シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

あなたのコミュニケーション、言葉に頼りすぎていませんか?

 
 
 http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/
 
 
 NHKのテレビドラマ『坂の上の雲』。原作が司馬遼太郎のこのドラマは、見事なところがそこらじゅうにあるけれど、阿部寛、本木雅弘、菅野美穂、松たか子 といった俳優の演技も見所のひとつだ。正直、毎週楽しみで仕方がない。
 
 名優達の演技はどれも、表情豊かで常に言外のメッセージに満ちている。例えば12/13の放送では、日清戦争に出兵する秋山好古とその妻の別離のシーンが印象的だった。秋山好古は阿部寛が、その妻は松たか子が演じているのだが、その言外のやりとりが見事というほかない。僅かに妻の側に台詞があるものの、秋山好古は馬上から僅かにゆっくりと微笑みを返すだけである。けれども、コミュニケーションは完膚無きまでに成立している。
 
 あのやりとりに限らず、『坂の上の雲』には、言語だけでは到底描写しつくせないような精妙なコミュニケーションが随所にちりばめられていて、視聴者の心を動かしやすくしていると思うわけだが、本来、人と人とが相まみえるコミュニケーションというのは、そういうものなんじゃないだろうか。
 
 確かに言葉はメッセージを媒介する重要なファクターだし、YesかNoかを明示したい場面や誓いを立てたい場面においては、言葉の持つ力は絶大だと思う。けれども日常のコミュニケーション場面の大半では、言葉の占める役割は比較的小さなもので、目や口の動き、声音、表情といったものにメッセージの過半が込められている。むしろ表情や身振り手振りがやりとりの主役を占めていて、言葉はせいぜい“映画の吹き替え字幕”ぐらいにしか役立たないことさえある。実際、『坂の上の雲』の多くの名シーンにしても、“ライトノベルのように仰々しい台詞”がしゃしゃり出てくるようでは、それこそ野暮な三文芝居に成り下がること間違いない。
 
 ホモ・サピエンスという“生き物”は、言葉だけでなく、非言語のチャンネルを総動員した多層的なコミュニケーションを営めるように本来はつくられている。言葉以外のメッセージを授受することで、言葉だけでは表現できないニュアンスを瞬時に送りあうことが出来るし、逆に言葉で嘘を言っていても表情でバレるなんてこともある。ときにはそれが誤解のもとになることがあるにせよ*1、コミュニケーションのチャンネルが言語だけに限定されていないことの恩恵は計り知れない。
 
 インターネットや携帯メールに夢中になっていると、いつの間にか、言葉だけを介したコミュニケーションにすっかり埋もれていることがあると思う。けれども、実はそれって、野暮とは言わないにしてもスッカスカの、情報密度の薄いやりとりになっているってことに、みんな気付いているのだろうか。
 
 データファイルの送受信に喩えてみれば、わかりやすいかもしれない。
 文章ファイル(例:テキストファイル)と音声ファイル(例:mp3ファイル)、動画ファイル(例:flvファイル)のデータ量を比べると、圧縮形式にもよるが、原則としては文章ファイル<音声ファイル<動画ファイルの順序でデータ量は大きくなる。言葉だけの情報形式よりも音声を伴う情報形式が、さらに動画がくわわった情報形式のほうがデータ量は大きくなるし、その代わり、短時間のメッセージに込められる情報量は大きくなる。電子メールやチャットでは一時間かけなければ伝えられないニュアンスが、電話なら30分で、直接会って話したら10分でケリがつくということもけして珍しくはない。
 
 にも関わらず、言葉のやりとりにばかり依存してしまって、声音や表情といったコミュニケーションのチャンネルを閉じてしまっている人が、昨今、増えてはいるのではないだろうか。声音や表情を意図的に組み立てようとすることもなければ、他人のソレを読み取ろうともせず、言語だけを介したコミュニケーションに頼ろう頼ろうとする人達。特にインターネットは、その性格上、言葉だけのやりとりに親和性の高いツールを次々に生み出してもいるわけで*2、ことによれば、言語のやりとりに依存している人達の依存度を加速させる一端を担っているかもしれない*3。確かに、2ちゃんねるやMixiやtwitterでしか出来ないことも沢山あるし、そういったツールとの付き合い方もきちんと身につけていったほうが良いのは間違いない。けれども、言葉を介したやりとりだけに終始するというのは、人間のコミュニケーションの可能性を随分と狭めていやしないだろうか?
 
 言葉は言葉で重要だし、便利でもある。けれども人間のコミュニケーションって、本来は、もっとチャンネルが多層的で、短い時間で複雑なニュアンスをたっぷり交換できた筈じゃなかったか。どうしてその事を、私達はこれほどまでに忘れてしまったのだろうか?言葉に頼り、言葉に溺れて、何か大切なことを忘れてしまってやいないだろうか?明治時代を見事に描いたドラマを視聴しながら、私はそう思わずにいられなかった。
 
 あなたのコミュニケーション、言葉に頼りすぎていませんか?
 「愛してる」なんて野暮な言葉に頼らなくても、自分の気持ちを伝えるチャンネルなんて、幾らでもあるでしょうに。

*1:尤も、言葉は言葉で誤解をたっぷりと生み出すことがあるのだが

*2:例:2ちゃんねる、Mixi、twitterなど

*3:もちろん逆に、言葉のやりとり「しか」出来ない人に居場所を与えているという側面もあるだろうけれども