが良いのだろうし、実際、多くの人は無意識のうちにそれを大切にしているのだろう、と思う。だが、ときに人はカネやコネや政治を優先させたくなるあまり、今しか書けないことを蔑ろにしてしまい、ちょっと荒れた後に消えてしまうアカウントも稀によくある。それは自分史という観点からもったいないだけでなく、アウトプットに自分自身が疎外されるかもしれないリスクを冒した結果だと思うので、ほどほどにしておいたほうが良いのだと思う。
 
 いかがだったでしょうか。
 ネットで20年ぐらい書き続けている私からは、以上です。
 

*1:ごく稀に例外がいて、どんなにネタやウケやコネや政治に魂を売っても蛙の面に水、といった風情の人がいるけれども、それは一種の特異体質なので真似をしようとすれば火傷をしかねない

めぐみん最高!癒やしの異世界ラブコメ【映画このすば】

 
 最近、ちょっと仕事や勉強が立て込んでいて月曜日から機嫌悪い感じになっていたので、映画館に『このすば(この素晴らしい世界に祝福を!)』を見に行った。
 
konosuba.com
 
 『このすば』を一行でまとめると「冒険者ギルドが登場する異世界ライトファンタジー、おっぱい増し増しラブコメ」となる。
 
 こういう、オタク界隈ではポピュラーでもその外側ではあまり支持されていないジャパニメーションは疲れている時にすごく効く。TV版『このすば』は、まさにそんな気兼ねなく楽しめる作品だったので、映画版も観ようと楽しみにしていたのだった。
 
 

めぐみんの真骨頂を見た!

 
 で、めぐみん、だ。
 
www.youtube.com
 
 この動画のサムネイルにあるドヤ顔も含め、クルクル変わるめぐみんの表情にうっとりさせられた。 めぐみんファンなら、めぐみんを見るためだけに映画館に行く価値がある! 魔法学校の制服もたいへん似合っていて、めぐみん盤石の構え。クライマックスはご自慢の爆裂魔法、予定調和といえば予定調和だが、まったく消化試合という感じがしなかった。うんうん、こういうのが観たかったんだよ。
 
 めぐみんは、もうやたらと大きなおっぱいが出てくる『このすば』世界にあって珍しい貧乳キャラだ。そのうえ中二病、爆裂魔法しか使えず、小柄のツンデレと来ている。いまどきのアニメでは、こうしたキャラクター属性なんて重要でもないはずなのなのに、めぐみんの場合、それらの組み合わせが非常に高レベルなところで噛み合っていて、何をやっても、何を言ってもサマになる。
 
 里帰りということもあって、作中にめぐみんの実家が登場したが、ぼろい布団で口をあけて眠る姿も似つかわしく、ますますめぐみんのキャラクターに磨きがかかったように感じた*1。めぐみんに限らず、『このすば』の主要キャラクターは皆すごく精密にできていて、その、すごく精密にできたキャラクターが時に応じて[ラフに・ギャグっぽく・かわいらしく]描かれるメリハリの妙がすごい。ストーリー展開のスピードもちょうど良くて、本当に気持ちよく眺めていられる。映画版では、そういった完成度が更に増しているようにみえた。
 
 

気分転換にぴったり

 
 それにしても、TV版も映画版も『このすば』はクサクサした気分にすごく“効く”。めぐみんの一挙一動はもちろん、バカでエッチなカズマも、変態のダクネスも、貧乏神のアクアも、見ていて癒やされる。単にお下劣なラブコメなのでなく、キャラクターがしっかり作り込まれていて、しっかりとしたメリハリとちょうど良いスピード感にも支えられていて、この手の作品のなかでもトップクラスの水準なんじゃあないだろうか。
 
 帰宅後、AmazonプライムでTV版の第一期を子どもと観たけれども、子どももものすごく喜んでいた。以下の匿名ダイアリーの話も、だからぜんぜん不思議じゃない。
 
 [関連]:このすばの映画を甥と姪と見に行った
 
 
 『この世界の片隅に』や『天気の子』のような凝ったアニメもいいけれども、くたびれた気分の日には、こういう異世界ラブコメのほうが自分の性根には合っているんだなぁ……と改めて思った。
 
 今作、めぐみんが好きな人は絶対観に行って損はないし、ある程度のアニメリテラシーのある人ならTV版や原作を知らなくても楽しめると思う。
 気分転換には最適。
 
 

 

*1:妹のこめっこも、めぐみんのキャラクターを食うのでなく補強するような役回りで、それでいてちゃんとかわいい。よくできている!

中二病をドライブさせるアニメは嗜好品をちゃんと描いて欲しい

 

 
 最近、うちのtwitterのタイムラインで『ロード・エルメロイII世の事件簿』のアルコールの描写について、目に留まるツイートが流れてきた。
 


 
 これは私も引っかかった。
 なぜシャンパングラスではない?
 そこに冷やしてあるのはシャンパンボトルか、万が一違うとしても白ワインのボトルではないか?
  
 シャンパンにお似合いなのは細長いフルート型グラスで、シャンパンというワインの用途からいって、リムジンにあってもおかしくはない。しかし、ここではフルート型グラスではなくボルドー型グラス、しかもステムの短い安物っぽいやつが並んでいる。そのうえ、グラスが下を向いているのでなく上を向いているときたものだ。ワイングラスに埃が入るのは避けられるべき事態なので、まっとうにワインをサービスする者はワイングラスを戸棚に入れるか、逆さまに「吊るす」。
  
 もし、このアニメが『Fate』の看板を背負っていなかったら、こうした描写は気にするほどのものではない。世の中には、ワインを何種類も混ぜ混ぜして料理をつくるなどという蛮行が描かれるアニメ作品や、赤ワインをワインクーラーでキンキンに冷やすアニメ作品も出てくる。それでどうということはない。気にならないアニメ作品では、特段に気に留める必要を感じない。
 
 しかしこのアニメは『ロード・エルメロイII世の事件簿』、『Fate』の看板を背負っている。『Fate』といえば中二病だ。背伸びした格好良さに焦がれ憧れ、中二病をギュンギュンと音を立ててドライブさせてナンボの作風ではなかったか。
 
 だから背伸びした格好良さに関連するガジェットは大切に描写しなければならないはずで、ガジェットをできるだけしっかり描いておかなければ中二病をドライブさせる差し障りになりかねない。
 
 この点では、『Fate/Zero』は背伸びした格好良さをかなり大切にしていた、と思う。
 このブログ記事の冒頭のスクリーンショットは、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが白ワインを飲むシーンだが、これはある程度の合点がいった。
 
 ケイネス先生のような人格の持ち主が飲む白ワインといえば、カリフォルニア産などではなく、ブルゴーニュ産の正統なシャルドネだろう。ボトルの形状や色もそれに合致する。そういう正統なシャルドネを飲むにあたり、このような大ぶりのブルゴーニュグラスを用いるのはもっともなことだし、これぐらいの量しか注がないのは香りを堪能するうえでは都合が良い。唯一、ワインボトルを冷やしているのは引っかかりどころで、正統なシャルドネは冷やし過ぎると美味くなくなる。が、ぬるすぎても美味くなくなるし、気の利いたレストランではともあれ冷やせるように準備はしてくれる。
 
 ほかにも『Fate Zero』では、言峰綺礼のワインセラーを飲み荒らすギルガメッシュなどが登場するが、このシーンで登場するワインボトルとラベルの形状もなかなか凝っていた。
 

 
 ボトルに、わざわざ「ラトゥール」「ジロンデ」といった表記があるのは大変好ましく、架空のボルドー高級ワインを想像したくなる。ただしこのシーンのギルガメッシュ、ステムの長いワイングラスに少々ワインを注ぎ過ぎている。あと、ワインは飲み干してから追加を注ごうよ。
 
 こうしたワインを嗜む現代的な作法については、さすがにケイネス先生に軍配があがる。
 
 これに限らず、『Fate/Zero』は細かなガジェットをかなり頑張って描写していた。アニメを作る者とて万能ではないし、予算の都合もあるから、すべてを細かく描くことはできない。しかし背伸びした格好良さに関連したガジェットを細かく描くことには意味があり、『Fate』シリーズは、ボキャブラリーの点でもガジェットの点でも中二病が勃起するような細部によって成り立っている、と私はいつも思っている。嗜好品や奢侈品は、伝記伝承のたぐいと同様、そうした細部を構成する重要なパーツになる。その点では、『Fate/Zero』のいたるところで頑張った作品だったように思う。
 
 

中二病の神は細部に宿る

 
 アニメがサブカルチャーコンテンツとして幅をきかせるようになってどれぐらいの歳月が流れただろう。
 
 私のような中年までもがアニメを見るようになった2019年においても、多くのアニメが中二病的気分をドライブさせてくれる。中年になってなお、そうした中二病的気分がギュンギュン音を立てる瞬間は気持ち良いものだ。そうしたコンテンツを次々に輩出する界隈には感謝している。
 
 しかし気持ちの良く中二病のドライビングに身を委ねるためには、細部に瑕疵があって欲しくない。そういった瑕疵が増えるほど、中二病という心地よい夢を醒めやすくなってしまう。アニメは、記したいことを記すには適したメディアであると同時に、記したいと意図していない、手間と予算を省いた描写までもがひとつのメッセージとして解釈・咀嚼されかねないメディアだ。だから、中二病をドライブさせるコンテンツの饒舌さに神が宿っていて欲しいと願うと同時に、手間と予算を省いた場所で神を追い払ってしまうことがないよう慎重であって欲しい、とも願う。
 
 コミック版を読むにつけても、『ロード・エルメロイII世の事件簿』という作品は、そういう中二病の夢、背伸びした格好良さをプロバイドしてくれると期待された作品だと思う。頑張れ、『ロード・エルメロイII世の事件簿』。なにせこれは『Fate』シリーズの時計塔の物語なのだから。
 
 

『レイフォース』のサントラと、物語体験メディアとしてのゲームについて

 
ゲームサントラ語り・「ダライアス外伝」オリジナルサントラについて: 不倒城
 
 以前、しんざきさんが1994年のシューティングゲーム『ダライアス外伝』について語ったことがあった。リンク先は、その時の文章だ。
 
 『ダライアス外伝』はゲーム自体がよくできていると同時に、すごく印象的な音楽に心奪われるゲームで、およそゲームセンターに似つかわしくないBGMを聞きながらシューティングゲームとしてのダライアス外伝を楽しんだものだ。
 

ダライアス外伝

ダライアス外伝

 
 で、リンク先にもあるように、そのサントラ盤にはユング心理学を援用した細かい解説が載せられていて、サントラを読むとBGMとゲームの辻褄がますます合い、『ダライアス外伝』という作品についての理解も深まるようになっていたのだった。
 
 この『ダライアス外伝』とそのサントラが素晴らしいのは間違いない。けれどもほぼ同時期にリリースされた『レイフォース』とそのサントラもそれに伍する仕事をしていたので、ここではレイフォースのサントラの話をしようと思う。
 
 

「ハイスコア狙い」と「悲壮感の漂う演出」という二つの顔

 

レイフォース

レイフォース

 
 『レイフォース』は1994年にゲーセンに登場した、縦スクロールのシューティングゲームだ。その後流行になっていく弾幕シューティングのようなつくりではなく、敵をロックオンし、まとめて敵を倒すと高得点が得られる誘導レーザーで専ら敵を攻撃していく、ハイスコア狙いを意識させる作品だった。敵も曲線的なレーザーを多用し、さまざまな特殊弾に遭遇するあたりは『ダライアス外伝』と雰囲気が似ていて、この時代のタイトーのシューティングゲームらしさが感じられる。
 
 この、ロックオン式のレーザーを使った高得点ギミックが良質なゲームバランスに支えられた結果、『レイフォース』は当時のシューティングゲームマニアから非常に高い評価を得ていて、『レイストーム』や『レイクライシス』といった続編もつくられている。演出やBGMだけでなく、ゲームそのものの骨格が非常に優れていた作品だったといえる。
 
 だがゲームそのものが優れていただけでなく、何かをディスプレイ越しに訴えかけてくるような、否、プレイヤーの側がストーリーを読み取りたくような演出のゲームでもあった。
 
 小惑星基地のような1面から、衛星軌道上の2面へ。地球らしき星の地表を疾走する3~4面を通り過ぎると、惑星中心に向かって地下を突き進む5~6面が続いていく。そして最終面である7面は、どうみても惑星の中心だ。
 
 『レイフォース』がゲーセンに設置されていた時、ゲーセンのインストカードには通常弾やロックオンレーザーの使い方といった操作法が記されているだけで、ストーリーらしきものはどこにも書かれていなかった。
 
 しかし、ゲームの演出、ステージ構成をみる限り、なにか重大なストーリーが『レイフォース』にはあるように思われた。2面後半、大気圏突入前のシーンでは、友軍艦隊とおぼしき宇宙船団が敵艦隊に一方的に破壊されていく。BGMも、このゲームになんらかストーリーがあることを訴えてやまない。2面、4面、6面と惑星中枢に近付くにつれて悲壮なBGMはますます悲壮になり、なにやら、後戻りのきかない戦いであるように聞こえるからだ。
 
 BGMもステージ構成も、なんとなれば敵のデザインすら、「はっきりとしたストーリーはわからないけれども、このゲームの筋書きは悲壮なものだ」という想像をかきたてる点では『レイフォース』は首尾一貫していた。ハイスコアラーがやりこんでなかなか席の空かない、スコアに目を血走らせるゲームであると同時に、異様な悲壮感が漂っているのは不思議な感じがした。
 
 だが、『レイフォース』というゲームの正体はそういうゲームだった! というよりそういう正体であるとサントラ盤によって後付け的に語られたのだ。おそらく『ダライアス外伝』と同じように。
 
 

「サントラにストーリーが書いてあった!」

 

 
 ある日、『レイフォース』をやり込んでいる友人からBGMのサントラを借りる機会があった。そこにはレイフォースのストーリーが実質的に書かれているのだという。半信半疑ながら借りてみると、サントラには「MISSION DATA FILE」なるものがついていて、年号から始まって、びっくりするほど細かなストーリーが記されていた。
 
 

 
 『レイフォース』は、万能の物質生成システムとAIによって人類社会が管理されるようになった後の物語だ。ある日、そのAIが人類に敵対するようになり虐殺を開始、生き残った人類は外惑星系へと逃れなければならなくなった。地球と一体化したAIによる殲滅戦が続くなか、AIを地球ごと破壊するべく、人類は衛星落としをメインとする第一次攻略作戦を挑んだが、主力艦隊の70%を失って敗走。
 

 
 ゲーム本編は、その後の第二次攻略作戦、「残存艦隊を囮とし、小型機動兵器を惑星の中心核に送り込み、惑星もろともAIを破壊する」作戦であることを、私はサントラのミッションファイルを読んで初めて知った。
 
 21世紀の私は、これがそれほどSF的に珍しいストーリーではないことを知っている。しかし、SF小説をただ読むのと自分自身でジョイスティックを動かして機動兵器を操り、BGMを聴きながら惑星中枢を目指すのでは、体験の質、没入感の度合いがまったく違う。
 
 もともと悲壮感の漂う何者かだった『レイフォース』は、サントラに記された資料によって明確なストーリーになった。そしてそのストーリーを自分自身のものとして体験するのに『レイフォース』の演出やBGMはあまりにもぴったりだった。例の、高得点ギミックであるロックオンレーザーが自機より下向きの方向にしか撃てないのも、「惑星の中心に向かってひたすら降りていく」という作戦主旨と一致しているからたまらない。
 
 このストーリーを知った段階では、まだ私は『レイフォース』をワンコインクリアしていなかったし、エンディングも見ていなかった。惑星中枢の手前に立ちはだかる難関ボスに手こずり、しかもゲーセンではハイスコア狙いの上級者になかば占拠されていたから諦めていたのだが、ストーリーを知り、この結末をどうしても自分の力で迎えてみたくなった。
 
 こういう時、ゲーム、それもゲーセンのシューティングゲームというプラットフォームは、その難易度でプレイヤーをしっかり抱き留めてくれる。小型機動兵器だけで惑星中枢を破壊するという作戦の困難さを、ゲーセンのシューティングゲームは難易度というかたちで疑似体験させ、えもいわれぬBGMとグラフィックによって作戦の世界に没入させる。
 
 『レイフォース』をワンコインクリアしたいと思っていた頃は、とにかく暇をつくってゲーセンで練習し、家に帰ってからも惑星中枢を攻略するためにあれこれ考え続けた。一度はクリアを諦めていた私にとって、まさにそれは第二次攻略作戦だった。
 
 幸い、『レイフォース』の難易度はゲーセンのシューティングゲームとしては良心的な部類で、ほどなく私は惑星中枢のAIに辿り着き、激戦の末、破壊した。惑星の爆発と閃光に包まれた自機を待っていたのは……やはり、帰らぬ旅路だった。
 
 予想された結末ではあった。サントラ盤所収の「MISSON DATA FILE」には、惑星を破壊するための手順は記されていたが、生還のための手順はどこにも記されていなかった。もちろん、エンディング後の未来のことも記されていない。だからこれは「特攻作戦」なのだ。この世界の人類は、未来のために自機のパイロットを死地に送り込んだというわけだ。
 
 それでも、やり遂げたという充実感、満足感は素晴らしいものだった。良心的な難易度とはいえ、『レイフォース』もまたゲーセンのシューティングゲームのひとつであり、ワインコインクリアするまでには相応の手応えがあった。『バトルガレッガ』や『雷電IV』をワンコインクリアした時に比べれば、相対的に難易度じたいは低めだったかもしれないが、ストーリーに駆り立てられてプレイしていたためか、クリアした時の感動はそれらに勝るとも劣らないものだった。この世界の人類を救ったというイメージと、特攻ではあっても悔いの無いイメージを、私は1994年のゲームセンターの片隅で確かに体感した。
 
 その後、『レイフォース』よりも素晴らしいSFは何度も読んだし、『レイフォース』よりもシューティングゲームとして優れているもの・難しいものも何度もクリアした。けれどもこんなに感動し、世界に没入したうえで達成感を得られたゲームは他にない。
 
 

物語を体験するメディアとしてのゲーム

 
 この『レイフォース』を思い出し、その後のゲーム体験とも照らし合わせて思うのは、物語体験装置としての「ゲーム」というメディアの可能性だ。
 
 世の中には、物語を体験させる、物語を読ませるメディアがたくさんある。小説しかり、アニメしかり、テレビドラマしかり。
 
 そうしたなかで、ゲームというメディアを特徴づけるのは、なんといっても「自分で操作する」ということ、そして「自分で操作することによってストーリーが変わる」ことだろう。
 
 こうした物語体験装置としてのゲームメディアの可能性については、たとえばノベルゲームの分野では、東浩紀さんが『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』で記している。
 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 
 それはそれとして、一人のアーケードシューティングゲーム愛好家として振り返ると、『レイフォース』をはじめ、少なくとも幾つかのアーケードゲームには、他のメディアよりプレイヤーを没入させやすい性質があったのではないだろうか。アーケードゲームの場合、困難な作戦への没入感を支える舞台装置として、ステージ構成やBGM、さらにアーケードゲーム特有の難易度の高さが役に立つ
 
 今日の家庭用ゲームやソーシャルゲームでさえ、多くのゲームは後半で難易度を上昇させ、プレイヤーの試行錯誤や努力を促すとともに達成感を高めるような――つまり手応えを体感させるような――仕掛けを備えているものが少なくない。この、難易度というファクターがゲームのストーリーや客層と噛み合った時、そのゲームは「バランスの良いゲーム」と讃えられる。ただし噛み合わない時には「クソゲー」との誹りを受けるかもしれない。
  
 90年代のタイトーという会社とその社内音楽グループであるZUNTATAは、そういった物語を体験させるためのメディアとしてのアーケードゲームづくりがとても上手かった、のだと思う。もちろんそれはシューティングゲームに限ったものではない。『サイキックフォース』や『電車でGO!』にしてもそうだ。ナムコだって、セガだって頑張っていた。物語に没入するための舞台仕掛けという点では、どこのゲーム会社も頑張っていたし、今でも頑張っている。
 
 ゲームというメディアは、映像では映画にかなわないかもしれないし、ストーリーの新機軸ではSF小説にかなわないだろう。音楽という点でも、単体では専門家にかなわないかもしれない。だけど、それら全てを総合して、なによりプレイヤー自身の操作と選択、体験の積み重ねによって、個別のメディアには提供できない体験を提供してくれる、と私は思っている。
 
 今後、そうした体験はARやVRによってますます拡がっていくのだろう。
 だがさしあたり今は、『レイフォース』をはじめ、今遊べるゲームを讃えておきたい。
 あのとき、確かに私は第二次攻略作戦をやってのけ、惑星中枢を破壊したのだ。
 
 
※[『レイフォース』についてもっと知りたい人には、こちらのファンサイトをオススメしてみます]:POLAIRE.ORG - レイフォースを愛するすべての人々へ
 
 

「子育てするなら都心か地方か」論と、現代の「血筋」の問題

  


 
finalvent.cocolog-nifty.com
 
 上掲の、田端信太郎さんのツイートを踏まえて書かれたとおぼしき、極東ブログのfinalventさんのブログ記事を読み、ぼんやりとした気持ちになった。
 
 郊外に4000万円の居をかまえるのと、都内のタワマンに8000万円の居をかまえるのは、どちらが望ましいのか?
 
 田端さんのツイートには将来の価格のことしか書かれていないのに対し、finalventさんのブログ記事の後半には、子育てとそれに関連した階層化の話が付け加えられている。
 
 こうしたネットで見かける「郊外の家か、都内のタワマンか」の話には、【①物件の未来の価格可能性】の話と【②子育て上の利便性や可能性】の話が混じっていて、しかも②に関しては、【③比較する家庭の社会的・文化的状況の違い】が略されている。【④地方や郊外という時、想定されるのはどういった地方や郊外なのか】も割と略されやすい。そんなわけで、万人を納得させる文章にはなかなか仕上がりにくい。
 
 たぶん、以下の文章もそのようなものだと自覚したうえで、地方で子育てをする者の一人として、自分の考えを書いてみる。
 
 

物件の価格は、都内に近いほど有利

 
 まず、あまり興味の無い①の問題を済ませてしまおう。
 未来の物件の価格、という視点でみれば、地方は都心にまったくかなわない。地方の物件に手を出すより東京首都圏の物件、それも都心の物件に手を出したほうが有利なのだろう。
 
 地球温暖化や大震災などのリスクを考えるなら、都心といえども無敵というわけではあるまい。とはいえ確実視される少子化を踏まえるなら、物件の価格は都心ほど維持されやすく、都心から離れるほど下落しやすいとは予測できる。
 
 この点でいえば、地方都市のはずれに土地を買って家を建てるのが一番どうしようもなくて、数十年後には負の遺産になると覚悟しなければならない。
 
 ただし、地方都市のはずれ~都心の間には無数のグラデーションがある。ひとことで郊外と言っても、たとえば埼玉県や千葉県や神奈川県の、濃密な鉄道網に沿った物件がどれぐらい値下がりするものだろうか。
 
 東京首都圏の鉄道網があてになる限り、案外、東京首都圏の郊外の物件は決定的には値下がりしないように私には思えてしまう。東京首都圏の鉄道網の沿線と、政令指定都市の物件を比べて、30年後により値下がりしているのはどちらだろう? 都心のタワマンには一生縁が無いように思われる私には、そういう比較のほうが気になる。どちらにせよ、地方都市辺縁の物件に比べればまだしも未来があるようにみえる。
 
 

「都内の子育てのアドバンテージとは何か」

 
 それより②の問題、子育ての利便性や可能性について考えてみよう。
 
 都内での子育てについては、しばしばこんなことが言われている――「東京は博物館やイベントが充実しているし、人脈も豊富。だから子育てには有利」といった内容のものだ。
 
 本当にそうだろうか。
 
 東京は博物館や図書館といった文化インフラが充実しているし、イベントも日本一充実している。各方面のインストラクターも充実している。それらの利用可能性を語るなら、確かに東京は日本一に違いない。
 
 だが、そうした東京のインフラやイベントを大学進学以前から使いこなしている子どもが一体どれぐらいいるのだろう? もちろん、そういう子どもだっているだろう。とはいえ東京首都圏の凡百の子どもが皆、そこまでインフラやイベントを使い倒しているものなのか。
 
 都内と地方都市の末端を比較するなら、そうしたインフラやイベントの差異は埋めがたく、なるほど都内に軍配があがろう。しかし博物館や図書館にしてもイベントにしても、地方の中核都市にも「それなりのもの」は揃っているし、ほとんどの子どもは「それなりのもの」で事足りてしまうのではないだろうか*1
 
 あるいは普段は地方都市のインフラやイベントで間に合わせ、ここぞという場面では上京する、というやり方だってある。「地方で4000万の持ち家か、都心で8000万のタワマンか」という二者択一を考えられるような経済的・文化的状況にある家庭の子どもなら、よほど僻地に住んでいるのでもない限り、必要な時に上京するようなライフスタイルは十分やってのけられるはずである。
 
 もし例外があるとしたら、東京の第一人者をインストラクターにしなければならないレッスンを、大学進学前に受けなければならないようなシチュエーションぐらいか。だが、そこまでの可能性を必要とする子どもが一体どれぐらいいるのかわからないし、そこまでの可能性を可能性として求める親がどれぐらいいるのかもわからない。
 
 たとえばの話、都内のタワマンに余裕綽々で入居する人ならともかく、ローンを組んでカツカツに暮らすようなファミリーに、子どもの可能性をそこまで拡充する経済的・心理的余裕があるものだろうか。
 
 
 学力や学歴の話になると、都心のタワマンでなければならない必然性はほぼ無くなる*2
 
 MARCHを受験するための学力なら、政令指定都市どころか、人口10~20万人規模の地方都市でもどうにかなる。こう書くと「地方都市でMARCHに入るためには相当優秀でなければならない」といった反論があるだろうけれど、地方都市にはMARCHとは別に地方大学の値打ちがあるため (たとえば関関同立、神戸大学や奈良女子大学、各県庁所在地の国立大学など) 、優秀な学生が皆上京したがるわけではない。
 
 そもそも、都内でさんざん教育投資をして、本人もさんざん苦労を重ねた結果としてMARCHに進学して、それで「地方に比べて子育てに恵まれていた」などと言えるものだろうか。教育投資や都内の文化的アドバンテージを生かし、あまり苦労せず東大や早慶に入学するなら、なるほどアドバンテージだろうけれど、そこまでのアドバンテージを享受している都内のファミリーとは、いったい何%ぐらいなのだろう?
 
 都内でも苦労しなければ東大や早慶に入れないのだとしたら、そんなものは、学力・学歴のアドバンテージだとは私には思えない。子ども自身の素養とファミリーの文化資本がちゃんと揃っていれば、地方の公立進学校からもMARCHは十分に狙えるし、東大や京大や国立医学部だって射程に入る。地方の公立進学校の同窓生のクオリティがそれほど劣っているとも思えない。
 
 学力・学歴の問題にかんする限り、本当にクリティカルなのは都内か地方都市在住かではなく、子ども自身の素養とファミリーの文化資本の程度ではないだろうか。もちろん、地方のなかの地方、過疎な町村部に居を構えていればハンディになるかもしれないが、戦後七十余年のうちに、高学歴志向なファミリーは多かれ少なかれ街に出ているだろうから、メジャーな問題ではあるまい。
 
 

「イエ」が無くなっても「血筋」は残った

 
 ここまで書いてしまったうえでfinalventさんのブログ記事を思い出すと、私は、親から子へ、子から孫へと継承されていくものについて思いを馳せずにいられなくなる。finalventさんは、
 

 簡単に言えば、日本の社会は、都心居住者を中心に階層化されていくし、それが世代にわたって固定化されていくのだろうと思う。
 いい悪いでも、どうしたらいいというわけでもなく。
 人生というのはそういうものだ。都心のマンションであれ戸外の一戸建てであれ、離婚すればそれらの資産は整理することになる。離婚はそれほどまれなできごとでもない。また、けっこうな大病するというのも、珍しいことではない。そうなれば、ローンは返せない。それらもまた、現実だろう。

 と書いておられる。
 
 finalventさんは、階層化についてだけでなく、離婚や大病によってファミリーが没落する可能性についても触れている。世代から世代へと経済資本や文化資本が受け継がれていく一方で、没落イベントがいつ起こるのかはわからない。親から子へ、階層を駆け上がることもあるかもしれないが、階層を一代で駆け上がるのは今では困難になっているから、諸資本の継承と階層の浮沈は、個人という一代のスケールで計れるものではないように思う。
 
 個人主義社会が到来し、「イエ」という制度はおおよそ終わったといわれている。確かに「イエ」を意識する人は昭和時代に比べればずっと減った。だけど階層化の進みゆく近未来の日本では、「血筋」というか、現代の資本主義社会に最適な生物学的傾向を継承し、なおかつ、文化的・社会的アドバンテージを蓄積し続けられるかどうかが、親-子-孫のバトンリレーにおいて峻厳に問われるのだと思う。
 
 こんなバトンリレーは、親自身だけの努力でどうにかなるものでも、子の世代で一発勝負できるものでもあるまい。うまくバトンが繋がればもうけもの、繋がらなければペシャンコ、大災害や大事故に巻き込まれてもやはりペシャンコの、シビアな、けれども当たり前といえば当たり前の命のバトンリレーなのだと思う。
 
 都内か地方か。
 もちろんそれも考慮に値する問題ではある。
 
 だけど一連のお話を眺めているうちに、そんなことより、親から子へ、子から孫へとバトンリレーされていく諸傾向・諸資本の可否のほうがずっと重要に思えて、4000万円の郊外の家か8000万円のタワーマンションかという選択は、金額によってではなく、諸傾向や諸資本のバトンリレーの可否にどこまで貢献し、どこまで邪魔になるのかを踏まえて決めるべきという気持ちにならずにはいられなかった。
 
 ああそれと、このことに関連して。
 
 「親から子へのバトンリレーは常に上昇志向であるべき」と考えるのは、現代の情勢に即していないと思う。親子の情勢しだいでは、ときには守勢に回るべき代もあるはず。20世紀の親子のバトンリレーは、おおむね上昇志向的に思い描かれてきたし、そういう上昇志向は現代でも主流だろうけれども、そういうワンパターンなビジョンは危ないんじゃなかろうか。
 
 物件や土地も、学歴や階層も、儚いものではある。
 その儚いものを懸命に継承していくために、当事者が考え、実行すべき選択肢は無数にある。私は地方を選んだが、都心を選ぶ人だっているだろう。私は、土地や物件の価格よりもバトンのほうを大切にしたい。
 
 

*1:個人的には、東京一極集中といえども地方の中核都市に「それなりのもの」が揃っているのが日本という国の強みだと思う。これが早々に失われた場合、日本のマンパワーの潜在力はかなり低下するだろう

*2:そもそも地上から遠く離れ、人工的環境に覆い尽くされたタワーマンションという特殊環境が子どもの認知形成にどのような影響を及ぼすのか、私個人は疑問を禁じ得ない。が、それはここでは於く