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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「生身の人間にキャラ萌えする」という事の罪

執着

 
 http://sankei.jp.msn.com/entertainments/topics/entertainments-14849-t1.htm
 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1748859.html
 
 昨日、AKB48のメンバーの一人が丸坊主になったという「事件」があった。本人は「自分の意志で」丸坊主になって、動画投稿したという。自分の意志で。
 
 なるほど、誰かが「丸坊主になれば研究生降格で済ませてやろう」とアドバイスしたから自分の意志で丸坊主になったのかもしれないし、「男女交際をした者にはAKBメンバーたる資格無し」という彼女自身に内面化された職業倫理に基づいて、頭を丸めたのかもしれない。どちらが真相だとしても、恐ろしいものを見てしまった。
 
 AKB48は、多種多様なキャラクターを用意して、ファンにそれぞれのキャラクターを推してもらう――その推す営為を介してキャラクターへの擬似親近感をブーストさせる、そういうシステムだった。これまでにもそういうシステムが無かったわけではないが、AKB48は従来の他のどんなグループよりも、擬似親近感の販売ストラテジーが徹底していて、新しかった。秋葉原での草の根じみた活動にはじまり、握手券、総選挙、そのすべてがファンがキャラクターに擬似親近感を――言い換えると、親しみのもてる幻想を――抱かせるための装置として機能し、メンバーとファンを衝き動かしていった。幻想体験が強烈すぎたのか、「キリストを越えた」と世迷いごとを口走った人もいたように記憶している。
 
 
 見損なったAKB48: Matimulog
 
 で、この記事である。記事内容そのものはきわめてまっとうだが、コメント欄に沸いた、今回の件を擁護するコメントが奮っている。どこの誰が書いているのかは知らないが、ここまでグロテスクな事態におよんでも支持している人がいるのだ!【AKB48の運営者・幻想を売るメンバー・幻想を買うファン、それらの共犯関係によって成り立つシステム】がこのコメント欄のような人間痛覚の鈍磨した信奉者を生み出しているとしたら、確かにAKB48はカルト宗教じみているかもしれない。「キリストを越えた」などとは微塵も思わないが。
 
 ビジネスの論理からみれば、支持は正しいのだろうし、男女交際をしたメンバーに“けじめ”が必要というのもわからなくはない。幻想を商品として販売する人間が、その幻想という商品をぶち壊してしまったら、総元締めと、幻想を買うお客さんに申し訳無いというのもわかる。だから彼女は、ともかくもハラキリ頭を丸めたのだろう。ある意味、その行為は「正しい」。
 
 しかしその正しさは、幻想の商取引にまつわる正しさでしかない。生身の人間がキャラという幻想を売り、その幻想をファンが買うという構図のなかで、“なかのひと”が蒙る疎外の是非は、また別問題である。そしてその疎外圧力が最大限まで“なかのひと”を圧迫した結果として、“自主的な丸坊主”なる不気味なアクションが起こり、丸坊主姿のアイドルがYouTubeで釈明する姿を支持する人々がいるのである。これが、生身の人間にキャラ萌えするという営為の、罪である。ファンが欲しかったのは、等身大の彼女ではなく、幻想としての彼女、シミュラークルとしての彼女だった。
 
 

やはり萌えるなら二次元がクリーンだ

 
 これが、漫画や擬似恋愛ゲームに出てくる架空のキャラクターだったら、まだ救いがあった。ギャルゲーや漫画の世界では、ヒロインがヒロインとしてのキャラが立たなくなると騒動に発展することがある。「かんなぎ非処女騒動」などは、その最たるものだ。それでも、DVDを割られようがファンになじられようが“なかのひと”が疎外される心配は無いし、どこかの誰かがキャラという鋳型に押し込められる心配もない。所詮、二次元はつくりごとの世界でしかない。
 
 ところが生身の人間がキャラクターという仮面を被っている場合、こうはいかない。“なかのひと”はキャラという鋳型に押し込められ、そのキャラという幻想に萌える人々にキャラを売ることになる。これが第一の疎外であり、やがて、そのキャラをはみ出せない・キャラをはみ出すと幻想に萌える人々を裏切ることになるという第二の疎外が始まる。被り物をかぶった人間は、キャラという名の被り物に塗りつぶされていく。いつしか、等身大の自分のアイデンティティがわからなくなって、キャラのアイデンティティばかりが一人歩きしていると感じるようになる。かくして疎外は第三段階に入る。
 
 人は、他者になにかしら期待や幻想を抱くものだから、こういう疎外は程度問題とも言えるし、ある程度は仕方がない。けれども生身の人間同士のやりとりでは、齟齬や摩擦、期待と幻滅を繰り返しながら、等身大の相手に近いイメージへと修正が働いて、それでもって疎外の程度が少なくなっていく―――それが一般的な人付き合いというものだ。しかし、メディア越しのキャラクター消費には、そうした齟齬や摩擦、期待と幻滅のプロセスは存在せず、純度の高いキャラクターが、幻想の買い手の欲望の赴くままに消費されていくばかりで、疎外は強まっていくばかりである。AKB48ほどの売れ筋ともなれば、そうした疎外の強さは尋常なものではあるまい。だが現代人は、そういう生身の“なかのひと”をキャラとして消費することに慣れすぎている*1
 
 この問題は、現代人の日常のコミュニケーションとも無関係ではない。いつしか現代人は、自分のキャラ立ちを気にするようになり、他人を把握する際にもキャラという言葉を使うようになった。そうしたキャラ立ちを気にしあうコミュニケーションは、SNSのような抽象度の高いコミュニケーション空間では促進され、twitterやFacebookのタイムラインには「キャラ立ち」の匂いが立ち込めている。「生身の人間にキャラ萌えする」問題は、コンテンツ産業の高いところから、私達の日常的なコミュニケーションのなかへと、忍び寄ってきている。掌のなかのスマートフォンへ。いつもの面々で構成されたタイムラインへ。
 
 最近私は、ネット上の会話のなかで「萌えるなら二次元がクリーン」とよく呟くようになっていたけれど、その理由がやっと分かった気がした。たぶん私はAKB48に、人間疎外の嫌な匂いを感じていたのだろう。生身の人間に萌えるのは、やはり罪なことなのだ。そして生身でキャラを売りすぎると(疎外という)罰のようなものがやって来る。そういう、罪と罰の高速回転に加担し、心理学的な欲求を充たしたり、金銭を荒稼ぎしたりするシステムが、現代のコンテンツ産業の中心に位置づけられているのである。
 
 少なくとも人間疎外という次元に限って言うなら、生身の人間に対するキャラ萌えは、非実在青少年*2に対するキャラ萌えよりも罪深く、痛ましいところがある。この件を通して、その罪深さと痛ましさに多くの人が気付いて欲しいと思うし、生身の人間が生身の人間に萌えるということの意味について考え直してみて欲しいとも思う。
 
 [関連:]AKB48の峯岸みなみにみる、アイドルに対する完璧なダメコンについて
 

*1:そういうキャラの消費に慣れきってしまった人・目に映るものをすべてキャラとしてしか見たくない人のなかには、一女性アイドルが丸坊主になった事態を前にしても、「これはプロレスだ!AKB48のキャンペーンだ!」と強弁する人もいるかもしれない。もし本当にキャンペーンの一環として彼女が丸坊主になり、それをAKB48のプロレス的興行として愉しみましょうという趣向だったとしたら、私の勉強不足だったということになる。だが私なら、そんなひどいキャンペーンを行うシステムについて学びたいとは思わないし、そういうシステムをプロレスとして楽しめるような感性を身につけたいとも思わないが。

*2:架空のキャラクターのことを、東京都では非実在青少年と呼んでいる。