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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

脱オタ者やファッション嗜好者は、「純ベタ」に服飾を楽しめるのか?

脱オタ

 
 http://blog.livedoor.jp/yuikoinu/archives/50638414.html
 
以上のテキストにおいて、天馬さんは私に質問する。「単純に何かが好きで行使するのっておかしいですか?」と。もちろんこれは、ファッション・脱オタ・音楽の選択についての話である。
 
 私はこう答えるしかないだろう。「単純に何かが好きで行使するのはおかしくない。むしろ尤もなことだと思う。しかし、メタゲーム勝者のあなたが改めて問い直すのはどういう事ですか?」と。今回の音楽関連のテキストでもそうだし、天馬さんが日頃愛好しているコスプレやファッションにしてもそうだが、それらはどんなに目を瞑っても差異化ゲームとしての性質を免れることが出来ない。ことにファッションやコスプレといった、天馬さんが「単純に好きでやっているところの」各趣味は、他人からの評価や差異化ゲームに最も敏感で、ライバル達に差をつけることで(まなざしの)快感が成立するようになっている。いや、勿論純粋に好きでやっているからという部分はあるにせよ、少なくともフィギュア集めやエロゲー電波ソング愛好などよりは差異化ゲームとしての様相を呈しやすい分野と言えるだろう。
 
 ところが、最近の天馬さんは「好きなものをやっていればよい」と主張を繰り返している。服飾やコスプレという、最も他者からの評価に(楽しいか否かが)影響される分野を究めた身でありながら、そうした差異化ゲームには目を瞑ってベタな楽しみだけに目を向けろというのはかなり無理があるように思える。自分自身がまなざしの快楽を巡る差異化ゲームのプレイヤーでありながら、そこらを全否定してかかるというのはどういう事なんだろう?脱オタに関しても同様で、天馬さんの言うように「好きなことを好きなように」やっていくのは、無茶に思える。そもそも脱オタというものが、他者評価を改善させようとする営為である以上*1、差異化ゲームや他者のまなざしを意識しないはずがないし、逆に意識しなければなかなか脱オタ作戦は遂行できないと思う。

 天馬さんが言及するファッション・コスプレ・脱オタという分野は、メタゲーム親和的な営みであって、(フィギュア収集、アマチュア無線、鉄道などのような)ベタな楽しみだけを追い求めやすい分野ではない。それを志向する者は、遅かれ早かれ差異化ゲームに気づき、その評価尺度と折り合いをつけながら自分のスタイルを模索していく。少なくとも私は、服飾に関しては差異化ゲームを明確に意識しており、「自分は好きなアイテムを好きなようにチョイスしているけれども、それは他人からみて見栄えがよさげかどうかという価値判断を多分に含んでいる」という事を忘れることが出来ない。それは差異化ゲームで抑圧される者からみれば腹立たしいことには違いないけれど、それを私は現にやっている。私の手は白くない。私の服も、差異化ゲームの戦場でライバル達と斬り合った血で薄汚れている
 
 天馬さん自身のファッションもまた、「他人からの評価」「差異化ゲーム」を明確に志向していると私は推定している。天馬さんは確かに好きなファッションを好きなようにやっているけれども、適切に言い換えれば「天馬さんは差異化ゲームに効果的なファッションを好きなようにやっている」と置き換えるべきではないだろうか?どれほど「差異化ゲームではなく好きなものを好きなように」と言ったところで、(私同様)既に天馬さんの手は返り血ですっかり汚れている筈である。その事をさしおいて「好きなことを好きなように」と無邪気を装うのはいかがなものか。

 しかも厄介な事に、天馬さんのテキストを読んで「好きなことを好きなように」やるイノセントな脱オタ初心者は、おそらくファッションを嫌いになるか、やがてやめてしまうだろうと予測されるのだ。なぜなら、そんな脱オタ初心者が仮にいた場合、その人は差異化ゲームという次元で(極めて低確率でしか)満足感を得ることができないからである。他者のまなざしを意識しないファッションは、もはやファッション以外の何物かでしかないわけで、「好きなものを好きなように」という文句は否応なしに「差異化ゲームに効果的なファッションを、好きなものを好きなように」に変質せざるを得ない。この事を無視して好きな服を選ぶ人は、余程センスに恵まれない限り、侮蔑や嘲笑から逃れられないだろう。ファッションの差異化ゲームで(一方的に優越者から)快楽を搾取され、彼はファッションなんか二度とやるもんかと思うに違いない。“だったら、オタクとしてライバル達に差を付けるか、そんなの考えなくていいエロゲーでも買ってくるか”ってな感じだろうか。
 
 ファッション・音楽・文学・映画は、それを他者に提示した瞬間から(差異化ゲームにせよ相互認証にせよ)他人からの評価から自由ではいられなくなるという事実を、天馬さんは無視しすぎていると思う。ファッションをはじめとする文化プレゼンスは、自分自身の楽しみとしての側面(ベタ)と差異化ゲームの側面(メタ)がごちゃまぜになっている*2。音楽だって、文学だって、サブカルだって、他者に差し出したその瞬間に純ベタではいられなくなる筈なのだ。この事実を無視してベタ視点だけを強調し、メタ視点を黙殺している限り、議論は現実に即さないものになりやすくなるだろうし、論者自身の足下が暗くなってしまうと私は推測する。自分の好きなモノを好きと言って追究するのは、そりゃいいに決まっている。だけど、ファッション・コスプレ・脱オタのような、他者からのまなざしを意識せざるを得ないモノに関しては、そんなキレイゴトを言っていられないんじゃないだろうか。文化コンテンツは、他者のまなざしに触れた瞬間から、純ベタではいられなくなる事に、もっともっと注意を払ってもいいんじゃないですか?天馬さん。
 

*1:例えば脱オタクファッションガイド購入者というのは、そういった営為を前提にして購入してると思う

*2:その配合比には個人差があるだろうけど。