シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について

 
 
 先日の記事では、承認欲求が社会化されていくプロセス、熟練度がアップしていくプロセスについてまとめた。今回は、承認欲求、とりわけ思春期前半の逸脱しやすい承認欲求が罵倒されたり排除されたりしやすい社会情況と、その問題について振れてみる。
 
 昨今、思春期前半の承認欲求が馬鹿にされたり、批判に曝されたりする機会が増えたように思う。
 
 わかりやすいところでは、中二病を馬鹿にする風潮だ。いい歳した大人の中二病が揶揄されるのはまだわかる。だが十代の若者の不器用なレクリエーションまでもが、「中二病は恥ずかしいもの」「中二病はネタ」的な括りで取り扱われていて、そういうメタ情報が学生にまで周知されている。中二病のかけがえのなさを讃える声が無いわけではないが、そのような声は、中二病を笑いものにする声に比べて大きいとは言い難い。
 
 くわえて、ネット炎上の問題が新たに加わった。2013年は、若者の“武勇伝”や“仲間内を意識したアピール”が炎上する事件が相次いだ。十数年前なら、おそらくローカルな水準で処理されていたであろう思春期案件が、グローバルなインターネットに書き込まれ、致命的な炎上を招いた。
 
 ネット炎上そのものは「2ちゃんねるの“祭り”」の時代から存在する。だが、インターネットがギークやナードの遊び場ではなくなり、ネットリテラシーもネットに対する警戒も足りない人々が大量参入したことによって、炎上する人も、ネットイナゴも大衆化が進んだ。例えば、杉本容疑者が脱走した時、彼の友人達はtwitterで擁護や応援の発言をし、火に脂を注いだという。また、今年の成人式で「千葉市長ぶんなぐってやるからよ」と書き込んだ新成人もいたようだ。
 
 少し話が逸れるが、10年前の「2ちゃんねるの“祭り”」と最近のネット炎上は、かなり違っていると思う。2ちゃんねる全盛期の頃、社会的な損失を蒙る被炎上者といえば、第一に有名人や企業の類だったし、それで息の根を止められるケースは少なかったと思う。無名の人がおかしな事をやっていた場合、ネットウォッチされたりまとめサイトにまとめられたりすることこそあれ、抹殺に近い社会的制裁が与えられることは少なかった。ところがいまや、誰でもいつでも炎上するし、炎上に伴う社会的制裁は無名の人をいともたやすく組み伏してしまう。企業や有名人は今でもそれなりに炎上しているが、その一方で、多かれ少なかれダメージコントロール能力を身につけはじめ、むしろ、彼らは無名の人の炎上劇に最後の一撃を加える側にまわりつつある。
 
 話を戻そう。
 思春期、特にその前半は、承認欲求がブレやすく、コントロールが難しい時期であり、成人として期待される社会的水準で承認欲求を充たす*1のは容易ではない。さりとて、その逸脱しやすい承認欲求から逃げてまわってばかりでは承認欲求の社会化レベルは上がりにくいので、「逸脱気味な承認欲求の季節を通過することなく、いきなり範疇的な承認欲求の枠にピシッとおさまれ」と命じられても、そう簡単にはうまくいかない。
 
 昔、そのようなブレやすく逸脱気味な承認欲求は、やはり逸脱気味な所属欲求と相まって、学生運動、校内暴力、暴走族、騒がしいサブカルチャーの発露、法的にグレーな地元集団のレクリエーション……といったかたちをとっていた。それらの行為は公式には否定され、逸脱の程度が甚だしい場合は罰せられることもあったが、と同時に、許容される水準では年長者の寛容と成長を期待する視線によって見守られてもいた。当時はまだ「若者とはそういうもの」というコンセンサスも存在していた。
 
 思春期やアイデンティティといった概念が輸入される以前まで遡ると、若者集団の逸脱は、若者組のようなかたちで村社会のシステムに組み込まれ、そこで所属欲求(や承認欲求)の社会化が行われていた。どちらの場合も、逸脱しがちな若者の行動は共同体のなかでは“ある程度までは織り込み済み”で、その枠組みのなかで成長が促されていた。
 
 ところが、そうした逸脱を包摂する共同体的雰囲気はなくなり、きわめて契約社会的な、個人的文脈を忖度しない社会がやってきた。その最たるものは、未成年者のネット炎上を巡る現況だが、オフラインレベルでも、子どもや若者の逸脱は空間的にも制度的にも厳しく制限されるようになった。公園の若者をモスキート音で追い出そうとする試みが考案され、実践されるのは、そうした制限が社会的なコンセンサスを獲得しつつあるからだろう。まあ、わからなくもない。顔馴染みでもない若者の逸脱にニコニコしていられる人なんて、そうはいないだろうから。ともあれ、共同体的な包摂が消滅した後には「逸脱した杭は打たれる」「騒々しい若者は追い出せ」的な排除と容赦の無さが新秩序として定着した。
 
 所属欲求にはあまり頼れなくなり、承認欲求がモチベーション源として重要になったにも関わらず、「逸脱した杭は打たれ」「はみ出した若者には皆で石を投げる」――そのありさまを観ていると、私は、欧米的な個人主義社会と日本的な村社会の悪魔合体のような印象を受ける。
 
 

心理的トライアンドエラーの安全マージンが狭くなった

 
 こうした社会になれば、そのぶん、若者ははみ出さなくなる。はみ出しにくくなるのだから、はみ出さなくなるのは当然だ。一部の極端な事件を例外として、こうした社会では若者の犯罪率が下がるだろうし、大人は中高生の反抗や非行に悩まされにくくなるだろう。「品行方正で、安全で、秩序にみちた思春期こそが社会にとって好ましい」というテーゼに関する限り、現況は理想的といえる。そのような社会を夢見た人々の社会建設の努力は実った、と言っても過言ではない。
 
 その一方で、中二病が嘲笑され、承認欲求が罵倒語として機能し、若者の逸脱が厳しい制約を受けるようになったため、現代思春期において、承認欲求の社会化レベルをあげる難易度は高くなった、ともいえる。一昔前まで、思春期のグラつきやすい承認欲求(や所属欲求)の社会化プロセスは、たとえ逸脱の揺れ幅が大きくても、社会に、いや、“世間”に包摂される余地があった。そしてローカルなオフラインのレベルで勘案・処理されるものだった。ところが今日はそうではなく、逸脱の振幅が大きすぎる個人は嘲笑され、叩かれ、排除される。承認欲求絡みのトライアンドエラーの安全マージンが狭くなったということでもあり、ネット炎上に象徴されるような新しいタイプのブラックホールと隣り合わせになった、ということでもある。
 
 過去を美化したくないので断っておくと、昭和時代の思春期にブラックホールが無かったわけではない。また、共同体的な社会化プロセスには、包摂と表裏一体な抑圧がついてまわっていたことも断っておく。だが少なくとも、著しい悪事を働かない程度の思春期に関しては、社会平均として承認欲求を社会化していく際の安全マージンが狭くなり、その狭さのなかで承認欲求の社会化プロセスをきちんと踏んでいかなければならなくなった点には、きちんと注意を払っておいたほうが良いのではないか、と言いたいのだ。
 
 なお、承認欲求の社会化プロセスが難しくなった時、一番影響を受けるのは、幼児期〜学齢期に承認欲求の社会化プロセスを進められなかった人達だと私は思う。
 
 思春期を迎えるまで堅実に承認欲求の社会化プロセスを辿ってきた人なら、思春期の揺れ幅が大きいといっても、それほど大きくはブレにくい。既に承認欲求の社会化レベルがそこそこ上がっている以上、そのような若者がムチャクチャな承認欲求の求め方に突っ走る確率はそんなに高くない。
 
 対して、思春期までに承認欲求の社会化があまり進んでこなかった人の場合は、思春期にその遅れを取り戻さなければならない。少なくとも、これから承認欲求をモチベーション源として利用し成長したいと願っているなら、適切な社会化プロセスを駆け抜けなければならない。しかし、褒められなれていない人・認められ慣れていない人にとって、承認欲求の急激な社会化は難しい。ともすれば振幅の程度が烈しくなったり、(一時的にせよ)年齢不相応な形式をとったりしやすい。
 
 だから、承認欲求の社会化プロセスのハードルが高くなり、安全マージンが狭くなってしまうと、もともと承認欲求の社会化レベルを稼げている人にはさほど影響は無いかもしれないとしても、承認欲求の社会化レベルの遅れを取り戻したいと思っている人にこそ、そのしわ寄せは大きく響くと推測される。
 
 こうした社会のなかで、一体どれぐらいの若者が承認欲求を適切に社会化し、モチベーションとして上手に生かしていけるだろうか?モチベーションなんてどうでもいい、思春期が安全で無害ならそれで構わない、という視点もあるかもしれないが、本来、思春期はトライアンドエラーを繰り返しながら適切な社会化を模索していく季節だという視点も、忘れてはいけないのではないか。ところが現実には、【思春期に承認欲求の社会化を伸び伸びやって構わない雰囲気】も【多少はみ出しながら成長していくのが思春期】というコンセンサス”も、相当失われている。そしてインターネットという社会の窓が若者全員に配られていて、窓越しには、迂闊な思春期を地獄に引きずり込みたがっている“青白い顔をした正義の人々”が、じっと様子を覗っているのである。
 
 承認欲求という言葉は手垢がすっかりついてしまった。それを悪いという人もいるだろうし、実際、功罪の“罪”の部分を忘れるわけにはいかない。だが、その承認欲求の社会化が困難になってしまい、承認欲求を適切に社会化できない人・持て余している人が増えてしまっているからこそ、この言葉がバズワード的に流通し、人々のさまざまな執着を惹きつけるに至ったのではないか。
 
 例えばもし、昭和五十年頃にインターネットがあったとして、承認欲求という言葉がこれほど流行しただろうか?罵倒語として流通するような事態が起こりえただろうか?
 
 承認欲求がバカにされる社会。
 承認欲求を社会化していく安全マージンの狭い社会。
 
 承認欲求の重要性が高まったにも関わらず、その社会化プロセスが難しくなったせいで、おそらく、現代思春期の心理的な成長過程は険しくなっていると思われる。平均台に喩えるなら、現況は、平均台から足を滑らせやすく、足を滑らせたら笑われやすく、ところどころにブラックホールが渦巻いているようなものだ。そのような状況下で、平均台を真っ直ぐに歩けるようになる人間が増えるとは、どうしても思えないし、そのような状況が理想的だとも、私には思えない。
 
 

今後の連載予定

 
 第一回:承認欲求そのものを叩いている人は「残念」
 第二回:承認欲求の社会化レベルが問われている
 第三回:承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について(今回)
 第四回:私達はどのように承認欲求と向き合うべきか
 

*1:そして承認欲求に導かれて技能習得に励む