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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「ここで認められないと詰む」は詰む

 
 新年度が始まって1カ月。
 
 新環境は、社会のなかの“ふるい”のようなもので、新環境になじんで適応できるか否かを試しているようなふしがある。学校や職場がコロコロと変わる現代社会では、「新環境になじんで適応する」という課題は、まず避けてとおれない。
 
 新しい職場や新しい学校に慣れるのは辛い。慣れていないことに取り組むと体力や精神力を消耗するし、なにより、新しい人間関係を作り直すのが大変だ。長い人類史のなかで、そういった課題を突き付けられていた人が一握りだったことを思えば、これはけっこう理不尽なことだと思う。

 この時期、新環境についていけない人のことを俗に五月病と呼ぶ。しかし、冷静に考えてみれば、進学や就職や異動のたびに新しい人間関係を毎回作り直して、毎回うまくいくってのは、どこか奇跡的な気がする。常識を脇に置いて考えると、人生のなかで二度や三度ほど五月病めいたエピソードがあるほうが、人間としては自然ではないだろうか。

 

「絶対認められたい」と力んでしまう人々

 
 新環境にうまく適応し、そこで認められたいと願うこと自体は、人としておかしくない。だが、絶対に認められたいと思い込んだり、この仕事・この課題を死守しなければならないと思い詰めてしまうと、かえってうまくいきにくくなる。周囲の期待や評価を自分の味方にできる人は、いるようでいて、案外と少ない。

 どういう時に、人間は「絶対に認められよう」と力んでしまうのか。
 
1.ひとつは、目の前の新環境以外の、承認欲求や所属欲求の補給線が乏しい場合。
 
 新しい学校や職場に適応できるかどうかは、これからの社会生活を左右するファクターだから、そこを重視するのは当然だ。だが、新環境に適応するにあたって、周囲の期待や評価はどのていど必要なものだろうか? 実際には、絶対に認められようと力んでいる人が感じているほど、期待や評価を集めなくて構わないこともあるし、後述するように、時と場合によっては、期待や評価を集め過ぎないほうが良いことすらある。

 ところが、承認欲求や所属欲求の補給線の乏しい人には、そういう醒めた目線が難しくなる。なぜなら、よそで承認欲求や所属欲求が充たせていなければ目の前の学校や職場で充たすほかなく、そこに自己評価を全賭けするしかなくなってしまうからだ。自己評価の一部が賭けられているのでなく、全部が賭けられているとしたら、緊張したり足がすくんだりしてしまうのは無理もない。 

 反対に、家庭や趣味仲間や地元コミュニティに、承認欲求や所属欲求の補給線をなにか持っている人は、新環境ですぐさま認められなくても、自己評価がゼロになってしまうおそれがない。なぜなら、自分が認められるレイヤーが複数あって、一か所で自己評価がなかなか高まらなくても、それで自己評価が全滅してしまうおそれが無いからだ。こういう人は、一度に複数のレイヤーで同時につまづくか、過労や消耗といった身体的ダメージが蓄積するかしない限り、相当しぶとい。

2.もうひとつは、今まで失敗経験があり、余計に力が入り過ぎている場合。就職に失敗し、「今度こそは」という思いで再就職する人に割とみられるパターンだが、「今度こそは」という気持ちは、ときに、人を無駄に力ませる。無駄な力みは違和感となって周囲に伝わりやすく、ただそれだけで適応を難しくする。「うまくいかなくてもいいから、やってみる」ぐらいの気持ちのほうが、この点ではまだしも有利だ。

3.また、若い人の場合は、それと正反対な人も見かける。今まで失敗らしい失敗をしたことがない……というより、失敗できない人生を歩いてきた人の「絶対に認められたい」。良い高校に入り、良い大学に入り、課外活動も立派で、良いところに就職する……といった、他人が羨むような人生にみえる若者の内心が、じつは金ぴかのレールから逸れてしまうことへの強い不安に満ちていて、いつも金ぴかのレールの上で認められていなければ生きていられない、といった境地のことはよくある。

 いわば、自己評価を金ぴかレールの上に固定してしまっているタイプだが、伊達に金ぴかレールを歩き続けていないというか、これまで培ってきた有能さと根性で、あるていど周囲の期待や評価を勝ち取れることも多い。そのかわり、いったん新環境からドロップアウトし、今までどおりには認めてもらえないと感じはじめると、自分が認めてもらえていないという未経験の状況に対応できないまま、不適応を重ねて泥沼に陥ってしまう。本人も、こうした弱点を無意識のうちに知っているので、絶対にレールから逸れないように努めてはいるが、そのことを他人に察知されて、いいように利用されてしまうこともある。
 
4.あと、意外と軽視できないのが、頑張って認められようとして、その頑張りが等身大の自分よりも高い評価を呼び込んでしまい、新環境に適応するハードルをみずから高めてしまう人。
 
 新環境のなかで期待や評価を集めるのは、一般に、良いこととみなされている。確かに、給与や昇進やコネクションといった点でみれば、「あいつは期待できる」「あの人、なんかいいよね」と思われるのは良いことかもしれない。だが、そういった期待や評価が、より難しい課題を・より早く呼び寄せてしまうこともある。本人としては、とにかくも新環境に適応しようと頑張っているつもりが、かえって適応のハードルを高め、苦しめてしまっていることが往々にしてある。人生経験を積んだ後はともかく、まだ若いうちは、そうした行き過ぎた適応による自縄自縛の罠にハマる人は案外いる。この自縄自縛を経験した人は、どこまで認められるのが自分にとって適正で、どこからが不適(または無謀)なのか、考え直さなければならない。
 
 なお、先に挙げた金ぴかレール系の優秀さに囚われている人などは、そこらへんを上司や同僚に察知されてしまい、難しい課題を処理するポジションに、良いように転がされてしまう危険性が高くなる。「絶対に認められたい」というこだわりは、見える人には手に取るように見えるので、付けこまれる隙となる。難しいところかもしれないが、そういう人は、どこかで適度に挫折したり認められずに落胆したりしておいたほうが、人生の防御力があがる。
 
 

「ここで認められないと詰む」は詰む

 
 ツラツラ書いてきたが、何が言いたいのかというと「認められなくてもいいや」って気持ちが本当は大事だよね、ということと、そういう気持ちを成立させるための前提条件に気をつけなきゃいけないよね、ってことだ。新しい学校や職場に適応し、ちゃんと認められる状態になるに越したことはないけれども、そのことで心がいっぱいになるような状態を避けるためのコツみたいなものが、人生を転がしていくにはあったほうが良いと思う。

 で、新著でも書いたけれども、その結構大きなウエイトは承認欲求や所属欲求の補給線を分散させること、「認められたい」を充たせるレイヤーを複数もっておくことにかかっている。金銭欲や栄達欲しか見ていない人には、一見、無駄にみえたりコストパフォーマンスが悪かったりする付き合いや趣味の世界が、「ここで認められないと詰む」を軽減させるためのバッファとして、あるいは自己評価のリスクヘッジ先として有効に機能している人はたくさんいる。人生や自己評価を一点集中させるのは、思うほど効率的な生き方ではない。

 ただし、付き合いや趣味の世界などにかまけ過ぎると、今度は時間的・体力的に死ぬことになるので、どこらへんが自己評価のリスクヘッジと、時間的・体力的に死ぬことの妥協点になるのか、それぞれに自分の答えを探して、一番良いところに持っていく必要がある。
 
 それと、経済的にも死なないように。極論を言うなら、メチャクチャにお金を使って承認欲求や所属欲求を充たして「ここで認められないと詰む」をリスクヘッジできるほどの金銭的余裕があるなら、やっちゃったって構わないのだと思う。でも、ほとんどの人はそこまでの金銭的余裕が無いはずだから、経済的に死なないための配慮は必要だ。
 
 この視点で考えると、トータルとしての適応ゲームは、「認められたい」を巡る自己評価のリスクヘッジと、時間的・体力的制約と、経済的制約の妥協点探し、に限りなく近くなる。

 この3つの要素は、個人によって強弱がまちまちなので、自己評価のリスクヘッジをあまりしなくて大丈夫な人とそうでない人、時間的・体力的な制約が少ない人と大きい人、経済的制約が緩い人と厳しい人では、適応ゲームの最適解もまちまちになる。だから、ある人にとっての最適解が、別の人には「ものすごくお金を無駄遣いしている」ようにみえることもあるだろう。このあたり、自分で考えて、自分でその加減を調整していくしかない。

 適応ゲームの最適解がまちまちになるということは、人生の最適解もまちまちになるということだ。そのなかで、ときに笑い、ときに苦しみながら、人の人生はなるようなかたちに収まっていくのだろうし、収めていくほかないのだろう。こうしたことは、三十代や四十代にもなれば大半の個人が気付くものだけど、十代や二十代のうちから勘付いて、実行できる人はあまりいない。

 なので、今、「ここで認められないと詰む」と思い込み始めている若い人は、とりあえず、疲れているなら神経を休めて、少しゆとりがあるなら旧交を温めたりして、自分自身がグラグラ煮え過ぎないよう、軌道修正してみて欲しいと思う。そして今すぐは難しいとしても、自分自身にとっての適応ゲームの最適解を、少しずつ探してみて欲しいとも思う。
 
 

認められたい

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