シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ブログ記事を読む以上に、ブロガーを味わう

 
 私はブロガーの執着を読み取るのが好きだ。なぜなら、ブロガーの書きだす文章からにじみ出てくる執着の気配が、ブログを書いているその人がそこに存在することを、はっきりと証明してくれるからである。
 
 言い換えると、ブロガーの執着を読むとは、ブロガーを知る、ということでもある。どういう人間が、どういう意図で、どういう文章をインターネットに書き綴っているか――こういったものは、ひとりひとりのブロガーによってはっきり相違点が見つかるもので、あたかも指紋のようである。もちろん、同じ方法論に頼ってアフィリエイトやPVを稼いでいるブログの場合は、キャラクター・意図・文章が似通ってくるけれども、それでさえ、人品の優劣、言葉運びの微妙なクセ、騒動の渦中にいる時の態度、批判に対する姿勢、等々はそれぞれに違っていて面白い。
 
 そうしたブロガーそれぞれの執着を噛み分けることによって、私は、ブロガーという人にアプローチし、ブログ記事を読む以上にブロガーを味わう。この行為は、商業媒体よりもブログでこそ感得しやすい。なぜなら、商業媒体は「売れなければならず」「商業媒体そのものの性質や要請によって大きく影響を受ける」からである。他方、ブログは個人の判断どおりに書かれていて、垂れ流しも同然になっているので、高度に商業化したアフィリエイト系を除けば、ブロガー自身の執着や人間性がダダ漏れになっていることが多い。twitter、はてなブックマークのコメントも同様である。
 
 以上を踏まえたうえで、タイプ別にブロガーそれぞれの執着の読み取りかた・味わいかたについて筆記してみようと思う。
 

書きたいことを書きたがる個人ブログ

 
 私をはじめとする、比較的古いブロガーに多いタイプ。昔のテキストサイト文化とも近接している。このタイプのブロガーは、「自分自身が書きたいことをストレートにブログに記す」ことをbelieve in しているため、執着がそのまま文章におどっていることが多い。とはいえ、自分が書きたいことをチラシの裏に書くのでなく、ブログに書くぐらいなのだから、彼らの「私は好きな文章を書いてます!」的な表明はナルシシズムや承認欲求が執着にこびりついているという前提のもと、話半分に読んでおく必要がある。
 
 以上の点を除けば、書きたいことを書きたがる個人ブログの執着は非常に読み取りやすい。普段、彼らが書いていることは、彼らが執着していることである。彼らが書いていないからといって、その執着が無いと言うことはできないが、彼らが頻繁に言及していることは、ポジティブであれネガティブであれ執着が宿っていて、ブロガー自身を反映している。
 
 

特定のテーマやジャンルに特化した個人ブログ

 
 趣味や職業といった特定のテーマやジャンルに特化しているブロガーやウェブサイト管理者は、執着がわかりやすいか、わかりにくいか、両極端なことが多い。
 
 鑑別ポイントの第一は、それらのブログがどこまで趣味的で、どこまで職業的なのか、である。後者の場合は、記事を綴ること自体、職業上の事情によるかもしれず、ちゃんとナマの執着が宿っているのか、それとも仕方なくやっているのか、鑑別を要する。他方、趣味的なブログやウェブサイトは、その人自身の喜怒哀楽が文面や行間に宿りやすいので、これはおいしくいただける。「本職の人間が本職のことを趣味的にやっているケース」も往々にしてあるので、そういうブロガーはよくよく注目したい。
 
 第二は、語彙の用法、文章のレイアウト、批評内容がどうであるか、である。普通の個人ブログを読む時もそうだが、同じような事を書いていても、語彙の用法や文章のレイアウト、構成、そういったものには手癖がある。プロのライターや作家は、そうした手癖をマスクするのが上手いので読み取りにくいが、ネット上のほとんどの書き手はそういう手癖のマスキング技能を持っていない(し使おうともしない)ので、文体や行間から滲み出て来る雰囲気は読み取りやすく、高純度の執着が期待できる。
 
 第三は、そのジャンルのどのあたりが好きで、どのあたりが苦手なのか、同ジャンルのオーソリティの誰が好きで誰が苦手なのか、そういった点だ。例えばワイン愛好家のブログなどは、こうした好みや苦手意識がクッキリ出やすい。アニメやゲームの愛好家でもそうである――ベッタリとした雰囲気のB級作品が好みなのか、古今の名作や“通好み”を選びたがるのか――そういった選好は、人間性や執着をなんらか反映している。また、自分の選好を絶対視しているのか、それとも相対視しているのかも、書き手の執着のかたちを窺う補助材料にはなる。
 
 

異性のブログ

 
 これが私は苦手である。
 
 私は男性なので、女性のブログから人間性や執着が感じ取れないことがある。私は人間の煩悩108つを多かれ少なかれ持っているつもりだが、生物学的/ジェンダー的な違いがあるためか、女性の執着が遠く感じられてしまう。あるいは、頭では理解したつもりでも「ふーん、そうなんだ」で終わってしまって、人の業に触れたという確かな手応えを感じられずに終わってしまうことが多い。
 
 私は、女性の執着については自分一人では捉えようとせず、専門家の判断にお任せすることにしている。女性の執着ソムリエに訊けば理解できることは多い。いつも勉強させてもらっている。
 
 

売上至上主義なブログ

 
 昔、私は売上至上主義的でどこかBOT的な、“最近流行の”ブログがどうしても食えなかった。「どこかからコピペしてきたような記事を吐き出し、PVや売上をちょくちょく発表するブロガーの執着なんてつまらない」と思っていた時期もあったのだが、そういうブロガーもやはり人間、透けて見えるものはあったのである。
 
 売上至上主義なブログの執着は、カネや知名度に存する。そういう点ではどれもあまり変わらない。しかし、土地やワイナリーによってシャルドネの風味が多種多様に違ってくるのと同じで、行間に宿る微妙な綾、批判や賞賛に対する反応、炎上への怖れ、「勝って兜の緒を締めるのか締めないのか」、用心深さ、等々を眺めれば、味わい深い執着のブロガーもいれば、ちっとも食えないブロガーもいることがわかってくる。細かいところに目を配ると、彼らなりの精神の生態系が浮かび上がってくる。
 
 そういう細かい部分の違いに気付くと、同じ品種のワインのブラインドテイスティングをやっているような心持ちになる。これは、書きたいことを書きたがるブロガーのストレートな執着ばかり追いかけている時には無視されやすい、隠微な、しかし捨てがたい面白さである。
 
 

執着の文法が違えば、読み取り方も違ってくる

 
 このように、ブログやウェブサイトのスタンスが違えば、執着のあらわれかたも違ってくる。いつも同じ方法・同じ角度で執着を追いかけていると、その人ならではのユニークネスや特質を見逃してしまう。とはいえ、全部が全部読み取れるわけもないので、苦手な相手の解析は、執着ソムリエにお任せするのが適当かもしれない。いずれにせよ、人が文章を書き連ねている限り、そこにはその人ならではの特別な何かが宿っていて、だから面白くてたまらない。
 

都合の良い男性ホモソーシャルアニメ『ガールズアンドパンツァー』

 

ガールズ&パンツァー 劇場版 (特装限定版) [Blu-ray]

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 我が家も劇場版を購入して、みんなで視聴している。
 
 最高だ!
 
 でも音はやっぱり寂しい。腹に響くような重低音はいかんともしがたく、また劇場に行きたくなるのもわかる。
 
 それはともかく、タイトルどおり『ガールズアンドパンツァー』という作品は、男性ホモソーシャル集団の理想郷のような作品でもある*1
 
 この作品は、色んな角度から褒め称えられて然るべきだが、男性ばかり集まった青少年集団を徹底的に美化して描いてみせた構図も長所のひとつだったように思えるので、そこを言語化してみる。
 
 

男性ホモソーシャル集団の「臭み」「嫌らしさ」を徹底的に脱臭

 
 『ガールズアンドパンツァー』には、表向きとしては女性キャラクターばかり登場する。その女性キャラクター達を、「戦車というアイテムと組み合わせて男性のメタファー」などと時代遅れの発想で説明したいわけではない。それでも、その女性キャラクター達に描きこまれた言動は、旧来のジェンダーコード上、男性的なものが多数派を占めている。
 
 各校の魅力的な指揮官達。皆、男性的な指導力、力強さ、竹を割ったような態度、「おじさんの如き采配」。女性キャラクター然とした姿がかわいらしいとしても、そのままおにいさんやおじさんにコンバートしても魅力はあまり衰えなさそうである。特に大洗の生徒会長! 全身の血管に最上級のオジサンエッセンスが流れているのではないかと見まがうばかりの態度と采配っぷりだった。にもかかわらず、あの小柄なツインテールが愛らしくもある。
 
 主人公・西住みほもたいがいである。一見、姉のまほよりも女性的にみえて、姉妹をじっと眺めていると、姉よりも妹のほうが野生児の匂いに充ちている。“ガワ”は女子高生でも、彼女は女性的なコードや約束事に基づいて場を指揮るのではなく、男性的なコードや約束事に基づいて場を指揮っていた。そして度胸! 度胸は度胸でも、女傑的ではなく、非-人間的で機械的な何かと言うべきか。そうだ、みほは男性的というより機械的で、機械的だから「少なくとも女性的ではなく、まだしも男性に近い」と喩えたほうが実情に近いか。日常生活では若干不適応気味でも、ある種の、集中すべき場面では異様な冴えをみせるあたりも実にそれらしい。ときどき目が怖くなる。彼女の戦車道ドクトリンが、みんなを助けるタイプで心底良かったと思う。旧・西住流として成功していたら、彼女は敵味方に怖れられるキラーマシーンとして君臨しただろう。
 
 そのほか、麻子、華さん、秋山殿、歴女四人組、自動車部、ネトゲ部、等々、「性質が男の子っぽい」メンバーを挙げていくときりがない*2。そもそも「戦車道は乙女の嗜み」などというスローガンからして男の子っぽい。趣味趣向、登場人物の特徴、そして勇ましい楽曲とメカメカしい戦車に至るまで、見渡す限り、男の子の臭いがぷんぷんとたちこめている。
 
 しかし、本作は『ガールズアンドパンツァー』であって『ボーイズアンドパンツァー』ではない。みんな女子ということになっているから、男子の集まったホモソーシャルな部活動にあって然るべき、「臭み」や「嫌らしさ」は脱臭されているし、脱臭されていることに違和感を感じない。他校の一部生徒にはその片鱗を感じなくないが、あくまで個々の生徒の性質として描かれているのであって、“男子が群れ集った時にありがちな陰険さや恐ろしさ”は本作品に登場しない。
 
 本物の男性ホモソーシャル集団には、マウンティング合戦や小競り合い、いじり、差別、そのほか色々な問題がついてまわる。ましてや文化系~運動系までの出身者が寄り集まり、他校の生徒とも協同でやるとなれば、そうした「臭み」や「嫌らしさ」は見苦しいレベルになって然るべきだろう。だが、『ガールズアンドパンツァー』はそうはなっていない。本物の男性ホモソーシャルな集団のなかでは苦しい立場に立たされそうな登場人物も、いじりや嫌がらせの対象になることなく、平等に扱われ、見せ場もしっかり与えられている。すべてのメンバーを、安心した気持ちで眺めていられる。
 
 言うまでもなく、女性ホモソーシャル集団に特有の、あの透明でネバネバした人間力学も本作では描写されていない。
 
 本作の戦車戦が「特殊なカーボンコーティング」というご都合主義な設定によって成立しているのと同様に、『ガールズアンドパンツァー』の爽やかな人間模様は、男性ホモソーシャル集団を女の子にコンバートした、ご都合主義な描写によって成立しているのだと思う。
 
 

ご都合主義の精髄

 
 このように、『ガールズアンドパンツァー』は、ハード面でもソフト面でも徹頭徹尾ご都合主義な作品だった。戦車道連盟の設定も、学園艦の設定も、まあ、とにかくあれこれご都合主義としか言いようがない。
 
 だからといって悪いわけではない。この娯楽作品に七面倒なリアリティなんて誰も期待していなかったわけで、至当なことだと思う。女子として描いたほうが都合の良い部分は女子として描きつつ、臭みをじゅうぶんに脱臭したうえで男性ホモソーシャルの理想郷を描いたからこそ、諸々の戦闘シーンや選手の敢闘が際立ち、余計なものに気を散らさず、楽しむべきものに集中できたのだろうし、多くのファンに愛されたのだろう。
 


 
 まったくそのとおりだと思う。
 
 この作品が提供している「リアルっぽい」要素は、どちらかといえば「精巧なデフォルメ」の類で、そうした「精巧なデフォルメ」を下支えしていたのが、幾層にも重なりあった「ご都合主義」ではないかと思う。幾層にも「ご都合主義」を重ね合わせるのは存外に難しい。どのアニメと名指しはしないが、「ご都合主義」を重ね合わせた挙句、どれもチグハグで視聴者の集中力を削いだり苛立たせたりする作品はあるわけで、その点、『ガールズアンドパンツァー』は「よくできた戦車戦のデフォルメ」を下支えする「ご都合主義」が非常に洗練されていた。ありがたいことだと思う。
 

*1:もしかしたら「中性ホモソーシャル」と呼ぶべきなのかもしれないが、男性である私にとって中性的と言うには少々馴染み深い「望ましさ」が体感され、また、女性的というには性別の彼岸の余所余所しさが感じられないので、男性ホモソーシャルという語彙を使っていくことにする

*2:対して、沙織は微妙に「運動部のマネージャー」に近いポジションに位置していて他の連中の短所をうまくカヴァーしているが、彼女もただそれだけではなく、未経験な恋愛談義に耽るなど、ところどころ男性ホモソーシャルな集まりにありがちな雰囲気を漂わせていて味わい深い

皆さん、本当は「想像力の欠如」がお望みなんでしょう?

 
 
 
 貧困報道を「トンデモ解釈」する困った人たち -ある階級の人たちは「想像力」が欠如している
 
 「想像力の欠如」は、これまでも知識人やその周辺によって繰り返し指摘されてきた。階級・階層・立場の違う人達への想像力が欠けているのは問題だ、というやつである。
 
 リンク先は、そうした「想像力の欠如」を踏まえたうえで、どのようなコミットメントや報道が望ましいのか、真摯に悩む文章だと私は感じた。そして、あまりの難しさに「難しい問題ですね」という感想を述べるのが精いっぱいだった。
 
 ちなみに「難しい問題ですね」という言葉は、ある先輩医師の受け売りである。どうしようもない問題やどう動いても角が立つ問題に対して身動きがとれない(またはとらない)時に、彼は「難しい問題ですね」と口にしていた。彼が口にする「難しい問題ですね」は、どの選択肢にも痛みが伴う問題に対する深慮のようにも見えたし、考えるのを打ち切る際の大義名分のようにも見えた。その台詞のうちに歯がゆさを実感するようになったのは、その先輩医師と同じぐらいの年齢になってからのことである。
 
 それはそうとして、「想像力の欠如」は社会的には大きな問題だが、個人それぞれにとって、どのぐらい問題意識になり得るものだろうか。
 
 「想像力の欠如はいけない」――私だって、頭ではそう理解している。理解しているのだが、私自身の、いや、私達のライフスタイルを顧みた時、「想像力の欠如」とは解決すべき問題なのか、それとも望ましい状況なのか、ときどきわからなくなる。
 
 マクロな社会問題をいつも気にしている人達は、もちろん、「想像力の欠如」を社会問題として槍玉にあげるだろう。私も社会問題だと認識している。だが、「想像力の欠如」が社会問題であるという認識と、個人のライフスタイルや望みには大きなギャップがあるのではないか。それらが乖離しているからこそ、リンク先で鈴木大介さんが危惧しているような「ちゃんと伝わりにくい」「かわいそうバイアス報道」が生じやすくなっているのではないか。
 
 そのあたりについて、私が疑問に思っているところを正直に吐きだしてみる。
 
 

「想像力の欠如」って、みんなが望んだ結果じゃないの?

 
 私は、私自身とあなたに問うてみたい。

 「想像力の欠如」に困っていますか?
 
 「想像力の欠如した他人」に困っている人なら、ごまんといるだろう。モンスタークレーマーに苦慮する労働者などはその最たるものだし、マイノリティ属性を持った人が、そのマイノリティ属性に対する想像力の欠如に苦しめられていることも多かろう。
 
 それはそれとして、「私/あなた自身に、想像力が欠如している」という事態に、どれだけのデメリットがあるだろうか。
 
 「私は社会問題など意に介さない自己中心的な人間です」と大声で表明すれば社会的デメリットがあるかもしれないが、そういう大っぴらな表明をしない限りにおいて、自分自身の想像力の欠如によってデメリットを蒙る人は、あまりいないのではないか。
 
 「想像力が欠如していない」状態、すなわち、自分とは異なる階級・階層・立場・属性の人達への想像力が行き届いた状態には、コストがかかる。生活態度も価値観も出自も違っている人達に想像力を本当に働かせるためには、当然、そうした人達とのコミュニケーションが必要となる。それも、年に一度とか、三日限りとか、そういうものではなく、多かれ少なかれ継続的なコミュニケーションを持っていかなければならない。いや、コミュニケーションというより“接点”と言うべきか。
 
 だが、そのようなコミュニケーションや“接点”は、必然的にしがらみや摩擦をどっさりもたらす。最も成功した場合でさえ、気を遣ったぶんだけ神経は磨り減るだろうし、時間もかかる。そんな神経の摩耗や時間の消耗を、この効率至上主義な社会のなかで一体誰が望むというのか*1
 
 それよりは、メディア越しに「貧困」や「マイノリティ問題」を眺めやったほうが(あえていやらしい表現を使うが)“コスパが良い”のではないか。
 
 リンク先の鈴木大介さんは、貧困問題についてメディアで報道することの難しさと、安易な受け取られかたについて問題提起しておられる。その問題提起は至当だろう。だが、そうした問題提起が必要となる背景には、自分とは大きく隔たった人達に対する想像力コストをなるべく減らして済ませたい私達のニーズがあり、もっと言うと、「見たいものしか見たくない」「想像しやすいものしか想像したくない」メンタリティが拭いがたく存在するのではないか。
 
 そういったニーズやメンタリティがあると仮定したうえで「想像力の欠如」問題について考え直してみると、実のところ、私達は想像力の欠如に困っているのではなく、想像力の欠如を望んでやまず、手放したくないのではないだろうか。
 
 私は、その象徴を現代の都市空間や郊外空間に見る。
 
 昨今のオートロックのタワーマンションやニュータウンは、居住者にあるていどの同質性を提供したうえで、お互いが好き勝手に暮らしても摩擦やしがらみを最小限にできる構造になっている。それらは最近に始まったことではなく、20世紀から連綿と受け継がれてきた、人と人との摩擦やしがらみを最小化して快適なライフスタイルを実現するための、一連の運動のなかでできあがってきたアーキテクチャだ。
 
 雑多な人間同士が集落や団地に押し込められて、職場でも私生活でも「付き合い」が避けられなかった昭和時代の苦しみから逃れたいという、皆の思いが具現化した結果として、今日の、誰もが好き勝手に暮らして、それでいて摩擦やしがらみを最小化できる生活空間が立ち上がってきたことを私は忘れることができない。そして、そのような生活空間を、本当は誰もが――貧困問題の当事者と呼ばれる人達すら含めて――望んでやまないということも。
 
 本当の意味で、自分とは異なる階級・階層・立場・属性の人達への想像力を養いたいのなら、メディアを読み漁るのでも、数日程度のボランティアを体験するのでもなく、雑多な人々とコミュニケーションや接点を持ち続けられるような生活やライフスタイルを採用していく必要がある。だが、そこにはしがらみや摩擦がどっさり待っているし、それは現代風のライフスタイルに慣れきった者同士ではとりわけ辛いと想定される。それでも「想像力の欠如」を克服し、人と人とがわかりあえるとしたら、こんなに素晴らしいことはない。しかし、そんな勇気ある一歩を踏み出し、実際にわかりあえる“英雄”のような個人は、どこにどれだけいるだろうか。
 
 

「想像したいものしか想像したくない」「でも私のことはわかって欲しい」

 
 他方で、私達は「想像力への期待」を抱えてもいる。
 
 私達は、見たいものしか見たくないし、想像したいものしか想像したくない。公正なメディアの報道すら、自分達に都合の良いように脳内補完して解釈しがちだ。にも関わらず、当事者に回っている時の私達は、私達自身の苦しさや境遇をきちんと見てもらいたい、対処して貰いたいと望み焦がれる。
 
 お年寄りは、年金問題や医療費問題に思いを馳せて貰いたい。
 子育て中の壮青年は、「保育園落ちた日本死ね!」をわかって貰いたい。
 そのほかの立場・属性の人達も、それぞれの立場・属性に応じて対処して貰いたいと声をあげる。
 
 他人事については「想像力の欠如」にまどろんでいたい私達ではあっても、自分自身のことについては「想像力を期待」する――これは、想像力のダブルスタンダードとも言うべき態度だが、現代日本においては――いや、どこの国でもそんなものかもしれないが――ありがちな態度である。その想像力のダブルスタンダードに立脚したかたちで言説空間の議論や駆け引きが行われ、政治的デシジョンや“あるべき規範的態度”が形成されているのが、現状のようにみえる。
 
 言うまでもなく、そのような政治と規範の形成プロセスは「想像力の欠如にふさわしい、見当違いなものになってしまう」リスクを生む。ときに、エリートが見当違いな貧困対策を表明する背景には、そうした見当違いも多分に含まれているのだろう。また、自分とは異なる立場・属性の人間を悪しざまに罵って憚らない、昨今の政治的/コミュニケーション的風潮も、そうしたダブルスタンダードに因って立つ部分があるように思われる。
 
 社会全体のことを考えるなら、このような「想像力の欠如」は是正されて然るべきだろう。しかし、私達がこしらえ、支持してきたライフスタイルや生活環境が正反対の方向性である以上、口ではツベコベ言っていても、「想像力の欠如」した「都合の良い生活空間とライフスタイル」を手放したくないのが私達の本音ではないのか。とはいえ、本音丸出しはいかにも恰好がつかないから、「メディアを読んで勉強して」「難しい問題ですね」と嘆いてみせることで、想像力のダブルスタンダードを糊塗し、さも社会問題への意識が高いような態度を形成する――私自身も含め、ありがちで疎ましい賢しさと言わざるを得ない。
 
 

それでも「想像力の欠如」を乗り越えていくとしたら

 
 こうした現状を踏まえたうえで、摩擦やしがらみを厭わず、「想像力の欠如」を埋め合わせる方向に進んでいくためには、どのように行動すれば良いのだろうか。
 
 個人レベルの理想を言えば、自分とは異なるさまざまな人々とのコミュニケーションの機会を丹念に拾い上げていくこと、それも、単発で終わるものではなく、持続するような性質のコミュニケーションを保持しておくことだろうし、そのように努める余地は誰にでもある。
 
 ただし、既に「想像力の欠如」に慣れきった私達が、垣根を越えて異なる階級・階層・立場・属性の人と付き合っていくのは簡単ではない。高いコミュニケーション能力が必要とされるだけでなく、時間やお金もかかるだろう。ストレスだって大きいに違いない。
 
 なにより、学校生活でも職場生活でも同質性の高い――たとえば東京のエリート校の出身者同士、あるいは地方の実業高校出身者同士のような――生活環境で生まれ育ってきた人間は、そう簡単には想像力の壁を突破できない。生まれながらに慣れ親しんだ価値観や規範意識を当然と思っている場合は、それが“色眼鏡”になって“ボタンの掛け違い”を生むこともある。
 
 同質性の高いモノの見方しかできない人間それぞれが、みずからの所属する集団の外側に想像力を働かせる意志と能力を欠いたまま、それぞれ好き勝手に生きている(そして生きざるを得ない)という意味では、確かに日本は階層社会になりつつあるのだろう。
 
 たぶん、こうした問題を根底から解決するためには、その「想像力の欠如」の苗床となっている、現代の生活環境やライフスタイルが刷新されなければならないのだと私は思う。だが、私達にその意志と覚悟があるだろうか? 戦後以来の人々の願いや夢が結実した都市空間や郊外空間の彼岸に、私達は辿り着けるのだろうか。
 

*1:そして一体誰に可能だというのか

「脱・自分中毒」の行方

 
他人との差異化を熱望して孤独になっていく : web-g.org
 
 「自分らしさ」のための消費は、もともと、同世代のなかで自分を望ましく位置づけ、コミュニケーションを有利にするものだったはずだ。「自分らしさ」を際立たせる消費活動によって、社会適応にもプラスの影響が得られる見込みが立ったはずである。
 
 ところが、「自分らしさ」が社会適応のための手段ではなく自己目的化してしまい、社会適応へのプラスの影響よりもマイナスの影響が現れるようになってしまった人達がいる――リンク先を読んで、そのような人達のことを思い出した。
 
 リンク先には、自分の行動や購入品をインターネットにアップロードし続ける孤独なオジサンが例示されているが、実際、そういう「自分らしさ」が自己目的化してしまった個人は少なくない。ある者はソーシャルゲームのガチャを回し、ある者はみずからのブログやtwitterアカウントに火を放つ。そうでもしなければ、自分というものの輪郭が保てないというのか。
 
 「私が私らしくあるために」「私が他の連中とは違っていることを証明するために」、みずからのリソースを擲ち、みずからの社会適応やメンタルヘルスに火を放つ人々は、「自分らしさに呑まれている」と言わざるを得ない。もっと言うと「自分中毒」である。
 
 自分自身に拘り過ぎた結果、自分自身がお荷物になってしまっている
 
 このような人々は価値観の狭窄を伴いやすく、「自分らしさ」にプラスの影響を与えてくれるか、それともマイナスの影響を与えるかで、多くの事物を評価してしまう。しかも、そのような価値観の狭隘さは傍目には出来の悪いナルシストという印象を与えがちだ。
 
 

「アイデンティティ」時代と「自分らしさ」の亡者達

 
 個人主義が根付いた社会では、個人はアイデンティティをみずから勝ち取らなければならない。それは職業的なものでもいいし、オタクやサブカルのような、趣味的なものでも構わない。あるいは、友達関係や家族関係がアイデンティティの重要な構成素子になることもある。いずれにせよ、そうしたアイデンティティの構成素子を個人みずから獲得しなければならない構図は、個人主義社会においては避けがたい。
 
 1980~90年代は、そうしたアイデンティティが金銭や趣味で購われやすい時代だった。職業的なアイデンティティにしても、一流企業への所属よりもユニークなライフワークや職業が求められる時代だった。逆に考えると、そういったハイレベルなアイデンティティのシンボルを手に入れなければ「自分らしさ」の実感が感じられにくい時代だった、ということでもある。
 
 当時はフリーターやカタカナ商売に若者が殺到し、心理学がブームになり、カルト教団が社会問題になった。これらはいずれも「アイデンティティを獲得せよ」「アイデンティティの空白状態がしんどくなった」という社会状況に沿った出来事という意味では、同根の社会現象である。「自分らしさ」を追求できる時代になったからこそ、「自分らしさ」の空白は耐えがたく、「自分探しをしなければならなくなった」。
 
 そういう時代を生きた若者が、職業的・家族的なアイデンティティを獲得できないまま年を取り、なおも「自分らしさ」に飢え続けた結果として、「自分らしさ」の亡者のごときオジサンができあがったのだろう。ひとつのカタチにおさまらなかった「自分らしさ」を補償するために、購入品をアップロードし、ソシャゲのガチャを回し、twitterやブログで吠えて、それでどうにか「自分らしさ」の輪郭を維持してアイデンティティクライシスを回避する生活は、傍目に見て幸せそうにはみえないが、「自分らしさ」の空白を欠いたまま生き続けるのはもっと辛いから、終わることのない対処療法のごとく、「自分らしさ」の輪郭を確かめるための強迫的活動が続いていく。
 
 もし彼が個人主義者でなかったら。
 イエやムラや企業や仲間にアイデンティティを仮託できる人間だったら。
 このような悲劇は回避できたかもしれない。
 
 とは言っても、集団に「自分らしさ」を預けること、言い換えれば「自分達らしさ」で「自分らしさ」を埋め合わせることには、相応のリスクやコストがかかる。1980-90年代の精神性とは、そうした旧来の集団主義についてまわるリスクやコストを、金銭やライフスタイルやインフラの力でできるだけ回避しようとするものだった。それはまあ、良かったのだろう。そのかわり、個人主義者をやり過ぎてしまう人、個人主義者たらねばならないけれども上手くやりきれない人にとって、あの時代の精神性は良いことばかりではなかった。首尾よく「自分らしさ」にたどり着けなかった人達は、「自分らしさ」をこじらせ、消費社会を彷徨う幽霊のような存在に成り果ててしまった。
 
 

「脱・自分中毒」へ

 
 そうした「自分らしさ」の自家中毒も、これからは変わっていくだろう。
 
 一時代のような、「自分らしくあらねばならない」「他の連中とは違っていなければならない」という精神性は、今の若年世代からはさほど感じない。少なくとも、数十年前の若者達にあったような、ほとんど強迫観念のような「自分らしさ」志向は見受けられない。もっと現実的で、もっとこなれた個人主義者として、彼らは生きているようにみえる。
 
 「自分らしさ」への執着が過去世代よりも穏当になっていけば、自分中毒に陥り、「自分探し」の幽霊に成り果ててしまうリスクも小さくなるだろう。
  
 小中学生時代からガラケーやスマホで繋がり続けてきた世代の「自分らしさ」とは、一体どのようなものだろうか? もちろん彼らとて個人主義社会の申し子、アイデンティティを全部他人任せ・システム任せにすることなどできはしないだろう。さりとて、過剰な「自分らしさ」志向が社会適応の妨げになってしまうことを彼らの世代は知悉しているし*1、そうやって「自分らしさ」に大枚をはたき続ける猶予のある若者など、今日では少数派に過ぎない。
 
 時代が変わり、精神性も変わった。「自分中毒」は、若者の特権から過ぎし日の残滓へと変わりつつある。大半の人にとっては「自分らしさ」なんて生きるために必要十分な程度にあれば良いのであって、過剰な自意識なんて笑うべき代物だ、という認識が浸透した先には、一体何があるのだろうか。
 

*1:なにせ中学生になる前から「中二病は嘲笑の対象になる」というメタ知識が耳に入って来る時代なのである

アニメは現実を侵食したりはしない。理想を、願望を、浸食する

 



 
 世の中には、アニメやゲームの影響を過大評価する人がいる。曰く、「アニメばかり見ていると現実を見失う」「ゲームばかりやっていると現実とゲームの区別がつかなくなる」etc……。
 
 だが、現実とコンテンツの区別がつかなくなる人ってそんなにいるだろうか? アニメやゲーム、テレビドラマなどを観ていて、自分自身をヒーローやヒロインだと勘違いする人・自分も同じことが出来ると思い込む人は、ほとんどゼロに近い。もし、そういう人間がいたら、そいつは何を観ても強い影響を受けてしまうような、心の壁の脆い人間だろう。この場合、コンテンツの内容以前に、その個人の稀有な被影響性をこそ問題にすべきだ。
 
 それでも私は、コンテンツによって人間が影響を受ける領域はあると思う。
 
 それは「理想」や「願望」や「欲望」の領域だ。
 
 たとえば80年代~90年代にかけてはトレンディドラマが流行した。当時の若者達はドラマの描写をありがたがり、これこそあるべき恋愛の姿、理想的なライフスタイルだとみなした。雑誌類からの援護射撃も手伝って、日本全国の男女交際のテンプレートが塗り替えられていった例と言える。
 
 アダルトビデオも、負けず劣らず影響を与えた。どのような性行為が理想的なのか。どのような性行為を欲しがるのか。そういった欲望のテンプレートづくりに、アダルトビデオというメディアが与えてしまった影響は小さくない。男性性欲の欲望のテンプレートは、地域の年長者の経験談なものから、アダルトビデオ的なものへと変わっていった。
 
 

  • 現代アニメが「ウェイ」「ウェーイ」の夢を再生産する

  
 同じような理屈で、昨今のコンピュータゲーム・ライトノベル・アニメなども、若者の男女交際やライフスタイルの望ましいイメージになんらかの影響を与えていると推測される。たとえば最近の深夜アニメでは、同級生が集って部活動を頑張る様子や、ひとつの目標に向かって皆が力を合わせるさまがしばしば描写され、これがアニメファンに喜ばれている。そういったアニメをありがたく視聴しているうちに、あるべき理想の姿、憧れたい人間関係の姿が、だんだん作品寄りになってしまっている、ということはないだろうか。
 
 コンテンツと現実、二次元と三次元の区別がつかない人はほとんどいない。だが、従来のパターンを踏まえるなら、架空のコンテンツが浸食するのは現実検討識の領域よりも、理想や願望の領域、欲望のかたちの領域である。アニメやゲームの描写と現実を区別できなくなる人は滅多にいないが、アニメやゲームを楽しんでいるうちに“あるべき理想像”を浸食されてしまっている人は案外多いのではないか。
 
 だから、昔は「ぼっちっぽい」アニメやゲームを観ていた人でも、『この素晴らしい世界に祝福を!』だの『ガールズアンドパンツァー』だのを観ているうちに、「かくあるべき理想」が少しずつシフトして、群れる若者――最近のネットスラングで言うなら「ウェーイ」や「ウェイウェイ」――の方向にズレていった人は少なくないのではないだろうか。実生活では人間関係を疎ましく思っている人でさえ、若々しいキャラクター達が群れて頑張っている姿に憧れていれば、あるべき理想のかたち・あるべき欲望のかたちは、そのような方向性に傾いてしまう。コンテンツと現実の区別をつけるのは簡単だが、コンテンツ越しに浸透してくる理想や欲望をブロックしながら楽しみ続けるのは簡単じゃない。
 
 過去においては、アニメファンやゲームファンのなかには、群れて騒ぐ若者を嫌悪したり揶揄したりする人が少なくなかった。だが、彼らとて、コンテンツのなかで群れてはしゃぐキャラクター達を賛美しているうちに、理想や願望や欲望が塗り替えられてしまい、いつの間にか「「ウェーイ」「ウェイウェイ」予備軍になってしまっている可能性は多分にある。現実では「ウェーイ」「ウェイウェイ」を嫌悪しながら、コンテンツの世界ではそのようなキャラクター達の賑わいを賛美するのは、ちょっとややこしい精神の乖離だと思うのだが。
 
 「アニメやゲームは孤独な若者を増やす」、という言説がある。だが、こと理想や願望や欲望の次元において、今日のヒットアニメやヒットゲームが視聴者に届けている内容は、孤独になりたがるようなものよりも、群れて力を合わせたがるものが優勢だ。そもそも、「アニメやゲームを楽しんでいるのは根暗で孤独な奴」という時代はとっくに終わっているのである。