シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ワインを理解するためにラベルを記録する方法

 

 
 先日、ワイン界を手探りで探索しはじめている年下の人に出会って、昔の自分を思い出すような気持ちになりました。十年ほど前から、私は『北極の葡萄園』にワインの記録をつけていて、今ではすっかり慣れていますが、昔は何をどう記録すればいいのかわからないことが多く、特に、ワインのラベルに書かれた情報をうまく記録できない時期もありました。
 
 もし、誰かがワインのことを知りたくなった時、なかでも「ワインという飲み物を体系的に理解したい」と思い立った時、ワインを記録する習慣と方法は意外に重要になります。たぶん、記録する習慣と方法が曖昧だと、ワインの記憶も曖昧になり、どこのワインがどうだったのかを比較しにくいように思われるのです。
 
 そこで、今回はワインを記録する時の記法について書いてみます。
 
 

私がワインの記法を教わったサイト

 
 ……と、その前に、私がワインの記法を学んだサイトを紹介しないわけにはいきません。
 
www2s.biglobe.ne.jp
 
 1997年から記録を続けている、安ワイン道場さんです。(現在では御本人がtwitterもやっています)
 
 昔、このサイトには、初心者がどういう手順でどういう風にワインと付き合っていくのか、どういう道具を揃えたらいいのか、そういったハウツーを通覧できる場所がありました。数年前にサイトデザインが現代風に変わり、過去の文章が読めなくなってしまい(追記:今でも読めます!トップページの「指南書」を押すとメニューが出ます。)ましたが、そのハウツーを読み、なにより安ワイン道場さんの記録を猿真似したところから私のワイン遍歴が始まった、と言っても過言ではありません。
 
 安ワイン道場さんは現在でもサイトの更新を続けています。これから述べるワインの記法も、基本的には安ワイン道場さんを出発点として、書籍などで補ったものだと思ってください。ワインの味や香りの表現方法を知るにも、記法を真似るにも、いいサイトだと思います。お買い得な安ワインを探している人には特におすすめです。
 
 

ワインの名前を書く時、ラベルからコピーしたいもの

 
 ここから記法の話に入ります。
 ワインノートやブログ等にワインの名前を記録しておく時に外せないのは、【①メーカー名】【②地域・畑名】【③ぶどう品種名】【④製造年(ヴィンテージ)】です。あと、【⑤そのワインの愛称】【⑥メーカー独自の格付け】がある場合は、それも併記したほうが良いかもしれません。
 
 

 
 このスクショは、南アフリカ・カリフォルニア・ニュージーランドという、いわゆる「新世界ワイン」のワイン記録リストを貼り付けたものですが、見てのとおり、最初にメーカー名を、続いてカリフォルニア産の真ん中は地域を、その後にぶどう品種を、最後に製造年(ヴィンテージ)を記してあります。
 
 「新世界ワイン」のかなりの割合、特に初心者の頃に買いそうなワインの多くは、①メーカー名③ぶどう品種名④製造年(ヴィンテージ)の三つしか記していないため、簡単です。このスクショでいえば、一番上の南アフリカ産や一番下のニュージーランド産ですね。
 
 ただ、全部が全部そうだというわけでなく、真ん中のカリフォルニア産のように、地名が入っていたり、愛称が書いてあったりする場合もあります。それと、
 

 
 たとえば、このチリワインの記録のリストでは、「リゼルヴァ・エスペシアル」だの「ビシクレタ」だのといった、メーカー独自のランク(格付け)が記されています。一番上と一番下は、ともにコノスルというチリの大手ワインメーカーのワインなのですが、このメーカーは同じぶどう品種だけで数種類のワインを作っているため、メーカー名とぶどう品種を記録しただけではワインを特定できません。面倒でも、「リゼルヴァ・エスペシアル」だの「ビシクレタ」だのといったランク名を併記しておく必要があり、これで廉価品なのか中級品なのか高級品なのかを識別しています。
 
 真ん中のコンチャイトロもチリの大手ワインメーカーなのですが、ここも同じぶどう品種で数種類のワインを作っていて、それぞれに「サンライズ」「フロンテラ」といった愛称がついています。新世界ワインや一部のイタリアワイン、日本産のワインなどは、愛称やランクを使って商品を識別させているので、そういうのも書いておいたほうがいいように思います。
 
 最後に、一番面倒なフランスワインについて。
 

 
 フランスワインには、品種名が欠落しているワインが少なくありません。かわりに、地名が大抵のワインに記されています。伝統の長いフランスワインやイタリアワインは、「特定の地名でつくられているワイン=ぶどう品種が法律的にあらかじめ定められているワイン」なので、ぶどう品種の記載が省略されていることが多いのです。
 
 それと愛称。愛称は、ついていることもあれば、ついていないこともあります。ものすごく高価なワインは、えてして、メーカー名と地名しか記していないことが多く、なかにはメーカー名とヴィンテージしか記されていないことすらあります。この一覧にあるように、愛称は地名より先に書いても地名より後に書いても、たぶん構わないと思います(とりあえずgoogle検索にはこれで十分引っかかります)。統一したい人は、統一したほうがいいかもしれません。
 
 そして一番下のワインのように、わざわざ「白ワイン」「赤ワイン」を明記してあるものや、製造年(ヴィンテージ)を省略しているものもあります。ヴィンテージの省略はスパークリングワイン系にはよくあるので、書いてない時は(N.V.[ノンヴィンテージ])などと書いておくといいように思います。
 
 フランスワインの地名の表記は難解きわまりなく、ソムリエさんも覚えるのに苦労するような代物です。たとえばブルゴーニュワインは、以下のリンク先にたっぷりと書いてあるようにものすごく細分化されているのですが、
 
www.bourgogne-wines.jp
 
 
 こういうのをワインを飲む前から暗記するのは不可能です。 
 
 まあだからこそ、ボトルのラベルに書かれている情報はできるだけ全部書いてしまったほうが無難かもしれません。フランスワインは、メーカー名も地名も愛称も信じられないほど長ったらしいことが時々ありますが、もうそういうものだと思って諦めて記載してください。
 
 フランスワインのこうした地名の面倒なシステムは、いったん覚えてしまうときわめて体系的にワインを攻略できる利点になるのですが、初心者には厄介きわまりないので、最初のうちはフランスワインを主戦場にしないほうが気楽かもしれません。
 
 

「視覚」「嗅覚」「味覚」を記録しておこう

 
 もちろんラベルだけ記録しては意味がないので、そのワインがどんなワインだったのか、自分がどんな風に飲んだのかも書き記すのが一般的です。
 
 記録の仕方はいろいろですが、まず目で見て色や濁り具合などを確認し(視覚)、次に香りを確認して(嗅覚)、最後に口に運んでゆっくり味を確かめて(味覚)、それぞれを書くのが良いように思います。ワインはしばしば、ボトルを抜栓した直後の香りや味が、しばらくすると違った香りや味に変わってくるので、そういう変化も記録しておくといいように思います。ワインは、抜栓してすぐに衰弱しはじめるものもあれば、抜栓してしばらくパワーアップし続け、数日ぐらいは元気なままのものもあります。最初はあまりおいしくなかったワインも、翌日にはなかなかおいしくなっているかもしれません。あきらめずに付き合いましょう。
 
 
 なお、こうした色々が面倒な人は

app-liv.jp
app-liv.jp
 
 専用アプリを使って記録するという手もあります。スマホで全部済ませたい人は、こういうアプリを導入したほうがいいかもしれません。
 
 

迷ったら「安ワイン道場」へ行け!

 
 で、迷ったらとりあえず安ワイン道場さんへ行って、師範の記録の書き方をよーく読んで真似るといいように思います。たぶん、おすすめのお手頃ワインも見つかるでしょうし。
 
 もちろん安ワイン道場さんがワインの世界のすべてというわけではなく、いつかは自分のワインの好みを知り、自分のワイン観を持つのがいいように思いますが、スタート時点では間違いなくあのサイトは助けになるはずです。
 
 ということで、安ワイン道場さん(のなかのひとの師範さん)、どうかあまり肝臓を痛めないように気を付けながら、これからもたくさんのワイン初心者を導いてください。
 
 www2s.biglobe.ne.jp
 
 

で、あなたは「本当に自分の好きなこと」を知ってるの?

 
いつの間にか「好きなことをしていい」時代から、「好きなことをしないと豊かになれない」時代に変わった。 | Books&Apps
 
 リンク先の文章は、「好きなことをしないと豊かになれない時代」の到来を告げる内容となっている。
 
 ちょっと前まで、「みんな自由に仕事が選べるようになって」「好きな仕事を好きなように」「あなたのライフスタイルにあわせて働く」ことが持て囃されていた時期があったように思う。ひょっとしたら今でも持て囃されているかもしれない。
 
 それは決して短期的な流行ではなく、バブル景気の前、それこそ「フリーター」がブームになっていた頃からそうだった。バブル景気が終わってもなお、「好きな仕事を好きなように」は流行のフレーズで、個人主義社会の正しさにかなったフレーズでもあった。「好きじゃない事をするのは格好悪い」みたいな物言いをする人は、現在でもインターネットにごまんといる。
 
 では、そうやって好きを選んだ人々の末路はどうだったかといえば、たとえばフリーターなどは死屍累々で、生き残ったのは本当に一握りのスーパーマンみたいな人だけだった。
 
 [関連]:結局は9割が大樹に拠った……80年代に「フリーター」を推奨した人々の、その後の人生|日刊サイゾー
 
 
 冒頭リンク先の文章はもっとその先を行っていて、「好きな仕事が良い」ではなく「好きな仕事を見つけて、やらなければならない」という話になっている。やりたくない仕事をやっていては能力が発揮できない。好きな仕事を選んで能力を最大限に発揮させてはじめて、グローバルな社会状況のなかで開花できる、というのはだいたいそのとおりなのだろうと思う。
 
 個人の実存やアイデンティティの問題としてだけでなく、経済的要請から「好きな仕事を選ばなければならない」社会が迫ってきているとしたら、これはもうユートピアというよりディストピアにしか見えないのだが、資本主義にもとづいた個人主義社会が徹底していくこれまでの流れを踏まえるなら、起こってもおかしくなかろうし、現に起こりかけているようにも思う。
 
 こうなると、大学入試や企業の面接試験の際に、「うちの会社(うちの大学)で、あなたはどんなことをしたいですか」という質問も、様式上のものとはいいがたい。自分の好きなことがわかっていて、それが他人を納得させられる程度には言語化・戦略化できているということは、これからの時代、強みたり得るだろう。少なくとも、自分の好きなことがわかっていない人や、自分の好きなことを言語化・戦略化できていない人よりは、強みがあるといえる。
 
 

「本当はみんなわかってないんじゃないの?」

  
 だけど、私は思うのだ。
 
 「でも、世の中の大半の人は『自分の好きな仕事』なんて本当はわかってないんじゃないの?」
 
 たとえば私が中高生だった頃、「自分が将来やりたい仕事」を言語化できている人間はほとんどいなかった。それどころか「自分が好きな遊び」を言語化できる人間すら、あまりいなかったかもしれない。自分の進路の行く先をぼんやりと想像して、目の前にある娯楽をとりあえず楽しむ。学校教師に「将来やりたい仕事」を尋ねられた時、「●●学部に入って××を勉強して、それを生かした仕事に就きたい」などと言ってみるけれども、じゃあ、その学生が●●学部を本当に切望していて、××を本当に勉強したがっているかといったら、そんなことはない。大人が言えというから、無理くりに「自分の好き(仮)」をでっちあげているだけだ。
 
 志を持っている人が入るといわれる医学部でも、それほど状況は違わなかったと思う。学生の多くは、かなり曖昧な動機で医学部に入っていた。もちろん漠然と、社会的地位が欲しい・命を救う仕事に就きたいと語る人はいたけれども、「自分の好きな仕事」にフォーカスが絞れているとはとうてい言えなかった。同期のなかには、後に研究者として頭角を現し、立派に出世した人もいるけれども、じゃあ彼が学生時代から「自分の好きな仕事」をくっきり意識していたかといったら……そんなことはなかったように思う。
 
 社会人になった人々にしても、大半は「自分の好きな仕事」、あるいは「自分の好きな生き方」がわかっていないし、意識もできていないのではないだろうか。
 
 上手く働き、上手く結婚し、上手く子育てしている人ですら、それがしたくて仕方が無かったという人がいったいどれぐらいいるだろう? 都内の優良企業でまともな報酬をもらい、帰宅すれば一人の母として、あるいは父としての役割をそつなくこなし、そこそこ幸せに暮らしている人ですら、それを心底望んで「好きだから」生きてきた人はけして多くないのではないかと思う。ほとんど成り行きで就職し、ほとんど成り行きで与えられた仕事をこなし、気が付いたらなんとなく幸せになっていた(または、不幸になっていた)という人が、世の中の構成員の大多数を占めているのではないか。
 
 

「自分の好き」がオーラになって見える人もいる

 
 他方で、「自分の好きな仕事」がオーラのように立ち昇って見える人というのも、少数、いる。
 
 起業する人。
 コンテンツづくりに携わっている人。
 あと、一部の研究者。
 
 このあたりの職種には、「自分の好きな仕事」を全身からほとばしらせて働いている人が結構いるように思う。その「自分の好きな仕事」のかたちは様々で、「醸造に関係のある仕事がしたい」「SFに関係のある仕事がしたい」といった場合もあれば、「とにかく自分の力でカネをもうけたい」みたいな場合もある。ただ、とにかくそれが好きで好きでたまらなくて、一途に取り組みたいという意欲がオーラとなってメラメラ漂っているから、遠目にもよくわかる。
 
 趣味の世界には、これはもっと多い。
 たとえば同人誌即売会に出て来るオタク、特に自分で何かを作り、頒布したいと思っているようなオタクからは、少なくとも趣味に対するひたむきな「好き」が感じられる。好きで好きでしようがないがゆえにコンテンツを楽しみ、自分なりに咀嚼して、自分の思うようなかたちでその「好き」を他の人と共有したいという強い思いが、同人誌即売会に出てくるオタクからは滲み出ている。
 
 ネットでコンテンツを発表し続けている人にしてもそうだ。「あっこいつどうしようもなく『好き』なんだな」という人は、傍目にも明らかだ。インフルエンサーの猿真似をして、それを「自分の好きな仕事」だと勘違いして、半年後にはやめてしまう人々とは言動の質感がまったく違う。
 
 こうした人々が社会的/経済的に成功するためにはもちろん「好き」だけでは到底駄目で、才能や需要を読む目、セルフマネジメント能力、運、運、それと体力、悪くない実家などが必要だろう。いずれにせよ、「好き」というオーラを漂わせている人が実在しているのは確かで、そうした人々から各方面をリードする人材が輩出されることもあるだろう。
 
 

「自分の好きなこと」は、現れることも、現れないこともある

 
 じゃあ、どうすれば「自分の好きなこと」がオーラとなってくっきり現れるのか?
 
 わからない。
 
 私が見知っている範囲では、「自分の好きなこと」が子ども時代から発露している人は少数のようにみえる。子ども時代に好んでやっていたことが、実は誰かに褒められるためのもので、本当に好きだったのは自分自身だけだった、という人も案外いる。こういう人が大成している例を、私はまだ知らない。
 
 思春期。この段階でもまだ、自分の好きなことがくっきり現れない人は多い。オタクのなかには思春期で十分に開眼し、ネットやイベントで頭角を現し始める人もいるけれども、こと、仕事の分野となると二十代の前半でも「自分の好きなこと」がぜんぜん現れない人は多い。
 
 そして中年期にもなれば、「自分の好きなこと」がくっきり現れた比較的少数の人と、そういったものが現れない比較的多数の人に分かれてしまう。
 
 繁華街で快活に酒を飲みかわすサラリーマンたちにしても、彼らは「自分の好きな仕事」をやっていると言えるだろうか。「自分の仕事も満更ではない」人なら、結構いるんじゃないかと思う。自分自身を仕事のほうへと寄せて、仕事も自分自身の適性や嗜好に引き寄せて、それで「好きとまでは言わないけれど、やり甲斐は感じられる」境遇にたどり着く人はどこの分野にも多い。たぶん、現代社会にうまく適応しているほとんどの男女は、そうやって現実と自分自身との折り合いをつけ、満更ではないアイデンティティを獲得して生きていく。少なくともこれまではそれで構わなかったし、私個人としては、これからもそれで構わない時代が続いて欲しい、と思う。
 
 だがもし、冒頭で安達さんが述べていたように「自分の好きな仕事」を見つけなければならない必然性が高まっていくとしたら、これは、えらいことだと思う。なぜなら、そんな風に「自分の好きな仕事」を見つけられる人は少数派で、なおかつ才能や運やマーケティング能力や実家の太さによってそれを実現できる人はさらに少数だからだ。
 
 「好きなことをしなければ豊かになれない」近未来とは、自分の好きな仕事を(自身の適性も込みで)見つけられ、なおかつそれを実現できるごく少数だけが豊かになれる、そうでない大多数は豊かさから遠ざけられる近未来だと、私は思う。
 
 そういう未来がやってきた時、才能や運やマーケティング能力や実家の太さに優れた人々が「自分の好きな仕事」で大活躍し、残りの大半が「自分の好きな仕事」はおろか、現実と自分自身の折り合いをつけることすら難しい、アイデンティティの獲得も困難な仕事へと追いやられるような世の中になったら……社会は、今よりもずっとたくさんの疎外に覆われることになるだろう。
 
 リンク先の安達さんも、そのような未来がやってきたら、うまく適応できない人もたくさん出て来るだろう、と予測しているが、同感だ。
 
 たいていの人は、そんなに「自分の好きなこと」をきちんとわかっていなくて、なんとなくお金が多いほうへ、なんとなく世間体の良いほうへ、なんとなく楽しそうで苦しくなさそうなほうへと流されて生きている。だから「自分の好きなこと」、まして「自分の好きな仕事」がわかっていなければならない社会なんて、ごく少数を圧倒的に利すると同時に大多数を疎外するに違いないのである──少なくとも私には、そんな風にみえる。
 
 「自分の好き」をそれほど自覚していない・自覚することもできない大半の人々が豊かさから遠ざけられる社会がやって来るとしたら、それは社会の進歩ではなく退歩ではないだろうか。私の価値基準のなかでは、どんなにテクノロジーが進歩しても、どんなに利便性が高まっても、なんとなく生きてなんとなく死ぬ人が疎外に苦しむほかない社会は、良い社会とは言えない。
 
 「あなたの好きな仕事をすればいい」「自由に好きなことをやればいい」という謳い文句は、少なくともある時期まで、たくさんの人々の自由度を高め、たくさんの人々の幸福の幅を広げてきたはずである。
 
 だが、いつまでもそうだろうか。
 
 現実の世の中には、なんとなく生きて現実と折り合いをつけてうまくやっている人がたくさんいる。他人やメディアが提示した生き方やワークスタイルを自分の願望だと思い込むしかない人もたくさんいる。本当に自分の好きなことを、自分自身の適性も踏まえて選び取ってみせられる人間なんてほとんどいない事を糊塗したまま、「あなたの好きな仕事をすればいい」「自由に好きなことをやればいい」とますます吹聴する世間のなかで、本当に私たちは、豊かさというやつにたどり着くことができるのだろうか。
 
 たとえばあなたは、「自分の好きなこと」を知っていますか?
 その「自分の好きなこと」で人生をちゃんとナビゲートしていますか?
 言語化・戦略化し、他人に語ってみせることもできますか?
 
 

『天気の子』が照らした、社会システムの内と外

 ※この文章は『天気の子』のネタバレ内容を含みます。映画館でまだご覧になっていない人はご注意ください。
 

新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド

新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド

 
 新海誠監督の2019年の新作『天気の子』は、賛否があることを承知のうえでつくられた作品と耳にして、とりあえず期待しながら雨の日の映画館に向かった。
 
 なるほど、こういう作品が許せない人はいるに違いない。少なくとも『君の名は。』と比べて賛否のわかれる物語だろう。それだけに、この作品をこういうかたちでリリースしたことに感心した。
 
 意表を突かれた、とも思った。
 あれだけ売れた『君の名は。』の次に、こういう作品をぶつけてくるとは。
 
 なんにしても、『天気の子』を2019年の7月に映画館で見れたのは幸せな巡り合わせだと思ったので、自分の所感を書き残しておく。
 
 

東京のピカピカしていない部分が描かれている

 
 視聴開始数分で気づかされたのは、今回の舞台としての東京は、必ずしもピカピカに描かれていない、ということだった。
 
 行き交う電車やプラットホームを映し出すのはいつものこととして、今回は東京のあまり美しいとは言えない景観――それはどぎついネオンの繁華街だったり、身よりのはっきりしない者を野良犬のように敬遠する人々だったり、ラブホテル街だったりする――をどぎついままに描き出していた。『君の名は。』が東京や飛騨を、少なくとも景観レベルではひたすら美しく描いていたのに対し、『天気の子』は東京のピカピカしていない部分を意識的に描いていたように思う。
 
 だから今作の東京は、観光パンフレットみたいな雰囲気にはなっていない。
 
 では東京の、どぎつく、ときには汚く描かれていた景観は悪いものとして描かれていたのか?
 
 必ずしもそうではない、と思った。
 
 家出少年の帆高が上京してきた時、さしあたって命を繋いだのは、まさに汚く描かれる東京だった。陽菜たちとの逃避行で彼らが一息ついたのもラブホテルだった。
 
 もちろん汚く描かれた東京は、未成年者の彼らを綺麗な手で受け止めるわけではない。ネカフェの店員は嫌々応対していたし、ラブホテルの婆さんは高い料金を取っていた。帆高を受け入れた(中年サイドの主人公ともいえる)須賀にしても、未成年を日当一月3000円でこき使っていたわけで、どぎつく描かれた東京の生態系は容赦がない。
 
 中学生であるとバレて仕事を失い、売春に走りかけていた陽菜を未成年と察しながらあっせんしていた男も、陽菜を助けていたと言えるだろうか。そうではあるまい。
 
 主題歌のひとつも流れない間に、東京のそういった圏域が矢継ぎ早に描かれ、この作品の主人公とヒロインがそうした圏域のきわで生きていることを私は強く意識させられた。いったいこれから何が描かれるのだろう? と思わずにはいられなかった。
 
 
 

彼らは社会システムのなかの邪魔者だった

 
 家出してきた帆高には、まず東京は恐ろしい街・冷たい街としてうつる。
 
 『君の名は。』で美しく描かれた東京、華やいだ街として描かれた東京は、いったい誰にとって美しく住みやすい街だっただろう?
 
 『天気の子』を見ると、どうしてもそれを考えさせられる。
 
 人々の安全を守り、街の景観を守り、健全な青少年の成長を守る東京の社会システムは、社会システムの内側で暮らす者・社会システムの内側で身分を証明されている者のために最適化されている。そこから外れた人間の都合なんて、社会システムは考えてくれない。社会システムの内側で暮らすことが当たり前になっている人々にとって、そこから外れた人間はただ存在するだけでリスクであり、ただ存在するだけで迷惑な存在でもある。
 
 それもわからなくもない。現代社会の利便性や快適さは、高度なテクノロジーだけでなく、人々の遵法意識やリテラシーも含めた、社会システム全般によって成り立っているのだから。もし、社会システムから逸脱した人間がたくさん存在していては、東京のようなメガロポリスはたちまち機能不全になってしまうだろう*1
 
 そして帆高は家出少年として、陽菜は保護者不在で自活する未成年者として、社会システムからはみ出してしまっている。この作品の主人公とヒロインは「逸脱者」なのだ。
 
 この、美しくて快適な東京の秩序のなかでは、明確な犯罪者だけが「逸脱者」なのではない。身元の保証されていない未成年もまた「逸脱者」である。
 
 帆高に手をさしのべた須賀にしても、そうした社会システム全体のなかでは、相対的に「逸脱者」に近い、うさんくさい仕事をしている大人だった。須賀が未成年を低賃金で働かせることができたのは、彼の意識も職場も社会システムの中枢*2からは遠い、辺縁的なものだったからだ――そう解釈するなら、須賀のような男のもとで帆高が住み込むことにも整合性が生まれるように思う。
 
 陽菜たちが始めたお天気サービスにしても、それが成功裡に進んだのは社会システムの辺縁(フリーマーケットや家族のため)に位置づけられているうちだけで、テレビという、社会システムの中枢に映ってしまえばその力は失われてしまう。作中では、テレビに映ったから帆高と陽菜が「自主的に」サービスを止めたことになっているが、もともと「逸脱者」やうさんくさい仕事の領域には、社会システムの中枢に映ってしまうと力を失うものも多い。
 
 たとえば『ムー』のようなオカルト雑誌にしても、それが社会システムの辺縁にあるから存在を許され、『ムー』としてのプレゼンスを保っていられるのであって、『ムー』が社会システムの中枢に移動してしまえばプレゼンスを保てなくなり、存在じたいも許されなくなる。
 
 物語の後半、帆高は警察に追われることとなり、須賀のもとにも警察官が訪れる。須賀はここで、事務所から出て行くよう帆高に告げるが、はたして、あの時須賀が口にした「大人になれ」という言葉は誰に対してのものだったのだろう? ともあれあのシーンは、須賀という人物がどの程度社会システムから逸脱していて、どの程度社会システムの内枠におさまっているのかをわかりやすく説明していたと思う。多少の逸脱があるとはいえ、須賀もまた、東京という社会システムのメンバーには違いないのである。
 
 『天気の子』という作品の後半では、帆高は陽菜を取り戻すためにますます逸脱を余儀なくされ、最終的に須賀と夏美は、ためらいはあったにせよ、それに手を貸すことになる。社会システムの遵守という視点からみると、須賀と夏美がやったことは逸脱に違いなく、この作品の後半は、そうした逸脱によって支えられていたことになる。
 
 ここまでブログに書いてから『天気の子』の劇場パンフレットを読んでみると、はたして、以下のような新海誠監督のコメントが記されていた。
 

 悩みに悩んで最後に思い至ったのは、狂っていくのは須賀ではなく、帆高なんじゃないかということ。客観的に見て、おかしなことをしているのは実は帆高のほうなんじゃないか。それに帆高と須賀を対立させるとなると、須賀も空の上の世界を信じてなければいけないことになってしまう。でもそれはどうも違う。なぜなら、須賀はアウトローだけど観客の代弁者でもあるからです。須賀はむしろ常識人で、世間や観客の代弁者でもあって、社会常識に則って帆高を止めようとはするけれど、最後はやっぱり味方なんだということにしたんです。帆高と真に対立する価値観があるんだとしたら、それは社会の常識や最大多数の幸福なんじゃないか。結局この物語は、帆高と社会全体が対立する話なのではないか、それに気付けたことが、今回の物語制作でのいちばんのブレイクスルーだった気がします。

 
 この作品のなかで、帆高は徹頭徹尾社会システムの外側にいて、疎外されていて、そんな帆高に手をさしのべられた大人は、社会システムの辺縁に位置し、いくらか逸脱気味な須賀だった。現代の社会システムは、そのリスク管理の思想からいっても、最大多数の幸福に寄与するようにつくられている。陽菜のために逸脱を辞さない帆高はともかく、須賀には逸脱に対するためらいがあった。観客の代弁者という役回りの須賀がそのようにためらい、最後の最後に帆高の味方をしたのは、私にはカタルシスのある視聴体験だった。
 
 だが、私は想像せずにはいられない。
 
 私にはカタルシスの感じられる須賀の行動を、許しがたく感じる人や苛立たしく感じる人がいるであろうことを。なにしろそれは社会システムの秩序からの逸脱、それも、未成年の逸脱を助長する逸脱なのである。社会システムの中枢付近に住み、その価値観を私よりもずっと内面化している人々には、こうした描写は受け入れがたいものではないだろうか――どぎつく汚い東京の景観や、社会システムの辺縁に住まう人々の描写とともに。
 
 
 

異常気象・逸脱者・リスク管理

 
 帆高や陽菜といった社会システムからの逸脱者たちとおそらく対応するように、『天気の子』では天気が「異常気象」としてたびたび描かれる。
 
 気象神社の神主が述べていたように、天気とは、本来人間の手に負えるものではなかった。けっして人間の社会システムによって管理できる代物ではなかったはずである。
 
 だが科学技術が発達し、天気予報を日常の一部とすることで、私達は天気を飼い慣らした……かのように感じている。人類はいまだ天気を自由にコントロールするすべを持っていないが、天気予報というテクノロジーにより、天気というリスクを、管理することはできるようになった。
 
 あたかも、突発的な犯罪事件の発生じたいはコントロールできなくとも、統計的に犯罪発生率を計算・分析し、犯罪発生リスクを管理することができるのと同じように。
 
 現代の社会システムは、こうしたリスク管理というテクノロジー(と思想)に多くのことを依っている。ひとつひとつの突発的事件・突発的災害じたいは、リスク管理のテクノロジーで防ぐことはできない。しかしリスク管理をとおしてその発生確率を抑えたり被害の程度を軽くしたりすることはできる。このテクノロジーの視座からみれば、天気はもう、人類の掌中にあるかのようにみえる。
 
 だが「異常気象」はそこからの逸脱だ。統計的な計算や分析をこえた現象に直面した時、リスク管理のテクノロジーはそれほど上手く機能することができない。そして気象神社の神主が述べたとおり、天気についてのデータはたかだか百年ちょっとしか蓄積していないのである。「異常気象」は狂った天気というけれども、それは、社会システムが既知のデータに基づいて天気のリスクを管理しようとする時に思いつく発想ではないか。
 
 
 ほんらい、天気は人智を超えている。
 少なくとも日本という東アジアの国ではそう考えられていた。
 
 人智を超えた天気をリスク管理しようとするから、安全で快適な社会システムの枠組みのなかで天気を扱おうとするから、「狂った天気」とか「異常気象」といった発想が生まれてくる。
 
 だから、ここでも『天気の子』は既存の社会システムとは相容れないメッセージを放っているように、私には読めた。いや、相容れないメッセージと言っては語弊があるか。帆高や陽菜だけでなく、あの異常気象もまた、社会システムからの逸脱であり、そうした逸脱を織り込み済みで描かれる『天気の子』の結末は、現代社会で支配的な常識や思想とは異なる着地点に辿り着いているのではないか。
 
 
 

単なるラブロマンスでは済まされない結末

 
 もちろんこの『天気の子』も若い男女の物語で、それはそれで美しく描かれていた。この作品はラブロマンスではない、などと言ってしまったらそれはおかしいだろう。『天気の子』の構成要素として、愛だの恋だのの占めるウエイトはけして小さくはなく、RADWIMPSによるエンディングテーマは似つかわしいものだった。
 
 ハッピーエンド、でもあっただろう。
 
 それでも私は、そのラブロマンスの舞台装置のうちに、どうしても社会システムを意識せずにはいられなかった。社会システムの内と外を『天気の子』が描いているように見てしまった。そして物語は終始、社会システムの辺縁で進行し、最後は社会システムと真っ向から対立するような結末が待っていた。まさか、新海誠監督の2019年の新作で社会システムについて連想させられるとは思っていなかったから、私はとてもびっくりした。
 
 断っておくが、だからといって『天気の子』が社会システムを批判したり断罪したりしている、とは私は思わない。
 
 『天気の子』では、豪雨災害に立ち向かう人々の姿や、雨天でも動き続ける交通網も描かれていた。もちろん、社会システムの叡知の象徴である高層ビル群も。水没に瀕した東京で帆高と陽菜が再会できたのも、社会システムがタフに生きながらえていたからにほかならない。
 
 清濁あわさった東京の風景にしても、どれだけシステムの中枢/辺縁に位置するのかはさておき、現代人はシステムに依存せずに生きることなどできっこないのである。
 
 他方で、世界は社会システムの杓子定規どおりにできているわけでない。社会システムから逸脱した圏域にも物語は存在し、逸脱と秩序の隙間にも豊かさはあったはずだし、狂っていると人々が呼び倣っているものも含めて世界は成り立っているはずで、それでも私達は、きっと大丈夫なのである。
 
 これが『天気の子』の模範的な感想とは思えない。が、とにかく私は本作の初見で社会システムの内と外を強く意識させられたので、そのことを覚えておきたいと思った。このようなテイストを2019年の新作に新海誠監督が繰り出してきたことはよく覚えておきたいし、うまく言えないけれども、私は喜んでおきたいと思う。
 
  
 『天気の子』がたくさんの人に見ていただけたらいいなと思う。
 
 
 [関連、その方面の人はこれは目を通しておいたほうがいいと思う]:【ややネタバレ注意】「天気の子」を見てゼロ年代エロゲについて語りだす人々 - Togetter
 [もっとまともな感想]:『天気の子』は何を描いたのか。新海誠監督の決断が予想以上に凄かった理由(作品解説・レビュー) – ウェブランサー

 
 

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

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近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─

近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─

 
 

*1:後半、運休状態になっている線路をひた走る帆高に投げかけられていた視線や言葉も、それをよく表していた。東京に住まう人々は、社会システムに適合した超自我を内面化していて、そういった行動を良くないものとしてみると同時に、そうした行動を自分自身が取った場合は罪悪感をおぼえることだろう。社会システムから逸脱した行動をとる人間に対する目線の厳しさは、少数の逸脱によって生活が簡単に機能不全に陥りかねない東京のような街に住む人間にとって、それほど不思議なものではない

*2:たとえば丸の内の一部上場企業に勤めるホワイトカラー層や官僚などは、社会システムの中枢に近い意識と就労形態を持っているといえる

それでも私は、「いま」を越えて海王星に辿り着きたい

 

宇宙 (福音館の科学シリーズ)

宇宙 (福音館の科学シリーズ)

 
 
 私は、就学年齢が終わってからの人生は惑星探査機の旅のようなものだと思っている。
 
 惑星探査機がロケットの力を借り、大地を蹴って旅立つ時、打ち上げを見上げる人々には行先がわからない。地球を巡る軌道に乗って人工衛星になるのかもしれないし、水星や太陽、木星や土星を目指して飛んでいくのかもしれない。
 
 だけどロケット打ち上げの時点でどこに向かって飛んでいくのかはある程度決まっているし、いったん目標に向かって飛び始めると、簡単には目標を変えられない。たとえば、火星を周回する軌道に入った惑星探査機が、そこから急に他の惑星を目指そうとしても簡単ではないように。
 
 人生だってそうだ。教師という目標、獣医という目標、Bさんの配偶者という目標を選んだ後、おいそれと他の目標を選ぼうとしても簡単にはかなわないことが多い。あらかじめ次々に転職することを前提としている人なら、仕事という面では融通性が利くかもしれないけれども、それだって加齢というファクターによって次第に選択の余地は狭くなっていく。
 
 そう、人生は惑星探査機、それも太陽系の外に向かって飛んでいく惑星探査機に似ている。加齢によって後戻りが利かなくなる、という意味において。
 
 

もう少しだけ飛んでみたい。そして「海王星」に辿り着きたい

 
kaigo.homes.co.jp
 
 こんな事を書きたくなったのは、上記リンク先「人生のピークを過ぎ、ぼくは「未来のためだけに生きる」のをやめる」を読んだからだ。
 
 リンク先のいぬじんさんは、人生のピークを過ぎた今、輝かしい未来のために現在を犠牲にするような生き方はやめよう、と述べている。
 
 これは、40代も半ばを迎えている私にとって実感の沸く文章だった。もう、それなり自分の伸びしろも見えていて残り時間も計算できてしまう四十代になって、未来のために現在を見失うような生き方はできない。仕事にしろ、子育てにしろ、現在をこそ踏みしめて生きなければならないし、そう生きることに価値がある、と感じている自分がいる。
 
 これが20代~30代の前半だったら、もっと輝かしい未来へ・もっとお金や社会的地位が得られそうな人生へと夢見て、そのために努力する意識が勝ったように思うけれども。
 
 ともあれ私にとって伸び盛りの季節は(たぶん)終わった。宇宙探査機のボイジャー2号に喩えるなら、私はもう、土星や天王星を通過したぐらいの年齢に辿り着いてしまったと思っている。私はインターネットの遊び人精神科医として、自分がやりたかったことを、やるべき年齢の時にやったと思っている。逆に言うと、そこまでやって到達したここらへんが私の器量の輪郭なのだろう。私自身にとっての土星探査や天王星探査に比喩されるミッションをこなしてなお、私はもっと強い光を放つインターネットの偉人たちを越えることはできなかった。もちろんやれるだけのことはやったし、やったという手応えもあるのだけれど。
 
 ボイジャー2号が土星や天王星を探査した後、グルリと向きを変えて太陽を探査することなどできないのと同じように、私もまた、自分自身の活動をグルリと向きを変え、ぜんぜん違うかたちで活動するなんてことはできない。たとえば私の場合、ユーチューバーとして「シロクマの極寒適応3分クッキング」を始めたり、web小説書きにクラスチェンジしたりする余地はあると思うが、今から理化学研究所に入って正統な研究者としてキャリアを重ねようと思ったって不可能だろう。
 
 だから自分の生きてきた軌跡の結果としての「いま」を大切にすべきだと理解しているし、実際、大切にしている。もし、未来があるとしても、それは慣性飛行し続ける「いま」の行く先に辿り着くもので、「いま」を翻して犠牲を積み上げて辿り着くようなものではない。
 
 
 それでも、いぬじんさんの文章にはちょっとした反発もある。
 
 ボイジャー2号の喩えでいうなら、確かに私は土星軌道や天王星軌道は通り過ぎてしまったかもしれないけれども、まだ海王星軌道には辿り着いていないのではないか?
 
 本物のボイジャー2号の場合、海王星探査は綿密な計算のもと、天王星を通り過ぎた後に必ず辿り着けるよう計画されていたのだろう。だが私の人生は……そこまで緻密に計算されていない。
  
 それでも40代の後半をやがて迎えようとするこの年齢は、もう少しだけ、自分の人生で観測すべき、到達すべき場所を夢見る猶予があとワンチャンスぐらい残っているのではないか、という思いがあって、私は私の海王星を目指して飛ばずにはいられない。
 
 つまり現在の私の「いま」のなかには、「いま」を大切にするのとは正反対の、「未来のために現在を犠牲にする」側面が残っている。この年齢でそれを行うのは、果たして利口なことなのだろうか? いや。これ以上人生の惑星探査を企むのでなく、人生の慣性飛行に身を委ねてしまったほうが良いという直感もある。
 
 にも関わらず、私は私の海王星をまだ捨てきれていない。私にとっての土星軌道と天王星軌道を通り過ぎた今も、「もうちょっとだけ頑張れば海王星近くを通過できるんじゃないか」みたいなことを、頭のなかで誰かが囁いている。その、間違っているかもしれない囁きに衝き動かされ、「いま」をいくらか軌道修正させようとする私は愚かなのかもしれない。
 
 中年を迎えたみぎり、「いま」を大切にするという感覚に基本的には頷きつつ、それだけでは立ち止まれない、まだ見ぬ海王星を夢見ている自分自身が、何か叫びたくなったみたいだったので、この文章を吠えながら書いていぬじんさんへの返信とすることにした。もし私が海王星にたどり着けなかった時は、笑ってやって欲しいし、もしたどり着けた時は、そうですね、またお目にかかって酒宴でもやりたいものです。
 
 
 

雨ばかりで憂鬱だったので『言の葉の庭』を観た

 

言の葉の庭

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【Amazon.co.jp限定】天気の子【特典:CDサイズカード「風たちの声」ver.付】

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 ここ一カ月ほど雨ばかりのせいか、それとも原稿や仕事で追い詰められていたせいか、テンションが低くてかなわない。緑がまぶしく、紫陽花の美しい6~7月は季節としては好きだが気分のコントロールがいまいち難しい。仕事やタスクはたまる一方の時には、勇気を出して休息しなければならない。が、それが簡単ではない性分に生まれついてしまったので、ついAmazonプライムなど眺めてしまった。
 
 すると新海誠『言の葉の庭』がプライム会員特典として公開されているじゃないか!
 
 そういえば数日後には新作の『天気の子』が公開されるという。じゃあ、予習がてら観てみるか……と思って観たら、梅雨の新海誠というか、雨の新宿御苑というタイムリーな舞台で、やはりというか、ひたすら美しく雨模様が描かれていた。東京の空を舞う鳥、雨があがった青空の飛行機雲、水面に浮かぶアメンボ、風に揺れる水の流れ、どれも美しく描くもんだと感心した。でも、この美しさは『秒速5センチメートル』よりも幾らか『君の名は。』寄りだとも感じた。前者で感じた、カット一枚一枚のナルシーな過剰さが『言の葉の庭』ではそこまで露骨ではない。どれもこれも美しく、新宿御苑での再会場面での雷と嵐などは、これぞ心象風景!といった感じは受けるけれども、『秒速』の種子島の夜空のような、美しさに歪んだ図像にはなっていない。
 
 この作品は年齢制限がなさそうだけれど、雰囲気がややエロチックだった。雪野先生の足をこっそりスケッチブックに描くタカオも、雪野先生の足のサイズを実際に測るタカオも、自宅で靴をつくるタカオも、上級生に喧嘩を売りに行くのも、すべてえっちだな、と感じた。そういう印象を受けるのも、タカオと雪野先生が会うシーンでは決まって雨が降っていたからかもしれない。晴れた新宿御苑では、こうはなるまい。
 
 雨に濡れ、雪野先生の家で服を乾かし、二人でオムライスを食べるシーンもやたらしっとりしていた。アイロンの蒸気、マグカップからの湯気、窓の外の雨、どれも抜群の雰囲気だ。そうした雰囲気のなかで雪野先生は動揺を隠せなかったから、眺めている私も動揺した。この二人の(またはどちらかの)運命がどれほど残酷に描かれるのかわかったものではないと覚悟し、固唾を飲んで見守っていたが、雪野先生はよろめきながらもタカオのところに辿り着き、言葉を交わしたので私は安堵した。二人を分かつ運命の残酷は『言の葉の庭』にはなかった。自分の気持ちを言葉や行動にできるって、幾ばくかの野蛮さは伴っていても、かけがえのないものですね。
 
 『言の葉の庭』は新宿御苑とその周辺にコンパクトにまとまっていて、宇宙や地域を感じさせないせいか、大仰な作品という感じがしない。それだけに、事情を抱えながらまあなんとか生きているタカオと雪野先生の雨宿りをじっとり眺めるには適していて、たぶんこういうのは『天気の子』には望みようがなさそうだから、いいタイミングでいいものを観た、と思った。
 
 とはいえ、今日もまた雨日和。やっぱり気分があがらない。『天気の子』の公開とともに梅雨がパーッと開けてくれればいいのだけれども。