シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『「若者」をやめて、「大人」を始める──成熟困難時代をどう生きるか?』を出版します

 
 このたび私は、「若者」から「大人」に変わっていく、境目の時期についての本を出版します。
 

 


「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
定価:1500円(+税)
単行本(ソフトカバー): 240ページ
出版社: イースト・プレス  ※表表紙はこんな感じ
発売予定日:2月11日
 

はじめに

 
 人間は、子どもとして生まれ、やがて「若者」になり、いつか「大人」の仲間入りをして、最後には年老いて死んでいきます。
 
 最近は健康なお年寄りが増え、アンチエイジングも盛んになりましたが、それらをもってしてもこの順番は覆せません。生まれが早い人から歳を取り、年老いた者から順番に死んでいくのが生物としての人間の宿命です。だからこそ人は命を大切にすると言えますし、自分が生きていられる残り時間の少なさに気付いた人はその時間を大切にしようとします。
 
 ところが、社会的存在としての人間は、それほどシンプルに「若者」から「大人」にはなりません。
 
 世の中には、いつまでも「若者」のように年を取っていく人がいます。
 
 自分が20代だった頃に流行っていたものを年下世代にも押し付けて、それが当たり前だと思っている40代。経験不足な年少者を蹴散らし、搾取すらして、自分のポジションにしがみつき続ける50代。あるいは、長年かけて手に入れた財産やノウハウを自分自身のためだけに使い続ける60代……などなど。
 
 他方で、生物として若いうちから「大人」になっていく人もいます。
 
 たとえば20代から家庭を切り盛りし、子どもの世話や地域の活動に力を注いでいる人は、若いうちから社会的存在としての「大人」の役割を引き受けていると言えそうです。また、後輩の面倒を見たり組織の発展やマネジメントに尽くしたりしている人も、自分自身の成長や自立に無我夢中になっている人に比べて「大人」という言葉が似つかわしいでしょう。そうやって次第に「大人」らしさを身にまとっていく同世代を見て、焦りのような感情が心をよぎったことのある人もいらっしゃるのではないかと思います。
 
 そもそも、「大人」とは一体どういう存在でしょうか?
 
 数年前に私は、「歳の取り方がわからなくなった現代社会」について一冊の本を書きました(「若作りうつ」社会 (講談社現代新書))。
 
 現代社会には、「子ども」と「若者」、「若者」と「大人」、「大人」と「高齢者」をはっきり区別する境界線がありません。世間には40代になっても「女子」を名乗っている人や、還暦を迎えても「若者」のつもりで暮らしている人もたくさんいます。20代や30代の人などは、ときには「大人」という括りで扱われる場面もあれば、「若者」という括りで扱われることもありますし、ときには「子ども」扱いされることさえあります
 
 歳の取り方が不明瞭になったことで、年齢に縛られず自由に暮らせるようになった反面、年齢を節目としてライフスタイルをシフトチェンジすることも難しくもなりました。そういう現代社会のなかでうまく歳を取っていくことの難しさについてまとめたわけです。
 
 ただ、歳を取ることの難しさについては十分書けたものの、「歳を取ることの面白さ」や「歳の取り甲斐」についてはあまり触れられませんでした。そして私自身が年齢を重ね、「大人」としての役割に慣れてくるにつれて、「大人」の面白さや魅力について多くのことに気付くようになり、そうした気付きを年下の人に伝えたいと願うようになりました。「若者」から「大人」へのシフトチェンジの時期に的を絞り、人生論として内容をアップデートすれば、いま「大人」の階段にさしかかっている人に届けるべきメッセージになるのではないか――この本は、そういう意図のもとで書き起こしたものです。
 
 この本を通して私は、さまざまでかけがえのない「大人」とはなんなのか、「若者」をやめて「大人」が始まると何が起こるのかを紹介していきます。「若者」から「大人」へと変わるうちに、仕事や趣味との付き合い方、恋愛や結婚に対する考え方も大きく変わっていきます。これらの「最適なかたち」も変わっていくことで、「若者」だった頃には悲観的に思えた要素が、安定感や充実感の源に変わっていくことさえあります。
  
 「大人」になりきれていないと感じる人、いままさに「若者」と「大人」の境界線を渡ろうとしている人の行く先を、ほんの少しだけ照らせるような本を書いたつもりです。人生の少し先の風景を、ちょっと覗いてみませんか。
 
(本書「はじめに」より一部抜粋)
 



 
 この本は、想定読者の顔を思い浮かべながら書き進めました。
  
 想定読者とは、インターネット上にたくさんいる、「若者」から「大人」への跳躍に戸惑い、なるべく「若者」側のライフスタイルや価値観で生きていこうとしている人達です。あるいは、加齢によってなし崩し的に「大人」をやらざるを得ない境遇となり、そのことを持て余している人達です。
 
 そういった人達は、「若者」としてのライフスタイルや価値観を理想化するあまり、「大人」の良さに気付かないまま、いたずらにシフトチェンジを遅らせているのかもしれません。あるいは、「大人」へのシフトチェンジから逃げ続けてきたがために、「大人」と呼ばれる年齢になった自分自身を受け止めきれていないのかもしれません。
 
 しかし、「若者」としてのアドバンテージと「大人」としてのアドバンテージには、「若者」の側からは気づきにくい相違点があることを、私はこの数年間で実感しました。おじさん、おばさんというのも決して悪いものじゃない。
 
 どうせ誰もが必ず歳を取るのです。だったら“「若者」を終えて「大人」になるのもそんなに悪いものじゃないし、これもこれで面白い境地ですよ”、ということを伝えてみたいと思い、40代の私が、40代のうちにしか書けない一冊を作ってみようと思い立った次第です。
 
 ひとことで「大人」と言ってもそのありかたは多様で、年少者の世話をするばかりが「大人」とは限りません。4年前に書いた『「若作りうつ」社会』は心理発達のテンプレートにかなり縛られていましたが、今回は、もっと幅の広い「大人」のありようを想定したうえで、「どうせ歳を取るなら肯定的におじさん/おばさん」やっていこうぜ!」って基調でまとめました。
 
 以下に、第8章までの一覧と、小見出しを紹介します。
 

各章紹介

 
【第1章】「若さ志向」から「成熟志向」へ

・40歳を過ぎた自分のことを想像できますか
・「若者」であり続けることの限界
・ゲームが教えてくれた転機
・変わるべきときに変わらなければ危ない
・「大人」が「若者」と同じように振る舞うと破滅が待っている
・かくあるべき「大人」の定義とは
・心の成熟には順序がある
・「大人」になることは「喜びの目線」が変わること
・人生の「損得」や「コスパ」の計算式

【第2章】「大人」になった実感を持ちづらい時代背景

・「大人」に抵抗感があるのが当たり前の時代
・昭和の人々は「若者」の魅力に夢中になり続けてきた
・社会から「大人強制装置」が失われた
・「なんにでもなれる」感覚が「大人」を遠ざける
・「大人」と「子ども」、年長者と年少者の接点が少ない
・世代間でいがみ合う社会はみんなが望んでできたもの
・「大人」を引き受ける立場が争奪戦になっている
・それはあなたの選択なのか、社会構造による必然なのか

【第3章】「大人のアイデンティティ」への軟着陸
 
・「大人になる=アイデンティティが確立する」という考え方
・何者かになった気にならないと地に足がつかない
・キャリアが定まることでアイデンティティも定まる?
・趣味や課外活動もアイデンティティの構成要素になる
・アイデンティティがフラフラしている男女の仲は長続きしない
・揺るがない自分が生まれると足下が固まるがおじさんおばさんにもなる
・「CLANNADは人生」
・田舎のマイルドヤンキーのほうが「大人」を始めやすい理由
・空に浮かんだ夢から、地に足のついた夢へ

【第4章】上司や先輩を見つめるポイント

・年上の人たちは未来情報の宝庫
・「若いうちに勉強しろ」「遊んでおけ」と言う年長者は結局何が言いたいのか?
・「こんな風に歳を取りたい」と思える人は大事なロールモデル
・反面教師の利用方法
・アイデンティティが確立した中年のモノの見え方
・40歳、夢から醒めて、逃げ場なし
・長く人生を抱えてきた人は、それだけで結構すごい

【第5章】後輩や部下に接するとき、どう振る舞うか

・あなたが「大人」になったとき、「若者」をどう見るか
・情報がネットで手に入る時代に年上であるということ
・接点を持ってみなければわからない
・若者はまだ未来が定まっていないから侮れない
・後進を成長させるほうが得るものが大きくなる瞬間
・「生き続ける理由」を与えてくれるもの
・「世話をすること」が始まったあとの世界の見え方
・「俺の黒歴史に免じて許す」

【第6章】「若者」の恋愛、「大人」の結婚

・「大人」の恋愛、「大人」の結婚は本当にある?
・金しか見ていない女性、胸しか見ていない男性はなんにも見ていない
・目を向けるべきは「ソーシャル・スキル」
・早く気付いた人から素晴らしい「戦友」を得る
・「結婚=恋愛」は本当に幸福な価値観なのか
・「結婚は人生の墓場」は愚か者の結婚観
・だからといって、若い頃の恋愛も無駄にはならない

【第7章】趣味とともに生きていくということ

・「終わらない青春」なんてなかった
・立派に大人をやっているサブカルチャーの先輩方はいる
・オタクやサブカルを続けきれなくなったとき
・いざとなったら、やめてしまったっていい
・クリエイターに回った人たちは本当に大変
・新しい時代に合う形で誰かが引き継いでくれる
・趣味は自分の世代だけのものではない

【第8章】「歳を取るほど虚無」を克服するには

・変更不能の人生を生きるということ
・良いことも悪いこともすべて自分の歴史になる
・あなたの歴史はあなたと繋がっているみんなの歴史でもある
・人生のバランス配分は人それぞれだが
・異なる世代との接点が他人への敬意を磨く
・生きて歴史を重ねることは難しくも素晴らしい


人生の少しだけ先のことについて、考えてみませんか

 
 以上のような構成になっています。「若者」と「大人」の端境期の人を対象読者に想定していますが、すでに「大人」の側に回った人、まだまだ「若者」真っ盛りな人が読んでも気付きがあるかもしれません。全国書店にて好評発売中です。
 
 
 

大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか!

 
 先日、「「散るログ。ポジ熊。青二才。」 - シロクマの屑籠」という記事を書いたところ、はてなブックマークでやたらと反応があって驚いた。
 
 はてなブックマークのなかには、私が「散るログ、ポジ熊、青二才」という三つのブログを否定していると考えたがっている者が少なくなかった。「ブロガーを馬鹿にするシロクマ」という構図を期待している向きがあったようだが、そのような期待を持たせてしまったのは、ひとえに私の不徳のためだろう。
 
 しかし、あの文章のなかで私は、彼らのブロガーとしての武運長久を祈りたかった。ブロガーとして今を生きているかけがえなさに思いを馳せて、彼らがこの先どう生きていくのであれ、少しでも良く生きて欲しいと願った。
 
 

 それでもチルドさんはときどきヘドロ爆弾のような炎上記事を書くのかもしれない。そのときは、私はきっと「浅ましいやつめ!」と思うことでしょう。しかし、それはそれ、これはこれとして、ブログライフの武運長久をお祈りしております。

 上に書いたように、私はチルドさんやポジ熊さんや青二才さんが浅ましいことを書けば浅ましいと思うだろうし、馬鹿馬鹿しいことを書けば馬鹿馬鹿しいと思うだろう。現に、彼らのブログ記事のなかには、不確かなものや内実を欠いたものもあるし、炎上狙いのものもあろう。青二才さんなどは、人の書いた書籍を読みもせず、知ったようなことをブログ記事に書き散らかしたこともあって、クソが、と思ったこともある。
 
 だが、個別のブログ記事はともかくとして、彼らは既に何年もブログを書き続けて、それが生活の一部となっているわけだ。尊いことも、卑しいことも、ユニークなことも、平凡なことも、とにかくもブログ記事として書き続けている。それも、アラサー、アラフォーといった人々が、何年もブログを続けているのである。そのことの意味を、そののっぴきならなさを、決して軽くみることはできない。彼らはブログを書き続ける者――ブロガーである。
 
 彼らのブログ記事を、みっともないとか浅ましいと言う人もいるかもしれない。私も、そういう風に言うことはある。だとしても、それなら私だって彼らと五十歩百歩だ。いや、私は彼らよりも更に長くブログを書いているわけだから、彼ら以上に、私はみっともなさや浅ましさを書き続けて、恥を積み重ねてきたとも言える。
 
 彼らのブロガーとしての生を馬鹿にするのは容易いが、もし彼らのブロガーとしての生を馬鹿にすれば、その言葉はそっくりそのまま私自身に跳ね返って来る。彼らのやっていることと、私がやり続けていることは地続きだ。ブログを書かない人達には、ひょっとしたらわからないかもしれないが、ブロガーってのは恥ずかしいことであり、浅ましいことでもあり、しかして、それぞれが意味を見出し必死に取り組むものなのだと思う。少なくとも、数年単位で書き続けるようなブロガーはそうだ。
 
 考えてもみろ、アラサー、アラフォーにもなる大の大人が、ブログを書き続けているってことを。そこには意図があり、欲求があり、目的があり、衝動がある。そういったもの抜きではブログなんて書きつづけられるわけがない。マトモなキャリアを真っ直ぐに突き進んでいく人は、決してブログなんて書かない。私も含め、数年以上にわたって頻繁にブログを書き続ける人間は、どこかおかしいし、どこか憑りつかれている。マトモじゃあない。ほかにすることはないのですか。だけど書かずにはいられないからブログが生き残っていく。それは、めでたいことかもしれないが、おめでたいことかもしれないのだ。
 
 そういうことを承知したうえで、私は、散るログ、ポジ熊、青二才という三つのブログに幸いあれ、と祈らずにはいられなかった。
 
 三人とも、それぞれ少しずつ違いはあるし、ブログを書く目的も態度も違ってはいよう。だが、大の大人なのにブログを書き続けているという点では共通しているし、ブログに何かを賭けているという点でも共通している。
 
 彼らがブログを書き続けるモチベーションは、私のソレと同じかもしれないし、違うかもしれない。どの程度までカネのためで、どの程度まで承認欲求のためで、どの程度まで表現欲求や衝動の発散のためなのかもわからない。だがそんな事は些末な違いでしかない。大の大人が、少なくない時間とエネルギーをブログに投げかけているという点では彼らは同じだし、私もまた同じである。
 
 ブログを書き続けることに時間やエネルギーを費やせば費やすほど、その選択は大の大人にとってのっぴきならないものになる。少なくとも私自身はそうだと思う。私はブログを書き続けてブロガーになってしまった。それで得た可能性もあるが、失った可能性もある。他人から評価されることもあるかわりに、たくさんの人から指をさされ、馬鹿にされて、笑い者にされることもある。どちらにせよ、ブロガーをやるとは、そういうことなのだ。
 
 でもって、散るログ、ポジ熊、青二才、この三つのブログもまた、だいぶ年季が入ってきて、随分と時間やエネルギーをブログに費やし続けてきて、のっぴきならない雰囲気になってきた。良くも悪くも、彼らはブログにたくさんのものを賭け続けてきた。得るものも多かっただろうが、失うものも多かったに違いない。かりに彼らがブログを今すぐ畳んだとしても、これまで積み上げてきた時間やエネルギーは膨大で、ブログを畳むという決断自体がのっぴきならないだろう。ブログを長く続けるというのは、そういうことだ。それでもブログを続けていくのがブロガーだし、彼らはまさにブロガーになってきているのである。
 
 私は彼らに「武運長久であれ」と祈った。それは私自身への祈りでもあり、ブログを書かずにはいられない者、インターネットに膨大な時間やエネルギーを費やして、それで人生の帳尻を合わせようと生きあがいている者全てへの祈りでもある。大の大人になっても、まだブログを延々と書き続けている人々よ、まだtwitterに執着を装填し続けている人々よ、どうかお達者で! 個々のアウトプットへの評価はさておき、いい歳してもインターネットに何かを迸らせずにはいられない人々を、最もベーシックなところでは私は肯定したいし、すべきである。なぜなら私自身がその最たるものだからだ。
 
 「すべてのブロガー、すべてのインターネットのアウトプット者に幸いあれ。」
 
 大それた願いだし、叶わぬ夢でもある。だけど根底のところには、そういう祈りがあって然るべきだと思うし、誰かのブログ記事をdisっている時ですら、そのことは憶えておきたい。十年ほど前の私は、こういう事に考えが至っていなかった。だが、今はこう言いたい。大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか!、と。
 
 

「散るログ。ポジ熊。青二才。」

※これは、はてなブログ周辺をウォッチしていない人には全く意味のわからない文章です。興味のない人は引き返してください。
 
 
www.cild.work
 
 こんにちは。散るログのチルドさん。上記リンク先を読んで、どこかの先生とは私のことではないかと思い、お手紙を書いてみることにしました。
 

ひと昔まえ、どこかの先生がインターネットでは、みんなお金じゃなくて承認を求めているんだって、そう言っていた。僕も、そんな潮流にのって、もっと目立ちたい、インターネットで強くなりたいと、そう願ったんだよ。
ところが、その承認欲求の行き先は、なんとお金だった。ユーチューバーやイケてるブロガー、ビットコインの億り人に代表されるように、承認欲求を最大化する養分は、お金だったんだよ。
時代は巡るというけれど、お金を否定した承認欲求が、お金を産むことでしか評価されなくなるというのは、なんとも逆説的だよね。

 なんだか、私のブログのかなり古い部分をお読みになったかのような前段ですね。
  
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 かつてのインターネットにおいて、ネットユーザーの多くがお金より承認を求めていたのは事実だと今でも思っています。しかし、はてなブログ周辺にカネの話がはびこるようになって以降は、そう単純でもなくなりました。たとえば、はてなブログ周辺でプロブロガーとかアフィリエイトとかそういう話が盛りあがったのは、2013~2016年ぐらいではなかったでしょうか。
 
 

 金銭。
 
 なんとわかりやすい動機だろう!この資本主義社会において、金銭ほど融通の利くご褒美は存在しない。皆、その金銭を稼ぐために辛い仕事をこなし、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車も我慢しているぐらいだから、モチベーション源としての金銭は頭一つ抜きんでている。金銭が足りなくて困窮している人も、お小遣いを増やしたい人も、金銭のためならブログを書きたい、書こうとするだろう。そのようなブロガーには、表現欲とか、議論とか、情報交換とか、そういったご褒美はどうでも良いものだ。

http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160325/1458831600

 
 世の中には、いろいろな価値があるでしょうし、いろいろな欲求、喜びもあるでしょう。しかし、カネほど融通の利き、誰もが価値を認めているものはたぶんありません。Aという価値を信じる人も、Bという価値をありがたがる人も、Cという価値にとらわれている人も、カネには交換価値があるということは必ず知っています。だから、カネが儲かるところに人が集まるのは必然です。
 
 ある時期まで、はてなブログには「誰でもブログを書けばお金が手に入る」という錯覚がプロパガンダされていました。ブログを書けばカネが手に入るなんて、それほどあてになるものではないのですが、「ブログを書いて食っていく」みたいな話を奇形的に膨らませた山師が暗躍したことによって、そういう思い込みがフワフワ漂っていた時期があったように思います。2015年のはてなブログとか、まさにそんな感じでした。あの頃はカネ臭かったなぁ。
 
 しかし、2017年はそうではありませんでした。「誰でも○○すればお金が手に入る」と錯覚させやすい、もっと好ましいフィールドが山師たちの目に留まったからです。カネの臭いを嗅がせて人を動かしてカネを手に入れるハーメルンの笛吹きたちは、ブログを去っていきました。おかげさまで、一時期ほどのカネ臭さが改善し、一人のブロガーとしては若干住み心地が良くなったように思います。ブログを愛してカネも愛しているブロガーはいくらだっていて構わないけれども、カネしか愛していない山師と、その下僕がカネカネ連呼しながら目立っているのは嫌でした。
 
 ゴールドラッシュの蜃気楼としてのブログがレッドオーシャンになり果ててしまった今、ブログなどという場でグズグズしているようでは山師失格でしょう。実際、一流山師の皆さんは、もっとゴールドラッシュの雰囲気があって、たくさん金額が動く場所に移ってしまったようです。一流山師はいけ好かない連中ですが、今、どこでゴールドラッシュが起こっているのか、カネの臭いに幻惑された人々がカモになっているのは何処なのかを知るには、なかなか良い探知機であるように思います。
 
 さて、チルドさん。
 
 私はチルドさんのブログをかねがね読んでいましたが、拝金主義的に炎上を繰り返している兆候があったため、ブックマークはつけないようにしていました。炎上商法のたぐいを私は忌み嫌うものですから、それは仕方がないことです。
 
 しかし、炎上していないチルドさんのブログの文章には、あまりカネの臭いが漂っていないのです。意図してカネの臭いを消しているのかカネが欲しくても上手にできないのか、そのあたりはわかりませんが、とにかくも素朴なブログ記事が書き綴られていることがしばしばあります。そういった素朴なブログ記事に触れる時、私は「ああ、これは昔のブログみたいだなぁ」と感じたりします。そう感じる一因は、チルドさんと世代が近いせいもあるのかもしれない。20代前半のブロガーやツイッタラーに感じる「あの洗練」がチルドさんのブログからは感じられません。
 
 もしかしたら、あの醜い「『散るログ』の炎上」も、狙ってやっているのでなく、素朴なインプレッションをそのまま投げ出して、素で燃えているのではないか、と疑いたくなるしまうことさえあります。いや、もちろん、カネが欲しくて自分のブログに着火マンしているのだろうと理性は告げているのですけどね。
 
 ゴールドラッシュが終わったはてなブログで、それでもブログを書き、安定的な副収入としながら素朴なブログ記事を書き綴るチルドさんという人は、一体どういう人なのでしょうか。
 
 私はチルドさんに肯定的な気持ちも否定的な気持ちも持っていますが、ただひとつ間違いないのは、チルドさん、あなたは一流山師ではない、ということです。私はそのことに安堵していますが、その評をチルドさん御自身がどのように受け止めるのかは想像できません。なんであれ、チルドさんはゴールドラッシュが終わったはてなブログでもブログを書き続けているのです。私はそのことを嬉しく思いますし、これからも素朴なブログ記事を書き綴って欲しいなと思っています。
 
 

「散るログ。ポジ熊。青二才。」

 
 かつて私は、チルドさんの「散るログ」はじきにブログが消えるだろう、フフフ、いつまで保つかな? ……と意地の悪い目で眺めていました。しかし、これだけ素朴なブログ記事を書ける人なら、そうそうブログが死んだりすることはないでしょう。もう、「散るログ」の命の蝋燭を眺めるのはやめるつもりです。そう簡単には消えないでしょ、この蝋燭。
 
 似たようなことが、かつてのポジ熊さん、青二才さんにも言えます。
 
 青二才でいたかった
 ポジ熊の人生記
 
 散るログ。ポジ熊。青二才。
 
 この三つのブログのうち、フフフ、最初に爆発四散するのは誰なのかな? ──そんなことを考えていた時期が俺にもありました。
 
 しかし、今、これらのブログを見返すと、そこにはカネ臭さが鼻につくことも少なく、素直なブログ記事が並んでいるじゃありませんか、ときに、ビットコインなどに言及する時ですら、カネカネした感じより、素直なインプレッションが伝わってくる感触があって、山師が跳梁跋扈する現在のインターネットにおいて、清涼剤のような印象すら受けるのです。
 
 たぶんですが、チルドさんも、ポジ熊さんも、青二才さんも、世渡りがそんなに上手じゃないんだと思います。もし世渡り上手だったら、もっとあざとくて、もっとカネ臭くて、もっと影響力にガツガツしたような文章を、戦略的に書き連ねているに違いないのです。しかし、このお三方のブログはそうではありません。カネ儲けブログとしてはちっとも洗練されていない。むしろ素人ブログっぽさがある。
 
 この評価を、チルドさん、ポジ熊さん、青二才さんはどう受け止めるのでしょうね。しかし、今はその素朴さ、素人っぽさが貴重に思えて、長くブログを書いていてくださいねという気持ちが湧いて来たりもするのです。
 
 それでもチルドさんはときどきヘドロ爆弾のような炎上記事を書くのかもしれない。そのときは、私はきっと「浅ましいやつめ!」と思うことでしょう。しかし、それはそれ、これはこれとして、ブログライフの武運長久をお祈りしております。
 
 飽きてきたのでこのへんで。
 

人生の次の目標はゾンビキラーだ。

 

ドラゴンクエストIII そして伝説へ…

ドラゴンクエストIII そして伝説へ…

 
 数年前、以下のような文章をブログで読んだのを再発見して、またしても考えさせられた。
 
人生は、『はがねのつるぎ』を手に入れるまでがいちばん面白い - 未来の蛮族
 

異論は認めない。だいたいなんだってそうなのだ。「おうじゃのつるぎ」だの「はかいのつるぎ」だのといったような、伝説級の武具。それらは確かに格好いいかもしれない。しかしだ。それらを手に入れたとき、我々の心はほんとうにときめいているだろうか?
(中略)
「はがねのつるぎ」には、そうした重たさはない。その切っ先が指し示す先には、ただただ限りない自由が広がっている。「はがねのつるぎ」さえあれば、平原を越え、アッサラームの街に渡ることができる。それどころか、少し勇気を出せば、砂漠を越え、イシスの都を目指すことだってできるのだ。はがねのつるぎは、実に様々のものを我々に教えてくれた。

 はがねのつるぎ。
 
 私の人生には、はがねのつるぎに相当するものが無かったと思う。
 
 私の人生はひのきのぼうから始まり、こんぼうを手に入れて、しばらくそこでグズグズして身動きが取れなくなった後、聖なるナイフを手に入れた。どうのつるぎよりも少しだけ強くて、非力な人間でも装備できる聖なるナイフ。ただし、そこから先、はがねのつるぎに相当するような、人生を切り拓いていくための武器は手に入らなかった。
 
 ところがある日、私は自分のアイテム欄にさばきのつえが入っていることに気が付いた。
 
 さばきのつえは、そんなに弱い武器ではない。てつのやりと同じぐらいの攻撃力があって、バギの呪文が無限に使える。やまたのおろちを倒しにいくには力不足かもしれないが、近所をうろつきまわって生きていくには十分だ。調子に乗った私は、今まで聖なるナイフでは心許なかった場所を存分にうろついた。雑魚が集団で襲ってきても、さばきの杖を振りかざせば勝手に退散していった。はがねのつるぎを手にし、人生を切り拓いていく人達が流す美しい汗に心惹かれるところはあったけれども、さばきのつえだって悪くないじゃないか。ここいらで安全に経験稼ぎしていれば生きていくのは大丈夫だな、などと思うようにもなってきた。
 
 しかし、野心を持ってしまったのだ、私は。
 
 私はもっと良い武器を手に入れて、どこか遠いところに出かけられないか、考えるようになった。はがねのつるぎは、私の職業では装備できない。おおかなづち、バトルアックスなども難しい。もっと取り回しが良くて、職業適性的に良さそうな武器はないものか探してまわったら、ゾンビキラーという素敵な武器が存在することに気が付いた。
 
 ゾンビキラーがあれば、今までよりずっと遠くまで出かけられるだろう。なにより、ゾンビをキラーするのがゾンビキラーなのである。死にぞこないがゴロゴロしている死者の土地に赴いて、ときには二フラムを唱えて、ときにはゾンビキラーでバッタバッタと敵を倒す。雑魚が集団で襲ってくるような時にはさばきのつえを使えば良い。そうやって、私は今まで行ったことのない土地を、私なりに冒険してみたいなと思うようになってしまった。
 
 はがねのつるぎを30代までに装備した人達にとっては、私がゾンビキラーを装備して冒険する場所なんて、さほどの冒険とはみえないかもしれない。また、同世代のはがねのつるぎ連中は年季が入っているから、ある者は剣を算盤に持ち替えて街で暮らしていたり、そうでなければドラゴンキラーあたりに装備を換えて、前人未到の地を冒険しているだろう。
 
 それでも、私は右手にゾンビキラーを持ち、左手のさばきのつえを持った状態で、いけるところまでは行ってみようと思う。それは、戦士の武器というより僧侶の武器ではあるのだけど、僧侶だって、冒険したっていいじゃないか。人間だもの。
 
 ということで、当面の人生の目標は決まったようなものだ。
 ゾンビキラーを手に入れること。
 そのために必要なことをやっておくこと。
 ゾンビキラーを売っている暗い街まで辿り着くこと。
 ゾンビキラーを手に入れるだけの代償を支払えるようにすること。
 
 実のところ、ゾンビキラーを手に入れるまでが私にとっての冒険で、もしかすれば、ゾンビキラーを手に入れたらそれで冒険が終わってしまうのかもしれない。それか、武器屋であまりの金額にびびってしまって、引き返すことだってあるだろう。だけど私は、ゾンビキラーが欲しいと思う。執着ですね。そうですね。でも欲しい、キラキラ光るゾンビキラーで、生ける屍をバッタバッタと昇天させたい、ドラゴンゾンビと戦ってみたい、中年期に入った人生の冒険者としては不遜な願いかもしれないけれども、欲しいものはしようがないので、俺はゾンビキラーを手に入れるために生きあがいてやろうと思う。
 
 

自主性の乏しさが罪になってしまう社会

 
blog.tinect.jp
 
 リンク先を読み、自主性が乏しいけれども仕事が優れている人っているよね、と思った。
 
 出しゃばらず、言われた仕事はきっちりこなし、上司やパートナーの采配次第では抜群の仕事をやってのける人材が、自主性を求められる状況に直面し、困惑して、メンタルヘルスを損ねて来院する……というパターンは精神科では珍しくないものだった。
 
 今では死語になりかかっている感があるけれども、「メランコリ―親和型うつ病」などと呼ばれていた類型の患者さんのなかには、そういうタイプが少なくなかったように思う。フリーハンドを与えられるまではものすごく重用されて、本人も報われた感触を得ていたけれども、フリーハンドを与えられた瞬間にマゴマゴしてしまい働けなくなってしまうタイプ。そういう患者さんは2000年頃に比べて減ってしまった。ひょっとして、自主性が乏しいけれどもしっかり働く働き手は淘汰されてしまったのだろうか。
 
 今日の社会では、自主性というものが非常に重んじられている。
 
 自己選択。
 自己主張。
 自己判断。
 
 それらをこなせるのが「良き大人」であり「良き働き手」でもある。今日の社会では、誰もが自分自身に対して「一国一城の主」でなければならない。誰かの「家臣」であってはいけないのだ。
 
 そういう考え方に競争社会の考え方を混ぜ込んだのか、「自主性の乏しい奴は報われなくても仕方がない」「自主性の乏しい奴は搾取されても仕方がない」といったことを平然と言い放つ人もいる。自主性の乏しさを誰かがカヴァーしてくれれば最優秀の人材になり得る人は、かつての日本には相当数いたはずだし、本当は現在もいるのだろう。いやいや、欧米にだっているはずなのだ。だのに、いまどきの人々は、そういう人の存在を顧みるよりは、自主性というお題目を口にして、自主性の乏しさを問題点として──ときには"障害"として──指摘する。「自主性が乏しいからお前は駄目なんだ!」
 
 世の中には、生まれながらに「一国一城の主」に最適なパーソナリティの人がいる。自主性を重んじる現代社会では活躍しやすく、どこへ行っても自分の人生を歩いていけるような人だ。そういう人が成功するのは素晴らしいことだし、そのようなパーソナリティを尊ぶことに私も反対するつもりはない。
 
 しかし、「一国一城の主」でなければ活躍できない、人生を豊かにできないとしたら、その社会はちょっと偏っているのではないだろうか。現代日本でも、欧米社会でも、多様性なるものが尊重されると耳にしているが、その多様性とやらのなかには、自主性の乏しい人々が豊かになって構わない可能性は含まれているのだろうか。それとも、自主性という基盤があってはじめて享受できる多様性でしかなく、自主性の無い人間には多様性もクソもあったものではないのが実情なのだろうか。どうも、そのあたりがわからない。
 
 多様性が尊重される前提として、まず、個人は自主性を完備していなければならないとしたら。そして「一国一城の主」でなければならないとしたら。それもそれで窮屈な話ではないか。
 
 ところが、欧米のゴールドスタンダードとして自主性があって然るべきとみなされ、日本もそれに倣えということになっているから、誰もが自主性を備えているべき・自主性を備えていない奴は損をしても仕方がないという考え方に、疑問を差し挟む人はあまりいない。匿名掲示板やtwitterの泡沫アカウントのようなインフォーマルな場では、自主性を当然のものとする考え方に疑問を差し挟む人を見かけなくもないが、場がフォーマルになればなるほど、自主性の尊重という金科玉条に異をとなえるのは難しくなる。
 
 元来人間には、自主性がたっぷりある人もいれば、自主性が乏しい人もいる。「自分らしく生きる」「自分が生きやすいように生きる」という観点からみれば、自主性の乏しい人でも活躍できる社会のほうが懐が深いはずだし、自主性が乏しい人にも活躍の場を与えられる社会のほうが人材活用という意味でも効率的なはずである。ところが自主性がやたらと重視されて、誰もが自主性のある人間であるべきとみなすようになってくると、そういった懐の深さや効率性は失われるのではないだろうか。というか、現に失われつつあるのではないだろうか。
 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (日経BPクラシックス)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (日経BPクラシックス)

 
 マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には、プロテスタントの宗教的ニーズが勤勉に働く市民を生んだという話だけでなく、そうした宗教的ニーズが自主的な個人の出現とも関わっている……といった話もふんだんに書かれている。彼の論述がどこまで事実に即しているのかはともかく、自主的な個人を当たり前とみなす考え方が、キリスト教世界で発展した文化的な所産であるというのは、たぶんそのとおりなのだろう。
 
 だとしたら、自主性の乏しい人が社会に適応するのが困難な状況もまた、ある程度までは文化的な所産であり、自主性の乏しいことがハンディキャップのごとくみなされる事態は文化症候群的な側面を持ち合わせている、と考えずにはいられない。
 
 宗教的ニーズを背景として自主性が尊重されてきた社会で暮らしてきた人達にとって、自主性があって然るべきという考え方に疑問を差し挟むのは、許しがたいことかもしれない。たとえキリスト教を信仰していない現代人でも、そこで形作られた自主性尊重という人間観、あるいは世界観に深く"帰依"している人はごまんと存在している。キリスト教は日本や中国にそれほど信者を作ってはいないかもしれないが、キリスト教世界で磨き抜かれた自主性という人間観、あるいは世界観に"帰依"している者は見事に増えている。そしてこの個人主義社会においては、信教の自由が保障されているとしても、自主性というやつは、地獄の果てまで追いかけてくるのである。
 
 冒頭リンク先のタイトルは「自由にやらせると、潰れてしまう人」となっている。不自由と比較すれば、現代人のほとんどは自由のほうが良いと思うだろうし、私もその一人だ。だからといって、自由や自主性が現代人の宿命として万人に背負わされ、それが苦手であることがボトルネックとなって活躍の場を奪われてしまったり、搾取されても仕方がないとみなされてしまったりするのは、褒められたものではないと思う。イデオロギーとしてそう思いたがる人がごまんといるのは理解できるが、それをすべての人にとっての理想のように吹聴することには疑問の念を禁じ得ない。たとえ現代社会が、もう、そのように出来上がっているとしても、である。