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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ケータイ小説、niftyserve、web小説、SNS

コミュニケーション

 
 以下は、2008年頃に書かれた文章である。

 

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 
 この本はとても面白くて勉強になった。特に、浜崎あゆみの歌詞とケータイ小説の関連性、それら一緒くたの郊外文化圏についての記述は、なるほど。浜崎あゆみのステッカーを貼ったワゴンRや、ふわふわのファーに包まれた改造マジェスタをみるたび、最近は速水さんの本書を思い出す。
 
 ただ、国道沿いの民として違和感があった点がひとつあって、それは、速水さんの文章ではオタクのキャラクター消費様式とケータイ小説の消費様式の相違点が強調されているけれども、私には似て見えるということだ。ヤンキー文化とオタク文化は、近親憎悪的図式を孕みつつも、それぞれの文化圏のコードに則った形でシミュラークル消費に耽溺しているという点ではそれほど違わない。どちらも、目の前の他者との摩擦に接近するよりも、接近しないで済ませる処世術に長けた界隈であるようにもみえる*1。そして、どちらの側も、モノローグを多用するような、読み手の想像力にシミュラークルを委ねるようなコンテンツを消費している。
 
 で、本題だけど、ケータイ小説をみていてしばしば連想し、速水さんの本を読んで類似性を思い出したのは、「ケータイ小説とniftyserveの創作作品」の相似だ。なにげに似ているというか。
 
 niftyserveは、インターネットが流行りだす前まで、オタク同士の情報交換や作品交換の場として役割を担っていたと思うけれども、このniftyserveには「一つの発言で投稿出来るテキストは300行まで」という、今にして思えば面倒くさい制限が存在していた。このため、創作作品を投稿する際には、300行という行数制限を意識せざるを得ないし、むしろ利用するような工夫が行われていたわけだけれど、その際の工夫が今にして思えばケータイ小説に似ていたように記憶している。具体的には、一つの投稿300行を丸ごとモノローグで埋め尽くしてみたりとか、話の展開を投稿単位にあわせて補正するとか、そういった工夫が思い出されるわけだ。投稿フォーマット(と、ニフタームなどのブラウザフォーマット)を意識するなかで、おそらく、自然とそういった技法が使われていったのだろう。
 
 投稿上の制約・ブラウズ上の制約という一定条件下においては、オタク系だろうが、ヤンキー系だろうが、近しい構成の作品がポコポコ生み出されることを示しているのではないか。
 
 もちろん、windowsXPどころではない時代にPCを使ってパソコン通信を楽しむのは少ない数の人達だったわけで、それらがケータイ小説のような大きなマーケティングの対象になる余地はちっとも無かった。対してケータイ小説は殆どの人がブラウザを所有している状況下で、浜崎あゆみ的・国道郊外的想像力を膨らませるような作品群をドカドカ送りだしたのだから、そりゃあケータイ小説が売れるのもなるほどな、と。

 
 この、ボツになった文章を今読み返しても、「テキストのテンプレートやアーキテクチャによって想像力がかたちづくられる」という筋は、趨勢としてはそのとおりだったのだな、と思わずにいられない。そのある部分はtwitterで、別の面は小説家になろうで、発揮されているようにみえる。もちろん2ちゃんねるやFacebook、はてなブログやアメブロにだって言えることだ。何かをアウトプットする前に、何を用いてアウトプットするのかによって、すでにメッセージとメッセージ発信者は一定の傾向を帯びてしまう。

 もちろん例外はある。

 Twitter等のテンプレートを度外視して突き進む作品・文章・コミュニケーションはしばしば起こり得るものではある。
 
 しかしテンプレートやアーキテクチャは、例外を皆殺しにすることはできなくても趨勢を決定づける力は持っている。きちんと述べるなら、現在の趨勢によって未来のテンプレートやアーキテクチャが順次準備されるのだけれど*2、いったんできあがり普及したテンプレートやアーキテクチャは、現在の、そして近未来の作品・文章・コミュニケーションの趨勢をおおよそ決定づける性質は持っている。筆者やコミュニケーション主体者は、労力を割けば構造に逆らった表現をやってやれないことはないが、二項分布の中心部ができあがるのは、やはりテンプレートやアーキテクチャによって誘導されたソコになる。
 
 ミクロな個人それぞれは、みずからの表現をテンプレートやアーキテクチャに束縛されないように工夫を凝らすことはできる。そこのところは自由と言って良いのだろうと思う。労力を割かなければならないけれども。
 
 だが、マクロな集団やユーザー全体、といった単位でみれば、既成のテンプレートやアーキテクチャによってメッセージが規定されるというか、例の「メディアとはメッセージである」という合言葉が思い起こされるわけで。

 ネットコミュニケーションの趨勢を眺めていると、「社会的生物の集団としての人間(達)とは、なんともコロコロと転がりやすいものであるなぁ」と詠嘆したくなる。いや、ラジオやテレビといった通信技術が一方的に情報発信していた頃も、もちろん人間(達)はコロコロと転がりやすいものだったわけだけれど、ソーシャルネットワークな時代になり、双方向的に情報発信するようになったことで、いよいよもって個別のメッセージ以上にテンプレートやアーキテクチャによって人間(達)の趨勢が立ち上がってくる構図がとらえやすくなった。“誰でも発信者になれる”媒体を与えられたとて、意外と多くの人は、似たようなことを似たような風にしかアウトプットしない。

 これは良し悪しの問題ではなく、ただそうだという話なんだけど、ネットを介して起きている諸々のコミュニケーションや“情報発信”は、そうした構造に由来した歴史を堆積させはじめているわけで、それが私には、なんだかSF的というか、とてもウォッチしがいのある情景(そう、光景や風景と言わずに敢えて“情景”と呼ぼう)になっているようにみえて、毎夜毎夜のインターネットに、なんというか、胸がときめく。

*1:オタクの場合は、他者とのコンタクトを最小化することでこのような目標を達成し、ヤンキーの場合は、自分達のクラスタ内のヒエラルキーのなかに安住し、且つ外の人間にもそれを無条件に適用することで、他者と自分との相違に接触することを回避する。威圧も含めた諸コミュニケーション能力はそのための手段として用いられる

*2:この問題は、人間集団とメディアの相互影響を円環状に考えるのが原則論ではある