シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

インプットした知識を血肉に変えるためには

 
 文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい - デマこい!
 
 数ヶ月前、id:Rootportさんと「どうすれば文章が書けるようになるか」を議論した。クオリティの高い文章を作るためには相応のバックグラウンドが必要になるんじゃないか、という話題で三時間ほど盛り上がり、内容はリンク先の記事とおおむね矛盾しない。筆者のバックグラウンドに100冊しか本が無い人と、1000冊分ぐらいの知識がある人では、アウトプットされる文章はかなり違ってくるだろう。
 
 ただし、「インプットが多ければそれでOKというものでもない」という話も出た。
 
 たくさんの知識や文献が引き出しに入っていたほうが有利には違いない。けれども、引き出しに入った知識を、必要な場面ですぐに取り出せるのでなければ、インプットとして巧くないのではないか。どれだけ博覧強記な人でも、文章を書いている最中にインプットされた知識がぜんぜんフィードバックされないのなら、インプットした知識はちゃんと使えていないというか、その人の血肉になっていないということではないか?『枕草子』の登場人物達がスラスラ古事を引用するように、キーボードを打っている最中にスラスラと知識がフィードバックされるのでなければ、文章を書くのに役だっているとはいえない。
 
 実際、世の中には、信じられないほどの読書量を誇っているのに、話をしても、文章を書いても、読書量がフィードバックされている形跡が乏しい人がいる。そこまでいかなくても、「引用」や「応用」が驚くほど貧しい人は結構いる――「この人、本当にたくさん本を読んでいるの?」――本人の本棚や書斎はさぞ立派なはずなのに、打てば響くような引用や応用を欠いた人物。
 
 だから、ひとことでインプットと言っても、たくさん本を読めばOKってものではない。インプットした知識の融通性や応用性が高くなければ、それは死んだ知識でしかない。いつでも汲み出せるスタンバイ状態の知識にこそ価値があるわけで、本棚の隅に忘れ去られたまま、思い出されることもないような知識には値打ちが乏しい。せめて「あの本を調べれば、これは全部書いてあるぞ!」と蔵書を思い出せるぐらいの状態でなければ、万巻の書を読もうが、書斎を豊かにしようが、その人の知識は痩せていて活性に乏しいといわざるを得ない。
 
 

インプットを血肉に変える方法

 
 なら、どうすればインプットは血肉になっていくのか?
 
 方法は色々あるのだろうけれど、以下の条件のいくつかが揃っている場合は、インプットがしっかりと血肉になりやすい、と思う。
 
 ・複数回読んでみる
 一度しか読んでいない文章より、二度、三度と読んだ文章のほうがインプットがしっかりしやすい。尤も、何度も読む文章はそれだけ必要性を痛感しているか、それだけ感動なり感銘なりしていることが多いので、そのせいで脳内シナプスの深いところに埋め込まれるのかもしれないけれども。しかし、人為的に繰り返し読む場合でも、効果はそれなりにある。
 
 
 ・印象に残った文章を書き写す&暗記してみる
 19世紀以前の知識人は、備忘録(コモンプレイス・ブック)なるものを持ち歩き、印象に残った文章や言い回しを書き写していたという。活版印刷は普及していたとはいえ、コピー機もハードディスクも無かった当時、「書き写す」という行為、ひいては「暗記する」という行為は、知識をモノにするプロセスで欠くことのできないものだった。
 

 オランダの人文学者デジデリウス・エラスムスは、1512年に著した教科書「デ・コーピア De Copia」で、記憶と読書とのつながりを強調している。彼は学生たちに対し、本に注釈をつけるよう奨励した。すなわち、「印象的な言葉、古風な言い回しや珍しい言い回し、すぐれたひらめきを感じさせる文体、ことわざ、例、覚えておきたい力強い表現が出てきたら」、そこに「それぞれに呼応する小さな印」を書き込めるよう勧めたのである。また、「書き留めておきたいことに出会うたび、それに見合ったセクションを書き込めるよう」テーマ別にページ分けしたノートを作ることを、学生にも教師にも提唱した。気になる部分を簡略体ではない字体で書き写し、これを定期的に繰り返せば、それらの部分は記憶に確実に定着する。
(中略)
 彼にとって暗記は、貯蔵の手段以上のものだった。それは統合へ向かうプロセス、すなわち、読んでいるものをより深く、より個人的に理解することへと至るプロセスの最初の段階であった。古典時代を専門とする歴史家、エリカ・ランメルの説明によれば、人間は「学んだものを消化ないし内面化せねばならず、模範的作家の望ましい資質を考えなしに複製するのではなく、むしろ反映せねばならない」のだと彼は考えていた。エラスムス版の暗記は、機械的で心のこもっていないプロセスであるどころか、精神を十全に活用しようとするものである。
 ニコラス・G・カー 著 篠儀 直子 訳『ネット・バカ』青土社、2010、P247-248より抜粋

 「書き写す」「暗記する」ことによって、知識は貯蔵されるばかりでなく、消化・内面化され、自分自身の血肉に近付いていく。コピーアンドペーストが盛んな現代において、こういうアナログな手法を馬鹿にする人も多いかもしれないが、一度きりの黙読と、備忘録への書き込みでは、インプットの質はまったく違う。自家薬籠中にしたい文章を見つけたら、ペンで写したり、キーボードで打ち込んでみたり、暗記したりするのはアリだと思う。その手間暇によって、他の二、三冊の本が後回しになっても、だ。
 
 
 ・音読してみる
 音読もそれなりに効く。黙読、とくに速読モードでは文章はあまりインプットされない。もちろん速読はインプットすべきか/忘れて構わない文章かをスクリーニングするには適しているので、それはそれで習得しておいたほうがいいけれども。しかし、印象づよいフレーズ、覚えておきたい言葉は、音読してみると案外と頭に入りやすい。
 
 「書き写す」にしても「音読」にしてもそうだけど、インプットに際して身体を動かしていること――言い換えればインプットが身体化されていること――が、知識を血肉にしていく際に手助けになる場面は多いと思う。目だけで文字を追うのに比べて、そのぶん疲れるし手間暇もかかるけれど、なんとしてでも血肉にしたい書籍には、やっておいたほうがいい。
 
 
 ・使ってみる(1)――考えてみる
 せっかく手に入れた知識も、使わなければすぐ忘れてしまう*1。さしあたり、忘れたくないインプットがあったら、それが応用できる場面を探してみたり、自分自身や身の回りに当てはめてみたりして、さっそく知識の応用可能性を探ってみるべき……というか、本当に大切なインプットは、考えて、考えて、頭のなかでルービックキューブのようにカチャカチャこね回しながら自分のものにしていくのが常道だ。
 
 
 ・使ってみる(2)――書いてみる
 インプットの理解程度や融通性を確かめるには、自分で文章をつくってみるのが一番だ。バッチリ理解できていたつもりでも、いざ文章としてアウトプットしてみたら有耶無耶だった……なんてことはよくある。いきなり完成形を目指す必要なんて無いので、何度も何度も書き直したりバージョンアップしたりしながら、自分がいまどれぐらい理解できているのか、それとも理解できていないのかを試してみればOK。
 
 そもそも、考えたりインプットしたりする営みに完成形なんて存在するわけがないので、ずっと試行錯誤し続けるってもんでしょう。
 
 
 ・使ってみる(3)――議論してみる
 一人ぼっちで文章と向かい合っていると、どうしたって知識のインストールに偏りや誤りが生じてしまいやすい。けれども関心領域を共有している誰かとお喋りしていると、そうした偏りや誤りはかなり軽減できる。「お前、そのインストールおかしいよ」と言ってくれる人が傍にいるのは心強い。また、一人で文章を読んだだけのインプットと、誰かとのお喋りのなかで使い込んだインプットでは、記憶の鮮明度も、知識の融通性も、全然違ってくる。インプットした文章を血肉に変えたいなら、誰かとのディスカッションがあったほうがいいし、勉強会の類はやっぱり重要だ。逆に言えば、“ぼっち”は勉強でも苦戦を強いられる、ということでもある。
 
 ちなみに、こうした(1)(2)(3)を実践するにあたって、ブログはインターネット上では最適なツールのひとつだと思う。もちろんこれが唯一の手段だと言うつもりはないけれど、ブログを書くと、否応なく考えるし、否応なく書くし、なにかしら他人と議論が起こりやすい。
 
 
 ・体系的な学習ノウハウ
 特定分野の知識を使いこなしたい人が、遅かれ早かれぶつかる問題。自分が一生懸命インプットしている知識が、その学問体系のなかでどのあたりのポジションなのか・その知識の前後にどういう議論や学説が展開されていたのか――そういう、知の座標軸みたいなものを意識しておかないと、頭のなかで知識が整理できなくなってくる。こうした問題は、知識をたくさんインプットするほど起こりやすく、面倒になりやすいので、どこかの時点で知識の座標軸なり歴史なりは確認しておかなければならない。知識と知識の位置関係は、意外と重要だ。
 
 座標軸も歴史も欠いたままのインプットは、司書のいない図書館に本を投げ込むのに似ている。空っぽのうちは、それでもたいして困らないかもしれない。しかしいつまでも続けていると、膨大な本がグチャグチャと積み上げられ、しまいに収拾がつかなくなってしまう。
 
 もちろん、そういった知識の体系すべてをインストールするのは恐ろしく面倒で、無理をしすぎればうわべの知識ばかり詰め込んでしまいかねない。さりとて、知識をどんな風に陳列するかの体系づけを怠り過ぎても、頭が散らかってしようがない。逆に、そのあたりが体系化・マッピング化されていると、たくさん知識が溜まってきた頃になって、融通性がドカンと跳ね上がる。そういう意味では、大学の教養部でさまざまな学問概論を講義しているのは、けっこう意味があると思う。教養部の講義は大雑把な体系の説明でしかないけれども、ジャンルを体系だって眺める癖をつける予行練習としてはいいし、いつか本格的に学習したくなった時には案外参考になる。
 
 
 ・好奇心ボーナスと感動ボーナス
 当たり前だけど、好奇心や感動を伴ったインプットは自分の血肉になりやすい。そういうインプットは大切にすべきだし、そういうインプットこそが血肉になる。頼りすぎてもいけないけれども、好奇心や感動の恵みは素直に受け取っておくのが良いと思う。
 
 

「飛べない知識に意味はあるのでしょうか」

 
 世の中には、一年に何百冊本を読みましたとか、そういう自慢話をする人がいる。確かに、たくさんのインプットはその人の本棚を、ひいては記憶を豊かにはする。けれども、「本をたくさん読む=良質のインプット」という思い込みも危険だ。インプットされた知識を活用するためには、ひとつひとつのインプット、ひとつひとつの知識が、いつでも引き出しから取り出せ、他の知識と化合物を形成できるような活性状態でスタンバイしていなければならない。そのためには、単に知識量や読書量を確保するだけでなく、インプットの内実や方法論にも注意があって然るべきだと思う。
 
 だから、本当に値打ちのありそうなインプットに出会ったら、読書量に拘らず、ゆっくり考えたり、時間をかけて書写したり、誰かとディスカッションしてみたりするのがいいと思うし、SNSやブログをそういう目的に使うのも素敵だ。遠回りのように見えて、そういう手間暇かけたインプットこそがもたらしてくれるものもあるんじゃないか。
 
 インプットした知識は、堅いままでは使えない。柔らかく解きほぐし、シナプスの間を自由に行き来できるような状態の知識だけが、自分自身の血肉となり、手駒として指せるようになっていく。
 

*1:逆に言えば、使わない知識なんて忘れてしまって構わないのかもしれないけれども。