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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ブログを更新するほど、思考が豊かになっていく――インプット手段としてのブログについて

コミュニケーション

 
 数年前、私のブログに「そうやって(ブログに)知識を全部吐き出してしまえ」とコメントした人がいた。その人にとって、ブログとは知識をアウトプットするもの・ネタを吐き出すものだったらしい。
 
 もし、ブログが蘊蓄自慢や知識のお披露目会みたいなものだったら、いつか知識やネタが枯渇してしまうのかもしれないし、たぶん、書いていて楽しくなくなってくるだろう。ブロガー自身がブログを楽しまなくなってくれば、ブログから「艶」もなくなり、文体に「活き」が感じられなくなるだろうから、すぐ色褪せるに違いない。
 
 でも実際のブログはアウトプットであると同時にインプットでもある。ブログを書くこと・ブログ記事をまとめることで、自分自身の思考が言語化されていく。いままで漫然と考えていたことを2000〜4000字程度のブログ記事にまとめあげるだけでも、自分の思考内容は案外整理されて、デフラグをやっているかのようだ。ときにはブログ記事のために調べ物をして、知識不足を補う必要が生じるけれども、それもまた楽しいし、巡り巡って、それが次の好奇心を運んできてくれる。
 
 ときに、ブログ記事がうまくまとまりきれないまま・不明瞭なまま記事をアップロードしてしまうこともある。でも、それだってそんなに悪いことではない。2000字ぐらいのまとまったものをつくろうとすると、自分のなかで思考が整理されないままになっているモヤモヤが、案外と可視化されることがある。自分のなかのモヤモヤや不明瞭を発見できるのも、ひとつの獲得には違いなく、そういう問題は後でゆっくり消化することにすればいい。
 
 ブログを一度書くたび、自分の思考が2000字前後にまとめあげられ、しかも好奇心のトリガーがやって来る以上、ブログの知識やネタが枯渇するなんて、そうそうあり得るわけがない。少なくとも私の場合、200字程度にまとめた“ブログ記事のもと”は年々溜まる一方で、減る気配がまったく無い。どう考えても、ただのアウトプットではない。
 
 

「チラシの裏」が連鎖反応して、思考の飛躍する瞬間

 
 なにより、ブログは自分一人で考えなくてもいいところがありがたい。
 
 一人では解けないパズルを未完成の状態で“ブログに投げて”しまっても、誰かがパズルの残りを解いてくれる可能性がある。もちろん、誰からも何の反応も返って来ないこともあるし、「お前はなんにも知らない奴だな」的なリアクションをする人もいないわけじゃない。それでも「これ、皆さんはどう思っているんですか?」という問いかけに応えてくれる人、ありがたいリアクションをよこしてくださる人もいて、そういう時には一人では想像できなかったような収穫が得られることもある。
 
 プロブロガーを名乗る人達はどうだか知らないが、アマチュアのブログなんて、チラシの裏のようなものだと思う。けれどもこのチラシの裏はインターネットに繋がっているので、ときどきチラシの裏のバトンリレーが起こったり、誰かが足りないところを書き足してくれたり、予想外な方向へに話題を膨らませてくれたりする。また、ソーシャルブックマークやtwitterで不特定多数のコメントがつくのもありがたい。これは、一人でコソコソ備忘録を書き溜めているだけでは絶対に起こり得ない、ブログならではの連鎖反応だ。自分一人では思いつかないところ、自分一人では練りきれないところまで思考が広がっていく。下手なお金では贖うことのできない貴重な体験だと思う。
 
 

似た現象はSNSでも起こる。けれども…。

 
 「それならtwitterやFacebookでもいいじゃないか」と言う人がいるかもしれない。
 
 確かにある程度はそうだし、SNS上で早指し将棋のようにreplyを応酬するのも、刺激になって良いものだと思う。けれどもSNSは
 
 1.通覧性の問題。SNSはログを追いかけることを前提にしていない。アーカイブの保存もイマイチ。
 2.リアルタイム性が徒となる点。SNSは思考がリアルタイムに閃く点では優れているけれども、機を逃すと議論に参加できなくなってしまう。ブログは、一年前の記事にもトラックバックやハイパーリンクを打てる。
 3.文字数の問題。1000字以上のディスカッションを展開するには、SNSはどうしたって手狭で向いていない。特にtwitterは140字の縛りがあるので、この文字数によって思考範囲が相当なところまで束縛される。インターフェースのつくりや文字数制限は、確実にその人の思考を制約し、型にはめてしまう。
 
 といった問題点を抱えている。SNSのインターフェースは簡単なやりとりにはすこぶる向いている。そのかわり、腰を据えて思考を錬成するには全く向いていない*1。満足な文字数で練った思考同士が交叉する点では、ブログの利便性に勝るツールは、まだインターネットにはあまり存在していない。学術誌のようなかしこまったところがなく、色んな世代や職業の人とハイパーリンクで繋がりあえて、SNSやソーシャルブックマークの不特定多数のレフリーのもとに曝された状態で意見交換が出来るのは、かけがえのないことだ。
 
 以前、アウトプットとしての手段としてのブログの利便性を紹介したことがあったけれど、インプットの手段としてのブログはそれ以上に魅力的で奥が深いし、“使える”と思う。ブログを続けていると、必然的に長い文章で考えることが増えるし、自分の長文と他人の長文とが交叉する機会も増える。それは私にとってかけがえのないことなので、ブログは続けていきたいなと思う。
 
 【この記事はたぶん、以下のブログ記事からの連鎖反応の一部です】
 
 [関連]:[徳力] ツイッターやFacebookの次はまたブログが流行ると考えて、ブログを今から始めるつもりなら大間違いという話。
 [関連]:やっぱり「日本人にはブログより日記」なのかも - カイ士伝
 

*1:ときどき、twitterの連続投稿でブログの代わりにしているブロガー、ブログのネタを温めているブロガーを見かけるし、私もやらないわけじゃない。けれども、あれはあまり良くない習慣だと思っている、なぜなら、無意識のうちに140字ごとに文節を区切って考えようとしてしまい、その枠組みに慣らされていきそうだからだ。思考を自由にするためにあるべきインターフェースが、ここでは思考を枠付けするための足枷として機能してしまっている。俳句や短歌のような定型によって思考が削ぎ済まされるジャンルもないわけではないが、ブログの下書きでそれをやるのは違うと思う。