シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

今の学生に「退屈な時間」なんてあるんだろうか

 
 私が学生をやっていた頃、退屈は敵だった。
 
 どう時間を潰して良いのかわからない時間があちこちにあって、手持無沙汰を喜ぶより「退屈は邪魔」だと感じていた。退屈を埋めるため・暇をつぶすためにはカネがかかる。それか友達の集まっている場所まで行かなければならない。仕方が無いので手近なゲームや既読の本で時間を潰すこともあったが、退屈なものはやはり退屈だった。
 
 インターネットがやってきてから、私は退屈からかなり解放された。テレホーダイをやめてADSLに移行してからは、自宅にさえいればいつでも退屈を追放できるようになった。さらに一歩進んで旅先でもインターネットを欠かさなくなると、滅多に退屈しなくなった、退屈や手持無沙汰は手許の端末がすべて吸い取ってくれる。「有意義な時間が過ごせる」というわけだ。無駄な時間などどこにもない。すべての時間を、なにかしらの学習や娯楽に埋めかえられる。いつでもどこでも誰とでもコミュニケーションだってとれる。
 
 ただ、こうなってみると退屈はどこにもいなくなった。社会人になったので私は常に忙しいけれども、例えば、夏休みの学生の場合などはどうなんだろうか?
 
 今日の手持無沙汰――本当の意味での手持無沙汰――とは、手許に(スマホだけでなく本や漫画も含めた)メディアが何もない状態に限定されるのだろう。なぜなら、電車の移動中なども人々はメディアを手放さないからだ。幸か不幸か、インターネットは(禍々しい広告さえ我慢すればだが)無料で無限にコンテンツをみせてくれる。コミュニケーションもまた然り。それらがどのぐらい人間を賢くするかはさておいて、通信費さえ負担すれば退屈や手持無沙汰は無限に埋め合わせられる。スマホ持ちの現在の学生に、本が買えない・漫画が買えない・アニメが視れない的な貧乏学生の退屈はあり得るものだろうか?雪の降りしきる冬の日、どこにも遊びにも行けずにボーッとしている時間が存在し得るものなのか?
 
 学生時代の「退屈」について考えると、現在の学生時代の質感と、二十年前の学生時代の質感は著しく違うんだろうなとよく思う。出身大学近くの飲み屋のマスターは「最近の学生は静かになった」といつも言っている。そういう社会の表層にあらわれてくる変化だけでなく、精神生活もすっかり変わってしまっているのだろう。昨今の学生に、退屈な時間・手持無沙汰な時間は果たしてあり得るのか?あり得るとして、彼らにとっての「退屈」は、私が学生だった頃の「退屈」とどれぐらい同じで、どれぐらい隔たっているのか。