初代ガンダムのテレビ放送時は、戦争経験者が大勢いて、
— 内田弘樹@単行本「ゼロ戦エース、異世界で最強の竜騎士になる!」1月末発売 (@uchidahiroki) 2025年2月16日
ジオンは悪(侵略者)だが、侵略者には侵略者なりの生活や考えがある、ただし指導者は勝つことしかは考えていない
みたいなのが、語らずとも肌感覚で理解できていた時代 かなと思った。
いや本当にそうか。自信がない。
内田弘樹さんとその周辺のXで、「過去、初代ガンダムはどんな受け止め方をされていたのか」みたいな話が盛り上がっていた。それと並行して「ジオン軍は悪いやつらとして描かれていたか&受け止められていたか」「初代ガンダムの作中描写に、第二次世界大戦の戦争の残り香は漂っていたのか」等々も語られていた。『Zガンダム』や『ガンダムZZ』の話にまで飛び火して、なんだか収集のつかない様子だ。
それもこれも『機動戦士ガンダム ジークアクス』のおかげだ。2025年に昔のガンダムの話が盛り上がるのはありがたいことだ。
で、私もちょっと昔語りに参加したくなった。ただし大人目線のガンダムの話は他の人にお任せして、子ども目線でガンダムを楽しんでいた日々について語りたい。ガンダムにどんな風に出会い、ガンダムをどんな風に受け止めたのかは、年齢や地域によって結構違っているはずだ。そこを意識して、子ども目線の昔話をしてみたい。
1979年~1985年、初代ガンダムの時代
私にとって、『機動戦士ガンダム』とのファーストコンタクトは最悪だった。4歳ぐらいの頃、保育園で泣いている私に保育士さんが「ロボットだよ」とテレビをみせてくれたのだ。そのロボットがガンダムだった。
当時の私は保育園まで通園バスで通っていて、帰りの時間は15時半ぐらいだった。ところがその日は家族の都合で16時過ぎまで居残りさせられていて、他の園児は誰もおらず、ひとりぼっちの私は半ばパニックになっていた。そんな時に見せられるアニメが面白いわけがない。
しかも、その日のガンダムは渋い内容だった。白い宇宙船=ホワイトベースと緑色の悪そうな宇宙船=ムサイが宇宙空間を航行しているさまがやたらと映っていて、ガンダムが、悪い敵をやっつけているようには見えなかった。たぶん、サイド7~地球降下までのどこかの回だったのだろう。たとえば『コンスコン強襲』の戦闘シーンだったら保育園児にも楽しめたかもしれないが、どうあれガンダムは4歳児には難しすぎた。
次にガンダムの記憶がはっきり残っているのは、1981年、小学校1年生の頃だ。この時点ではまだ、私はテレビ版のガンダムを通しでは見ていない。だというのに、私はもうモビルスーツの名前とかたちをだいたい覚えていた。学校がガンダムの話で持ちきりだったせいだろうし、劇場版三部作が公開されたせいだろう。
当時の私たちにとって、ガンプラはまだ遠い存在だった。クラスメートの間で大流行していたのは、森永が販売していたガンダムのチョコスナックだ。いわゆる食玩ってやつで、チョコスナックにモビルスーツの小さなプラモデルがついていて、100円だった。私たちは競うようにこれを組み立てて、やれ、シャアゲルがかっこいいだの、ゴッグはかっこ悪いだの、そんなことをしゃべりあっていた。この食玩では私はかなり引きが良くて、ゲルググやガンダムといった人気のモビルスーツをさくさくと手に入れている。
また、私たちの間では「ガンダムI」「ガンダムII」「ガンダムIII」という分類がしばしば使われていた。まだガンダムは初代しかなかったから、劇場版に沿ってガンダムを三分割していたのだ。やがて夕方にガンダムの再放送が行われ、私も不完全ながら視聴できた。不完全というのは、水曜日と金曜日の夕方に出かけるせいで週5回の放送うち2回は視聴できなかったからだ。ビデオデッキが我が家に到着するのは1987年、まだ先のことだった。
今日の大人のアニメ視聴とは異なり、一話も漏らさず視聴するような態度・習慣は私たちには欠けていて、いい加減なことをお互いに言い合っていたよう記憶している。しかし、「シャアはかっこいい」ということではだいたい意見が一致していた。私たちの年頃では、地球連邦軍が「善玉」でジオン軍が「悪玉」以上の複雑なパースペクティブを持つことはまだ難しかった。にもかかわらず、シャアは小学校低学年の間ではかっこ良いとみなされ、ガンダムごっこではシャーの役は花形だった。なんだかわからないけれども悪そうなやつら──マ・クベとかキシリアとかギレンのような──とは別格だったのだ。
こうした初代ガンダム人気は、Zガンダムが放送されるまで案外と長く続いた。ガンプラの影響は絶対に大きい。地元のおもちゃ屋にガンプラが出回るようになり、学年が進んだおかげで私たちもガンプラに手が届くようになっていた。年上のお兄さんたちがアッザムやビグロといった渋いものをつくっているのをよそに、私たちはザクやドムやガンダムに夢中になった。なお、私はこの頃からジムのデザインが好きになりはじめていて、その後もジェガンやヘビーガンといったジム系モビルスーツを贔屓にし続けることになる。
そうそう、ガンプラといって忘れてはならないものがふたつある。ひとつはMSVだ。
モビルスーツバリエーション、略してMSVは私たちの間でも好評だった。ザクキャノン、ジムキャノン、高機動型ザク、等々。『Zガンダム』がオンエアーされるまでの間、MSVはそれなり話題になっていたしガンプラの選択肢にもなっていた。
もうひとつは『プラモ狂四郎』だ。
1980年代はボンボンやコロコロといった月刊児童漫画雑誌がかなりの影響力を持っていて、たとえばファミコンブームに際しては『ファミコン風雲児』や『ファミコンロッキー』はけっこう読まれていたと思う。ガンプラの場合、『プラモ狂四郎』だ。「ガンプラとガンプラがバトルする」といえば『ガンダムビルドファイターズ』だが、当時の小学生たちはプラモデルを使ったごっこ遊びで実際にそれをやっていた。で、『プラモ狂四郎』はそれを漫画として高度な水準で具現化させ、いきなり金字塔を打ち立てた。1980年代の子ども目線でガンダムを、ひいてはガンプラを回想する際には、『プラモ狂四郎』は視野に入れておいていい作品だと思う。
『Zガンダム』や『ガンダムZZ』を、私たちはもっと単純に観ていた
そして待ちに待ったガンダムの続編がオンエアーされる。『Zガンダム』、それから『ガンダムZZ』だ。ところが石川県ではその順番に視聴できなかった。これは石川県固有の出来事だったと思う。
石川テレビは、『ガンダムZZ』を1986年7月25日から週1ペースで放送した。なんの前知識もなく見る『ガンダムZZ』は、「メカはカッコいいが、筋書きのさっぱりわからない作品」だった。しかも石川テレビは、よりにもよって『ガンダムZZ』を朝の6時15分から放送した。筋書きのさっぱりわからないガンダムを、朝の6時15分から視聴する根性と習慣は当時の私には無かった。
対して『Zガンダム』は1987年1月7日から4月15日にかけて、週5回のペースで「夕方の再放送枠」で放送された。このため、石川県では『ガンダムZZ』より後から始まった『Zガンダム』が、『ガンダムZZ』よりも早くに終わる格好になったのである。
『ガンダムZZ』と違って、『Zガンダム』は初代ガンダムから7年後のストーリーであることをわかりやすく見せてくれた。私たちは、やれチターンズだ、やれエウーゴだと、たちまち『Zガンダム』の世界に夢中になった。2025年から見るとわけのわからない主人公であるカミーユ・ビダンにもそこまで違和感をおぼえていなかったし、子どもは残酷なのでジェリドは馬鹿にされがちだった。それでも私たちは小学校6年生になっていたから、初代ガンダムの頃よりは複雑に作品を観ていたように思う。チターンズが毒ガスやコロニーレーザーで虐殺を行ったことについてもあれこれ話し合ったし、ハマーン・カーン率いるアクシズが登場してからの三つ巴の情勢、ダカールの演説、ジャミトフ・ハイマンの暗殺などに沸き立った。そしてカミーユ・ビダンの精神崩壊を衝撃をもって受け止めた。賛否はともかく、強烈なインパクトがあったのは間違いない。
そうなると、私たちの目は早朝に放送されている『ガンダムZZ』に向けられる。週1ペースで放送されていた『ガンダムZZ』は、この時点ではまだ完結していなかった。私は、プルのキュベレイがプルツーのサイコガンダムMK-IIにやられるあたりから『ガンダムZZ』を真面目に見始めた。話の筋はあまり理解できていなかったが、百式やZガンダムやキュベレイといった、既に馴染んでいるモビルスーツがたくさん登場することに助けられた。序盤は明るい雰囲気の『ガンダムZZ』も、後半はシリアスな場面が多いので『Zガンダム』の続きものとして十分に視聴できた。私たちの間では、マシュマー・セロやキャラ・スーンといったネオジオンの騎士たちはだいたい人気があった。ジュドーやビーチャやエルといったシャングリラの面々も人気があった。
モビルスーツも良かった。ハンマ・ハンマ、ドライセン、バウ、ガズアル等々のガンプラが競うようにつくられた。私は今でも『ガンダムZZ』のモビルスーツのデザインがすごく好きだ。ドーベンウルフ、ゲーマルク、ザクIII改。懐かしいカッコよさだと思わずにいられない。
SDガンダムの存在感
その後、あまり間を置かずに石川テレビは『Zガンダム』と『ガンダムZZ』を再放送してくれて、それらを丸ごとビデオに録画できたので、私のガンダム体験は飛躍的に変わった。ビデオデッキ導入前の小学生とビデオデッキ導入後のティーンでは、アニメ体験の質と量が違い過ぎる。紙幅の都合もあるので、そこから先のガンダム体験については今回は触れない。
それより、SDガンダムについても少し触れたい。
まさに一時期の僕がそうだったんですが、BB戦士からガンダム入ると、宇宙世紀モノなんて、「夢のマロン社宇宙の旅」にちらっと登場する、かっこいいジムコマンド戦闘シーンのみ、みたいな出会い。
— 内田弘樹@単行本「ゼロ戦エース、異世界で最強の竜騎士になる!」1月末発売 (@uchidahiroki) 2025年2月17日
いやめっちゃ好きですけどね夢のマロン社。
きゅ、きゅっきゅ、きゅべー!https://t.co/wgcPRIPNYI pic.twitter.com/hFz0ZeD35T
内田さんは、ガンダム系作品の入口として『SDガンダム』シリーズを挙げている。80年代後半~90年代前半のガンダム系作品とのファーストコンタクトがSDガンダムって可能性はあり得たと思う。「SDガンダムからガンダムに入った」という話は、私も一回り下の世代の人から聞いたことがある。
はじめ、SDガンダムは私の周辺では流行っていなかったが、『Zガンダム』や『ガンダムZZ』が放送された頃から流行り始めて、駄菓子屋や文房具屋のガチャポンに私たちは群がった。ここでも100円玉が重要だったのは言うまでもない。百式やキュベレイといった有名どころのモビルスーツの塩ビ人形は、もちろん人気だった。今日のソーシャルゲーム等のガチャに比べればかわいいものだが、射幸心をあおられ、たくさん100円玉を使ってしまう人もいた。*1
私自身は、塩ビ人形よりも付属のシールが気に入っていた。ガチャポンひとつにつき必ず一枚入っているこのシールは集めている人が少なかったので、譲ってもらったりトレードで交換してもらったりしやすかった。しかも、モビルスーツやモビルアーマーが1コマ漫画のように描かれていて、塩ビ人形よりも表情豊かで原作の面影を連想させた。私はこれをノートに貼り付けてコレクションにしていたのだけど、そのノートを紛失してしまった。本当に惜しいことをしたと思う。
そうしてSDガンダムが流行っているタイミングで、『SDガンダムワールド ガチャポン戦記』がファミコン(ディスクシステム)で出た。
このゲームはコンピュータの思考時間が長すぎるという、弁護しづらい短所があったが、それを補ってあまりある面白さで私たちを魅了した。シミュレーションゲームとしてはシンプルだったし、対戦アクションゲームとしてもよくできていて、モビルスーツはちゃんと個性的だった。友達同士で集まった時にも、担当モビルスーツをそれぞれに割り振れば複数名で遊ぶことだってできた。
続く『SDガンダムワールド カプセル戦記2』には『ガンダム逆襲のシャア』のモビルスーツまでが含まれていて、シミュレーションゲームとしても対戦アクションゲームとしてもますます洗練されていた。なによりコンピュータの思考時間が短縮され、一番の短所が克服されていたのは大きい。その後、私はスーパーファミコン版やPS版でもSDガンダムシリーズを遊んだけれども、本作の頃が一番楽しくやっていたように思う。
(ガンプラ等を含めた)玩具は重要だった
してみれば、(ガンプラやSDガンダムも含めた)玩具の存在感が大きかったと思い出される。アニメ作品としてのガンダムを楽しんでいる時間は、実はそれほど長くなくて、食玩やガンプラやSDガンダムなどをとおしてガンダムを楽しんでいる時間が少なくない割合を占めていたし、それらが記憶にも残っている。『プラモ狂四郎』をはじめとする紙媒体の影響もたぶん大きい。
ビデオデッキすら無かった1980年代の子どもが体験したガンダムと、サブスクリプションサービスが一般化した2020年代の大人が体験するガンダムは、だからかなり隔たっている。アニメとその作中描写の重要性も、細かい点への理解度も違ってこよう。まだ昭和時代に属したあの頃、私たちはシャアをシャーと呼び、ティターンズをチターンズと呼んで親しみ、低解像度でガンダムを楽しんでいた。しかし流行現象としてのガンダムは、都会の青年オタクエリートだけがかたちづくったわけではない。食玩やガンプラをとおしてのガンダム体験、SDガンダムに支えられたガンダム体験もあったはずだし、それらも流行現象としてのガンダムを縁の下から支えていたはずだ。
そうした子どもっぽいガンダム体験は、えてして大人になってからのガンダム体験によって塗りつぶされて、なかったことにされてしまいがちだ。それって、さびしいことだと思うし、書き残しておかなければ忘れられてしまうと思う。私は、1975年生まれの(石川県における)ガンダム体験について書いた。これを読んだ他の人も、子ども目線のガンダム体験について書き残したり、SNS上でおしゃべりしたらいいなと思う。
※ついでなので宣伝。昭和~平成の思い出話です。
もうひとつついでに内田弘樹さんが原作の漫画も。
*1:そういえば、上級生の間ではSDガンダムは殆ど流行っていなかったので、SDガンダムの塩ビ人形をカツアゲする上級生はいなかったし、興味を持たれることもなかった。全国的にそういうものだったのだろうか?





