シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「成功者になること」と「満足すること」について

 
 ベストセラー作家だけどハックルベリー(id:aureliano)さんの質問にこたえるよ! - orangestarの日記
 
 上記リンク先の、小島アジコさんへのお返事として書き始めたつもりが、誰に対してメッセージしているのかよく分からない箇条書きが出来上がってしまった。でも、そのままアップロードするのもいいかなと思ったので、そのまま載せることにした。
 
 

  • もし、いわゆる“成功者”になれば幸福になれるなら、作家や実業家や有名人はみんな幸せに違いない。しかし実際には、幸福とは縁遠い人生を送っている“成功者”も少なくない。栄誉や喝采を求めてゲットしたのに心が充たされない人達や、“成功”のために自分自身の健康も含めすべてを犠牲にしてしまった人達、等々。

 

  • 一方、栄誉や喝采とは程遠い人々のなかにも、幸福体感度が相対的に高い(=不幸体感度の低い)人がごまんといる。子供時代や青年時代の夢が錆びてしまっても、思いもかけなかった場所で、知りもしなかった満足を見つけ、歳を取っていく人達のような。
    • もちろん「“成功者”は不幸で市井の人々は幸福」と主張したいわけではない。なかには“成功”しながら概ね幸福な暮らしをしている人もいるし、市井の人々のなかにも頻繁に不幸を体感する人は沢山いる。そして、収入/支出の問題は常に侮ることが出来ない。収入/支出のバランスシートが悪いと、みるみる不幸体感度が上がってしまう。そこのところを思うと「“成功者”にならないほうが幸せになれる」と主張するのは、いかにも筋が悪い。

 

  • “成功者”になるために血尿を出しながら頑張っている人が、自分の定義するところの“成功者”になっていない場合は、飢えた野良犬のように、最高に不幸に違いない。だがスターダムを夢見ていない大半の人にとって、“成功者”でない事は、なんら心理的なペナルティーをもたらさないことは、何度も確認しておく価値がある。

 

  • だから“成功者”になることに拘っている人を例外とすれば、実際には“成功者”であるかどうかは、幸福体感度/不幸体感度にあまり関係しない、と考えられる。栄誉や喝采といった“成功者”を“成功者”たらしめているファクターは、幸福感や不幸感の内容を修飾するにせよ、当人の幸⇔不幸のベクトルの向きをひっくり返すことは少ないのではないか。幸薄い人が成功すると“不幸な成功者”ができあがり、もとから不幸ではない人が成功すると“不幸ではない成功者”となりやすいのでは?

 

  • とはいえ、栄誉や喝采や金銭といったピカピカしたものは、それ自体が欲目をインフレさせる魔力を持っているので、いつの間にかその魔力にやられてしまった“成功者”ならいるかもしれない。才能を持っている人が、「君には凄い才能がある。今すぐ僕と契約して、成功者になってよ!」とスカウトされ、たちまち“成功者”となったまではいいものの、才能の盛期が過ぎた後、失われゆく栄華にしがみついて苦しい後半生を過ごすような。
    • 逆に考えると、“成功者”となるためにリソースを費やしても無病息災で、かつ、欲目のインフレや才気の衰えに悩まされることなく、まずまず幸福にやっている人達は、とても凄いのかもしれない。

 

  • こうした事情があるにも関わらず、世の中には「“成功者”にさえなれば自分は幸せになれる!」的な勘違いをしている人がそれなりに存在していて、そういう勘違いを商売にしている人達を養っていたりもする。幸福体感度を上げたいだけなら、わざわざ“成功者”などという、難易度の高そうな道を選ぶ必然性は無い筈なのだが、そういう警句はインターネットのアフェリエイト広告には載らない。“成功者”を目指すことは商売にはなりやすく、“成功者”を目指すのをやめることは、商売にはなりにくいようだ。
    • 勘違いのレベルとしては「結婚さえすれば自分は幸せになれる!」と同レベルだと思うのだが。

 

  • 幸福体感度/不幸体感度は「どれだけ欲しがっていて手に入らないのか」によって大体決まる、という公理はここでも真なのだろう、と私は思う。多くを欲しがる人は、少ししか欲しがらない人に比べれば、不幸体感度が大きくなりやすい。そういう人が不幸体感度を減らすには、欲しいものを手に入れてしまうか、欲しがる気持ちをクールダウンさせるか、どちらかしかない。が、一般に欲望は膨張しやすいので、欲しいものを手に入れるだけの手法は、欲望のインフレに直面しやすい。このため実質的には、欲を節制すること・欲しがりすぎない自分になっていくことがクリティカルな技法ということになる。

 

  • いや、「欲を節制する」というより「満足する」と書いたほうがいいか。

 

  • それと、「本当に欲しがるに値するものなのか」の再検討も大切か。

 

  • こういうことを書くと、「でも、欲が大きい人じゃなければ成功しないよ」「満足しちゃったらそれまでだよ」と言う人がいるに違いない。それはそれでその通りだと思う。満足し過ぎる人は、あらゆる獲得が蔑ろになってしまうし、あらゆる競争的な事物で負け続けるだろう。また、本当はあるはずの欲を無理矢理殺そうとすれば、それはそれで歪みが生じて厄介なことになってしまうかもしれない。とはいえ、満足の欠落が、不満足の欠落と同じぐらい危険であることには変わりない。
    • 余談だが、世の中には、「満足する」ために「感謝しろ」と言う人もいる。だが、満足する前段階から感謝なんて出来るのか?と私は疑問に思ってしまう。「感謝」とは、自身の幸福感を自分以外の存在と因果関係づけることだから、幸福体感度の低い人達の場合は、「皆さんのおかげで満足です」ではなく「皆さんのおかげで不満足です」と因果関係づけるのが関の山ではないか。

 

  • もちろん、この「満足」の問題は、煌びやかな“成功者”だけに限らず、配偶者・親・子どもに対して求めるところが大きい人も、同じく不幸体感度が高くなりやすい。

 

  • では、実際にはどうすれば良いのか??欲や野心をのぼせ上がらせすぎても、殺しすぎても正解ではないように思える。この相矛盾する方向性を、矛盾とは感じないような形で自分のなかに馴染ませ、欲の追求と欲の禁止とを白黒極端にしすぎないようにしなければ、正解とは言えないような気がしてならない。

 

  • おそらく、自分の欲や野心に耳を傾け、ある程度はそれに従いつつ、それで幸福になれるのか・満足できる公算があるのかをきちんと考えていく必要がある。そうやって欲を手綱づけて生きていくのが望ましい……などと書いてみせるのは容易いが、欲と満足の問題は、文章では割とどうにもならない。このため、欲望の海で遭難している人達にとって、この手の箇条書きも、ライフハック記事も、きっと役に立たない。
    • そういう、欲深くて苦しい境地を救ってはくれなくても、掬ってくれる一手段として、信仰の役割は小さくなかったのかなと思う。ただ、21世紀に一個人が信仰を持とうとすると、難しいところもあるかなと思う。
    • 「お前は欲深くて、いつも不満足なかわいそうなやつだけど、俺は、そんなお前でも、許してやるよ」と言ってくれる存在がいてくれたらなぁ。そういう存在がいないよりは、いたほうが精神衛生にはいいんじゃないか。

 

  • とはいえ、「ライフハック的なテクニックで、自分の欲や満足が真にコントロールできる」と思いこむよりは、「大変に手強い問題」とアナウンスするほうが、まだマシかな、とは思う。それと、欲が膨らみすぎて足を滑らせる寸前の人や、一時的に足もとがお留守になっているだけの人には、この手の文章が届くことがあるかもしれない。稀に。

 

  • ここまで書いておいて矛盾するように見えるかもしれないが矛盾しないつもりのこととして、以下を付け加える;とはいえ欲望を理性で全部飼い慣らそうと考えすぎるのはおかしい。「欲望が理性でコントロールできていないやつは駄目だ」的な、人間の衝動を認めなかったり、やけに否定的に捉えるようなモノの見方には賛同できない。欲望に火を付ける誘惑に包囲されていたら、眼がくらんで千鳥足になってしまうほうが、よほど人間らしいんじゃないかと思う。さりとて、今の時代、誘惑に出遭うたびに無邪気に追い掛けていては、命がいくつあっても足りない。衝動の動物も、理性の下僕として生きなければならない時代なのか。
    • こういう時、「時代(社会)の進歩に合わせて人間が賢くなれ」と言う人は多い。でも私は「人間の愚かさに合わせて時代(社会)が進歩しろ」という意見がもっとあってもいいんじゃないかと思う。そういう事のほうが難しいのは百も承知にせよ。