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リンク先は、ツッコミどころが多いけれども総論としては的を射ているなぁと思った。すごくブログ的な文章だと思う。
さておき、リンク先への反論として「だけど貧乏な高齢者のほうが多いんですよ」というのは定番である。実際、高齢者同士の貧富の格差は著しく、老老介護を余儀なくされている家庭や無資格施設に“収容されている”高齢者の経済事情は厳しい。
だからミクロな個人の問題としてみるなら、リンク先の「高齢者は列強諸国」「若者は植民地」という表現は誤りと言わざるを得ない。
しかしマクロな世代の問題としてみるなら、「高齢者は列強諸国」「若者は植民地」的な要素は否定しきれないと思う。
みんな「長生き」=「豊かさ」を忘れてしまっている
貧しい生活をしている高齢者もたくさんいるのに、なぜ、私は「高齢者は豊か」と書くのか。
理由のひとつは、高齢者同士の格差は将来もっと悲惨になると推測されるからだが、のみならず、現在の高齢者がきわめて長寿かつ健康で、認知症やそのほかのハンディを医療技術や介護技術によってカヴァーしているからでもある。
現代の高齢者は、とにかく長生きである。80~90代は当たり前で、100歳超えも珍しくない。昔の精神医学の教科書には「アルツハイマー型認知症は予後不良、五年以内に亡くなる人が多い」と書いてあったが、最近のアルツハイマー型認知症の患者さんは、レーガン大統領のごとく、十余年の歳月を生き延びる人もザラにいる。高齢者の多くは、病院に通って診察や投薬を受けながら、あるいは種々の健康診断などを利用しながら、とにかくも健康を維持して老後生活をおくっている。
私は、このこと自体が現代の高齢者の「豊かさ」だと指摘したいのだ。
命、とりわけ高齢者の命は無料で手に入るものではない*1。
高齢者の命は、医療や介護によって守られている。バリアフリーや宅配サービスといったアメニティも、部分的には高齢者の命を支えている。昭和時代には60代70代で死ぬ人が多かったが、平成時代に入って80代90代で死ぬ人が多くなった背景には、そうした諸々の進歩と普及があったことを忘れてはならない。
医療・福祉分野の出費が増えているあれは、そのまま命の値段である。
“お金を使って寿命を伸ばすのは、いい事に決まっている”と、みんながそう思い込んだ結果として、みんなが命にお金をかけるようになったから、医療費や介護費は天井知らずに増えていった。「命をお金で買う」ことを社会正義だと信奉している人にとって、今日の医療費の伸びは誇るべき成果である。たくさんの人の命がお金で買えるようになり、消えるはずの命もお金で延ばせるようになった、ということなのだから。
しかし逆に考えると、平成時代の高齢者は、昭和時代の高齢者よりもずっと命をお金で買っている、命のためにお金を擲っている、ということでもある。これを「豊かさ」と言わずに、何と言うのか。
30代の9割が健康でいるために必要な医療費は、それほど高い金額ではない。しかし70代の9割が健康でいるために必要な医療費は、それよりずっと高い。つまり、70代の命の値段は、30代の命の値段よりも“割高”である。
70代を迎えるお年寄りが少数派だった頃は、それでも大したことはなかったが、皆が70代を迎える社会では、その“割高”さが問題になり得るし、現に、大変な問題になっている。それどころか、80~90代のお年寄りもザラにいるのだから、「国民一人当たり医療費」という名の“相場”は高くならざるを得ない。その高い命の値段をみんなで負担して、とにかくも“命を買いまくっている”現状を、私は「豊かさ」だと言いたいわけである。
私達は、高齢者それぞれを顧みて「でも貧しい高齢者もたくさんいる」と言うし、それはミクロな個人としては事実に違いない。けれどもマクロな全体の話としては、「超高齢者がこんなに沢山いて、医療費や介護費を血のにじむような努力をして支払って、とにかく命を延ばしている」という現況全体、やはり「豊かさ」である。ところが医療を施す側も受ける側も、それが「豊かさ」で、ときには「贅沢」ですらあるという事実を忘れてしまっている。
なぜ、「長生き」=「豊かさ」が忘れられているのか。
理由の一端は、「個人の命はなにより尊い」「個人の命はカネより重い」という固定観念が社会を覆い尽くしているからだろう。事実としては医療技術や介護技術で命を買っているとしても、命の重みに対しては思考を停止させてしまう――そういう思考停止の作法と観念が社会に浸透し、しかも、浸透したということ自体をみんなが忘れてしまっているのだから仕方がない。
また、命を延ばすための医療技術や介護技術を売る側も、商人のような顔つきで命を売るのでなく、もう少し真面目な面持ちで、神妙な手つきで命を取り扱ってみせるから、命を売買しているという自覚は売る側にも買う側にも乏しい。むしろ双方の共犯関係は「命は救わなければならない」「命のための支払いは惜しんではならない」といった義務感を醸成することに成功している。
ために、現代の日本社会において「自分達は命を買っている」という醒めた自覚を持っている人はそれほど多くない*2。命を金で買っているという自覚が乏しく、命に金を払わなければならないという義務感のほうが強いから、「長生き」=「豊かさ」に喜びむせぶ人は少なく、命を買い続けることの困難さに悩む人のほうが多い。
いつまで「豊かさ」は続くのか
長寿社会の「豊かさ」は一体いつまで続くのか。
財力で押し切れる富裕層は、これからも安泰だろう。医療技術の進歩による恩恵で、もっと長寿で健康になるかもしれない。しかし、国民皆保険制度に助けられている一般庶民においては、この限りではない。
もちろん、これまでも制度は高齢化社会にあわせて変化してきたし、破綻を避けるために変化し続けるだろう。ただし、国も個人も貧しくなっていく近未来においては、長寿のために支払える金額は公私ともに目減りせざるを得ない。たとえば高齢者の医療費自己負担が5割になり、いわゆる「就職氷河期世代」が70代を迎えた未来を想像してみて欲しい。どう考えても、現代の高齢者ほどには命を金で買えない社会ができあがる。
そして「長生き」=「豊かさ」を買い支えきれない社会ができあがるにつれて、それを追認するための作法と観念が流布されていくのだろう。いや、胃瘻に関する議論などを眺めていると、もう変化は始まっているのでは、と思わなくもない。いつの世も“思想”ってやつはえげつない。
時代や制度や政治の事情によって、命を金で買える世代と、命を金で買えない世代の「格差」が生じることは、ほとんど不可避である。“たかが命の長さ”とはいえ、やはり、その長短は「豊かさ」と「貧しさ」に違いない。もし、ある世代が誰でも長寿を購えて、別の世代が富裕層しか長寿を購えないとしたら、それは、世代間格差といって構わないものではないだろうか。そのあたりの未来について、みんなはどのように考えて、どのように折り合っているのだろうか。