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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

さやかと杏子はどこまで“メンヘル”だったのか?

オタク趣味

 
 http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110527/1306510563
 
 リンク先では、『魔法少女まどか☆マギカ』のさやかと杏子、特にその最期について、『認知障害』『うつ病』『メランコリー親和型性格』といった精神医学の用語を用いて解説を行っている。その概要は、“さやかと杏子は『認知障害』の状態に陥っていた”、という主張だ。つまり、これらの精神医学の用語で、さやか・杏子の“心理的背景”の中核は説明できる、ということらしい。はてなブックマーク上では賛辞の声が多く集まっているようだが、私自身の知識と照らし合わせて、どうもしっくり来ないし納得できない。そこで、このエントリで反駁を試みることとする。
 
 

1.さやか・杏子はどこまで“正常な思考が出来ない状態”に陥っていたか?

 
 まず、“認知障害”という、かなり曖昧な精神医学用語に、さやか・杏子が該当していたか?について考えよう。
 
 リンク先のテキストでは、

認知障害という言葉は聞きなれなれませんが、その状態に陥った方がどのような状態かと言いますと、脳は常に「否定的な答え」や「悪いほうの答え」を導く状態です。

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110527/1306510563

 
 と書いてある。ここで断っておきたいのは、精神医学において認知障害disturbances of perceptionと狭義に呼ばれるのは、(譫妄や統合失調症などで)幻視が見える・幻聴が聞こえる・錯覚を起こしている といった状態である、ということだ。ただし、認知障害という言葉を広義に取る場合には、うつ病におけるネガティブな思考も認知障害の一種と呼べなくはない。とはいえ、上記引用のように、ネガティブ思考に陥る状態だけを認知障害と定義づけるのは相当まずい。*1
 
 そして認知障害という言葉を広義に取る場合、精神症状という言葉と同じぐらい指し示す範囲が広がってしまうので、使用にはかなりの注意を要する。だから精神科医は、精神科医同士の会話で認知障害という単語を広義にはあまり使わない。やたら広く使ってしまうと「あなたの言っているのは、どういうタイプの認知障害ですか?」と突っ込まれるのは間違いないからだ。*2 なので、以後は認知障害という言葉を用いず、さしあたり“正常な思考が出来ない状態”と呼ぶことにする。
 
 ここからが本題。
 
 まず、さやかが“正常な思考が出来ない状態”になっていた可能性について。
 これはかなり高そうだ。Ep6以降、ほむらに対する根拠薄弱な疑いや、魔女に対するヤケクソの戦闘など、さやかが思考の余裕を失って視野狭窄していくプロセスがじっくり描写されていたと思う。特に魔女化寸前のEp8では、ほむらに譲られたグリーフシードを蹴り、ホスト二人組にくってかかるなど、破れかぶれもいいところだった。
 
 あの描写を見る限り、追いつめられたさやかが何らかの形で“正常な思考が出来ない状態”に陥っていたと考えることに違和感は無い。そこまでは合っている。
 
 問題は杏子のほうだ。彼女はどこまで“正常な思考が出来ない状態”に陥っていたのか?
 杏子にとってのさやかは、過去の自分を重ねたくなるような存在であり、転移絡みの視野狭窄や自己欺瞞が起こりやすかったのは、確かだろう。しかし、少なくともEp8までの段階で、そのような認知の狭窄や、能力的/情緒的な破綻の兆しは杏子にはみられなかった。むしろ、Ep8のほむらとのやりとりや、Ep9のキュウべぇとのやりとりをみるにつけても、彼女はかなり明晰な状態を、Ep9の終わり頃までは保っていたと考えるのが筋ではないだろうか。
 
 アニメの描写のなかで、回を重ねるごとに視野狭窄が深刻化していったさやかと、Ep9まで概ね明晰を保っていた杏子。両者のコントラストは鮮やかである。
 
 このような作中描写の好対照から推定するに、杏子が蒙っていた心理学的ダメージは“正常な思考が出来ない状態”とまでは言いにくい。少なくとも、そう判断する材料は乏しい。むろん杏子とて、動揺はあっただろうし哀しくもあっただろう。しかし、終盤のさやかにみられたような、思考の著しい鈍化プロセスを読み取れないし、まして、ここから感応精神病folie a deuxのようなものを読み取ることも難しい*3
 
 

2.杏子の最期の一撃は、精神疾患に由来するものなのか?

 
 次に、魔女化したさやかと相討ちとなった杏子の行動を、メンタルヘルス絡みの自殺企図・無理心中と捉えてかまわないかを考える。
 
 鬱病や統合失調症などの精神疾患において、認知の歪みが要因となった自殺はたくさん存在する。自殺企図や希死念慮*4を見たら精神疾患の存在を疑うのは、現代の精神医学では常識に近い。そこまでは間違っていない。
 
 だからといって、自殺企図や希死念慮を見たら、必ず精神疾患があると考えて良いのだろうか?
 
 私には、それが甚だ疑問である。なるほど、現代の精神科・心療内科を受診し、「死にたいです」と言えば、なにがしかの診断名がつく可能性が高い――それが嘘であって、ヘラヘラした顔で受診したとしても、である*5。しかし、だからと言って全ての「死にたい」「自殺したい」を、なんでもかんでも精神疾患と見なして良いのだろうか?明晰な思考を持った人間の、衝動性の乏しい自殺までをも、「それは君の決定でも本意でもない。精神疾患のなせるわざだから、君には治療と保護が必要だよ。」と一緒くたにしてしまって構わないのか?私は、それはまずいと思う。
 
 現代の精神医学の世界――特にアメリカが主導する、エビデンスと操作的診断に基づく精神医学――では、衝動に基づく行動・自殺に関連した行動を「症状」と捉え、合理的に判断できる状態を正常な精神状態とみなすようにはなっている。臨床的には、それで良いのかもしれない。しかしだからと言って、人間が本来持っているはずの衝動性や、偉大な哲学者達が議論を尽くしてきた自殺という選択を、「衝動的な行動→じゃあ精神疾患」「死にたいと思った→じゃあ精神疾患」と、すべからく一律に扱って良いものか、常に留意しておく必要がある、と私は考える。少なくとも、「この衝動的にみえる行動は本当に精神疾患と呼んで構わないのか?」というクエスチョンマークを手放してはいけないと思う。もし、このようなクエスチョンマークを忘れ、衝動性や自殺関連行動を問答無用で精神疾患の症候とみなすようになってしまえば、「ぼくたちの文明では、感情はきわめて珍しい精神疾患」とみなして人間に驚愕してみせる、あのキュウべぇまで後一歩ではないのか?幸い、現在の精神医学の状況は、そのようなキュウべぇ的パターナリズムに陥っていないと私は信ずるが。
 
 話が逸れた。
 
 1.で述べたように、杏子には認知の歪みを示唆するような兆候はそれほど見られなかった。うつ病で自殺に至るような状態に陥っていたなら、Ep9のキュウべぇとのやりとりを、あそこまで冷静に行えたとは思えない。また、ラストシーンの一撃も、魔女に対して十分効果を持つぐらいには集中力がなければ実行できるものではなかっただろう。「強大な魔女をも倒せるような冴えた一撃を、心神耗弱の人間が本当に放てるものだろうか?」
 
 加えて杏子の場合、自分自身が“魔法少女という名のゾンビ”と化している事を知っている点も気になる。Ep9の時点で杏子は、いつかはさやかと同じく魔女と化して災厄を振りまくであろう自分自身の運命を知ってしまっている。杏子は片足をゾンビの棺おけに突っ込んだ、厄介な立場にあるのであって、普通の学生が「好きな相手と心中したい」と言っているのとはわけが違う。彼女は、自分が生き続ければ必ず魔女になってしまう“ゾンビ”であることを知ったうえで、自分が魔女化する可能性を潰し、しかもさやかの菩提を弔える選択肢を選んだのではないのか。この選択は、当時の杏子の判断としては、それなりに合理的でもある。
 
 一定の合理性を持ち、なおかつ高度な集中力を要する一撃を練り上げることで達成した「杏子の最期」を、敢えて「精神症状としての自殺」「精神症状としての心中」と読み取るためには、他にも沢山の証拠(=精神科的症候)があって然るべきではないかと私は思う。また、杏子の行動をそう診断してしまうと、杏子なりの自己選択を「無かったものにしてしまう」ような気もする。本当にそう解釈するのが妥当なものだろうか?
 
 

3.さやかはアダルトチルドレンか?

 
 そして最後に、「さやかはアダルトチルドレン」説について。
 
 『まどか☆マギカ』放送中から、「さやかはアダルトチルドレン」「さやかは共依存の女」とみなすような“分析”を、インターネット上ではしばしば目撃した。確かに、上条に対する態度を見ていれば、そう思う人が出てくるのはわかる。
 
 だが、さやかの年齢を考えるなら、そうした“分析”はおかしい。さやかはまだ中学生であり、パーソナリティは完成途上もいいところである。過剰なヒロイズムに陶酔したり、上条に対して昭和演歌っぽい態度を取ったりしたからといって、そんなにおかしな事ではなく、むしろ普通なのではないか。「中二病」という言葉もあるが、自分の中高生の頃を思い出して、「過剰なヒロイズム」や「言葉に出していない願いを読み取って欲しいという甘え」を思い出せる人は決して少なくないと思う。中学生の恋は、痛い。さやかだってそうではないのか。
 
 つまり、「さやかはまだ子ども」なのである。
 
 アダルトチルドレンも共依存も、これらは大人にみられた時に考慮に値するべきメンタリティであって、子どもに当てはめて云々するのは適切ではない――そもそもアダルトチルドレンadult children という語句からして、成人を前提にしたものであって、子どもに当てはめるものではないのである――。また、精神医学の世界では、パーソナリティ障害の診断を未成年に行う際には慎重を期するのが常であり、ひとつやふたつのエピソードだけでパーソナリティ障害だと決めつけることが無い。これらを踏まえるにつけても、さやかを現時点でアダルトチルドレン視するのは時期尚早と言わざるを得ない。
 
 そりゃもちろん、さやかが20代30代になっても同じような恋愛・同じような対人関係の挫折をリピートしているなら、正真正銘のアダルトチルドレンと言えるだろう。しかし、成人後のさやかがアダルトチルドレンになってしまうか否かは『魔法少女まどか☆マギカ』本編だけを見る限り、まだなんとも言えない。むしろ、上条の怪我やキュウべぇの介入といった特大のアクシデントにさえ見舞われなければ、案外さやかは、普通の女性に成長したのではないか。
 
 上条に対する恋は、どのみちかなわなかったに違いない。けれども後日、それを振り返って“あの頃は私も若かった”と言えるようにはなっていたのではないだろうか。目の滲むような、ほろ苦い思い出として*6
 
 さやかという中学生の少女を“分析”するにあたり、大人のモノサシをそっくりそのまま当てはめてアダルトチルドレン扱いするのは、気の毒な過剰診断であり、不当な評価と私は思う。彼女はまだ若く、失恋を糧にすれば人格的に成長するチャンスはまだまだあったという前提を忘れてはいけない。そんな前途有望な中学生が、奇跡というエサに釣られてゾンビにされるからこそ、あれほどキュウべぇは憎まれ、さやかは悲劇の魔法少女として視聴者の心をとらえたのではないのか。
 
 

杏子が「そんなの、あたしが許さない」と言いそうだったので

 
 以上、さやかと杏子がどこまで“メンへル”だったのかについて私見を書いてみた。
  
 アニメファンのなかには、心理学的な用語を駆使してキャラクターを解釈をすれば素敵だと思う人もいるのかもしれない。けれども、不十分な根拠をもとに、大人と同じ診断基準で子どものキャラクターを“分析”する際には、相応の“手加減”なり“慎重さ”なりがあっても良いのではないか、と思う。
 
 とはいえ、私自身の本音としては「杏子ナメんな」という、ただそれだけなのかもしれない。
 
 十分な根拠も無いまま、杏子の決断を「治療されるべき保護対象」と看做してしまうのも、さやかが「アダルトチルドレン」とレッテル付けされてしまうのも、どうにも我慢ならなかった。杏子の「そんなの、あたしが許さない」という声が聞こえたような気がしたので、これを書き上げた。
 

*1:認知の歪みや短絡がうつ病でしばしば認められるのは事実としても。

*2:ところで、認知の歪みや短絡の無い人間がどこにどれだけいるのだろうか?あなたは、私は、認知の歪みや短絡を含んでいないとでも言うのか?!まさか!!まあいい、どちらにしても問題なのは、認知障害が有るか無いかではなく、どのような認知障害をどの程度呈しているか、である。

*3:もし、感応精神病を『まどか☆マギカ』に読み取るとしたら、第一話の幻聴体験あたりのほうがまだ幾らかしっくり来るが、これとて以後のストーリー展開を読むなら感応精神病と取るべきではあるまい。

*4:=死にたいと思うこと

*5:ヘラヘラした顔をして受診したらしたで、「この深刻さの欠如は統合失調症の症候の一部ではないか」と疑うこともありえるのが、精神医学というフィールドのややこしく、また魅力的なところではあるが

*6:さやかには、この失恋のプロセスが欠けていた。魔法少女にも魔女にもならなかったなら、さやかは普通に失恋することが出来ていただろうと思う。なまじ奇跡の力など手に入れなければ。さやかがようやく失恋できたのは、まどかに“世話かけたね”と礼を言った、最終話の終盤である。少なくともそういう意味では、まどかはさやかの怨念を確かに救済していたといえる