シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

どうやって幸福観をずらしていくか

 
 人間関係にまつわるノウハウは、どれも学習や体験の蓄積が必要だ。挨拶のような基礎でさえ、サマになるにはリピートして身体に叩き込む必要がある。しかも、年齢によって蓄積しやすいノウハウも違っているので、旬の時期を逃すと厄介だ。恋愛を挙げてみると、
 
 

 
 このように、年齢それぞれによって恋愛のかたちは違うし、学びとれる課題も違う。恋愛と無縁だった人がいきなり三十代になって恋愛をやってみせようと思っても、手こずるのは当たり前だ――ノウハウの蓄積が無いのだから。
 
 [関連]:まっとうな男女交際って、それなりに修練しないと無理じゃね? - シロクマの屑籠
 
 

自分の知らない幸福は、目指しようがない

 
 こうしたコミュニケーションのノウハウと同じくらい蓄積がモノをいい、人生の色彩を決定づけるものがある。
 
 それは「幸福観」だ。つまり、
 
・何を幸福な感覚とみなし。
・何を人生の目標とし。
・何を他人に期待するのか。
 
 そういった欲求や期待も、それまでの経験蓄積によって大きく違ってくる。
 
 例えば、他人から心配された経験の乏しい人は、その乏しい経験蓄積を判断材料として、誰が本当に自分を心配してくれているのか・誰が自分にとって有益なアドバイスをしてくれているのかを見極めなければならない。どのような人間関係を選びとり、どのような幸福を目指していくのかは、その人自身が想像できる範囲を超えない。
 
 同様に、ためになるような叱られ方をした経験の無い人・後でメリットに気づくような叱られ方をされた憶えのない人は、有益な叱る人/無益な叱る人を区別せず(できず)、一律に忌避するだろう。「叱る人」からメリットを享受する可能性が捨てられているぶん、人間関係の許容範囲は狭く、有益な情報の流入経路も狭くなるけれども、叱られて有益だった経験を欠いている人には仕方がない。
 
 こうしたことに例外があるとしたら、テレビやインターネットに流布している幸福の断片をお手本とする場合だろうか。ところが、メディアに飛び交う幸福の断片は誇張や省略だらけで、仔細までは窺い知れない。なにより、メディア上の幸福の断片のどれを信奉するのか自体、既知の幸福観によって規定されがちだ。やっぱり難しい。
 
 

幸福観のメタ認知

 
 世の中には、どう考えても幸福になれっこなさそうな幸福観を抱えている人が沢山いる。“二階から目薬を落とす”ような幸福観に束縛されている人も多い。そういう人々に本当に必要なのは、実現困難な蜃気楼に向かって全力疾走することだろうか?
 
 そうではないと思う。何をもって幸福とみなし、どのような境遇を理想とするのかを変更すること――つまり幸福観のアレンジメントのほうではないだろうか。実現可能性の乏しい幸福観や持続可能性の乏しい幸福観を抱えたまま、やれ実現しない、やれ続かないと嘆くのは、あまり建設的とは言えない。*1
 
 だというのに、自分の幸福観を意識的に振り返る人は少なく、アレンジしようと意識する人はさらに少ない。
 
 どうして幸福か不幸かばかりに拘って、幸福観を点検しようとしないのだろうか?
 
 理由の一端は、さきに述べたとおり、幸福観が、それをかたちづくる体験や想像力の限界を超えにくいからだろう。幸福観は能動的に変えるものではなく、状況に流され渋々と・受動的に変わるものだと認識している人も多いかもしれない。
 
 それでも、世の中にさまざまな人が住んでいてあらゆる幸不幸の物語を営んでいる以上、他人の幸福観をコピーアンドペーストできないまでも、自分の幸福観が唯一無二ではないと悟るチャンスはあるはずだ。少なくとも、自分と異なる幸福観を抱えた人間の存在には気づけると思う。「なんでこの人は不幸じゃないんだろう?」「この人の幸福原理がよくわからない」と思う人がいたら、その人は自分とは異なった幸福観の持ち主である可能性が高い。
 
 だからチャンスが無いわけではない。今の自分の幸福観では幸福になれないなら、幸福観をずらしてしまえば良いのだ。「幸福観を変える」と書かず「ずらす」と書いたのは、いつの間にか染み付いてしまった幸福観を変えるのはなかなか難しく、時間がかかるからだ。それでも、自分とは異なる幸福観のもとでまずまず満足している人達を発見し、その生きざまから異なった幸福観を読み取れれば、変更の余地は生まれてくる。
 
 逆に言うと、自分と似たり寄ったりな幸福観で動いている人としか付き合っていない人は、幸福観を変更しにくい、ということでもある。幸福観をずらすためには、自分と異なるロジックの幸福観の持ち主に接触するチャンスがどうしても必要だ。他者との接触抜きでは難しい。
 
 

「幼少期に不幸だった人」だけの問題じゃない

 
 こういう話を書くと、「それって、幼少期に不幸だった人の話じゃないの?」と連想する人もいるかもしれない。でも、私にはそれだけとは思えない。
 
 最近は減ったけれども、数年前まで「年収ウン百万円の男性と結婚しなければ不幸な女性」みたいな話をよく見かけた。ほかにも「有名にならなければ気が済まない人」「ジャンルの最先端にいなければ満足できない若者」みたいな幸福観を抱えながら、しんどそうにしている人もいる。こうした人々の幸福観が、幼少期の体験だけに由来しているとは考えにくい。どう考えても文化や時代の手垢がついている。
 
 そうでなくても現代社会は移ろいやすく、人間は生物学的にも社会的にも年を取っていく生物だから、幸福観をずらしていく技能はあったほうが良いだろう。二十代までは通用した幸福観が、四十代にはまったく時代遅れになっている……なんて事が往々にして起こり得る。
 
 だから、もし贅沢をいうなら、少し先の時代・少し先の年齢を見越したうえで幸福観を意識的にずらし続けていくのが理想なのかもしれない。これはとても難しいけれども。
 
 幸福のかたちはひとつじゃないし、永遠不変というわけでもない。今の幸福観ではしんどいと感じたら、他の人の幸福のかたちを見渡して、少しだけ影響を受けてみたら面白いんじゃないかと思う。あなたの周りにだって、違った幸福観でやっている人がいるはずだ。
 

*1:もちろん、衣食住のような生存に直接かかわる問題を幸福の条件とみなさざるを得ないような極限状況は例外だが、2014年現在の日本には、そういう人はあまりいない。