- 作者: 竹宮ゆゆこ,ヤス
- 出版社/メーカー: アスキーメディアワークス
- 発売日: 2009/03/10
- メディア: 文庫
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『とらドラ!』がめでたく完結した。この方面の娯楽作品としては素晴らしいクオリティで、ずっと楽しませてもらった。しかもただ面白いだけでなく、あれこれと考えさせられる内容でもあった。
思春期を取り扱った作品の多くがそうであるように、この『とらドラ!』もまた、主人公達が自己決定していく物語であり、“親世代や社会との軋轢”*1に直面しながらも、それらと折り合いをつけていく描写が作中に含まれている。アニメ版25話で、実乃梨が自己決定について泣きながら訴えていた内容などは、思春期モノの作品では珍しくない。
とはいえ、幾つかの点で『とらドラ!』はいかにも今風で、興味をそそられる。
まず、この作品のなかで“親世代や社会の軋轢”の中心軸として据えられているのは、母親、あるいは母性のエゴイズムである点だ。『とらドラ!』に出てくる親世代は、主人公達を保護する存在ではなく、エゴイズムで支配する存在として専ら描かれているが、なかでも大河と竜児の母親はエゴも顕わに、物語の終盤に“ラスボス”として登場する。古い時代の物語では、こうした“ラスボス”には、父親、あるいは父親に象徴されるような社会の軋轢、といったものが据えられることが多かった*2が、この作品におけるラスボスは、父性ではなく、母性だ。
しかも厄介なことに、大河や竜児が直面している母性のエゴイズムは、直接対峙する相手として立ちはだかっているだけではない。大河や竜児は長年に渡って母性のエゴイズムに曝され続けてきたために、自分自身の処世術や性格をすっかりそれに適合させてしまっている。このため、目の前でエゴをむき出しにする母親だけではなく、長年かけて内面化されてきた自分自身の処世術や性格のほうも、母性のエゴイズムに由来した問題として立ちはだかっている。
もっとも、母性のエゴイズム/内面化した母性といった問題は、既に1990年代の頃から描かれていたわけで、それ自体はエポックメイキングなものではない。例えば『Vガンダム』や『エヴァンゲリオン』などでは、母性のエゴイズムが嫌になるほど描写されていた。ただし、それらの作品と『とらドラ!』が違っているのは、その厄介な母性のエゴイズムに対する“処方箋”を、曲りなりにも描き切ったという点だ*3。
『とらドラ!』で描かれた、母性のエゴイズムに対する“処方箋”
では、どうやって大河や竜児は母性のエゴイズム問題に折り合いをつけたのか?
まず第一に大きかったのは、母親のエゴの届かない領域で、継続的な人間関係を体験し続けていた、ということだ。大河も竜児も、母親のエゴとは離れた場所に(適度な不満や軋轢を含みながらも)まずまず保護的で破綻しない人間関係を構築していた。クラスメート達との、ドライに陥り過ぎずそれでいて破綻しない関係を通して、彼らは母性の束縛や桎梏に気付くきっかけを得たわけだし、さまざまな危機に際しての避難所をも獲得していたわけだ。もし、ああいう交友関係を体験してなかったら、大河と竜児の物語がこんな風に完結していたとは思えない。
しかし、ここまでだったら、それほど珍しい筋書きではないと思う。それより特徴的で目を惹くのは、そんな母親のエゴに気付き、母親のエゴの束縛から脱却しつつも、母親を拒絶することなく和解する、というストーリー展開だ。
たとい母親のエゴの束縛から逃れるとしても、ただ拒絶するだけではエゴイズムの再生産が繰り返されるだけ----物語の終盤、親と和解しなければ同じことが繰り返されるだけだと竜児は気づく。
だって、世代の絆の繋ぎ方を、我々は知らない。
そして、竜児はゆっくりと気がついた。捨てようとしていた泰子にこうして捨てられて、結果、取り残されたことがこんなに悲しいのではなかった。みえたことが、悲しいのだ。今ここにある分だけでなく、過去にも、未来にも、この悲しみが連綿と続いていくことが、それが見えたのが悲しかった。
大河と逃げたその果てにも、この悲しみは見えたのだ。
自分と逃げて、その未来で、大河は悲しむのだ。そしてきっと思うだろう。これも私が望んだからか、と。私は諦めない、と強く語る一方で、親との絆を諦めた大河は、その両眼に結局悲しみをみるのだ。
『とらドラ!』10巻P105-106 より抜粋
これは、相当に大切な気付きだと思う。
確かに、母親のエゴイズムに束縛され続けるわけにはいかない。しかし、だからといって自分の意志を守る為に母親を拒絶・決別すれば良いのか?さにあらず、束縛から脱出する為に拒絶や決別を断行すれば、呪いは自分に跳ね返ってくる。今度は自分自身のエゴイズムで、自分の子どもを束縛する未来が待っているだろう。その時の呪詛は、「私とは違って、この子だけは幸せになって欲しい」という、親世代の願いをそっくり再現したものになるのが関の山である。そして、「私とは違って、この子だけは幸せになって欲しい」という本当はポジティブな筈の願いが、親のエゴイズムとなって子ども世代を押し潰すのだ…。
親と同種のエゴイズムに陥らないためには、よしんば駆け落ちできたとしても、それが最適解とはいえない----賢明にも竜治は、このことに気付くことができた。だから泰子と断絶せず、和解の方向へと梶を切った。大河のほうも、母親と切れない方向を選んだようだ。母性のエゴイズムの重力から離脱してみせるだけの作品なら、それほど珍しくないかもしれない。しかし、母性のエゴイズムから脱却するだけでなく、そんなエゴな母親とも和解し、感謝の境地にすら向かい、エゴイズムの再生産を阻止するところまで視野に入れた作品は、この界隈ではあまり記憶に無い。
だから僕は、『とらドラ!』で描かれている母性のエゴイズムへの“処方箋”は、一歩先まで進んでいるなぁと感じた。「母性のエゴイズムから単に脱却すればそれで良し」「親世代と決別し、俺達の人生を生きる」といった単純な話で済ませられない部分まで、それなりに描いているようにみえる。もちろん、作品の構成上、ご都合主義や端折られ過ぎと感じる部分が無いわけではない*4し、そもそも大河も竜児も運が良すぎる。とはいえ、ライトノベルという若年者向け娯楽ジャンルのなかで、親世代との和解・エゴ悪循環の再生産阻止まで視野に入れた作品に遭遇できたのは嬉しかったし、その存在には格別の意義があるとも思う。『とらドラ!』、最後の最後まで魅せてくれました。
*1:勿論、この手のものは高校生あたりの年頃には、きわめて抑圧的な存在として映るだろう
*2:例えばスターウォーズEpside4〜6
*3:この点では、例えば『Vガンダム』はシャクティという母性の海にウッソは沈み、『エヴァ』は人類補完計画というムチャクチャ非日常的な経路を通して、ようやく碇ユイとの穏当な別れまで到達している。どちらの例でも、日常世界の描写のなかで“処方箋”を描き切ったとは言えない
*4:例えば、作品最初の頃の大河や竜児の境地〜最終回ラストの境地までの心的成長を遂げるには、現実世界の場合、もっと長い時間ともっと沢山の出会いと別れが必要になってくるように思える。この辺りは後日まとめる予定