シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「バルス!」は滅びんよ、何度でも蘇るさ。

 
 金曜ロード―ショーで『天空の城ラピュタ』が報道されるたびに、「バルス!」という決まり文句がtwitterに木霊するようになってだいぶ経つ。
 
 知っている人がほとんどだろうが、「バルス!」とは、『天空の城ラピュタ』の最終盤に、主人公達が唱える滅びの呪文だった。この呪文によってラピュタは急激に自己崩壊し、ムスカ大佐の世界征服の野望は阻止されたのだった。
 
 ところで、twitter上で「バルス!」と声をかけあうようになったのはいつからなのか。
 
surumekuu.blog.shinobi.jp
 
 上記リンク先のブログ記事にまとめられているところによれば、2009年頃はtwitterもニコニコ動画もまだまだ人が少なくて盛り上がっていなかったという。その後、元旦の挨拶と良い勝負を繰り広げた後、2013年頃から、本格的にtwitterで「バルス!」と一斉にツイートするのが主流となっていったらしい。瞬間ツイート世界一を記録したのもこの年だ。
 
 それ以後、「バルス!」は急激に知られて、テレビ局側も意識するようになった。「バルスまでカウントダウン!」などという局側の“お節介”に白けてしまった人も多かろうけれど、少なくとも数年間にわたって、「バルス!」はtwitterの風物詩として君臨し続けた。
 
 

「バルス!」と所属欲求

 
 なぜ、皆はtwitterで「バルス!」と言ったのだろうか。
 
 「バルス!」と書き込んでお金が儲かるわけではないし、承認欲求が充たされるわけでもない。サーバが落ちるかどうかを試す好奇心ならあったかもしれない。
 
 だが、人々を「バルス!」へとかきたてた一番の心理的欲求は、所属欲求ではなかったろうか。
 
 人は、自分が評価されたり注目されたりすることによっても心理的欲求(=承認欲求)を充たされるが、他人と群れて何かを一緒に達成しても心理的欲求が充たされる。これが所属欲求だ。
 
 所属欲求は、もともとは地域社会のメンバーシップに所属することで、しがらみや摩擦が付随するかたちでながら、充たされてきた。しかし、20世紀の後半からは、しがらみや摩擦が伴うかたちのメンバーシップ自体が少なくなり、承認欲求のような、個人単位で心理的欲求を充たしていく形式がクローズアップされたことで、あまり目立たなくなっていた。
 
 しかし、その間に所属欲求が消失したなんてことはない。スクールカースト内の微妙な派閥のメンバーシップといったかたちをとったり、部署ごとの身内意識といったかたちをとったりすることで、世の中に遍在していた。流行りが承認欲求サイドに傾いたから目立たなくなっただけのことである。
 
 また、インターネットのほうでも、2ちゃんねるはスレッドごとにローカルルールが強く、匿名性が高いため、承認欲求ベースでスレッドに定住するというより、所属欲求ベースでスレッドに定住する感が少なくなかった。世にいう「ゲハ論争」にしてもそうで、あれは、ゲーム機をネタにして敵と味方に分かれて、それぞれの陣営が所属欲求を充たし合えるレクリエーションの意味合いを伴ってると思いながら私は眺めていた。扇動によってつくられた論争に過ぎず、大半のゲームファンには鬱陶しい以外の何物でもない争いだったが、ゲーム会社を旗印として、陣営にわかれて言葉の砲弾を飛ばし合うのは、所属欲求を充たせるレクリエーションとしてはわかりやすかった。 
 
 また、「バルス!」がムーブメントになっていく前段階にも、たとえばニコニコ動画のコメント弾幕などは所属欲求によってドライブされていたし、それに先んじて、2ちゃんねるの実況板ではたくさんコメントが連なってホカホカしていたのだった。たとえば私なども、ドラマや時代劇を眺めながら2ちゃんねるの実況板を開きっぱなしにしておいて、みんなとコメントを共有して楽しんでいた。自分自身が承認されていなくても、ひとつのコンテンツをみんなでシェアして、気持ちもシェアできる瞬間というのは、とても気持ちの良い体験だったし、その気持ち良さは、SNS上のリツイートやシェアにも引き継がれている。
 
 金銭的欲求も承認欲求も充たしてくれない、「バルス!」のようなアクションに何十万何百万もの人々が集まってくるのはそのためだろうし、そういったことは『君の名は。』や『シン・ゴジラ』をテレビ朝日が放映した時にも、『けものフレンズ』が大ヒットした時にも当てはまる。大河ドラマのtwitter実況も、ハッシュタグを用いたソーシャルゲームのイベントの盛り上がりも、だいたいそういうものだ。群れる楽しみ。群れる喜び。承認欲求では説明できない心理的欲求が間違いなくドライブしている。
 
 「バルス!」そのものは二番煎じ三番煎じを繰り返したので、これからは下火になっていくことだろう。だが、ムスカ大佐の台詞を借りるなら「「バルス!」は滅びんよ、何度でも甦るさ。それが人々の欲求だからだ」とは言える。げんに、なにかしら話題性のある出来事があるたび、所属欲求を充たすべく人々が集まり、しようもない話で盛り上がっているではないか。承認されるだけが気持ち良いのでなく、群れること、所属することにも気持ち良さがある――人がその先天的な性質を捨てる日が来ない限り、第二、第三の「バルス!」は生まれてくる。それが人々の欲求だからだ。
 

俺がインターネットをとおして出会う人が、みんな賢くみえる件について

 
 私はインターネットが好きで、オフ会も好きで、そういう生活をずっと過ごしてきた。色んな場所で、色んな人にも出会えてきた。最近は忙しくもなり、フットワークも少し重くなったけれども、今でもインターネットは新しい世界への入り口だと思っている。
 
 ただ、自分では常に新しい世界を開拓してきたつもりでいたのが、最近、自分が開拓している世界に偏りが生じている気配が感じられるようになってきたので、メモしておく。
 
 

最近、やけに賢い人とばかり会っている気がする。

 
 どうも自分が見ている、というよりフォーカスをあてて深堀りしているインターネットが、賢い領域や表現力の豊かな領域に限られてきているのではないか、と、今更ながら思うようになってきたのだ。
 
 もちろん、ネットで馬鹿な人を見かけることはある。
 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 
 中川淳一郎さんの著書を読むまでもなく、インターネットには愚昧な暇人が溢れているし、昨今のインターネットのインフラ全体に、本来は賢い人をも愚かにしていくような「愚の巻き込み力」が宿っているようにもみえる。だから、インターネットで馬鹿を見かけること自体は珍しくないし、自分自身もまた、馬鹿と一緒に馬鹿騒ぎをやっているのだろう……と自省させられることも多い。馬鹿をやる羽目になっている本当は賢い人が、インターネットにはたくさん存在するのではなかろうか。
 
 反面、ここ5年ぐらいの間にインターネットを介して新たに知り合った人達には、ストレートな馬鹿がいないように感じられるのだ。無能がいない、表現力の乏しいやつがいない、とも言い換えられるかもしれない。オフ会などを通して確認した限りにおいて、ここ5年ぐらいでネットで知り合った知己に、なかのひとが馬鹿だったり面白くなかったり無能だったりした形跡は感じられない。いわば「アタリ」を引く度合いが高くなっている。昔はこうではなかったはずだ。
 
 00年代のインターネットでの出会いを思い出すと、もっと手応えのない人が沢山いたように記憶している。大袈裟なレトリックを振り回しているけれども思考内容は平凡そのものな人、元気はあるけれども何も考えていない人、表現すべき情熱も表現するための手段も持ち合わせていない人――そういった、スカッスカッとした人がもっとたくさんいたのだ。

 もちろん当時とて、よく考えている人、面白い人、手強い人はたくさんいた。ときには相手に圧倒されることもあった。それでも、初対面時の「打率」は2010年代以降ほど高くなかった。どうやって会話を続ければ良いのか戸惑う場面が00年代以前にはもっとあった。コミュニケーションの扉を開いても、なかなか情熱や知性や面白みが伝わってこないこともあった。そのひとの知性、そのひとの面白さに気付くのに3年かかることもあった。それが当たり前だとも思っていたし、おそらく、世間とはそういうものなのだろう。
 
 ところが、10年代に入ってからのオフ会で出会う人々は、初手から考えている徴候がみられたり、会話の機敏が面白かったり、情熱に溢れたソウルを宿していたりした。見解の相違や立場の違い、年齢の違いはあるにせよ、「なるほど」と思わせるものを宿した人々に魅了された。3年待たなければそのひとの知性、そのひとの面白さが伝わって来ないという経験が減った。インターネット人士として、これは幸せで、イージーなことではある。
 
 

いつの間にか、出会う人が狭くなっているのかもしれない

 
  
 ただ、そんなオフ会冥利に尽きる日々を振り返ってみて、何かがおかしい、と思うこともある。
 
 私のほうから出会いに行く人も、私のほうに出会いに来る人も、いつの間にか、かなり偏ってしまっているのではないだろうか。
 
 世の中には「類は友を呼ぶ」とか「朱に交われば赤くなる」といった諺が存在していて、インターネットもまた例外ではない。むしろ、インターネットこそ、どこかが似通った者同士や共通点を持った者同士を繋げるツールではある。だとしたら、現在の私は、知的で面白い人達のグループと繋がりやすいぐらいには知的で面白くなっていると自惚れてかまわないのだろうか?
 
 そうではあるまい。たぶん、自分にとって馴染みやすい知的さ、自分にも理解しやすい面白さを私がどこかで選んでいるのだろうし、私に声をかけてくださる方においても、それは同じなのだろう。お互いに、上手く選んで、上手く選ばれるようになってしまったから、お互いにとって「アタリ」な人間同士が繋がってしまう。それは豊かなことでもある反面、考えようによっては、閉じたことでもある。
 
 してみれば、00年代に私が経験したオフ会は、豊かかどうかはさておき、多様性が凄かったのは間違いない。「アタリ」も「ハズレ」もある世界、面白さや知性に気付くのに3年かかる人のいる世界のほうが、ある面において娑婆世界の実態にも近いだろう。人間がしっかりとシャッフルされたオフ会だった。だからこそ、オフ会はいつも異世界への扉でもあった。
 
 今はそうではない。もちろん、出会う人は全員違っているが、「アタリ」ばかりというのは娑婆世界の実態からは乖離しているし、なんらかのかたちですぐに面白さや知性を知覚するというのも偏った事態だ。
 
 どうしてこうなった。
 
 私が年を取って、いろいろな面白さが既知になったせいもあろうし、冒険心が委縮している部分もあるのだろう。インターネットが繋げる縁、インターネットで繋がる縁というものが、ウェブサイト時代とブログ時代とSNS時代で違っているのもあるかもしれない。なんにせよ、インターネットをとおして出会う人が、みんな賢くみえるという一事について、良い側面だけを見つめて自惚れているのはまずくて、なにかしら偏りが生じていると警戒しておくのが、臆病なシロクマという動物の、あるべき姿勢ではないかと自省する年末であった。
 
 

コーヒーでスプラトゥーン2の勝率が上がるか、確かめてみた

 

  
【実験のまとめ】
 
 コーヒーに含まれるカフェインには、精神活性作用がある。この効果を確かめるため、コーヒーを飲んだ時と飲まない時の『スプラトゥーン2』のナワバリバトルの勝率を比べてみた。
 
 コーヒーを飲まない時のナワバリバトルの勝率が58.33%だったのに対し、コーヒーを飲んだ時の勝率は79.17%だった。筆者がコーヒーを飲んだ際には『スプラトゥーン2』の勝率が高くなると判明した。コーヒーの作用を垣間見ることができたと思う。
 
 
【はじめに】
 
 コーヒーに含まれるカフェインは世界じゅうで広く飲まれる精神活性物質で、その作用は19世紀から知られている。『カプラン臨床精神医学テキスト』によれば、コーヒー一杯ぶん程度のカフェインには、集中力や気力の向上、仕事への動機づけの高まり、眠気や疲労の減退といった主観的効果があるという。しかし、実際にどれぐらい効くのか確かめてみたことはない。そこでコーヒーを飲んだ時と飲まない時で『スプラトゥーン2』のナワバリバトルの勝率がどれぐらい変化するのか、確かめてみることにした。
 
 
【方法】
 
 ゲームの勝率はカフェイン以外にも大きく左右されるし、コーヒーに含まれるカフェインの量によっても左右されるだろう。今回の実験では以下のような方法をとることで、できるだけフラットな条件での比較を心がけた。
 
1.同じ曜日の同じ時間帯に、コーヒー有りとコーヒー無しで勝率を測定してみた。
 

 
 2017年9月から10月にかけて勤務スケジュールが一定の時期があったた.ため、
 
 1.休日Aの午前9時から合計8回のナワバリバトル
 2.休日Aの午後3時から合計8回のナワバリバトル
 3.休日Bの午前9時から合計8回のナワバリバトル
 4.休日Bの午後3時から合計8回のナワバリバトル
 5.平日Cの午後9時から合計8回のナワバリバトル
 6.平日Dの午後9時から合計8回のナワバリバトル
 
 を、二週間にわたって行った。
 
 第一週において、1.3.5.はコーヒーを飲んだプレイ8回を行い、2.4.6.はコーヒーを飲まないプレイ8回を行った。第二週において、1.3.5.はコーヒーを飲まないプレイ8回を行い、2.4.6.はコーヒーを飲んだプレイ8回を行った。
 
 都合、コーヒー有り/無しのそれぞれで64回ずつ、合計128回のナワバリバトルを行ったことになる。
  
 比較条件をさらにフラットにするべく、1.3.は必ず午前7時30分に起床して30分後に同じメニューの朝食を食べて検証した。2.4.も必ず同じメニューのに昼食を食べた後に30分の居眠りを行い、プレイ前の条件を統一した。5.6.は帰宅時間や夕食を摂る時間、夕食のメニューをできるかぎり同一とした。
 
 
2.コーヒーの量や濃度を統一するため、市販のスティックタイプのコーヒーを使用することとした。
 

AGF ブレンディ インスタントコーヒースティック 2g×100P

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 コーヒー有りの場合には、『AGF Blendy stick ブラック 甘さなし』のスティック1本ぶんのコーヒーをプレイ10分前に飲用し、それ以外の飲食物はプレイ中には摂らないこととした。コーヒーを飲まないプレイでは、同一量の白湯を同じコーヒーカップ一杯ぶんだけ飲むこととした。
 
3.『スプラトゥーン2』のプレイ条件も、できるだけ統一した。
 

 
 ブキは「プロモデラーMG」とし、装備やギアは全プレイで同じものを使用した(画像参照)。この検証を行っている間は「プロモデラーMG」によるナワバリバトル・ガチバトルは禁止とし、クマサン商会のバイトだけを行った。
 
 
【結果】
 
 以上の方法のもとで検証を行った結果、コーヒーを飲んだプレイ群とコーヒーを飲まなかったプレイ群では、以下のような勝率の違いを確認した。
 

 
 
 コーヒーを飲まない64回のナワバリバトルにおいて、勝率は58.33%だった。対してコーヒーを飲んだ64回のナワバリバトルにおいて、勝率は79.17%だった。
 
 コーヒーを飲んだプレイにおいて、筆者の『スプラトゥーン2』のナワバリバトルの勝率が高くなるという結果が得られた。片側検定で有意差が得られたことから、今回に限らず全般的に、私はコーヒーを飲んだ時のほうがナワバリバトルの勝率が高いと考えられる。
 
 
 【考察】
 
 予想どおり、コーヒーを飲んだ時のほうが勝率が高くなったが、コーヒーの有無で勝率がほとんど変わらなかったこともあった。これは、体調の微妙な違いによるものかもしれないし、バトルに参加したメンバーの違いによるものかもしれない。また、「新しいステージが追加されて、不慣れな状態でバトルを余儀なくされた」影響もあったかもしれない。
 
 今回の検証の真っ最中に、『スプラトゥーン2』に「モズク農場」というステージが追加された。これまで無かったタイプのステージに苦戦した記憶があり、このステージが検証に与えた影響はあるかもしれない。
 
 そもそも、本検証ではステージの統一はできていない。これは『スプラトゥーン2』のナワバリバトルのシステム上どうしようもないことで、同一のステージで検証を統一しようとすると、今度はプレイする時間帯がバラバラになってしまい、それはそれで結果にバラつきが生じることを避けられないだろう。
 
 この検証のデータをとり終えた直後、『スプラトゥーン2』には大規模なアップデートが施され、「プロモデラーMG」をはじめとする多くのブキの仕様が変更されてしまった。アップデートにより内容が変わってしまうゲームを用いている以上、短い期間でデータをとり終えてしまわなければならないため、ステージの統一は諦めることとした。
 
 また、今回の検証は私がAGFのスティックタイプのコーヒーを用いて行ったものであり、他のプレイヤーが検証した場合に異なる結果が出る可能性を否定できないし、よりカフェイン含有量の高い飲料や糖分を含んだ飲料を用いた場合は違った結果が出るのかもしれない。いずれにせよ、このあたりは検証してみなければわからないことではある。
 
 なお、この検証は二重盲検試験のような厳格なデザインをとっておらず、エビデンスとしてはあまり頼りにならない。「コーヒーを飲んだ」という心理的バイアスも結果に含まれている。あくまで日曜研究としてご笑覧いただければ幸いである。
 
 カフェインにはさまざまな薬理作用があり、過剰摂取は心身に良くないとされている。私の場合も、コーヒーがきつく感じられるきらいがあるため、普段はカフェインを摂らないようにしている。今回の検証で「私がコーヒーを飲めば『スプラトゥーン2』の勝率が上がる」とはっきりわかったが、飲む機会は限定して、コーヒー無しでも勝てる技量を磨いていくつもりである。
 
 コーヒーを飲むとゲームの勝率が上がる・勉強や仕事がはかどる、という人は珍しくないだろう。しかし、コーヒーに頼る者はいつもコーヒーを飲んでいなければならなくなってしまうし、それは、ありていに言って不健康である。カフェイン含有飲料の過剰摂取による死亡事故が報じられているのをみるにつけても、コーヒーをはじめとするカフェイン含有飲料の取扱いには注意が必要だろう。
 
 コーヒーを飲めば『スプラトゥーン2』の勝率は上がるが、コーヒーに依存したプレイヤーにはなりたくないものである。
 

攻略wikiっぽくない「自称攻略wiki」を見かけるようになった

  
 ややこしいゲームを遊ぶ時や、新しいゲームを購入する目星をつける際に役立つのが、「攻略wiki」。そのゲームをはじめるにあたっての注意点やおおまかなシステムの把握、キャラクターデータや主な攻略指針など、調べたいことがだいたい載っていて、2000年代の前半から重宝してきました。
 
 でも最近は、あまり攻略wikiっぽくないけれどもwikiを名乗っているブログみたいなものを見かけることが増えました。
 
 

私が馴染んできた攻略wiki

 
 私がお世話になってきた、いや、今でも時々お世話になる攻略wikiっていうと、こんな感じです。
 
 
Civ3wiki - トップページ
 
艦隊これくしょん -艦これ- 攻略 Wiki*
 
トップページ - Xbox360/PlayStation3「The Elder Scrolls V:SKYRIM」日本語版wiki - アットウィキ
 
 
 これらの攻略wikiは、

 ・基本、営利を目的としておらず、
 ・ゲームに関心のある有志が何人も集まって作成していて、
 ・情報の通覧性が高く、必要な情報にたどり着きやすい
 ・スマホで見るよりもPC向きのつくり。ときにはスマホに対応していないことも
 
 といった特徴を持っていました。ただ読むだけでなく参加するものでもあり、私自身もwikiの編集にかかわったことがありました。
 
 

従来の攻略wikiとは違ったタイプの「自称攻略wiki」

 
 
 ところがここ数年、それまでの攻略wikiとは雰囲気の違う、しかしwikiを名乗っているブログみたいなサイトに出くわすことが増えました。
 
pokemongo.gamewith.jp
 
wiki.denfaminicogamer.jp
 
game8.jp
 
 これらの新しい「攻略wiki」は、
 
 ・おそらく営利を目的としているらしい、たくさんの広告
 ・運営者が複数なのか個人なのか企業なのか、はっきりしない
 ・情報の通覧性よりも、新情報やトピックスを優先的に表示する
 ・スマホで見ることに特化している。PCでの通覧性は二の次っぽい
 
 といった特徴を有しています。いわゆる「コメント欄」にはプレイヤーの意見がいろいろ書かれてはいるものの、記事の筆致や構成には統一感があるため、運営者は一人か二人ぐらいとおぼしき雰囲気がみられます。このこともあってか、「みんなでつくったゲーム攻略wiki」という雰囲気より「個人が営利のために立ち上げた攻略サイト」といった趣があります。また、
 
 ・ひとつのゲームに複数の攻略wikiが存在していて
 ・書いてあることがそれぞれの攻略wikiで違っていることも多く、
 ・結果として、ひとつの攻略wikiだけでは不十分
 
 といった感想を持たざるを得ないこともよくあります。攻略wikiを名乗るからには、一か所を通覧すればだいたいのことが把握できるようであって欲しいのですが、たとえば『スプラトゥーン2』に林立している自称攻略wikiなどは、一つだけではまったく足りない感じです。
 
 

いまどきの「自称攻略wiki」は、いまどきの「ゲーム攻略サイト」

 
 そうやって考えると、今、「攻略wiki」を名乗っている諸々は、00年代の攻略wikiよりも、むしろ00年代までは存在していた、個人の「ゲーム攻略サイト」に近い性格なのかもしれません。ただし、どこへ行っても似たようなフォーマットで書かれている点や、スマホでページをめくるたびに広告に追い回される点は、過去の個人サイトとは違っていますが。
 
 かつて、インターネットには「集合知」という考え方があって、wikipediaはもちろん、それぞれのゲームについての攻略wikiにもそういった趣があったように思います。
 
 しかし、今日のインターネットで「集合知」という言葉や思想を見聞きすることは少なくなり、個人で広告収入が稼げる時代にもなったので、みんなで情報を出し合って攻略wikiをつくる、というネット習俗じたいが衰退しているのでしょう。
 
 もちろん、外国ゲームの翻訳などの領域では今でも「集合知」としか言いようのない活動は息づいていますし、こちらの『アズールレーンwiki』のように、昔の雰囲気っぽい攻略wikiが盛り返して検索順位でもトップを奪還することもあるんですけどね。
 
 新旧両方のタイプの「攻略wiki」を行き来しながら時代の流れを感じる、ゲームおじさんの感想でした。 
 
 

現代社会には、イライラした人間の居場所が無いとわかった

 
 ここ一週間ほど、ずっとイライラとしていて情緒が安定していなかった。そうなってみて、改めて自分と自分を取り巻く環境への影響を考えてみたら【イライラしているおじさんやおばさんがいて構わない場所は現代社会には存在しない】ということに気づいたので書き留めておく。
 
 
 【イライラした人間は、どこへ行ってもイライラを伝染させる】
 
 イライラしている客、イライラしている職場の同僚というのは、迷惑な存在であろう。
 
 想像してみて欲しい。
 
 ショッピングモールに、家電量販店に、苛立ちを隠せない客がうろついていたら周りはどう感じるだろうか。イライラした客だな、と思うに違いない。苛立ちは伝染する。「あいつはどうして苛立ちを表に出すんだ」、と思う人も出てくるだろう。
 
 職場でも、やけにイライラしている同僚とデスクを囲むのはどんな気分だろうか。職場の空気はたちまちギスギスしてしまうだろう。「明るい職場」という言葉があるが、イライラした人間が一人混じるだけで「明るい職場」は失われる。「明るい職場」にはイライラした人間はいてはならないのだ。内心はともかく、少なくとも、言動から苛立ちがほの見えるような人間がいてはならないのだ。
 
 家庭でも同様である。
 
 イライラした父、イライラした母を、家庭という小さな器は受け止めきれるだろうか。否。
 
 苛立ちは家庭という小さな器をたちまち満たし、安らぎの場であるべき家庭は針のむしろとなる。子どもの情操教育とやらにも苛立ちはよろしくあるまい。かろうじて、子どものイライラや癇癪ならば、親がなんとか対応できることもあるが、昨今の子育て事情や子どもの抑うつの話などを聞くに、子どものイライラが家庭から溢れ出てしまうことも稀ではないように思われる。
 
 さて、冒頭で触れたとおり、私はここ一週間ほど、ここ十年来なかったほどイライラしていた。ということは、行く先々で、イライラしているおじさんであるところの私は迷惑をかけていたことになる。
 
 私は「明るい職場」に水を差す存在であったと推定される。申し訳ない。
 
 私は店舗でイライラした客だと思われる存在だったと推定される。申し訳ない。
 
 私は家庭でイライラした父親だと思われる存在だったと推定される。申し訳ない。
 
 いや、「推定される」というのは遠回しだ。イライラした存在だったのだ。申し訳ない。
 
 そういう、どこへ行っても情緒面で迷惑であっただろう我が身について反省してみた時、では、ストレスなり内因的な要因なりによってイライラしているおじさんやおばさんが居ても良い場所というのは一体どこにあるのだろう? と疑問を感じた。
 
 答えは見つからない。いまどきは、インターネットも「王様の耳はロバの耳」の洞穴の役割は果たせそうにない。付言すると、インターネットに口汚いことを吐き散らしたところで内的興奮や情緒不安定はほとんど改善しないように思われる。ただカルマが下がるのみだ。
 
 街の盛り場に出ればイライラが減るのか? わからない。ただ、イライラし続けている時の飲食や娯楽というのは、言うほど気を紛らわせるものではないし、イライラはやはり周囲の人に伝わっておそらく迷惑であろうということだ。
 
 結局、誰にも会わずに引きこもり、ただただ眠ることが正解のように思われるが、勤務に出なければならない・家族の一員でなければならないといった務めを思うと、それができる余地は少ない。せいぜい、休日にアナグマのように閉じこもるだけだ。それは家庭に不安をもたらすものではあろうけれども、イライラした人間が家庭を闊歩するよりはまだしもマシな選択だろう。
 
 イライラしたおじさんやおばさんは、どこにも居てはならないのだ。ひょっとしたら、子どもすらそうなのかもしれない。
 
 こうしたイライラのたぐいが一定期間持続すれば、いや、抑うつが一定期間持続したとしても、現代の精神医学は診断基準にもとづいて鬱病をはじめとした「気分障害」の病名をくだすだろう。私のようにせいぜい数日程度の苛立ちの連続ではそうとも限らないかもしれないが、一定期間を超えれば確実に疾患とみなされる。
 
 疾患は英語で「disorder」という。「dis-order」だから、直訳すれば「秩序の外」という意味になる。イライラや抑うつは現代社会には要らない、持続するようなら「disorder 秩序の外]だ‥‥ということは、翻ってみれば、現代社会の秩序とは、イライラの無い生活、抑うつの無い生活なのだろうと思う。
 
 誰かがイライラしていれば、「明るい職場」も「明るい家庭」も望むべくもない。健康で望ましい生活からは、イライラや抑うつは追放されるべきなのである。伴って、イライラしたおじさんやおばさん、抑うつなおじさんやおばさんも追放されるべきなのだろう。いや、治療されるべきなのだ。治療を受けて、イライラしないおじさんやおばさんにならなければならない。それがあるべき姿であり、それが現代社会の秩序にとって必要不可欠なありようだからだ。
 
 イライラし続けている自分自身を内省という名の鏡にうつしてみると、ああ、イライラしているとは「dis-order」であり、秩序とは、職場でも家庭でも居酒屋でも朗らかで楽しげで寛いだ余裕のある態度であって、そこにイライラや抑うつや怒りが入り込む余地は無いのだと痛感させられる。秩序の一員に戻るためには、イライラや抑うつをどうにかしなければならないのであって、どうにかできない限り、秩序の一員には戻れないのである。もし私がもっと長くイライラし続ければ、「明るい職場」や「くつろいだ家庭」やを壊す秩序の敵となってしまうのであり、社会的信用も社会的立場も真夏のかき氷のように溶けてなくなってしまうのだろう。わざわざ烈しい躁状態になどならなくとも、秩序の外の人間であり続ければ秩序の明かりのもとでは暮らせなくなる。それを踏まえれば、なるほど、現代社会においては、苛立ちや抑うつは早急に治療しなければならないというのはわかる話である。
 
 
 【イライラしたら迷惑な社会】
 
 本来、イライラや抑うつは人間にあってもおかしくない情緒の一種である。しかして、現代の秩序は職場でも家庭でも居酒屋でもそれを許容するようにはできていない。
 
 「明るい職場」や「くつろいだ家庭」をデフォルトの秩序とする現代社会は、一面では過ごしやすい社会である。
 
 しかし別の一面として、そのような社会でイライラしてしまったり抑うつになってしまったりしたら、どこにも居場所はないし、どこへ行ってもそれは迷惑になってしまうのである。果ては、「治療」という枠組みが適用されることさえある。
 
 職場や家庭からイライラや抑うつを追放した「明るい社会」は、いざ、イライラや抑うつに見舞われてしまった時に、どこにも居場所が無くなってしまう、包摂度の低い社会ではないか、といまの私は思ってしまった。
 
 もちろん、寛大な職場の人々や家庭の人々は、そのようなイライラや抑うつに見舞われた人を許容するのだろう。だが、いつまでもというわけにはいかないし、どうあれ社会的評価や社会的立場は真夏のかき氷のような速度で溶けてゆく。溶けきってしまう前にイライラや抑うつを回復しなければならないし、なんとなれば「治療」されなければならない。
 
 現代では、職場のメンタルヘルスだの、心のケアだのを大切なものとして、誰もが健康的な精神生活をおくれるように一大運動が展開されている。ストレスケアの一環として、マッサージだのアロマテラピーだのも盛んにおこなわれている。そうやって、誰もが躍起になって社会からイライラや抑うつを追い出して、社会はますます過ごしやすくなって、快適になって、職場にも家庭にもショッピングモールにもイライラした人間がいなくなって住みよくなるのは良いことに違いない。ああ、良いことに違いないとも。 
 
 だが、そうやってイライラも抑うつも追放された社会のなかで、イライラがとれない一人のおじさんとして数日程度を過ごしてみて思い知らされたのは、そういった健康的な社会秩序のなかに、イライラしてしまった自分自身の身の置き場などどこにもない、ということである。イライラした人間がいないことを前提に、職場も家庭もショッピングモールもできあがってしまっていたのだ。自分が秩序の側に長らくいたせいで、私はそのことを忘れてしまっていた。
 
 どこもかしこも明るくなってしまった社会には、暗いもの・ネガティブなもの・憂鬱とみなされてしまうものは、あってはならなくなってしまう。それが社会の進歩だとしたら、ああ、寿いでみせるとも。だが、その進歩から取り残されてしまった時代遅れで「不健康」なエモーションは、どうすればいいのだろうか? 推し殺し、我慢するしかないのか。そうだ。そうだとも。私のやっている仕事とは、「不健康」なエモーションを発見し、駆逐する仕事ではないか。メンタルヘルス。ああ、メンタルヘルス。メンタルヘルスは正義で、そうでないものは不正義。だとしたら。だとしたら。だとしたら。