シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ジワジワ来る地方都市論――貞包英之『地方都市を考える』

 
 
 

地方都市を考える  「消費社会」の先端から

地方都市を考える 「消費社会」の先端から

 
 
 この本の最初のページには、“地方都市について、できるだけ「邪念」なく考える。それが、この本の主題である”と書かれている。実際、しばらく読み進めると「地方はダメ」「地方は素晴らしい」的なオピニオンを押し付けるような本ではないことがわかる。地方都市の現状を、淡々と記している。
 
 出版社が同じせいもあってか、拙著『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』のサブカルチャー臭を抑えて、もっとキチンと・学術寄りにリファインした内容にも読めた。地方都市の人口移動の問題、住まいの問題、観光の問題、(サブ)カルチャーの問題、等々。のみならず、地方都市の変化の背後にある法的・政治的な変化についても、データを交えながらたくさん書いてあって参考になった。
 
 たとえば、地方都市では駅周辺が寂れ、幹線道路沿いに商業地が移転して久しい。ただし、それは一段階の変化ではなく、実際には、
 
 1.駅周辺に新しい商業エリアが栄える
 2.郊外に商業エリアが流出する
 3.巨大ショッピングモールが建設される
 4.自治体の土地区画整理事業に相乗りしたモールが造られ始める
 
 といった幾つかの段階を経ていて、その背後には法的・政治的な力学が働いている。
 
 ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)が記された頃、地方都市は3.の段階だったが、2010年代の地方都市*14.の段階を迎えている。単に郊外にショッピングモールが建てられるのではなく、地方自治体のインフラ機能やニュータウンまでもが一切合切セットになった新しい生活空間が、全国に造られている。
 
 そうした変化の背景に、モータリゼーションや消費個人主義の浸透があるのは言うまでもない。だがそれだけではなく、大店立地法や都市計画法の改正が人や企業を動かしているということ、そうした法改正そのものが政治の産物であることも忘れてはならない。加えて、「まちづくり」を巡る住民の意志、地方の政治勢力の変化、誰が地方にとどまり(または取り残され)誰が地方から移住するのかといった、地元の力関係までも重なり合って、地方都市の“今”ができあがっているわけだ。
 
 地方都市の国道沿いやニュータウンの風景は、経済的・文化的なあらわれであると同時に、法的・政治的なあらわれでもある。この本は、そのことを強く意識させる。
 
 

何を感じるかは読者次第

 
 多種多様な観点から地方都市を論じているだけに、『地方都市を考える』を読み終えた時の感想やインスピレーションは読者次第だろう。町村部で農林水産業に従事している人・地方都市中枢で働くホワイトカラーの人・生まれも育ちも大都市圏の人では読後感が違うだろうし、地方都市の再生を確信している人と没落を確信している人でも違うだろう。
 
 私個人は、「どうあれ、地方都市は“東京”の重力と向き合っていかなければならない」と感じた。
 
 筆者の貞包英之さんは、決して地方都市の将来を悲観しているわけではない。むしろ逆で、地方都市の活力や地元住民の生存戦略のしたたかさにもページを割いていて、“地方都市について、できるだけ「邪念」なく考える”という冒頭のマニフェストを忠実に守っているように読める。
 
 しかし、そういう筆致だからこそ、地方都市の経済的・文化的・法的・政治的な行く末が、究極的には“東京”すなわち中央の動向によって決定づけられていく構図がジワジワ浮かび上がってくるように私には読めてしまい、落胆、ではないけれども、覚悟を迫るところがあるように感じられた。
 
 もちろん地方都市では、地方の独自性を生かしながら経済的・文化的に発展していこう、自分達の自治をしっかりやっていこうという機運があるし、成功した例も少なくない。他方で、地方都市から大都市圏へ頭脳や資本は流出し、地元経済や地元雇用はますます“東京”の企業への依存を深めていく。地元の文化や観光にしても同じで、地元自身の評価尺度に基づいて発展させていくのではなく、“東京”の評価尺度に基づいて――あるいは“グローバル”の評価尺度に基づいて――みずからを整形し、売り出しているという点では、“東京”への依存を深めていると言える。
 
 地方都市が“東京”の重力と繋がっていること自体は、いけないことではない。ショッピングモールやコンビニができあがって“豊かな地方の生活”が成立するようになったのも、地方都市にも自由度の高い個人生活が浸透したのも、“東京”からの伝播と恩恵があることを、地方に住む人間は忘れてはいけないのだろう。
 
 ただし、これから地方都市がいよいよ力を失い、“東京”の影響力に依存する度合いを深めていくとしたら、地方都市と“東京”の関係性は過去とも現在とも違った、更なる段階に移行することになる。この本に記されたデータを眺める限り、そのように私は予感したくなる。もちろんこれは経済的・文化的な変化だけでなく、法的・政治的な変化を伴ったもので、なかば、地方都市が“東京”に呑み込まれていく従来のプロセスの延長線上に位置づけられるものだろう。
 
 鉄道網や幹線道路網の整備に歩調を合わせるように、これまでも地方都市は“東京”や近隣大都市圏の影響を受け続けてきた。これからもそうだろう。一人の地方都市在住者として、私は、そうした長いプロセスの渦中に自分自身が置かれていることを痛感しながら、この『地方都市を考える』を読んだ。感情的な扇動や一方的なオピニオンの押し付けではないだけに、とことんジワジワ来る一冊だった。
 
 ※こちらの一環として。

*1:少なくとも、いくらかの体力が残っている地方都市

はぁ……ゲーム厄年だ。

 
 任天堂の『テレビゲーム15』以来、ゲームを遊び続けてきた私は、今年、厄年を迎えた。ゲーマーにふさわしい厄年になったと思う。
 
 
1.まず年初めに『ダライアスバーストCS』が発売された。
 
darius.jp
 
 生まれてこのかた、いちばんお金と時間を積み上げてきたシューティングゲーム、その最高峰の作品が自宅でも遊べるようになったのだ!このゲームをやりこむために急遽ディスプレイを二台揃えて、万全の態勢で発売日に臨んだ。
 
 で、その結果がごらんのありさまだ。
 



 
 『ダライアスバーストCS』には、全1500ステージを攻略する「クロニクルモード」がある。これにハマった私は、ワールドトップスコアを記録した時にもらえる「金色勲章」*1集めに夢中になってしまい、プレイヤー同士のスコア争いに突入した。
 
 今年の3月~4月ぐらいまでは技量の高いプレイヤーが少なく、金色勲章はほとんど取り放題だったが、5~6月頃からプレイヤーの技量が底上げされてきて、甘いスコアではほとんど勝てなくなった。ほんの僅かのミスが勝敗に直結するから、いつも真剣勝負だ。新しい得点パターンの開発も重要で、バージョンアップを怠れば他のプレイヤーに勝てなくなるだろう。
 
 『ダライアスバーストCS』は、いわゆる弾幕系シューティングゲームに比べれば視力を酷使しないので、40代でも遊びやすい部類ではある。それでも、20代の頃に比べれば集中力も直感も鈍くなっているから、自分自身に歯がゆさを感じる。だが、スコアに向上の余地があって、「金色勲章」を取得する余白も残っている以上、まだ私の戦いは終わっちゃいない。
 
 血反吐を吐きながらスコア稼ぎを楽しんでいるような、マゾい状態になっている。辛い。
 
 
2.5月には、スウェーデン産のシミュレーションゲーム『ステラリス』が発売されてしまった。
 
 
www.stellarisgame.com
 
 私には、子どもの頃から遊びたいゲームがあった。それは「恒星系を探索し、良い環境の惑星を見つけたら植民し、宇宙艦隊をつくり、異星人に遭遇したら艦隊戦をやるようなゲーム」だ。これに“近い”コンセプトのゲームは幾つも発売されたけれども、恒星系の探索が乏しかったり、ゲーム開始時点で異星人が見えていたり、艦隊戦のリアルタイムバトルが中心だったり、……とにかく、私が本当に遊びたいゲームとはどこか違っていた。
 
 ところが、『ステラリス』は私のストライクゾーンど真ん中だった! まさに「恒星系を探索し、良い環境の惑星を見つけたら植民し、宇宙艦隊をつくり、異星人に遭遇したら艦隊戦をやるようなゲーム」を、『ハートオブアイアン』や『ヨーロッパユニバーサリス』などで有名なParadox社が仕上げてくれたのだ!
 


 
 私は宇宙のグラフィックが好きだ。惑星や恒星がゆっくりと回転しているグラフィックを眺めているだけで満足できてしまう。だというのに、調査船で惑星探査したり、宇宙艦隊をつくって異星文明と戦ったり、色んなことができてしまう。それも、今まで遊んだどの宇宙ゲームよりも自由度が高く、壮大なスケールで、SFネタてんこもりで遊ばせてくれるのだから、もうどうしようもない。
 
 ゲームギミックも凝っている。ワープ航法と武器は三種類から選べて、それぞれ長所短所があって面白い。政治体制も寛容な民主主義国家~排他的な専制帝国までいろいろで、どれを選ぶかによってプレイ感はだいぶ変わる。
 



 
 名作シミュレーションゲーム『シヴィライゼーション』シリーズなどに比べると、『ステラリス』はプレイヤーの腕前を競うゲームとしてはバランスが悪いかもしれない。でも、私が本当に欲しかったのはバランスの優れた宇宙ゲームでなく、宇宙探索や宇宙艦隊の妄想に耽りながらぼんやりできるゲーム星間国家の“ロールプレイ”に夢中になれるゲーム、なのだった。『ステラリス』を起動させて宇宙をボーッと眺めているだけで私は幸せだ。すばらしく退廃的な遊びだと思う。辛い。
 
 
3.そのうえ、7月下旬に『ポケモンGO』がリリースされてしまった。
 
www.pokemongo.jp
 
 
 位置情報を使ったゲーム『Ingress』がマニアを熱狂させていた頃、私は「これを一般向けに作り直したゲームがリリースされたら、きっと面白いだろうなぁ」と思っていた。『Ingress』を遊んでいる人は皆楽しそうだったけれども、いくつかの点で敷居が高いと感じて、忙しかった私は避けざるを得なかった、のだった。
 
 で、三年ほど待ってリリースされたのが“ポケモン”だったわけだ。なんてこった。やるしかないじゃないか。
 
 『ポケモンGO』は一人で遊んでも楽しいが、子どもと一緒に遊んでも楽しい。ポケモンの捕獲は子どもに任せて、世間の迷惑にならないよう引率し、遠近のポケストップを巡るのは夏休みの社会勉強として役立つように思った。もちろん親子関係の一材料になっているし、子どもと「効率やルーチン」について議論するにも適している。昔からそうだけど、いつだって、ゲームは大事なことを教えてくれる。
 
 それにしても、7月21日というリリース日はよく考えられているなぁと思った。
 
 子どもが夏休み本番を迎える前にリリースすれば、お調子者の大人達が大騒ぎしてくれて、勝手に宣伝してくれるだろう。「ダウンロードができないほど混雑している」のも、一種の通過儀礼みたいなものだ。そういうお祭り騒ぎを経た後に、お盆の帰省ラッシュのシーズンがやって来たのだから、罪作りと言わざるを得ない。『ポケモンGO』でひと夏の経験値を稼いでしまった子ども達は、『妖怪ウォッチ』の事なんて忘れてしまうんじゃないだろうか。
 
 『ポケモンGO』をやるためには、たくさん歩かなければならないわけで、時間も体力も磨り減っていく。子どもを引率する際には気も遣う。面白いけれども身体を壊してしまいそうだ。辛い。
 
 

俺の厄年はゲーム大豊作

 
 こんな風に、私の厄年はとんでもないゲーム大豊作になってしまった。厄年というタイミングで“俺のためにつくられたと錯覚したくなる”ゲームがどんどん発売されるのは、どういう因果なんだろうか。ありがたいことなんだろうか。それとも破滅の罠か。ともかくも三十年以上ゲームを遊び続けてきたから、この、ゲームだらけの厄年にたどり着いたことは間違いない。厄年を迎えても、私はゲーマーなのだ。
 

*1:厳密には「ワールドトップスコアを取得した後、もう一度そのステージを遊ぶ」

すっかり年を取ってすっかり変わってしまった鳥越さんを眺めながら考えていたこと

 
 
 
「ペンの力って今、ダメじゃん。だから選挙で訴えた」鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】
鳥越氏のインタビューが面白かったので突っ込みどころを挙げてみる: 不倒城
 
 とても悲しいインタビューだった。
 
 鳥越さんに投票した人が悲しくなるような内容だし、マスコミに詳しいはずのジャーナリストがこのように受け答えして、実質、晒し者になっているのも悲しかった。
 
 どう見ても「晩節を汚している」ようにしか見えない。
  
 もともと鳥越さんには都知事たる器量が無かったのかもしれない。しかしそうは言っても、20世紀末には大活躍していた人物だ。もし、20世紀末の鳥越さんが同じような状況のもとで都知事選に立候補していたら、これほどみっともない自己弁護は繰り返さなかったに違いないし、インターネットメディアの台頭とその意味にも敏感だっただろう。ジャーナリストやタレントとして大活躍していた20~30年前の鳥越さんが、タイムマシンかなにかで2016年の自分自身を見たら、非常に落胆するに違いない。
 
 鳥越さんに限らず、メディア上でいつまでも活躍しながら年を取っていくのは大変だなぁ、と思う。
 
 王貞治さんや長嶋茂雄さんのように、上手にメディアに登場しながら年を取っている人もいるし、瀬戸内寂聴さんのように、94歳になってもキャラクターがブレずに活躍している人すらいる。しかし、皆が皆、上手に年を取りつつメディアに出ているわけではない。メディアからフェードアウトしていく人はマシな部類で、年を取るにつれて思考力や判断力や羞恥心が衰えて、過去の名声に泥を塗るような醜態を晒している人もいる。鳥越さんよりも若い年齢でも、そういうメディア人士はけして珍しくない。
 
 人間は、老いれば心身が弱くなる。もちろん、心身が弱くなっても、いや弱くなっていくからこそ、エイジングに沿った心理/社会的な成長の余地があるとも言えるけれども、ハードウェアとしての脳の機能は、どうしたって弱くなる。その最たるものが認知症だが、認知症ではない人でも、元来の弱点が露呈しやすくなったり、ストレスに弱くなったりといった変化は案外起こる。時局や世相の変化にも鈍感になりやすい。
 
 だからこそ、年を取っても弱点があまり露出せず、晩節を汚さず活躍しているメディア人は本当に凄い。本人自身もさることながら、本人を支える人達も頑張っているのだろう。感服するほかないが、あれが平均的なエイジングの姿だと思ってはいけない。彼らは出来過ぎている。
 
 

あなたは、二十年後のネットメディアでも“安全運転”できますか?

 
 私には、鳥越さんが残念なことになっていくプロセスが他人事とは思えない。
 
 私はブログ愛好家だから、自分が二十年後もインターネットをやりたがるのは容易に想像できる。この文章をお読みになっている人達だって、その頃にはtwitterやFacebookは使っていないかもしれないが、なんらかのネットメディアを利用している可能性は高い。
 
 二十年後も心身健康でいられる人は、きっと二十年後も元気にインターネットをやっているだろう。だが、健康の曲がり角を迎えて心身が衰弱した状態に陥っていたら? あるいは認知症と診断される寸前の状態だったとしたら? 思考力や判断力や羞恥心の衰えた言動を、ネットメディア上にばらまいてしまうのではないだろうか。
 
 「私は鳥越さんと違って有名じゃないから関係ない」と反論する人もいるかもしれないが、そうとも限らない。ネット炎上で社会的信用を失った無名の人達のことを思い出してみて欲しい。彼らはまったく無名だったのに、ネットメディア上で“やらかして”“一発KO”していたではないか。
 
 心身や判断力の衰えとネットメディアの組み合わせは、それ以外の危険もエスカレートさせる。個人情報丸出しの写真や動画を投稿してしまうリスク、フィッシング詐欺や悪質セミナーに引っかかってしまうリスク、家庭の外に出してはいけない話をうっかり喋ってしまうリスクetc……。若い頃、そういったリスクを悠々と回避できていた人でも、加齢や疾病によって脳の機能が弱っている時にはそうとも限らなくなる。家族や親しい人を喪失し、孤独に直面した時などは、特にそうだろう。心身が弱ってタガが緩んだその瞬間、インターネットの“事故”は起こる。
 
 認知機能に衰えを感じた人が運転免許証を返上するのと同じように、ネットアカウントを返上するような判断が、これからの高齢化社会には必要になってくるのではないだろうか。
 
 私自身も、健康にあまり自信が無く、あまり長生きできそうに無いから、インターネットから身を引くタイミング、あるいはせめて、インターネットへのアウトプットを制限するタイミングを考えなければならないと思う。私はまだ四十代だから、二十年後もどうにかインターネットが出来ていると信じたいが、自分より年上のメディア人士の姿を眺めるに、二十年後の私は今以上に自制を利かせなければ危ないはずである。幾ばくかの心身の疾病が加われば“事故る”確率はかなり高くなるだろう。
 
 あと二十年もすれば、インターネットのアクティブユーザーは今よりもずっと高齢化して、その高齢化にふさわしいいろいろな問題が浮上してくるだろう。みんながみんな健康なまま年を取っていれば万々歳だが、そうなるとは思えない。ネット炎上の年齢層は、若者アカウントから年配アカウントに大きくシフトし、ネットを使った詐欺や悪質商売のターゲットも、若者から年配者へいよいよシフトしていくと思われる。
 
 現在の鳥越さんは決して認めないだろうが、SNSもブログもニコニコ動画も、インターネットを介したひとつのメディアだ。である以上、このメディアを使いこなすには相応の思考力や判断力が必要だし、無名のネットユーザーでも、心身が衰えてくればリスクが増大することを忘れてはいけないと思う。すっかり年を取ってすっかり変わってしまった鳥越さんの姿をメディア越しに眺めながら、私はそんな事を考えていた。
 

「声」が集まって影響力が生じる、その形式がネットメディアの普及によって変わりました。私はそれを面白がっているんです。

 
「スマホやSNSが生み出した権力」と、その行方 - シロクマの屑籠
多数決でマナーを決めよう!(仮) - ←ズイショ→
 
 こんにちは、ズイショさん。先日は私のブログ記事をお読みくださり、またreplyを書いてくださり、ありがとうございました。
 
 「スマホやSNSが権力を生み出している」という表現は、あまり良くない表現だったかもしれません。「権力」ではなく「影響力」と書いたほうが良かったでしょうか。私自身は「影響力=権力」という理解を改めるつもりはないので、影響力と書き換えても私自身にとって文意は同じです。
 
 で、影響力が今、社会のどこに存在していて、メディアがその影響力をどんな風に集めたり配ったりしているのか、私が書きたいことを好きなように書いておきます。
 
 原理的には、人間同士の影響力は帝釈天の帝網のように無限に関連しあい、連なっていると私は理解しています。人が集い、人がお互いに影響を受けたり与えたりしながら生きている以上、娑婆世界とは、影響力が働きあい、せめぎあい、拮抗しあう場です。この原理原則から逃れるためには、コミュニケーションをやめなければなりませんが、社会的引きこもりの人ですら、親との間で、あるいは引きこもり支援者との間で、影響-被影響の相互作用を起こしているわけですから、「意識や意志のある限り、人間はコミュニケーションをやめられないし影響力の重力空間を逃れられない」と考えて差し支えありません。
 
 家族同士でも、友達同士でも、中学校や高校のクラスルームでも、影響力はいつだって波及しあっています。誰の言うことなら耳を貸すのか、誰と誰が仲良しなのか、誰が人気者で誰が不人気なのか――これらは、すべて影響力の相互作用の所産です。お互いが対等で仲の良い夫婦関係や友人関係も、それらは影響力や権力が「無い」のではなく、影響力や権力の「勾配が無い」にすぎません。お互いの影響力が拮抗しているけれども、ものすごく影響を受けあっている夫婦や友人同士は珍しくありません。さながら、人間の連星系ですね。
 
 「影響を与える力」、すなわち影響力には色々な種類があって、キチンと整理していないことを承知で幾つか挙げてみると
 
 ・他人のアテンションを引き付ける力 
 ・他人になんらかの感情を与える力
 ・他人の考え方を変える力
 ・他人に考えることを強いる力
 ・他人の行動を制限したり強制したりする力
 
 などがあります。そしてコミュニケーションとは他人の行動確率を左右する営みなので、影響力を及ぼすコミュニケーションとは「他人の考え方を変えるか、否か」みたいな作動の仕方をするのでなく、「他人の考え方を変える確率が高くなる」みたいな、確率を変えるものだと私は捉えています。たとえば、クラスのなかにコミュニケーション能力抜群な生徒がいたとしても、「すべての生徒を意のままに操れる」わけではありません。彼の持つアドバンテージとは「他生徒に話を聞いてもらえる確率が高い」「何かを提起した時にクラス内でコンセンサスができあがる確率が高い」といったものでしょう。
 
 また、文化祭の出し物を選ぶ時などがそうですが、一部の反対派を抑えて話をまとめなければならない際には、反対派が黙って言いなりになるのではなく、「反対派に貸しをつくって言いなりになっていただく」「反対派に配慮したかたちで取りまとめる」ことがよくあります。この場合、クラスのまとめ役や主流派だけが影響力を行使しているのでなく、反対派の生徒もそれなり影響力を行使している、と言えるでしょう。クラスメートと一切話をしない空気人間が内心で反対しているだけならともかく、クラスの一員としてそれなりコミュニケーションしている人が、「私は反対だ」と表明できる限りにおいて、少数派でも影響力を振るうって事は全然珍しくありません。影響力の勾配がよほど極端か、コミュニケーションを行う意志と能力を著しく欠いているのでない限り、その場で声をあげられるすべての人間・その場で発言するすべての人間が、影響力の相互作用の当事者であり、インフルエンサーでもあります。
 
 こういう影響力の相互作用が、家族、学校、職場、議会、世論、そういったあらゆるレイヤーで間断なく起こっている(しかも多重的に錯綜している)わけです。
 
 ただし、こういう影響力の相互作用と、声をあげる/あげないの問題は、個人の意志や能力だけで決まるものではありません。メディアが介在することによって、どこに・どんな・どれぐらいの声が届き、どの程度の影響力を振るうのかは大きく変わってきます。
 
 まだ文字や構築物*1が少数の人間に独占されていた頃、文字や構築物はすごいマジックアイテムでした。なぜなら、石碑に刻まれた王を讃えるメッセージや石碑の存在そのものによって、あるいはカテドラルの外観や屋内の絵画などによって、権力者はその場にいなくても影響力をばらまき続けることができたからです。ゲームっぽい比喩をするなら、これらは影響力の“遠隔攻撃”“影響力の無限スポット”にも等しかったでしょう。
 
 ほとんどの人が話し言葉(=会話)でしか他人に影響力を行使できなかった以上、文物によって他人に影響力を及ぼせる人間は圧倒的に優勢だったことでしょう。まだまだ社会システムが未熟だったにもかかわらず、一時的とはいえ、特権階級が国家レベルで権勢を振るえたのは、文字や構築物に助けられていたところ大だったと言わざるを得ません。もっとダイレクトな影響力の顕現である軍隊ですら、文字や構築物の助けを借りなければシステムとしての体裁を維持できませんでした。ほとんどの人がメディアを保有していない状況下でメディアを独占している人間は、圧倒的に強い。
 
 ところが、活版印刷やら産業革命やらが起こってから、状況が変わってきます。もう、文字や構築物は王侯貴族や僧侶だけの独占物ではありません。新聞や書籍が介在するかたちで、市民*2が影響力を持ち得るようになりました。情報伝達手段と複製技術と流通網の発達によって、市民が流行をつくりだせるようにもなっていきました。
 
 絵画や音楽にしたってそうでしょう。それまでは王侯貴族の影響下で専ら絵画や音楽がつくられていたし、絵の具の値段などを考えると、それは仕方のないことだったでしょう。けれども、市民が絵画や音楽を買い求めるようになり、絵の具やカンバスといったメディアが手頃な価格になるにつれて、絵画や音楽による表現とその影響力は、市民と芸術家のものになっていきました。
 
 つまり、技術や産業や商業の発展によって、「メディアを使って自分の声をあげられる人」が増えた結果、娑婆世界のなかで声をあげられる人・影響力を行使できる人の幅が広がった、ということです。
 
 こうした変化は、90年代~00年代のメディア世界でも起こっているものです。かつて、出版社やテレビ局の独占物だった「不特定多数に情報配信する」行為は、この数十年間でものすごく敷居が下がりました。ブログも、YouTubeも、『小説家になろう』もそうです。それまではメディア業界の影響下で専らコンテンツがつくられ、選ばれていました。出版や放送にかかるコストを考えるとそれは致し方なかったでしょう。けれども、新聞や雑誌やテレビを介さずとも100万1000万単位のトラフィックが流れるようになり、情報配信が手軽になるにつれて、ネット上のテキスト配信や動画配信と、その影響力が拡大していったのです。
 
 変化を象徴しているのが、昼間の情報番組が垂れ流している「twitterやLINEの声」と称するあれです。あれらは番組にとって都合の良い「ネットの声」ではあるけれども、ああやって「ネットの声」と称するテキストをテレビが流しているということは、「ネットの声」の内容がなんであれ、「私達はネットの影響を受けています、私たちはネットの声を意識しています」と白状していることにほかなりません。もちろん、ああすることによって番組側が獲得する影響力ってのはあるでしょう――「私達はネットの生の声にもアンテナを張っているんですよ!」的な――、でも、「ネットの声」がテレビに垂れ流されるたび、メディア空間全般における「ネットの声」の位置づけや意味づけがテレビに近づいて、世論としての正統性、「声」としての確からしさが高まっていったのではないでしょうか。そうでなければ、東京オリンピックのロゴ問題や「保育園落ちた日本死ね!!」があそこまでの騒動になったとは、私には思えません。
 
 [関連]:ネットの暗い情念が“世論”と接続してしまう怖さ - シロクマの屑籠
 [関連]:私は、弾劾のプロセスとネットの性質に戦慄したんですよ - シロクマの屑籠
 [関連]:「炎上政治」と“脊髄反射” - シロクマの屑籠

 
 「ネットの声」を伝えるネットメディアが既存のメディアに近い位置づけや意味づけを獲得するにつれて、当然、ネットは影響力合戦のホットな最前線となりました。その兆候は00年代以前からありましたが、本格化したのは、twitterやFacebookがブームになった2009年以降でしょう。10年代におけるインターネットは、オタクやサブカルの陣地戦・洗脳戦よりもずっと生々しい影響力合戦、というより権力闘争の舞台となりました。
 
 ここで思い出していただきたいのが、さきほど私がアンダーラインを引いた“「私は反対だ」と表明できる限りにおいて、少数派でも影響力を振るうって事は全然珍しくない”というクラス内政治の傾向が、インターネットでもだいたい該当するということです。
 
 たとえば、あるイシューについて、誰かが肯定的な意見を言って「500万いいね」された一方で、別の誰かが否定的な意見を言って「100万いいね」されたとします。こういう時、絶対多数決の原理で「500万側の意見がそのままネット世論になる」ということは、あまり無いのではないでしょうか。
 
 東京オリンピックのロゴ問題を巡ってのネット世論を思い出すと、人によっては「インターネットは絶対多数決だ」と言いたくなるかもしれませんが、実際には、あの問題が窮地に立たされていく過程には幾度もの歯止めのプロセスがありましたし、あのロゴが使われなくなると決定した後も、ロゴの使用中止にすべての人が納得したわけでもなく、「最初のロゴのままであるべき」という声はインターネット上に木霊していました。「最初のロゴのままであるべき」という声は、完全に無駄だったわけでも完全に死んだわけでもありません。
  
 ましてや、映画『シン・ゴジラ』についての賛否などは、賛同/否定どちらかが絶対になることなど決して無いでしょう。だからといって肯定派の意見、否定派の意見、どちらも影響力を持たないわけではなく、どちらも、支持される度合いに見合ったかたちで影響力を保持することになります。
 
 だから、インターネットの影響力合戦で“勝利”したい人は、別に多数派でなくても構わないのです。少数派だったとしても、いくらかでも支持者がいて、声や影響力として認知され得れば、“勝ち”と言って差し支えないでしょう*3。「ラウドマイノリティ」という言葉もありますが、少数派がみずからの影響力を収集するのにインターネットは格好のメディアだと思いますよ。情報配信や支持者収集が非常にやりやすくなって、オピニオンのロングテールといいますか、これまでだったら言葉を発することもシンパシーの輪を広げることも難しかった人達までもが、大なり小なり寄り集まって影響力として、あるいは「勢力」や「声」として認知されるチャンスを獲得したのです。自分だけでは意見を表明できない人でも「いいね」や「リツイート」さえ押せば、自分が推す意見をそっくりそのまま広げられるから、例えば、1980年代だったら「話し言葉」の世界では珍しくなくても「書き言葉」の世界では黙殺されていたであろう人達までもが、意見を、嗜好を、不満を、影響力合戦の空間に投射できるようになったのです。
 
 インターネット、特にSNSの「いいね」や「リツイート」のたぐいには、話し言葉に近い性質もあります:つまり、書籍や映画に比べて忘れ去られやすく、後から顧みられにくい、という性質ですが、そこはそれ、インターネットには「消さない限り記録が消えないしアクセスされ続ける」「拡散範囲に制限が無い」といった特質もありますから、案外、古代のマジックアイテムと比較しても見劣りしないぐらいにはマジックアイテムっぽさがあります。この比喩で言えば、コンビニの冷蔵庫に入って人生を炎上させた人とは、強力なマジックアイテムを面白半分に使ってみたら、びっくりするほどエネルギーが集まって燃えちゃったって感じでしょうか。
 
 「話し言葉」は、話者の能力次第では瞬発力のある影響力爆発を起こせますが、その効果は話が終わると急速に減衰していき、影響力を蓄積することは容易ではありません。対して、「書き言葉」*4は「話し言葉」に比べて影響力の減衰が弱く、蓄積しやすく、特に活版印刷以降はコピーや増幅も簡単です。だからこそ「書き言葉」は過去においてはマジックアイテムと同義だったわけですが、実は、スマホやSNSの普及によってマジックアイテムが各人に配られちゃったってことなんですよ。情報革命とは、影響力革命でもあり、投票革命でもあり、権力革命でもあったわけです。「書き言葉」の製造・流通・集積・消費の流れが変わったことによって、影響力の製造・流通・集積・消費の流れも変わったんです。プロセスも当事者も権力者も変わったと言って良いでしょう。いや、そもそも「声」や影響力や権力の存在様式自体すら変わってしまいました。インターネットによって新しい影響力の文法が表れたとも言えるでしょう。
  
 影響力や権力の存在様式が変わってしまったので、強力な影響力のなかには過去の範疇的な「権力」の定義に馴染まないものもたくさんあるでしょう。でも、目ざとい連中は、政治家候補であれネットビジネスマンであれ未来のテロリストであれ、そういう影響力の文法変化を把握して“うまいことやっている”わけです。もちろん、グズグズと、嫌々ながら影響力の変化に引きずられている者もいますが。
 
 SNSが普及して間もない2009年~2010年ぐらいまでは、そうした変化を噛みしめている人間はSNSユーザーのなかにもまだそんなにいませんでした。でも、みんながSNSに慣れてきた2014~2016年にもなると、「リツイート」や「いいね」を集めて影響力の渦中に立つ人間も、「リツイート」や「いいね」を押して影響力のクラウドをつくりあげる人間も、すっかりネットメディアの影響力合戦に適応してしまいましたよね。何かを燃やす・何かを批判する・はてなブックマークにコメントする時の、ネットユーザー達の顔つき・手つきを見てやってくださいよ! あいつら、ちゃんと権力者の顔をしているんですよ。いまどきのネットユーザーは、自分が書いたり拡散に寄与したりすることで体感される影響力、その影響力の快楽をちゃんと知っています。そういう快楽が、演説するような人間でもなく、テキストや動画をつくれる人間でもない、ただ「リツイート」や「いいね」を押すだけの人間にまで浸透してしまいました。
 
 炎上案件を矢継ぎ早に批判している、あの泡沫アカウントの書き込みを見てご覧なさい! ボウボウ燃える案件を批評し続けるあの書き込みに、自分が影響力を行使していることに酔っている人間の、愉悦が感じられるでしょう? でも、ああいう酔客みたいな、なんでもいいから他人に影響を与えたい・罰を与えたい連中までもが影響力のクラウド形成の一翼を担っていているわけです。
 
 まあ、上記は極端な例ですが、それでも、多かれ少なかれ私達は、自分がネットメディアを介して影響力を行使できるということを肌感覚として知っていて、そこに魅力を感じちゃったりしているのではないでしょうか。
 
 ともあれ、これらは「書き言葉」が一部の人間に独占されていた時代にはあり得なかったことです。こういう新しい状況に立ち会っていることを、私は嬉しく思います。噛みしめれば噛みしめるほど面白い変化ですし、こんな状態が野放しになっているのを眺めていられるのは眼福としか言いようがありません。これからどうなっちゃうんでしょうね? しっかり眺めて、しっかり書き残しておきたいと思います。
 
 

*1:アーキテクチャ、例えば石碑とか寺院とかカテドラルとか。あるいは玉座や錫杖や兜のたぐいも含めて構わないかもしれません

*2:とは言っても、数百年前の市民ってやつは、それなり恵まれたご身分でしたが

*3:ちなみに、インターネット上できわどい売名を行ってあこぎな商売をやっている人達などは、この、少数派でも認知さえされれば“勝ち”という現況をキッチリ生かしているわけです。

*4:補足しておきますが、このブログ記事で私が「書き言葉」と書いているもののなかには、記録音声、動画、石碑やカテドラルも含みます。すなわち「話し言葉」と違って娑婆世界の影響力の相互作用に持続的に作用し続ける性質を持った記録された「声」や「メッセージ」全般が「書き言葉」と考えられていると見做してください。

シン・ゴジラを、「子どもに見て欲しい」と思った。

 

 
 週末、シン・ゴジラをやっと見てきた。
 
 「百聞は一見にしかず」とは言うけれども、本当に素晴らしい作品だった。何度も繰り返される会議も、自衛隊や米軍の勇戦も、ビルが崩れ街が燃えるさまも、すごく楽しめた。
 
 私は特撮映画をそんなに見ていないけれども、ゴジラに新幹線や在来線がぶつかる描写をはじめ、良い具合にデフォルメが効きまくっていて、ものすごく気持ち良かった。「怪獣が暴れるということ」「大型建造物が壊れるということ」がこんなに心地良かったなんて! 大量破壊シーンや戦闘シーンだけでも、映画のチケット代の元がとれたように感じた。
 
 それ以上に嬉しかったのは、たくさんの登場人物がことごとく主人公に見えたことだ。物語の目立つところは政治家や科学者や自衛隊員達によって占められていたし、彼らの演技に目を奪われた。でも、お茶を入れるおばさん、ゴミを回収するおじさん、工業プラントを動かしている従業員、避難する人々、そういう人達もみんなゴジラと戦っているように私には見えた。
 
 「ゴジラと戦っている」というより、「ゴジラという災難に対処する」と言い換えたほうが適切なのか。
 
 あのお茶くみのおばさんも、あのプラントで働いている従業員達も、避難する家族やお年寄りも、みんなゴジラという災難に対処していたのだ、それぞれに課せられた仕事や役割のなかで。そうした責務が無数に積み重なって、ゴジラという災難が克服されていった。
  
 超映画批評の前田さんが「日本対ゴジラ」と仰っていたけれども、実際、そうだったと思う。少数の凄い人が活躍する物語ではなく、避難する人々も含め、みんなが主人公の、みんながヒーローの物語。みんながゴジラと戦っていた、いや、対処していた。
 
 人智を越えた災難の前に人間は脆く、会議や承認を必要とする制度は後手に回りやすく、懸命の努力にも関わらず、たくさんの犠牲が出た。それでも、その限られた人間の力が無数に積み重なってゴジラという災難が乗り越えられていった。なんという人間ドラマだろう! 「シン・ゴジラは人間描写が薄口な作品」と言う人もいるかもしれないが、「みんな」に着眼して眺めるぶんには、十分すぎるほど人間描写の利いた作品だったと思う。私には、戦闘ヘリのパイロットの姿も、新しい避難場所を求める消防隊員の叫びも、逃げ遅れた家族も、「みんな」の人間模様を描写する壮大なジグソーパズルの一片とうつった。バラバラの個人がバラバラに頑張っているようで、この作品ではぜんぜんバラバラじゃない。
 
 もちろん、みんなが主人公にみえるということ自体は一種のご都合主義だし、このようなご都合主義が気に障る人もいるだろう。なにより、私のメンタリティを反映した「個人の感想」であることは間違いない。
 
 けれども、このご都合主義によって、少数の有能なヒーローが怪獣を打倒する物語とは一線を画した、私好みのフレーバーが生み出されているのは間違いなかった。個人の才能が活躍する作品も好きだが、こういう作品も痺れる。
 
 

「信頼できる大人の後ろ姿」としてのシン・ゴジラ

 
 なにより私は、シン・ゴジラを子どもに見てもらいたいなぁと思った。子どもの手が届く場所に、こっそりDVDを仕掛けておきたい。
 
 シン・ゴジラには、子どもには楽しみにくい要素が少なからずある。冒頭の会議ラッシュもそうだし、日米の駆け引きや科学サーベイのシーンなどもそうだろう。だから、シン・ゴジラを(たとえば)小学生が見たとして、どこがどこまで記憶に残るのかはわからない。
 
 けれども、この作品に出てくる人々の懸命な姿、無数の主人公達が、粛々と責務を果たして難局を乗り切っていく姿は、子どもの記憶の引き出しのどこかに残って、何かの足しになるのではないだろうか。
 
 私は、この作品に登場する大人達の姿*1を子どもに見てもらいたい。
 
 子どもが現実世界で見知っている大人の姿は、汚かったり、情けなかったり、不信に満ちていたりするかもしれない。いや、それもまた大人の本当の姿だから、子どもが大人をそのように眺めること自体は否定されるものではない。子どもは馬鹿じゃないから、大人社会の矛盾、不備、汚さを、かなり幼いうちから、どんどん読み取っているだろう。
 
 けれども大人社会は、そういう汚くて至らなくって不信なものだけで構成されているわけではない。一見バラバラで利己的な個人も、ある部分では、社会のルールを守り、それぞれに課せられた仕事や責務をまっとうして生きている。そうした個人の営みの集大成として、社会は一定の信頼と弾力性をもって維持されているし、難局に際しては、そういった「みんなが社会のなかで課せられた役割をどのように守っているのか」が問われることになる。
 
 作中、「この国にはまだ優秀な若者がたくさんいる」という台詞が出てきたけれども、その優秀な若者を育てて支えているのも、一部の有能なヒーローやエリートだけではなく、市井の人々だ。親として子どもを育てているか否かに関わらず、それぞれがそれぞれに課せられた役割や責務をまっとうして暮らしていること、それ自体が「次世代を育てる」大前提になっている。もちろんこれは原則論で、実際にはそれだけで上手くいかないし、事実、日本社会では子育ての困難な社会状況が深刻化している。それでも、次世代の若者が育っていけるのは、ありとあらゆる「みんな」が自分自身の役割や責務を守っているおかげだということは、忘れてはいけないのだ。
 
 シン・ゴジラは、そういう「みんな」がそれぞれの役割や責務を背負って頑張っていること、そうやって社会が回っていることを、「良いこと」として描いた作品だった。結局それが、ゴジラのような災難に対処する土台になっていることを、力強く描いていたと思う。どんな仕事にも役割があり、どんな人にも背負った責務があるということ、それを大人が守っていくことは基本的に良いことであることを、シン・ゴジラは思い出させてくれた。
 
 大人のスキャンダルが耳目を騒がせがちな昨今、シン・ゴジラで描かれたような、それぞれが役割や責務をまっとうしていく姿は、理想にもほどがあるし、個人主義の思想に馴染まない部分もあるかもしれない。だが、そういった部分を差し引いたとしても、汚さや不信に流されて見失ってはいけないものをシン・ゴジラはみせてくれたと私は感じたし、大人というものは、大人が役割や責任を引き受ける後ろ姿を子どもに示していかなければならないのだとも思う。次世代の成長は、シン・ゴジラに登場したような、懸命に役割や責務をまっとうする人々によって準備され、守られなければならない。
 

*1:いや、本当は子ども達もだ。避難場所で眠る子ども、疎開するバスに乗り込む子どもも、この作品の立派な主人公だ