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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ネットは“コミケ”から"“テレビ”になった。

執着

 
 最近、ブログが不自由になってきたと思いませんか? - orangestarの雑記
 
 私も、似たことを数年来感じていた。ブログは窮屈になった。他のインターネットも多かれ少なかれ窮屈になってきているような気がする。例えばtwitterも。ネット炎上は一時期ほどではないが、それをもって「窮屈が緩和された」とは思えない。むしろ注意深さが普及した効果なのかな、と思う。
 
 「なぜネットが窮屈になったのか」は、色々なアングルで捉えられるし、そもそも多因子の帰結としてそうなったのだろう。ここでは、「ネットメディアが“コミケ”の論理から“テレビ”の論理に傾いたから」について、まとまりなく書き散らしてみる。
 
 

「書き手中心のメディア」から「読み専中心のメディア」へ

 
 00年代初頭のインターネット、それこそ月間PVが200以下の“○○のホームページ”時代のインターネットは、概ね「オーディエンスはみんな書き手」だった。個人ウェブサイトを訪問する人間の大半は、自分自身が書き手でもあった。だからといって揉め事が無かったわけではないけれども、「オーディエンスはみんな書き手」の割合が高かったことで担保されていた何かはあったと思うし、揉め事も、あくまで書き手と書き手のソレが中心だった。
 
 はてなブックマークが実装された当時のブログ世界も、たぶんそう。はてなブックマークの初期ユーザーがブロガー(や個人ウェブサイトの保有者)である確率は、今よりも高かったと記憶している(違っていたらご指摘ください)。読み手は、読み手である以前に書き手であった。読み専のはてなブックマーカーが増えてきたのは、もっと後だと思う。議論や揉め事も、読み手の“世論”による以上に、書き手同士のトラックバックによって進められるところ大だった。
 
 言い換えると、この頃のブロゴスフィアやネット空間は“コミケに似ていた”。読み手専門・寸評専門な人は相対的に少なく、書き手と読み手の境目は曖昧だった。書き手それぞれが書きたいものを携えて交換と交歓をしていたという意味において、ネットは“コミケ”に近かった。
 
 この構図がいつごろ崩れてきたのかは明言できないが、00年代中ごろ〜10年頃に変わっていったのだと思う。
 
 ブログを書かずに読む人・ブログの読み専は増えていった。2ちゃんねるも、書いて叩いたり叩かれたりの時代から、まとめサイト経由でダイジェストを読み、それをテレビに向かってあーだこーだ言うごとく寸評する人の多い時代になった。ニコニコ動画もまた然り。お客さんの時代がやって来た。議論や揉め事もまた、書き手同士の交換よりもオーディエンスの“世論”を意識したものが中心となっていった*1
 
 で、SNSの時代がやって来て。皆が書き手になったのか?違うと思う。皆が寸評者になった。誰もがテレビに向かってあーだこーだ言うように、ネットコンテンツを寸評する時代がやって来た。ネットは書き手で満ち溢れた以上に、寸評者・視聴者でいっぱいに充たされた。どんなネットコンテンツも、どこでどんな人がみているかわからない。誰かに罵声を浴びせる時でさえ、オーディエンスを意識し、政治的に発言する人のなんと多いことか。
 
 今日でも、ブログや動画には書き手(発信者)がたくさんいる。でも、今の書き手は「オーディエンスはみんな書き手」という意識は持っていないと思う。むしろ反対だ――「書き手はみんなオーディエンス」という意識、言い換えると、書き手の心で書いているのでなくオーディエンスの心で書くことが増えているんじゃないか。オーディエンスの心・寸評者の心が書き手の行動原理として大きくなっている、とも表現できるかもしれない。とにかくも、読み手の論理が書き手の論理に優越するようになった。控えめに言っても「まず書き手ありき」という発想は今日の主流ではない。
 
 ネットメディアは、“テレビに似てきた”
 
 人がテレビカメラの前で喋る時と、コミケで会話をする時では、言葉遣いはかなり変わる。誰もいない部屋で一人でテレビを視ている時の呟きも、これまただいぶ変わる。どちらにしても、これらは“コミケ”的なメディアではない。インターネットが“本当の意味でメディアになる”とは、誰が視ているかわからない前提でアウトプットし、誰が書いているかに関わらず読み取る、そういうロジックが定着することだった。のみならず、不特定多数のオーディエンスの反応を内在化し、そのロジックに従って書く書き手が増えることだった。もちろん、オーディエンスや寸評者の反応を行動原理にするほど、“自由気儘なブログライフ”からは遠ざかってしまいやすい。オーディエンスや寸評者を意識ながら書きたいことを書くのは、色んな意味でテクニカルだ*2
 
 “コミケ”的なメディアとしてのインターネットが“テレビ”的なメディアとしてのインターネットになったことで、書き手に求められる諸々は高くなって、読み手に求められる諸々は低くなった。教会のステンドグラスや国営放送のテレビ番組などが最たるものだが、不特定多数がまなざす性質の強いメディアほど、私達は襟を正して語らなければならなくなる。笑いを取る時すら、不特定多数のまなざしを意識した、そういう“やりかた”になってくる。そしてもし、不特定多数が違和感を覚えるようなアウトプットには、批判や嫌悪が集中しやすくなる。twitterでさえ、こうした構図と意識から自由ではない。
 
 このあたりが、ブログが不自由になるという感覚・ネットが不自由になるという感覚と、深く関連しているのではないかと私は思う。少なくとも、ネットが“コミケ”的だった時代を記憶している人には、そう感じられるんじゃないのかな、と。
 
 そろそろ初詣に行きたいので、今日はここまで。
 今年の『シロクマの屑籠』も、自分が書きたいことを書く魂を、どうにか捨てずに済みますように。
 

*1:のみならず、議論や揉め事は、剣闘士試合やゴシップとしての色彩を強めてもいった

*2:疎外が潜んでいるという意味でも