シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

世界を守るためにインターネットに書き込んでいる人は沢山いる

 
anond.hatelabo.jp
 
 「インターネットにでかい面して書き込んでいるお前らは、自分の快楽のために書き込んでいることを自覚しろ」とでも言いたげな文章を見かけました。
 
 “世の中のためじゃなく自分自身のためにtwitterやはてなブックマークに書き込んでいる”、という読みには異論ありませんが、「気持ちよくなるために」「快楽のために」という読みは片手落ちだなぁと私は思いました。
 
 世界を守るためにインターネットに書き込んでいる人ってのは沢山いると思うんですよ、私は。
 
 ただし、ここでいう「世界を守る」とは世の中全般を守るという意味ではなく、「自分自身の心象世界、主観世界を守るために」という意味ですが。
 
 人間は、「欲求」や「快楽」といったに相当するモチベーションだけでなく、「不安」や「緊張」といったに相当するモチベーションによって動機付けられて動いているものです。twitterなどを眺めていても、いわゆる承認欲求や自己顕示欲を充たすための書き込みと考えては理解しにくいものが沢山あります。
 
 たとえば東日本大震災の時、インターネットに書き込まれた数々の愚かしい書き込みを思い出してみてください。あるいは、スーパーマーケットで争うように安心を買い漁った人々のことを思い出してみてください。あの時の人々の言動は、「欲求」や「快楽」よりも「不安」や「緊張」で紐解いたほうが理解しやすかったのではないでしょうか。
  
 インターネット時代の私達は、いつも大量の情報に接しています。その大量の情報のなかには、もちろん「欲求」や「快楽」を呼び起こして人を動かすものもあるでしょう。しかしそれだけではなく、「不安」や「緊張」を呼び起こして人を動かしているものも多いように思えるのです。
 
 そして世の中には、モチベーション源として「欲求」や「快楽」が優勢な人だけでなく、「不安」や「緊張」のほうが優勢な人もいます。それも、案外たくさんいるように見受けられるんですよ。そういう、飴によってでなく鞭によって衝き動かされる人達にとって、twitterやはてなブックマークへの書き込みとは、「気持ちよくなるために」「承認欲求を充たすために」というよりは「不安を防衛するために」「緊張を和らげるために」なされるものではないでしょうか
 
 インターネット上の炎上騒動みたいなものも、「炎上を楽しみたい」「誰かをボコボコにしたい」みたいな快楽原理だけで理解しては多分片手落ちです。炎上に加担している人々のなかには「炎上対象を燃やさなければ不安でたまらない」「炎上対象を叩いて緊張や葛藤を緩和したい」みたいな動機をもった人が、少なからず混じっているように見受けられるのです。
 
 twtiterでもブログでもはてなブックマークでもそうですが、「不安」や「緊張」のほうがモチベーションとして強い人のなかには、不安や緊張を解消するべく、キツい表現を頻繁に繰り返す人がいます。彼らがキツい表現を頻繁に必要とするのは、それだけ、自分自身の心象世界を守らなければならない心理的要請が強いからではないでしょうか。むろん、「欲求」や「快楽」を求め過ぎてキツい表現を頻繁に繰り返している“炎上芸人”のような人々もなかにはいますが、「不安」や「緊張」が強すぎてネットで騒がしい人と、「欲求」や「快楽」が強すぎてネットで騒がしい人は、定点観測していればおおよそ区別がつくのではないかと思います。
 
 ですので、インターネットは快楽主義者の巣窟というわけではなく、案外、世界を守るために戦う守護者の巣窟かもしれないのです。自分自身が安心できる心象世界を守るために、それを脅かす情報に激しい敵意と否定を差し向けずにはいられない人達――こういう心理的布置は、一部の極端な人々にはもちろん、私達それぞれにも多かれ少なかれ潜んでいるものです。
 


 まさにこのとおりで、ネット上の「議論」の少なからぬ割合は、自分自身の不安や緊張を和らげるために現れ出ているものだと私も思います。誰かを説得するためじゃなく、自分自身を説得するため、そして自分自身の小さな世界を守るために、言葉が発せられ、「議論」が必要とされているとしたら、相互理解なんて夢のまた夢ですよね。でもインターネットに限らず、「議論」と称されるものの幾らかの割合は案外こういう内幕で、だから理解しあえなくても自分の世界が守られれば心理的にはメリットがあるのでしょう。
 
 インターネットはパブリックなメディアであると同時に、個人それぞれの端末とアカウントを介して世界を覗き込むプライベートなメディアです。ですから、インターネットには私達の「欲求」や「快楽」だけでなく「不安」や「緊張」もたっぷり反映されている、と想定すべきでしょう。そういう、主観的な情緒が渦巻くインターネットは、皆さんお好きですか? 私はインターネットのそういうところも結構好きですけどね、だって、すごく人間らしいじゃないですか。
 

子どもが惰性でゲームやるとか、ないわー

 
 先日、Books&Appsさんに「惰性でゲームを遊ぶような姿は子どもにみせないし、子どもがダラダラ惰性でゲームやっていたら止める」みたいな記事を投稿しました
 
 そしたらtwitter側にたくさんのご批判が集まって、うわーマジかー、と思いました。
 
 「惰性でゲームを遊べないのは地獄」「カジュアルゲームをないがしろにしている」といったご批判が結構あったのです。
 
 私は、そこらのおじさんおばさんが通勤電車のなかで暇つぶしとしてゲームをやるのは否定しませんし、例えば、ソーシャルゲームのデイリーミッションに集中力を割いてもしようがあるまいと思っています。
 
 しかし、子どもが「暇つぶしとして、惰性で」ゲームを遊ぶことには、やはり不自然で不健康な印象を禁じ得ません。ゲームに限ったことではなく、子どもが遊びを「暇つぶしとして、惰性で」遊ぶこと自体が、望ましくないし、なんだか不自然なことのように思えるんですよ。
 
 これは私の観測範囲の問題かもしれませんが、子どもが遊びを楽しんでいる時って、夢中になって没頭しているところがあるように見受けられます。昆虫採集でも、ごっこ遊びでも、キャッチボールでも、縄跳びでも、なんでもそうです。傍にいると、遊びを楽しんでいる気配が全身にみなぎっているのが感じられるものです。
  
 私は、そうやって子どもが何かに夢中になったり没頭したりしている時間を、かけがえないものだと思っています。単に楽しいなだけでなく、将来、子どもが自分自身のために夢中になったり没頭したりしなければならない時の貴重な原資となるでしょう。
 
 世の中には、他人に命令されたことにはおとなしく従うけれども、自分自身の望みのまま、夢中になったり没頭したりできない人っていうのが結構います。カサカサした人といいますか。先天的にそうだという部分もあるでしょうけど、夢中になったり没頭したりする体験が足りなかった、という後天的な要素もあるように見受けられます。
 
 子どもが大人になるためには、遊びと勉強や仕事を分けて捉える姿勢も身に付けなければならないでしょうし、夢中になりにくい事をこなす能力も必要です。ですが、そういった小難しい社会的課題をこなすだけではダメで、その前に、夢中になって遊ぶ体験をしっかり積み重ねておかなければ「自分自身のために夢中になれない人」「自分自身のことに没頭できない人」になりかねないのではないでしょうか。
 
 ですから、子ども時代の遊びは、将来の勤勉性やライフスタイルや人生哲学に影響する、とても大切なものだと私は思います。子ども時代、遊びに対してどのような態度を取っていたのかは、将来、自分自身のために何かをやろうと思った時の態度に反映されることでしょう。子ども時代の遊びってのは、まさにハビトゥスなんです。その人の人生に対する態度を左右する、文化資本なんです。
 
 

「ゲームに夢中になる時間」を大切にして欲しい

 
 だから私は、子どもにゲームを禁止したいとは思いませんが、「遊び」としての値打ちの乏しい、ただの暇つぶしとしてコントローラを握るような、ディスプレイを濁った目で見つめるようなゲームプレイは禁止したいと思っています。
 
 ゲームに夢中になっていたり没頭していたりするなら、それはいいんですよ。そういうゲーム体験はどれだけあっても良いと思うし、まさに貴重な時間だと思います。だけど、身の入らない雑なプレイで散漫に時間を潰すのは百害あって一利なしです。そういう姿勢を、ゲームに限らず、他の遊びでも仕事でも勉強でも実践し、休むべき時には休むような、メリハリのある生活態度を家族全員で営もうってのが我が家が目指すべきハビトゥスです。
 
 「遊び」はダラダラやるもんじゃなくて、夢中や没頭を伴った、どこか研ぎ澄まされたものであるべきなんですよ。体力も集中力も落ちている時に、暇つぶしなどと称してダラダラやるのは望ましいものじゃないし、そんな非効率な生活習慣がベッタリこびりついても良いことなんて無いんじゃないでしょうか。
 
 うっかり者が勘違いするかもしれないので断っておきますが、私は「ゲームをスパルタ式にやれ」「ゲームの達人になれ」と子どもに望むわけではありません。ゲームに夢中になっている時間・没頭している時間を大切にしてくれればそれで良いのです。そしてゲームから経験値や思い出をたくさん吸い上げてもらいたい。だから、『スーパーマリオブラザーズ』で一生懸命にクッパを倒そうと頑張る時間だけでなく、『ポケモンGO』のポケモン図鑑を眺めてウットリする時間や、『マインクラフト』で気ままな一日を過ごす時間も、それはそれで貴重だと思います。
 
 ただし、眠いのを我慢するために惰性でゲームやるとか、やることが無いから気抜けしたサイダーのようにゲームをやるとか、そういうのはやめましょうよ、というのをルールにしているのです。
 
 ゲームも勉強も、夢中になる時間や没頭する時間ってのが一番経験値効率が良いし、そのためにも、体力や精神力を無駄遣いしないような生活習慣を身に付ける必要があります。それを、親がやってみせて、子どもにも身に付けてもらうことが、せっかちな“早期教育”のたぐいよりもずっと大切で、後々に効いてくるんじゃないかと私は思っています。
 
 「夢中になって取り組む時間」をできるだけ多くして「散漫な暇つぶし」をできるだけ少なくするのは、社会適応の基礎技術です。そういう基礎を、ゲームを介して親から子へと伝授したいものですね。こういうことは学校じゃあまり教えてくれませんから。
 

はてなブックマーカーがブログ記事の余白を補ってくれる。ありがたいありがたい。

 (※この記事は、はてなブックマーク・はてなブログ・はてなダイアリーに馴染みのある人向けです。ご注意ください)
 
 

嘉彦 洋裁鋏 240mm

嘉彦 洋裁鋏 240mm

 
 最近のはてなブロガーは*1、自分のブログ記事に批判やツッコミが入るのを物凄く嫌っているみたいだけど、はてなブックマーカーがあれこれツッコミを入れてくれるおかげでブロガーとして助かっている部分もあって、ブックマーカーとハサミは使いようですよねー、と私は思う。
 
 一番わかりやすいメリットは、自分では思いもつかなかった考えや視点を提供してくれる点だけど、はてなブックマークには100字しか入らないため、議論や補足としては食い足りない部分もある。ブログ記事を書いて、リンクを飛ばしてくれる他のブロガー様のほうが、ありがたみがある。
 
 それともうひとつ、はてなブックマーカーがブロガー自身が書きたくないことをキッチリ書いてくれることだ。
 
 二年ぐらいでやめてしまうブログならともかく、数年~十数年単位でブログを続けるために意識しなければならないのは、耐火性だったりキャラクターに堆積する手垢の問題だったりする。これは、ブロガーレベルが10ぐらいまでは全く意識しなくて済むものだけど、ブロガーレベルが20を超えたあたりから少しずつ窮屈になってきて、ブロガーレベルが30を超えると、「長くブログを書き続けてきたことによって、積もり積もってしまったもの」がブログの生存性を左右し、ブログの性格や自由度まで決めてしまう。だから、ブログを長く続ける人は、生存性や自由度を意識した振る舞いを心掛けておかないと、いずれ自由にブログが書けなくなる。あるいは、ひどく億劫に窮屈にブログを書く羽目になる。
 
 私が見知っている限り、5年以上ブロガーとして活躍している人は、どんなタイプのブロガーであっても、なにかしらの方法でこういう問題と向き合い続けている。例外はない。
 
 で、生存性や窮屈さの問題を考えると、書かずに済ませたいことはブログになるべく書かず、でも、常連さんには言外にメッセージを伝えたいって場面が頻発することになる。「メッセージは伝えたい。でもブログが窮屈になるようなことは書きたくない。じゃあ、どうするのか?」
 
 そんな時に、颯爽と現れて助けてくれるのが、はてなブックマーカーの皆様だ。ブログ記事からカルマの汚れそうな要素を削除し、余白にしておくと、誰かがツッコミを入れてくれて補足してくれる。一見さんはともかく、はてなブックマークとはてなブログが大好きな“はてな市民諸君”は、当然はてなブックマークを先に読むだろうから、埋められた余白に目を通さない者などいまい。はてなスターを付けて、宣伝すらしてくれる。ありがとう! おかげで私は手を汚さず、けれども伝えたいメッセージを伝達できましたよ!
 
 はてなブログ世界では、ブロガーとはてなブックマーカーは“持ちつ持たれつ”の関係にあって、いつも私は頼りにしている。私が思いつかなかった部分も、私が手を汚したくなかった部分も、はてなブックマーカーの皆様が埋めてくれて、未完成なブログ記事を完成させてくれるのだ。そして、はてなブックマーカーの皆様におかれても、「ハハハ、シロクマめ、間抜けなブログ記事を書いてやがるぜ! いっちょ、突っ込んでやるか~!」とドーパミンをまき散らしながら書き込んでのお楽しみ、はてなスターで連帯感も高まって、はてなでわっしょい、かくして、はてなブログ世界に秩序が生み出されるのである。
 

*1:主語がでかいって? フフフ、そういう気分なんですよ

社会学者による「新型うつ」批判について、私が考えること(後編)

 (※このブログ記事は前編/後編からなっています。前編はこちら。)
 
 
 
 先日公開した前編では、「新型うつ」という言葉について、SYNODOSに掲載されていた井出草平さんによる「新型うつ」批判をおおむね支持する見解を述べた。
 
 ここからは、その「新型うつ」批判で語られたところの、「新型うつ」を取り囲む精神科医や精神医学に関する実情について、私が実地で見聞してきた事を補足する。そのうえで、一精神科医としてDSMやICDといった現代の診断基準を使いながら臨床上どのように行動し、また臨床外においてどのように考えるのが望ましいのか、私個人のオピニオンを述べてみる。
 

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社会学者による「新型うつ」批判について、私が考えること(前編)

 (※このブログ記事は前編/後編からなります。後編はこちらです。)
 
 
 「新型うつ」は若者のわがままか? / 井出草平 / 社会学 | SYNODOS -シノドス-
 
 
 『SYNODOS』というウェブメディアがある。
  
 「アカデミックジャーナリズム」を名乗り、実際、信頼性の高い筆者と記事を擁している。このSYNODOSに、社会学者の井出草平さんが「新型うつ」批判する記事を投稿していたのを、先日見つけて読んだ。きちんと知りたい人はリンク先を読んでいただくとして、私なりに要点を箇条書きにしてみると、
 

・「新型うつ」は2007年頃から精神科医の香山リカさんがメディア上で使いはじめ、正式な病名ではないにもかかわらず広まっていった。

・うつ病の一般的言説では、従来型のうつ病は生真面目な人がなりやすいもの、「新型うつ」はわがままで不真面目な人がなりやすいもの、と語られやすい。

・だが、「新型うつ」でみられる特徴、たとえば気分反応性などはうつ病でよくみられるもので、「新型うつ」もれっきとしたうつ病である。

・「新型うつ」は、若者叩きの道具としてしばしば用いられる。都合の悪い社員の首を切る道具になってしまいやすい。

・「新型うつ」には科学的根拠はないが、専門家のお墨付きを与えられて一人歩きしている。

・「新型うつ」を口にしているのは、科学的エビデンスを考慮しない専門家、古い精神医学を修めている専門家、英語を読めない専門家である。

・DSM*1が登場したにもかかわらず、それについていけない精神科医が、古い考え方のうつ病概念と照らし合わせて「新型うつ」という言葉を作り出した。

・「「従来型うつ」は治りやすくて「新型うつ」は治りにくい」はウソである。むしろ「従来型うつ」の予後は良いと言えない。

・うつ病の長期予後は楽観できるものではない。この数十年で研究が飛躍的に進歩しているのだから、専門家はもっと勉強しろ!

・「新型うつ」を解雇の材料にしている産業医は、そんなことやめろ。

 といったものになる。
 
 論旨としては、最新の診断技法を学ばず「新型うつ」という言葉を一人歩きさせている精神科医は態度を改めろ、そして「新型うつ」という言葉を一人歩きさせるな、となるだろうか。
 

*1:アメリカ精神医学会が統計的根拠にもとづいて編纂している診断と統計のマニュアル。おおむね最新のマニュアルと考えて構わない。

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