シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

倫理・道徳から利得や適応的意図を抽出しようとする人は、堕落しているのか?

 
常連さんへ - シロクマの屑籠
 
 以前、こう書いたことがある。私の議論は、「全ての生物の行動には、性淘汰または自然淘汰の視点において適応価が上昇するような意図が含まれている」という前提のもとで行われている。と。
 
 このような議論を行う時、あるいは議論を行わずに日常生活を営んでいる時、果たして私は倫理的な、道徳的な人間であり得ると言えるのだろうか?私は、“倫理や道徳の発露から利得や適応的意図が抽出出来るか否かは、倫理や道徳が本物か否かとは別個の命題だ”と思っていたし、今もかなり思っている。しかし、世の中には「本物の倫理や道徳とは、利得や適応的意図を抽出出来ないモノだけを指す」と思っている人もいる筈だし、案外、世の中全般の道徳・倫理の定義とはそのようなものかもしれない。そういう人からみれば、自分自身の道徳的選択・倫理的判断に適応的意図を常に嗅ぎ取ってしまう私は、堕落した人間として断罪の対象として相応しいことだろう。彼らに「お前は堕落している」と言われたら、はいそうですね、としか言いようがないのが私の立場だ。
 
 僅かに気になるところは、「自分自身の道徳的選択・倫理的判断から適応的意図を抽出しようとする人は、全員堕落しているのか」どうかという命題。倫理や道徳の適応的意義を進化心理学や行動遺伝学に沿った形で考えている人達は、全員堕落しているとみなされるのだろうか?あるいは、そういった議論を自分の身に当てはめて考えてみる人は、自分の身に当てはめて身調べした瞬間、瞬間的に堕落するのだろうか?逆に、「自分自身の道徳と倫理性を信じ込んではいるけれども、それで大いに得をしまくっていてウハウハな人」は、自覚さえなければ立派な道徳人と言えるのだろうか?
 
 私はこの命題に関する私なりの答えを知らないし当面は結論に急がないつもりだが、多分各宗教で十分に問答されていることで、そっち方面には興味深い神学的検討が色々あるのだろう。読んでみたら面白いかもしれない。
 
 そうは言っても、私自身の日々の生活にはあまり関係ないことには違いない。私にとって重要なのは、他人または自分自身からみて道徳的・倫理的に“正しいかどうか”という命題ではなく、自分自身と自分の周りの人達がそれなりにニコニコ笑って生きていけるかという命題のほうだろう。言い換えれば、私と私の環境因子としての知人達の適応がどうであるか、ということだ。