ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.【通常版】 [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2010/05/26
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明日(8/26)、金曜ロードーショーで『ヱヴァ新劇場版:破』を放送するらしいので、ちょっとだけ。
旧エヴァの対ゼルエル戦で、エヴァ初号機が活動限界を超えた後の碇シンジは、「お願いだから、動いてよ!」と初号機に向かって叫んでいた。その懇願に応えるような形で、母親の魂が入ったエヴァ初号機が再起動し、ゼルエルをぶちのめしてS2機関を自ら取り入れていた。「子どもに泣きつかれた母親がゼルエルを撃破し、ついでに母親の意志でS2機関まで取り込んじゃった」というわけだ。少なくともそのような解釈を許す流れだった。
対してヱヴァ新劇場版では、碇シンジはエヴァ初号機に(=母親に)おねだりしない。21世紀の碇シンジは「お願いだから、動いてよ!」と母に懇願せず、「綾波を返せ」という碇シンジ自身のエゴでエヴァ初号機を動かしてのけた。エゴと言うと聞こえが悪いかもしれないが、あのときの碇シンジには自発的な意志が明確に感じ取られた。
20世紀にTV放送されたエヴァンゲリオンには、碇シンジの意志より初号機の意志(=母の意志)が優越するような場面が多くみられた。ゼルエル戦〜20話『こころのかたち人のかたち』あたりでは、それが顕著だったと思う。
ところが新劇場版のゼルエル戦では、初号機に碇シンジが取り込まれたり主体性を奪われたりする気配が無い。シンクロ率の上昇にしても、エヴァ初号機が碇シンジをとりこんで400%まで逝っているのでなく、碇シンジが自らエヴァ初号機へと深くシンクロしていったと描写される点で、構図が全く異なっている。
旧世紀のエヴァンゲリオンは“母性に束縛される子ども”の物語として徹底した描写をやってくれていたと思う。90年代のアニメで、そうした母性のディストピアをわかりやすく突きつけてくれたのはエヴァンゲリオンだった*1。
対して、新劇場版ヱヴァは、たぶんそんなところは狙っていないんじゃないか。
シビアな現状認知の物語ではなく、あるべき理想を(壮年期〜思春期世代に)示すような作風を目指している、と個人的には疑っている。「それぞれ主体的・自発的に生きようとする子ども達」「子ども達を応援し裏方として支える大人達」を描こうとしているふしのある新劇場版ヱヴァは、「かくある」という現状認知としてはいかにも甘い。碇シンジの芯の強さも、どこか超人めいたところがあるようにも見える。しかし「かくありたい」という目標設定の描写としてはそう悪いものではないと思う。たとえ、実行の難しい理想としても。
そんなことを考えながら対ゼルエル戦を眺めなおすと、碇シンジの立ち位置、特に母親と碇シンジとの能動-受動の関係が逆転していた意味がどうしても気になってくる。そして、あのとき碇シンジの行動を肯定した葛城ミサトの叫び声*2も、いかにも似つかわしく見える。新劇場版第三作『Q』を待っている間は、こういった材料を拾っては反芻して楽しんでいようと思う。