シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

実際に踏み込んでみないと、私はコミュニケーションの間合いすら把握出来ません

  

傷付いてもこの人と繋がりたいと思える相手を - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園
 
 相手を傷つけたくない。自分も傷つきたくない。全てのコミュニケーションには、相手を怒らせるリスクと相手を傷つけるリスク、さらに自分自身が怒るリスクや自分自身が傷つくリスクが含まれている。特に、相手をわかろうとすればするほど、相手と自分の相似だけでなく相違が明らかになってくるので、「相手と出来るだけ同じ」であろうという願いが強い人は、とても辛い目に遭うのは避けられない。なにせ近寄れば近寄るほど「考えの違い」「利得の違い」がはっきりするのだから。
 
 だからといって、コミュニケーションをひたすら忌避してみたり、「俺は誰かを傷つけるから何もしない、微動だにしない」と言っている限り、コミュニケーションの対象と自分とで何かを共有することは出来ない。分かり合う、というのが幻想にせよ、共同作業を進めたり(浅いものから深いものまで)同盟関係を締結することすら出来ない。相手とひとつになるのは不可能にしても、絆やご縁を生むには、浅いか深いかはともかく、何らかの踏み込みが必要だろう。
 
 踏み込みの深さを決めるのは何だろうか?色々あるだろうし、リンク先にもあるように、自分自身が傷つくこと・自分自身に踏み込まれることを恐れる人は多いだろう*1。だけれど、そうやって他人を傷つけるとか自分を傷つけるとかに汲々としていては、結果として誰とも関係を深めることが出来ないんじゃないか?
 
 そこで私は、敢えて逆の発想でいくことにしている。相手にむしろずけずけと踏み込むのである(例えばこのid:xuraさんへのトラックバック記事などもそうだ。私は今、納骨堂の敷居をまたいでいる最中というわけだ)。礼節を守りつつも、とにかく一次的接触を行い、コミュニケーションする。これによって、次に踏み込むべきなのか、踏み込まないほうが良いのかの情報が得られるし、先方もこちらに気づいて何かしら考えてくれるかもしれない。もし、踏み込みの深さを怒られたなら、引くなり今後の接触を避けるなりすればいい。或いは、もうちょっと踏み込んでも許してくれそうなら、二回目の接触の時はもうちょっとだけ踏み込めばいい。そうやって、相手と自分との関係をブッ壊れない程度にちょっとづつ深くしていく作業・関係を規定していく作業。これによって、自分と相手との関係はお互いにとって必要な範囲で必要なだけ深まる可能性を掴むことができる。踏み込みをひたすら浅くしていてはなかなか気づきにくい諸々に気づいたり、気づいて貰ったり、怒られたり、喜ばれたり。それが、私がしばしば欲しがる人間関係っぽい。
 

 無限の広がりを持つネット世界で初対面の人間と出会う時には、特にこの戦法が生きやすい。リアル世界では、物理的・時間的・文化的な制約が多く、踏み込みすぎて失敗した時に「頭をかいてごまかす」では済まないことも多いかもしれないけれど、ネットならそうでもない*2。コミュニケーションに失敗した相手との接触を避けたとて、それ以外の人とのコミュニケーションのチャンスは手元に残るし、気に入らない奴を視界から締め出すのも(リアルに比べれば)そう難しくない。確かに、「地域社会」のように時間をかけてコミュニケーションの深さを深めていくのは難しいかもしれない。けれどその代わり、私には、対象ブログを何度も何度も閲覧したり、対象ブロガーの振る舞いを長時間観察したうえで発言したりするゆとりが与えられているし、よしんばコミュニケーションに失敗したらコミュニケーションの対象を交換するチャンスだってある。誰からも罵倒され馬鹿にされるような愚かしいコミュニケーションをやらかす人でない限り、ネットはコミュニケーションの踏み込み合戦をやる余地が意外にあるんじゃないか、と私は妄想したい。
 

 だから私は、ずうずうしくも、あくまで自分自身の為に、見ず知らずの人にまずは声をかけてみる。声をかけるってことは、トラックバックしたり、コメントしたり、はてなブックマークにあることないこと書き殴ってみたりするってことだ。そうやって、浅かったり深かったりの対話を投げかけて、相手が怒りださないか、こっちに気づいて笑顔や泣き顔をみせないかetcをじっとみつめることにしている。運が良ければ、こうしたやりとりの中から(blogという脳の簡易並列化が行われる空間内において)、共有レベル3ぐらいまで思念や考察を共有してくれる相手がみつかるかもしれない。しばしば、「ネット上には表層的なコミュニケーションしかない」なんて文章をみかけるけれど、私はそんなに悲観していない。踏み込み、踏み込まれ、喧嘩して、一緒に笑って、時にはオフ会すらやって、私はネット上で「もっと殴り合える友達」や「一緒にいても案外寂しさを感じないような間合いの友達」をなるべくつくりたいと願う*3し、そういうノウハウを益々蓄積させていきたいと思う。そういう方針は、リアルでもネットでも変わるところがない。
 

 いやいや、深く付き合ってもらえないことが多発したって勿論構わない。だけどそれにしたって、実際に踏み込んでみて、怒られてみてはじめてわかる事も多い。傷ついたり殴られてみたりした後で、「ああ、この人との間合いはこれぐらいなんだな、これ以上はやめておこう」とようやく理解する程に私は鈍感なのだ。だから、とりあえず踏み込んでみる。踏み込みながら、間合いも確認する。そして、お互いに近づいたほうが気分よさそうな場合に限り、どんどん友達に近づいていこうなんて考えをめぐらせていきたいなぁ。
 

[一応補足1]:「完全なる相互理解」が無理っていう弁えを失ったら、アウト。
[補足2]:「全ての人と出来るだけ深く」もアウト。浅い付き合いが互いにちょうどいいもいるはず。
 

*1:なお、見ず知らずのこれから知り合うであろう赤の他人に踏み込んで傷つけてしまうことを恐れる、などという発言を私は滅多に認めない。なぜなら、そう発言することによって、自分自身の怯懦を亡きものにしようとする者をしばしばみかけるからである。赤の他人に与え得る損失を、自らの利得追及以上に生真面目に追求する人間なんて滅多にいるものではない。「見ず知らずの人間を傷つけることを恐れる」と発言することによって、何らかの心的・物的利得を啜り上げる音を、私は確かに聞くことができる。このような考え方の背景には、「他人に迷惑をかけるという身の弁えやエチケットには、利他行為を通した自分自身への利得追及の筋道が隠れて存在している」という私自身の思い込みが存在している。

*2:なかには愚かな失敗を繰り返して村八分にされる人もいるかもしれない。そういう特別製の人は、今回のテキストの主旨から完全に外れる。おそらく彼は、何をやっても駄目だろう。

*3:ただし、親しき仲にも礼儀あり。礼節や尊敬を失えば、どんな付き合いも腐ってしまうことを忘れたらアウトなんだろうな