シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「声」が集まって影響力が生じる、その形式がネットメディアの普及によって変わりました。私はそれを面白がっているんです。

 
「スマホやSNSが生み出した権力」と、その行方 - シロクマの屑籠
多数決でマナーを決めよう!(仮) - ←ズイショ→
 
 こんにちは、ズイショさん。先日は私のブログ記事をお読みくださり、またreplyを書いてくださり、ありがとうございました。
 
 「スマホやSNSが権力を生み出している」という表現は、あまり良くない表現だったかもしれません。「権力」ではなく「影響力」と書いたほうが良かったでしょうか。私自身は「影響力=権力」という理解を改めるつもりはないので、影響力と書き換えても私自身にとって文意は同じです。
 
 で、影響力が今、社会のどこに存在していて、メディアがその影響力をどんな風に集めたり配ったりしているのか、私が書きたいことを好きなように書いておきます。
 
 原理的には、人間同士の影響力は帝釈天の帝網のように無限に関連しあい、連なっていると私は理解しています。人が集い、人がお互いに影響を受けたり与えたりしながら生きている以上、娑婆世界とは、影響力が働きあい、せめぎあい、拮抗しあう場です。この原理原則から逃れるためには、コミュニケーションをやめなければなりませんが、社会的引きこもりの人ですら、親との間で、あるいは引きこもり支援者との間で、影響-被影響の相互作用を起こしているわけですから、「意識や意志のある限り、人間はコミュニケーションをやめられないし影響力の重力空間を逃れられない」と考えて差し支えありません。
 
 家族同士でも、友達同士でも、中学校や高校のクラスルームでも、影響力はいつだって波及しあっています。誰の言うことなら耳を貸すのか、誰と誰が仲良しなのか、誰が人気者で誰が不人気なのか――これらは、すべて影響力の相互作用の所産です。お互いが対等で仲の良い夫婦関係や友人関係も、それらは影響力や権力が「無い」のではなく、影響力や権力の「勾配が無い」にすぎません。お互いの影響力が拮抗しているけれども、ものすごく影響を受けあっている夫婦や友人同士は珍しくありません。さながら、人間の連星系ですね。
 
 「影響を与える力」、すなわち影響力には色々な種類があって、キチンと整理していないことを承知で幾つか挙げてみると
 
 ・他人のアテンションを引き付ける力 
 ・他人になんらかの感情を与える力
 ・他人の考え方を変える力
 ・他人に考えることを強いる力
 ・他人の行動を制限したり強制したりする力
 
 などがあります。そしてコミュニケーションとは他人の行動確率を左右する営みなので、影響力を及ぼすコミュニケーションとは「他人の考え方を変えるか、否か」みたいな作動の仕方をするのでなく、「他人の考え方を変える確率が高くなる」みたいな、確率を変えるものだと私は捉えています。たとえば、クラスのなかにコミュニケーション能力抜群な生徒がいたとしても、「すべての生徒を意のままに操れる」わけではありません。彼の持つアドバンテージとは「他生徒に話を聞いてもらえる確率が高い」「何かを提起した時にクラス内でコンセンサスができあがる確率が高い」といったものでしょう。
 
 また、文化祭の出し物を選ぶ時などがそうですが、一部の反対派を抑えて話をまとめなければならない際には、反対派が黙って言いなりになるのではなく、「反対派に貸しをつくって言いなりになっていただく」「反対派に配慮したかたちで取りまとめる」ことがよくあります。この場合、クラスのまとめ役や主流派だけが影響力を行使しているのでなく、反対派の生徒もそれなり影響力を行使している、と言えるでしょう。クラスメートと一切話をしない空気人間が内心で反対しているだけならともかく、クラスの一員としてそれなりコミュニケーションしている人が、「私は反対だ」と表明できる限りにおいて、少数派でも影響力を振るうって事は全然珍しくありません。影響力の勾配がよほど極端か、コミュニケーションを行う意志と能力を著しく欠いているのでない限り、その場で声をあげられるすべての人間・その場で発言するすべての人間が、影響力の相互作用の当事者であり、インフルエンサーでもあります。
 
 こういう影響力の相互作用が、家族、学校、職場、議会、世論、そういったあらゆるレイヤーで間断なく起こっている(しかも多重的に錯綜している)わけです。
 
 ただし、こういう影響力の相互作用と、声をあげる/あげないの問題は、個人の意志や能力だけで決まるものではありません。メディアが介在することによって、どこに・どんな・どれぐらいの声が届き、どの程度の影響力を振るうのかは大きく変わってきます。
 
 まだ文字や構築物*1が少数の人間に独占されていた頃、文字や構築物はすごいマジックアイテムでした。なぜなら、石碑に刻まれた王を讃えるメッセージや石碑の存在そのものによって、あるいはカテドラルの外観や屋内の絵画などによって、権力者はその場にいなくても影響力をばらまき続けることができたからです。ゲームっぽい比喩をするなら、これらは影響力の“遠隔攻撃”“影響力の無限スポット”にも等しかったでしょう。
 
 ほとんどの人が話し言葉(=会話)でしか他人に影響力を行使できなかった以上、文物によって他人に影響力を及ぼせる人間は圧倒的に優勢だったことでしょう。まだまだ社会システムが未熟だったにもかかわらず、一時的とはいえ、特権階級が国家レベルで権勢を振るえたのは、文字や構築物に助けられていたところ大だったと言わざるを得ません。もっとダイレクトな影響力の顕現である軍隊ですら、文字や構築物の助けを借りなければシステムとしての体裁を維持できませんでした。ほとんどの人がメディアを保有していない状況下でメディアを独占している人間は、圧倒的に強い。
 
 ところが、活版印刷やら産業革命やらが起こってから、状況が変わってきます。もう、文字や構築物は王侯貴族や僧侶だけの独占物ではありません。新聞や書籍が介在するかたちで、市民*2が影響力を持ち得るようになりました。情報伝達手段と複製技術と流通網の発達によって、市民が流行をつくりだせるようにもなっていきました。
 
 絵画や音楽にしたってそうでしょう。それまでは王侯貴族の影響下で専ら絵画や音楽がつくられていたし、絵の具の値段などを考えると、それは仕方のないことだったでしょう。けれども、市民が絵画や音楽を買い求めるようになり、絵の具やカンバスといったメディアが手頃な価格になるにつれて、絵画や音楽による表現とその影響力は、市民と芸術家のものになっていきました。
 
 つまり、技術や産業や商業の発展によって、「メディアを使って自分の声をあげられる人」が増えた結果、娑婆世界のなかで声をあげられる人・影響力を行使できる人の幅が広がった、ということです。
 
 こうした変化は、90年代~00年代のメディア世界でも起こっているものです。かつて、出版社やテレビ局の独占物だった「不特定多数に情報配信する」行為は、この数十年間でものすごく敷居が下がりました。ブログも、YouTubeも、『小説家になろう』もそうです。それまではメディア業界の影響下で専らコンテンツがつくられ、選ばれていました。出版や放送にかかるコストを考えるとそれは致し方なかったでしょう。けれども、新聞や雑誌やテレビを介さずとも100万1000万単位のトラフィックが流れるようになり、情報配信が手軽になるにつれて、ネット上のテキスト配信や動画配信と、その影響力が拡大していったのです。
 
 変化を象徴しているのが、昼間の情報番組が垂れ流している「twitterやLINEの声」と称するあれです。あれらは番組にとって都合の良い「ネットの声」ではあるけれども、ああやって「ネットの声」と称するテキストをテレビが流しているということは、「ネットの声」の内容がなんであれ、「私達はネットの影響を受けています、私たちはネットの声を意識しています」と白状していることにほかなりません。もちろん、ああすることによって番組側が獲得する影響力ってのはあるでしょう――「私達はネットの生の声にもアンテナを張っているんですよ!」的な――、でも、「ネットの声」がテレビに垂れ流されるたび、メディア空間全般における「ネットの声」の位置づけや意味づけがテレビに近づいて、世論としての正統性、「声」としての確からしさが高まっていったのではないでしょうか。そうでなければ、東京オリンピックのロゴ問題や「保育園落ちた日本死ね!!」があそこまでの騒動になったとは、私には思えません。
 
 [関連]:ネットの暗い情念が“世論”と接続してしまう怖さ - シロクマの屑籠
 [関連]:私は、弾劾のプロセスとネットの性質に戦慄したんですよ - シロクマの屑籠
 [関連]:「炎上政治」と“脊髄反射” - シロクマの屑籠

 
 「ネットの声」を伝えるネットメディアが既存のメディアに近い位置づけや意味づけを獲得するにつれて、当然、ネットは影響力合戦のホットな最前線となりました。その兆候は00年代以前からありましたが、本格化したのは、twitterやFacebookがブームになった2009年以降でしょう。10年代におけるインターネットは、オタクやサブカルの陣地戦・洗脳戦よりもずっと生々しい影響力合戦、というより権力闘争の舞台となりました。
 
 ここで思い出していただきたいのが、さきほど私がアンダーラインを引いた“「私は反対だ」と表明できる限りにおいて、少数派でも影響力を振るうって事は全然珍しくない”というクラス内政治の傾向が、インターネットでもだいたい該当するということです。
 
 たとえば、あるイシューについて、誰かが肯定的な意見を言って「500万いいね」された一方で、別の誰かが否定的な意見を言って「100万いいね」されたとします。こういう時、絶対多数決の原理で「500万側の意見がそのままネット世論になる」ということは、あまり無いのではないでしょうか。
 
 東京オリンピックのロゴ問題を巡ってのネット世論を思い出すと、人によっては「インターネットは絶対多数決だ」と言いたくなるかもしれませんが、実際には、あの問題が窮地に立たされていく過程には幾度もの歯止めのプロセスがありましたし、あのロゴが使われなくなると決定した後も、ロゴの使用中止にすべての人が納得したわけでもなく、「最初のロゴのままであるべき」という声はインターネット上に木霊していました。「最初のロゴのままであるべき」という声は、完全に無駄だったわけでも完全に死んだわけでもありません。
  
 ましてや、映画『シン・ゴジラ』についての賛否などは、賛同/否定どちらかが絶対になることなど決して無いでしょう。だからといって肯定派の意見、否定派の意見、どちらも影響力を持たないわけではなく、どちらも、支持される度合いに見合ったかたちで影響力を保持することになります。
 
 だから、インターネットの影響力合戦で“勝利”したい人は、別に多数派でなくても構わないのです。少数派だったとしても、いくらかでも支持者がいて、声や影響力として認知され得れば、“勝ち”と言って差し支えないでしょう*3。「ラウドマイノリティ」という言葉もありますが、少数派がみずからの影響力を収集するのにインターネットは格好のメディアだと思いますよ。情報配信や支持者収集が非常にやりやすくなって、オピニオンのロングテールといいますか、これまでだったら言葉を発することもシンパシーの輪を広げることも難しかった人達までもが、大なり小なり寄り集まって影響力として、あるいは「勢力」や「声」として認知されるチャンスを獲得したのです。自分だけでは意見を表明できない人でも「いいね」や「リツイート」さえ押せば、自分が推す意見をそっくりそのまま広げられるから、例えば、1980年代だったら「話し言葉」の世界では珍しくなくても「書き言葉」の世界では黙殺されていたであろう人達までもが、意見を、嗜好を、不満を、影響力合戦の空間に投射できるようになったのです。
 
 インターネット、特にSNSの「いいね」や「リツイート」のたぐいには、話し言葉に近い性質もあります:つまり、書籍や映画に比べて忘れ去られやすく、後から顧みられにくい、という性質ですが、そこはそれ、インターネットには「消さない限り記録が消えないしアクセスされ続ける」「拡散範囲に制限が無い」といった特質もありますから、案外、古代のマジックアイテムと比較しても見劣りしないぐらいにはマジックアイテムっぽさがあります。この比喩で言えば、コンビニの冷蔵庫に入って人生を炎上させた人とは、強力なマジックアイテムを面白半分に使ってみたら、びっくりするほどエネルギーが集まって燃えちゃったって感じでしょうか。
 
 「話し言葉」は、話者の能力次第では瞬発力のある影響力爆発を起こせますが、その効果は話が終わると急速に減衰していき、影響力を蓄積することは容易ではありません。対して、「書き言葉」*4は「話し言葉」に比べて影響力の減衰が弱く、蓄積しやすく、特に活版印刷以降はコピーや増幅も簡単です。だからこそ「書き言葉」は過去においてはマジックアイテムと同義だったわけですが、実は、スマホやSNSの普及によってマジックアイテムが各人に配られちゃったってことなんですよ。情報革命とは、影響力革命でもあり、投票革命でもあり、権力革命でもあったわけです。「書き言葉」の製造・流通・集積・消費の流れが変わったことによって、影響力の製造・流通・集積・消費の流れも変わったんです。プロセスも当事者も権力者も変わったと言って良いでしょう。いや、そもそも「声」や影響力や権力の存在様式自体すら変わってしまいました。インターネットによって新しい影響力の文法が表れたとも言えるでしょう。
  
 影響力や権力の存在様式が変わってしまったので、強力な影響力のなかには過去の範疇的な「権力」の定義に馴染まないものもたくさんあるでしょう。でも、目ざとい連中は、政治家候補であれネットビジネスマンであれ未来のテロリストであれ、そういう影響力の文法変化を把握して“うまいことやっている”わけです。もちろん、グズグズと、嫌々ながら影響力の変化に引きずられている者もいますが。
 
 SNSが普及して間もない2009年~2010年ぐらいまでは、そうした変化を噛みしめている人間はSNSユーザーのなかにもまだそんなにいませんでした。でも、みんながSNSに慣れてきた2014~2016年にもなると、「リツイート」や「いいね」を集めて影響力の渦中に立つ人間も、「リツイート」や「いいね」を押して影響力のクラウドをつくりあげる人間も、すっかりネットメディアの影響力合戦に適応してしまいましたよね。何かを燃やす・何かを批判する・はてなブックマークにコメントする時の、ネットユーザー達の顔つき・手つきを見てやってくださいよ! あいつら、ちゃんと権力者の顔をしているんですよ。いまどきのネットユーザーは、自分が書いたり拡散に寄与したりすることで体感される影響力、その影響力の快楽をちゃんと知っています。そういう快楽が、演説するような人間でもなく、テキストや動画をつくれる人間でもない、ただ「リツイート」や「いいね」を押すだけの人間にまで浸透してしまいました。
 
 炎上案件を矢継ぎ早に批判している、あの泡沫アカウントの書き込みを見てご覧なさい! ボウボウ燃える案件を批評し続けるあの書き込みに、自分が影響力を行使していることに酔っている人間の、愉悦が感じられるでしょう? でも、ああいう酔客みたいな、なんでもいいから他人に影響を与えたい・罰を与えたい連中までもが影響力のクラウド形成の一翼を担っていているわけです。
 
 まあ、上記は極端な例ですが、それでも、多かれ少なかれ私達は、自分がネットメディアを介して影響力を行使できるということを肌感覚として知っていて、そこに魅力を感じちゃったりしているのではないでしょうか。
 
 ともあれ、これらは「書き言葉」が一部の人間に独占されていた時代にはあり得なかったことです。こういう新しい状況に立ち会っていることを、私は嬉しく思います。噛みしめれば噛みしめるほど面白い変化ですし、こんな状態が野放しになっているのを眺めていられるのは眼福としか言いようがありません。これからどうなっちゃうんでしょうね? しっかり眺めて、しっかり書き残しておきたいと思います。
 
 

*1:アーキテクチャ、例えば石碑とか寺院とかカテドラルとか。あるいは玉座や錫杖や兜のたぐいも含めて構わないかもしれません

*2:とは言っても、数百年前の市民ってやつは、それなり恵まれたご身分でしたが

*3:ちなみに、インターネット上できわどい売名を行ってあこぎな商売をやっている人達などは、この、少数派でも認知さえされれば“勝ち”という現況をキッチリ生かしているわけです。

*4:補足しておきますが、このブログ記事で私が「書き言葉」と書いているもののなかには、記録音声、動画、石碑やカテドラルも含みます。すなわち「話し言葉」と違って娑婆世界の影響力の相互作用に持続的に作用し続ける性質を持った記録された「声」や「メッセージ」全般が「書き言葉」と考えられていると見做してください。

シン・ゴジラを、「子どもに見て欲しい」と思った。

 

 
 週末、シン・ゴジラをやっと見てきた。
 
 「百聞は一見にしかず」とは言うけれども、本当に素晴らしい作品だった。何度も繰り返される会議も、自衛隊や米軍の勇戦も、ビルが崩れ街が燃えるさまも、すごく楽しめた。
 
 私は特撮映画をそんなに見ていないけれども、ゴジラに新幹線や在来線がぶつかる描写をはじめ、良い具合にデフォルメが効きまくっていて、ものすごく気持ち良かった。「怪獣が暴れるということ」「大型建造物が壊れるということ」がこんなに心地良かったなんて! 大量破壊シーンや戦闘シーンだけでも、映画のチケット代の元がとれたように感じた。
 
 それ以上に嬉しかったのは、たくさんの登場人物がことごとく主人公に見えたことだ。物語の目立つところは政治家や科学者や自衛隊員達によって占められていたし、彼らの演技に目を奪われた。でも、お茶を入れるおばさん、ゴミを回収するおじさん、工業プラントを動かしている従業員、避難する人々、そういう人達もみんなゴジラと戦っているように私には見えた。
 
 「ゴジラと戦っている」というより、「ゴジラという災難に対処する」と言い換えたほうが適切なのか。
 
 あのお茶くみのおばさんも、あのプラントで働いている従業員達も、避難する家族やお年寄りも、みんなゴジラという災難に対処していたのだ、それぞれに課せられた仕事や役割のなかで。そうした責務が無数に積み重なって、ゴジラという災難が克服されていった。
  
 超映画批評の前田さんが「日本対ゴジラ」と仰っていたけれども、実際、そうだったと思う。少数の凄い人が活躍する物語ではなく、避難する人々も含め、みんなが主人公の、みんながヒーローの物語。みんながゴジラと戦っていた、いや、対処していた。
 
 人智を越えた災難の前に人間は脆く、会議や承認を必要とする制度は後手に回りやすく、懸命の努力にも関わらず、たくさんの犠牲が出た。それでも、その限られた人間の力が無数に積み重なってゴジラという災難が乗り越えられていった。なんという人間ドラマだろう! 「シン・ゴジラは人間描写が薄口な作品」と言う人もいるかもしれないが、「みんな」に着眼して眺めるぶんには、十分すぎるほど人間描写の利いた作品だったと思う。私には、戦闘ヘリのパイロットの姿も、新しい避難場所を求める消防隊員の叫びも、逃げ遅れた家族も、「みんな」の人間模様を描写する壮大なジグソーパズルの一片とうつった。バラバラの個人がバラバラに頑張っているようで、この作品ではぜんぜんバラバラじゃない。
 
 もちろん、みんなが主人公にみえるということ自体は一種のご都合主義だし、このようなご都合主義が気に障る人もいるだろう。なにより、私のメンタリティを反映した「個人の感想」であることは間違いない。
 
 けれども、このご都合主義によって、少数の有能なヒーローが怪獣を打倒する物語とは一線を画した、私好みのフレーバーが生み出されているのは間違いなかった。個人の才能が活躍する作品も好きだが、こういう作品も痺れる。
 
 

「信頼できる大人の後ろ姿」としてのシン・ゴジラ

 
 なにより私は、シン・ゴジラを子どもに見てもらいたいなぁと思った。子どもの手が届く場所に、こっそりDVDを仕掛けておきたい。
 
 シン・ゴジラには、子どもには楽しみにくい要素が少なからずある。冒頭の会議ラッシュもそうだし、日米の駆け引きや科学サーベイのシーンなどもそうだろう。だから、シン・ゴジラを(たとえば)小学生が見たとして、どこがどこまで記憶に残るのかはわからない。
 
 けれども、この作品に出てくる人々の懸命な姿、無数の主人公達が、粛々と責務を果たして難局を乗り切っていく姿は、子どもの記憶の引き出しのどこかに残って、何かの足しになるのではないだろうか。
 
 私は、この作品に登場する大人達の姿*1を子どもに見てもらいたい。
 
 子どもが現実世界で見知っている大人の姿は、汚かったり、情けなかったり、不信に満ちていたりするかもしれない。いや、それもまた大人の本当の姿だから、子どもが大人をそのように眺めること自体は否定されるものではない。子どもは馬鹿じゃないから、大人社会の矛盾、不備、汚さを、かなり幼いうちから、どんどん読み取っているだろう。
 
 けれども大人社会は、そういう汚くて至らなくって不信なものだけで構成されているわけではない。一見バラバラで利己的な個人も、ある部分では、社会のルールを守り、それぞれに課せられた仕事や責務をまっとうして生きている。そうした個人の営みの集大成として、社会は一定の信頼と弾力性をもって維持されているし、難局に際しては、そういった「みんなが社会のなかで課せられた役割をどのように守っているのか」が問われることになる。
 
 作中、「この国にはまだ優秀な若者がたくさんいる」という台詞が出てきたけれども、その優秀な若者を育てて支えているのも、一部の有能なヒーローやエリートだけではなく、市井の人々だ。親として子どもを育てているか否かに関わらず、それぞれがそれぞれに課せられた役割や責務をまっとうして暮らしていること、それ自体が「次世代を育てる」大前提になっている。もちろんこれは原則論で、実際にはそれだけで上手くいかないし、事実、日本社会では子育ての困難な社会状況が深刻化している。それでも、次世代の若者が育っていけるのは、ありとあらゆる「みんな」が自分自身の役割や責務を守っているおかげだということは、忘れてはいけないのだ。
 
 シン・ゴジラは、そういう「みんな」がそれぞれの役割や責務を背負って頑張っていること、そうやって社会が回っていることを、「良いこと」として描いた作品だった。結局それが、ゴジラのような災難に対処する土台になっていることを、力強く描いていたと思う。どんな仕事にも役割があり、どんな人にも背負った責務があるということ、それを大人が守っていくことは基本的に良いことであることを、シン・ゴジラは思い出させてくれた。
 
 大人のスキャンダルが耳目を騒がせがちな昨今、シン・ゴジラで描かれたような、それぞれが役割や責務をまっとうしていく姿は、理想にもほどがあるし、個人主義の思想に馴染まない部分もあるかもしれない。だが、そういった部分を差し引いたとしても、汚さや不信に流されて見失ってはいけないものをシン・ゴジラはみせてくれたと私は感じたし、大人というものは、大人が役割や責任を引き受ける後ろ姿を子どもに示していかなければならないのだとも思う。次世代の成長は、シン・ゴジラに登場したような、懸命に役割や責務をまっとうする人々によって準備され、守られなければならない。
 

*1:いや、本当は子ども達もだ。避難場所で眠る子ども、疎開するバスに乗り込む子どもも、この作品の立派な主人公だ

「イケメンは話がつまらない」を男性側から考える

 
 
 
なぜイケメンは話がつまらなく、セックスが下手なのかを考えた時の話。
 
 面白く読みました。
 
 リンク先のElly大使さんによれば、“イケメンは話がつまらなく、セックスが下手”なんだそうです。ところが男性には、これがピンと来ません。セックスのことはわかりませんが、話に関しては、喋っていて退屈しないイケメンなんていくらでもいるし、見た目の良し悪しと話の面白い面白くないは関係無いんじゃないの? と思わずにいられなかったのです。
 
 Elly大使さんが使っておられるイケメンの定義は、
 

ここでいう「イケメン」とは、顔やスタイルといった見た目が良い男性はもちろん、背が高くてなんとなくカッコイイという、雰囲気イケメンも含みます。

 というものですが、こういう条件に当てはまり、しかも話も面白い男性に私は何度も会っています。特に、オフ会で初対面の男性が「イケメン」だったからといって、そいつがつまらなかった記憶はありません。イケメンでつまらない男性がいないわけではありませんが、つまらない奴が多いとは感じません。
 
 

どうして「イケメンは話がつまらない/つまらなくない」という差異が生じるのか

 
 ここで「Elly大使さんが間違っている」「いや、私が間違っている」と考えるのは建設的ではないでしょう。「イケメン」に対する捉え方がこんなに違っているのは、きっと理由があるはずです。
 
 男性にとってつまらない男性と、女性にとってつまらない男性って、だいぶ違うのではないかと私は思います。
 
 男性側からみてつまらないのは、話題の豊かさや共通性、ユーモアの面白さ、コミュニケーションへの参加性、ノリの良さ、といったものを欠いている男性です。それらを欠いていれば欠いているほど「つまらない」でしょう。だから、リンク先冒頭の、
 

イケメン男子:「俺、メチャクチャ結婚したいんですよー。でも出来ないんっす」
横の独身男性:「何言ってんの、お前ならすぐに結婚できるでしょー。」
イケメン男子:「いや、そんなことないっすよー。」

 この会話などは、二人ともコミュニケーションに参加していてノリも合わせているので、お互いにそんなにつまらないとは感じていないと思います。私が似たような集まりで似たような会話をしていたとしても「こいつはつまらない男性」という烙印は押さないでしょう。話題やユーモアに難があったとしても、コミュニケーションにしっかりついてきてノリが良ければ、それほど悪い評価にはなりません。本気で「つまらない」と評価せざるを得ない男性は、話題も、ユーモアも、コミュニケーション参加性も、ノリの良さも、なにもかも欠いています。
 
 また私は、イケメンのほうが色々スポイルされてコミュニケーションが下手くそになっている、という印象も受けません。少なくとも男性同士のコミュニケーションではそうです。スポイルされた駄目なイケメンがいるのも事実ですが、ルックスが平凡な男性にも、プライドばかり高く、突っ込まれることにビクビクしていて、話題づくりにも雰囲気づくりにも全く役に立たない人が沢山いますからね。
 
 じゃあ、女性側からみてつまらない男性とは?
 
 どうなんでしょう? 女性が男性を評価するポイントと、男性同士が評価しあうポイントって、ズレがあるような気します。女性にしたって、男性が女性を評価するポイントと、女性同士が評価しあうポイントは違うじゃないですか。「男性にはすごく受けるけれども、女性同士の間では見下されやすい女性」とか、そういうやつです。それと同じ現象が起こっているのではないでしょうか。
 
 異性の壁を超えて「面白い/つまらない」を考える時に割と重要なのは、「異性の関心を惹くための意志と実践の有無」だと私は思います。
 
 男性であれ女性であれ、異性に受けやすい人って、多かれ少なかれ「異性とコミュニケーションするための意志と能力を持っていて、実践もしている」と思うんですよ。男性と女性では、面白さのツボも、望ましい話題も、期待する雰囲気も、関心も、それなり違いますから、そういう男女の違いを乗り越えるための実践ができている人は、異性からみて相対的につまらなくない(=面白い・魅力がある)と見做されやすいはずです。男性同士のコミュニケーションの雰囲気やノリから一歩もはみ出さず、女性とのコミュニケーションに気を遣おうとしない男性などは、女性には非常につまらない存在ではないでしょうか。同様に、女性同士のコミュニケーションの雰囲気やノリから一歩も歩み寄ろうとしない女性も、男性にはつまらない存在とうつるはずです。
 
 もちろんそれだけで「モテ/非モテ」が決まってしまうわけではないので、女性に気を遣おうとしないイケメンが外見だけで女性にモテて、そういう連中が女性に「つまらないイケメン」と見做されることはあるでしょう。同じ理屈で、見栄えは良いけれども男性に気を遣おうとしない女性が男性にモテることもあり、「つまらない美女」という印象を与えることもあります。異性とコミュニケーションするために日夜努力している人達からみれば僻みたくなる人種ですが、そうやってルックスの良さにあぐらをかいたまま年を取っていく美男美女は、あぐらをかいてきたツケを後で支払うわけですから、彼らには彼らなりのリスクがあると言わざるを得ません。
 
 だんだん話が脱線しますが、あまりにもルックスが良すぎて異性に関心を持たれやすい美男美女ってのも、それはそれで生きるのが大変なんでしょうね。どんどん寄って来る異性といちいちコミュニケーションしていたら疲れてしまうでしょうから、できるだけ異性を寄せ付けないように、むしろつっけんどんな態度を取らざるを得ない部分もあるでしょう。そういう処世術を余儀なくされる男女が、いわゆる「高嶺の花」とみなされるのでしょう。
 
 でも、そういう処世術って、学生のうちだけでなく、歳月を味方につけ、魅力を身に付けてきた男女でも同じだと思います。若いうちから魅力に恵まれたのであれ、地道な努力で魅力を獲得したのであれ、意中の異性のハートさえ掴んでいれば、それ以上異性に好かれてもメリットは乏しいわけですから、「ほんとうは魅力的だけど、なるべく魅力を見せびらかさないようにしている男女」ってのも案外いるんじゃないかと私は勘ぐっています。
 
 

「魅力をまき散らしているアラサー・アラフォー男女」について考える

 
 ここまで考えると、じゃあ、「魅力をまき散らしているアラサー・アラフォーの男女」とは一体何なのか、ちょっと考えてしまいます。
 
 それなりの年齢を迎え、魅力を身に付けてきた男女であれば、なんらかパートナーが付き添っていてもおかしくありません。だというのに、わざわざ異性を魅了してやまない魅力をまき散らしているアラサー・アラフォーの男女とは、どういう存在なんでしょうか?
 
 タイプとしては二つに大別されると思います。 
 
 ひとつは、あまりにも魅力を積み重ねすぎて、隠し切れないほど魅力が湧き出てしまうタイプ。あまりにも人間力が高くなってしまい、どうにも異性を引き付けてしまうおじさんやおばさんです。ルックスメインで異性を引き付けてしまう男女も罪作りですが、人間として、あるいは社会人としてクンフーが極まってしまって異性を魅了してしまう男女も、なかなか罪作りな存在です。
 
 もうひとつは、その年齢になっても異性を魅了したい動機や事情がまだ残っているタイプ。一定の年齢になっても異性をアトラクトせずにいられない背景は、未婚主義者だったり、身辺がだらしなかったり、ナルシストだったり色々でしょうが、魅力や人間力の高さだけでなく、異性の関心を惹くための意図が働いている兆候がどこかに見つかるはずなので、そこが識別のポイントになります。
 
 まあ、魅力や人間力が高すぎる人も、何歳になっても色恋沙汰の火種をつくってまわる人も、それはそれで怪物みたいな存在だと私は思いますし、私なら、ちょっと距離を置いてお付き合いするでしょう。ある程度の年齢の魅力的な異性ってのは、少し距離を置いた人間関係でも十分面白いものですし、へたに近づくよりは安全です。
 
 「魅力」とか「おもしろさ」って、あればあるほど良いってわけでもないし、他人に期待すればするほど楽しいってわけでもありません。ところが、少なくない人が「魅力」や「おもしろさ」を自他に求めてしまって、執着の泥沼でぬかるんでいるわけですから、人間関係の執着とは、つくづく難しいものですね。
 

ブログが書けない時は無理して書くな、それでも書きたいなら他人に「絡め」



 
ブログを書けないときの「症状」と「対策」 - ビジョンミッション成長ブログ
 
 リンク先、読みました。「ブログが書けない時の対策」ってやつですね。
 
 私も「ブログが書けない時の対策」については何度も考えました。私は月に6~15回ほどのペースでブログを更新していますが、実際には、ぜんぜんブログが書けない月もあります。定期的に更新しているようにみえるのは、「書ける時に下書きをたくさん完成させてストックしておく」「ストックのなかから、時事のタイミング的に好ましいものを微修正して公開する」をやっているからです。
 
 「ブログが書けない時の対策」を考えるより、「ブログが書ける時に下書きをストックしておく」「下書きの手前ぐらいのアイデアを大量生産しておく」ほうが良い人もいると思うんですよ。
 
 コツコツとブログ記事を書き進めるタイプの、淡々としたブロガーなら、「ブログが書けない時の対策」を正攻法で実行するのはアリだと思います。でも、私のようにテンションに波があって、「頭のてっぺんの魔法のランプが点いている時に怒涛のように文章が沸いてくる」お調子者なブロガーは、「ブログが書けない時は書けないものとして諦める」「書ける時にできる限り書いておく」ほうが、脂の乗った文章がつくりやすいと思うんですよ。
 
 もちろん「ブログが書けない時」にも手は動かしていますよ? 砂を噛むような文章しか書けない時も最低限の練習はしておきたいし、ある種の“原稿”はテンションが上向くのを待ってくれないし。
 
 それでも、ブログが書けない時は書く時間を減らし、本を読んだり、外に遊びに行ったり、誰かに会ったりしたほうが、結果としてブログって面白くなると思うんですよ。よく言われているように、面白いブログを書くための第一の秘訣は、ブロガー自身が面白いコンディションを保つことです。ブログが書けない時は、外で面白さをチャージしましょうよ、絶対そのほうがブログが楽しくなるし、長続きもするんじゃないですかね。
 
 

他人に「絡む」と「文体の制約」から自由になれる

  
 それでも、どうしてもブログ記事を書きたいなら、他人に絡めばいいんです。
 
 どこかのブロガーでもtwitterアカウントでもいいから、とにかく、他人に言及するとブログ記事は書きやすくなります。なにか言ってやるんですよ、どこかに言及しちゃうんですよ、もうそれだけで記事のできあがり。
 
 不特定多数に向けてブログ記事を書くときは、「皆様に、ご意見披露」みたいな文体になっちゃうじゃないですか、あれって、すごくブロガーを束縛していると思うんですよ。意見や感想の語り口が、「不特定多数に読んでいただく」文体によって縛られてしまう。
 
 この「不特定多数に読んでいただく」という、ありがちな束縛をとっぱらう一番簡単な方法が、「特定の誰かに的を絞って文章を書く」「特定のidやアカウントに向かって手紙を送る」なんです。「不特定多数に読んでいただく」意識を取り払うと、今まで書きにくかったことがスラスラ書ける……なんてことが珍しくありません。
 
 だから私は、ブログが書けない時って、一人で悩んで頑張ってもしようがないんじゃないか、と思っています。誰かにお手紙をさしあげるように言及するか、いったんブログを棚上げして外に遊びに行きましょうよ。そのほうが活きの良いブログ記事が書けるし、ブログライフも続けやすくなると思います。ブログライフは長丁場ですからね、無理をして燃え尽きるのは得策ではありません。ブログを十一年ほど続けてきた私からは以上です。
 
 
 

本気で海遊びする人に必要なアイテム

 


 
 私は「海水浴」という言葉から女性の水着姿やビーチパラソルを連想しません。
 
 海といえば生物! せっかく大自然と向き合っているんだから、あれもこれも捕まえてキャッチアンドリリースするっきゃありません。本物の生物を探し、手にとって命の輝きを実感する。こんなに楽しいことがあるでしょうか。
 
 きちんとした海水浴場を選び、きちんとしたアイテムを身に付けて臨めば、素晴らしい体験が待っています。そういう、大人も子どももドーパミンが炸裂するような海水浴にあったほうが良いアイテムを、私なりに紹介してみます。
 
 
 1.マリンシューズ
  
 「海水浴で便利なアイテム」と問われたら、上位に「マリンシューズ」が来ると思います。こいつを履いていれば岩場も楽に歩けるし、ウニやガンガゼ*1を踏んで怪我するリスクも減らせます。「使い古しの靴下」で代用できなくもないけれど、本物のマリンシューズのほうが断然使いやすく、安全です。
 
 砂浜の海水浴場でも、尖ったものを踏む心配をしなくて済むし、砂の熱さも防いでくれるし、悪くないと思います。サンダルより安全。
 
 
 2.軍手
  
 マリンシューズと同じ理由で、軍手もあったほうが良いと思います。軍手があれば岩場で手を怪我しにくくなるし、トゲのある生き物を触る時にも安心です。ちゃんとしたマリングローブがベストですが、市販の軍手は本当によくできているので、ほとんどこれで代用できてしまいます。
 
 
 3.ラッシュガード
  
 海遊びに慣れている人がだいたい着ているアイテム。日焼けを大幅に減らしてくれて、海水で体温が下がるのも防いでくれます。砂浜で寝転がっている人には無用の長物ですが、水中で生き物を追いかけたいなら絶対あったほうが良いです。
 
 しかも、波に揉まれて岩場やテトラポットにぶつかった時のかすり傷も防いでくれるし、クラゲに刺されるリスクもだいぶ減らせます。こういう用途だと、本当はダイバースーツが最強なんですが、
 

 
 ダイバースーツってすごくかさばるし、着るのも脱ぐのも一苦労です。スキューバでは必須アイテムですが、海水浴~シュノーケリングならラッシュガードで充分かと。
 
 
 4.水中メガネ+シュノーケル
 

 
 水中メガネは、お金を払ったら払ったなりのものが得られます。このマンティスの水中メガネ+シュノーケルは本当に素晴らしい性能で、曇りにくく、呼吸しやすく、お勧めです。こいつを使い慣れると、水面にまったく顔を出さず、ずーーっと水中で行動できるようになります。ちなみにメガネの曇り止めは、ツバを(水中メガネの内側に)塗っておくだけでも大体大丈夫です。
 
 そこまでお金をかけたくない人やシュノーケルを初めて使う人は、
  

 
 こちらでも良いかと。とりあえず使えます。
 
 
 5.魚捕り網
  
 「素潜りで魚を捕まえたい!」って人には魚捕り網が必須ですが、ちゃんとしたものを選びましょう。
 
 ・柄の頑丈さ
 
 水中で網を動かす時には強い水圧がかかります。普通の虫取り網はスローがかかったようにしか動かせず、しかも、柄の部分が水圧に負けて壊れてしまいます。柄がアルミ製の、頑丈な品を選ぶべきです。
 
 ・ちょうど良い長さ
 
 海水浴で使う網は、柄が長くてもメリットがあまりありません。遠くのターゲットを捕まえようとしても、柄が長いぶん、網さばきがもたついてしまうからです。柄が短すぎても駄目ですが、長すぎても駄目。
 
 また、柄の長い網はほかの海水浴客にぶつかりやすく、泳ぐ際には重荷になります。1m前後の長さが実用ラインではないでしょうか。
 
 
 6.透明なバケツ
  
 せっかく捕まえた海の生き物、眺めて楽しまないともったいない! 普通の虫カゴでは、体長10cm以上の生き物、例えばワタリガニや大き目のヤドカリを捕まえた時に対処できません。でも、このサイズのバケツなら大抵の生き物がおさまります。
 
 虫カゴは海水浴場への行き来の「お荷物」になりますが、バケツは他の荷物を運ぶ道具として役立ちます。帰りは、濡れた水着や水中メガネを放り込んでおけばいいわけですし。どうせ海の生き物は自宅には持ち帰れないので、とりあえず眺めるのに便利で、移動中のお荷物にならない透明バケツが一番優れていると思います。
 
 7.潮汐なび
 
潮汐なび

潮汐なび

  • hanitaro
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 満ち潮・引き潮のギャップが小さい日本海側ではあまり問題になりませんが、太平洋側では潮の満ち引きを気にしたほうがいいと思います。大潮の時期の、満潮の時間帯は生き物ウォッチングに向いていません。
 
 ちなみに、現地の天気や水温は下調べしておくのは当然ですが、一般に、午後になると雷雲が発生しやすく波も高くなりやすいので、「天気予報をあてにできるのは午前中だけ」ぐらいの気持ちで臨んだほうが良いように思います。潮位にもよりますが、「朝早くに現地到着、お昼頃にはあがり」がベストかと。
 
 
 8.水分と電解質を補給するアイテム
  
 海水浴を本気でやるなら、脱水対策は必須です。水分や電解質を補給してくれる飲み物を必ず用意しましょう。糖類の入った品がおすすめです。
 
 ビールやチューハイは飲んではいけません。アルコールによる感覚の低下は事故のもとです。海は素晴らしい場所ですが、危険な場所でもあります。お酒が飲みたい人は、宿や家に戻ってからやりましょう。
 
 
 9.真水のペットボトル(自動車を使っているなら、そして田舎の海水浴場なら)
  
 自動車で海水浴に出かけるなら、2lの空のペットボトルに真水を入れたものを積んでおきましょう(リンク先は飲料水ですが、もちろん水道水で構いません)。
 
 生き物の豊富な海水浴場はしばしば田舎で、海の家の設備が乏しい・駐車場しかない場所もあります。そういう海水浴場から帰る際、とりあえずで塩気や砂を洗い流したい時には真水のペットボトルが重宝します。
 
 通い慣れた海水浴場でも、駐車場に戻ってから真水で何かを洗わなければならないことは時々あるので、1~2本ぐらいは積んでおいたほうがいいかも。見知らぬ田舎の海水浴場に挑むなら、(ネットであるていど下調べをしたうえで)充分な数を積んでおきましょう。
 
 

ちゃんと準備して、すばらしい体験を

 
 これらの「普通の海水浴場で、普通に遊ぶ」には要らないものばかりです。けれども、もう少し海を楽しみたい人・海の生き物をウォッチしたい人にはあったほうが良いものばかりです。
 
 海は、生命の息吹きを感じさせてくれる場所であると同時に、人をさらってしまう危険と隣り合わせの場所でもあります。ちゃんとした道具を選んで、怪我や事故のリスクをできるだけ減らして遊びましょう。もちろんマナーはきちんと守って。
 
 ちなみに、個人的な経験則では、長崎の原爆記念日より後に海水浴に行くのはお勧めしません。「お盆過ぎの海は危ない」と言われますが、最近はクラゲが早く湧くようになったので、2016年なら次の週末(8月7日)までが絶対にお勧めです。スケジュール的に間に合いそうにない人は来年チャレンジしましょう。
 
 
 ※追記:日焼け止めも書いておけよ、という声があったので日焼け止めも。あまりにも当たり前に思えるかもですが、たしかに必須アイテムです。首や背中だけじゃなく、耳にも塗ろうね!
 

 

*1:伊豆以南にいる、特別に尖ったウニ。ムラサキウニやバフンウニよりもずっと危ない