シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

FC版ウィザードリィ30周年記念誌『ウィザードリィの深淵』に参加させていただきました

 
 
 
 去年の暮れ頃、こちらのウェブサイトを主宰しているPinさんという方から、FC版ウィザードリィ30周年記念誌『ウィザードリィの深淵』の「俺とWIZ」コーナーに参加しませんかとお誘いおいただき、短い文章を寄稿いたしました。*1
 
 それにしても、とんでもない同人誌です。
 
 FC版ウィザードリィのリリースに関わった人達のインタビューがびっしりで、凄いボリュームです。ウィザードリィ伝導師の須田Pinさん、Wizardry原作者のロバート・ウッドヘッドさん、FC版ビジュアルデザイン担当の末弥純さん、『隣り合わせの灰と青春』のベニー松山さんといった、錚々たる面々も含まれていて、資料的価値は相当なものだと想定されます。すでに30年の時が流れ、関係者の記憶が薄れてしまっている部分もあるようでしたが、今、記録しておかなればますます散逸してしまうものなので、FC版ウィザードリィを振り返るうえで、重要な資料になるのではないかと思います。
 
 それでいて、この同人誌は「同人誌らしさ」をも併せ持っていました。「俺とWIZ」コーナーには、たくさんのウィザードリィ愛好家の個人的な言葉が綴られていますし、遊び心のある企画が所々に散りばめられています。単なる「お堅い証言集」ではないんですよね。同人誌らしさっていうより、ひょっとしたら往年のゲーム誌らしさなのかもしれませんが、とにかく、懐かしい楽しさが宿っています。
 
 インタビューに登場している皆さんは、私よりもいくらか年回りが上なので、言及されている他ハードやゲームソフトの名前がすごく古かったです。PC-1200、PC-6001、PC-8801、『ゼビウス』『スペースインベーダー』『ハイドライド』『ブラックオニキス』……挙げていくとキリがありませんが、とにかく、コンピュータゲーム黎明期のゲーム少年がどんなハードでどんなゲームを楽しんでいたのかを垣間見せてくれます。パソコンショップの周辺で、ゲームマニア・マイコンマニアがどんな風に過ごしていたのかを思い出す民俗的資料としても、なかなか良いかもしれません。
 
 FC版ウィザードリィ30周年記念誌『ウィザードリィの深淵』は、5月14日のゲームレジェンドにて頒布予定とのことです。
 
 ウィザードリィが好きで、ゲーム黎明期の雰囲気が好きな人なら、手に取ってみる価値があるんじゃないかと思います。
 
 

*1:5月13日補足:主宰のPinさんと須田Pinさんは別人だそうです。てっきり同じだと思っていました!

内容の無いコミュニケーションを馬鹿にしている人は、何もわかっていない

 
 
 「あいつらは、内容の無いことばかり喋っている」と言って、学校や職場の同僚を馬鹿にする人は多い。思春期にありがちなセリフかと思いきや、年配の人が、同じようなことを喋っているのを見て驚くこともある。ほとんどの場合、このセリフは人望が無い人の口から出てくる。
 
 いつも哲学している人や、いつも世界の重要事についてだけ考えている人は、世間には滅多にいない。いや、実のところ、「あいつらは内容の無いことばかり喋っている」と言っている本人だってそうなのだ。有意味なこと・重要なことだけを喋る人間など、まずもって存在しない。仮にいるとしたら、事務的な内容や数学の解法のような内容しか喋らない、ロボットじみた人間になるだろう。
 
 少なくとも、「あいつらは内容の無いことばかり喋っている」などという、内容の無いことをペラペラ喋ったりはしないだろう。
 
 

「コミュニケーションの内容」より「コミュニケーションしていること」のほうが重要

 
 人間同士のコミュニケーションのなかで、「コミュニケーションの内容」が本当に問われる場面はそんなに多くない。
 
 もちろん、業務上の指示やディベートの際には、内容こそが重要になる。しかし、日常会話の大半は、コミュニケーションの内容よりも、コミュニケーションをしていることのほうが重要だ。
 
 その典型が、「おはようございます」「お疲れ様でした」「おやすみなさい」といった挨拶のたぐいだ。
 
 挨拶には内容は無い。昔は、“お早うございます”にも内容があったのかもしれないが、もはやテンプレート化している今では、無いも同然だろう。だが、社会人になったら真っ先に挨拶が問われることが示しているように、コミュニケーションに占める挨拶のウエイトは馬鹿にできない。
 
 日和や季節についての会話や、女子高生同士のサイダーのような会話も、しばしば「内容のない会話」の例として槍玉に挙げられる。しかし、交わされる言葉の内容そのものにはあまり意味が無くても、言葉を交換しあい、話題をシェアっているということ自体に、大きな意味がある。
 
 言葉には、一種の“贈り物”みたい効果があって、言葉を交換しあうことが人間同士に信頼や親しみを生む。というより、黙っていると発生しがちな、不信の発生確率を減らしてくれる、と言うべきかもしれない。
 
 人間は、「私はあなたの存在を意識していますよ」「私はあなたとコミュニケーションする意志を持っていますよ」と示し合わせておかないと、お互いに不信を抱いたり、不安を抱いたりしやすい生き物だ。だから、会話内容がなんであれ、お互いに敵意を持っていないこと・いつでもコミュニケーションする用意があることを示し合わせておくことが、人間関係を維持する際には大切になる。

 

「空っぽのコミュニケーションが好き」も立派な才能

 
 だから、内容のなさそうな会話を楽しそうにやっている人達のほうが、内容の乏しい会話を馬鹿にしている人達よりも、コミュニケーション強者である可能性が高い。
 
 言葉を交わす行為をストレスに感じたり、厭ったりしている人は、この、“贈り物”としての言葉の交換をあまりやらないか、やったとしてもストレスと引き換えにやることになるので、そのぶん、信頼や親しみを獲得しにくく、相手に不信感を持たれてしまう可能性が高くなる。
 
 対照的に、言葉の交換がストレスと感じない程度に定着している人や、言葉の交換をとおして承認欲求や所属欲求を充たせる人は、ますます信頼や親しみを獲得しやすく、不信を持たれにくくなる。ということは、学校や職場での立ち回りにアドバンテージが得られるってことだから、「空っぽのコミュニケーションが好き」は立派な才能だ。
  
 こうした言葉の交換の効果は、いつも顔を合わせる間柄、日常的に顔を合わせる間柄においてモノを言う。毎日のように顔を合わせて言葉を交わすからこそ、毎日の挨拶やコミュニケーションが大きな信頼や親しみを生むし、そこらへんが不得手な人は、不信の芽を育ててしまいやすい。挨拶も世間話もせず、飲み会にも出席しないような人は、遅かれ早かれ孤立する羽目になるだろうし、その孤立によって、成績や業績の足を引っ張られやすくなるだろう。
 
 だから、「内容の無いコミュニケーション」「空っぽのコミュニケーション」を馬鹿にしている人は、何もわかっていない、と言える。職場で最適なパフォーマンスを発揮し、チームワークを発揮していきたいなら、むしろ、挨拶や世間話を楽しんでいる人をリスペクトして、その才能、その振る舞いを見習うぐらいのほうが良いのだと思う。もちろん、挨拶や世間話は出来るけれども業績や成績がまったくダメな人もやはりダメなのだが、自分の業務や成績のことばかり考え、言葉の交換を軽んじているようでは、渡世は覚束ない。
 
 

「空っぽのコミュニケーション」上手になるためには

 
 じゃあ、どうすれば「空っぽのコミュニケーション」が上達するのか?
 
 一番良いのは、子ども時代から挨拶や世間話を毎日のように繰り返して、そのことに違和感をなにも覚えない状態で育ってしまっておくことだと思う。毎日挨拶ができること・世間話を楽しむことには、文化資本(ハビトゥス)としての一面があるので、物心つかない頃からインストールしてしまっているのが一番良い。
 
 だが、一定の年齢になってしまった人の場合は、自分の力でコツコツと身に付けていくしかない。その際には、会話の内容だけでなく言葉を交換すること自体にも重要な意味があることをきちんと自覚して、「こんな会話に意味は無い」などと思ってしまわない事。それと、そういう会話を上手にこなしている人達を馬鹿にするのでなく、社会適応のロールモデルとして、真似できるところから真似ていくことが大切なのだと思う。
 
 そしてもし、今の職場で挨拶や世間話をする機会が乏しいなら、そのままほったらかしにしておかないほうが良い。世の中には、挨拶や世間話をする機会が非常に乏しく、業務上のやりとりだけの職場も存在するが、それをいいことに言葉の交換をおざなりにしていると、じきに「空っぽのコミュニケーション」ができなくなってしまう。そのような人は、職場以外でもどこでも構わないから、挨拶や世間話を実践して、「空っぽのコミュニケーション」ができる状態をキープしておいたほうが良いと思う。いざ、「空っぽのコミュニケーション」が必要になった時、慣れていないととっさに出来ないものだから。
 
  

認められたい

認められたい

 
 →つづきはこちらです。

「ここで認められないと詰む」は詰む

 
 新年度が始まって1カ月。
 
 新環境は、社会のなかの“ふるい”のようなもので、新環境になじんで適応できるか否かを試しているようなふしがある。学校や職場がコロコロと変わる現代社会では、「新環境になじんで適応する」という課題は、まず避けてとおれない。
 
 新しい職場や新しい学校に慣れるのは辛い。慣れていないことに取り組むと体力や精神力を消耗するし、なにより、新しい人間関係を作り直すのが大変だ。長い人類史のなかで、そういった課題を突き付けられていた人が一握りだったことを思えば、これはけっこう理不尽なことだと思う。

 この時期、新環境についていけない人のことを俗に五月病と呼ぶ。しかし、冷静に考えてみれば、進学や就職や異動のたびに新しい人間関係を毎回作り直して、毎回うまくいくってのは、どこか奇跡的な気がする。常識を脇に置いて考えると、人生のなかで二度や三度ほど五月病めいたエピソードがあるほうが、人間としては自然ではないだろうか。

 

「絶対認められたい」と力んでしまう人々

 
 新環境にうまく適応し、そこで認められたいと願うこと自体は、人としておかしくない。だが、絶対に認められたいと思い込んだり、この仕事・この課題を死守しなければならないと思い詰めてしまうと、かえってうまくいきにくくなる。周囲の期待や評価を自分の味方にできる人は、いるようでいて、案外と少ない。

 どういう時に、人間は「絶対に認められよう」と力んでしまうのか。
 
1.ひとつは、目の前の新環境以外の、承認欲求や所属欲求の補給線が乏しい場合。
 
 新しい学校や職場に適応できるかどうかは、これからの社会生活を左右するファクターだから、そこを重視するのは当然だ。だが、新環境に適応するにあたって、周囲の期待や評価はどのていど必要なものだろうか? 実際には、絶対に認められようと力んでいる人が感じているほど、期待や評価を集めなくて構わないこともあるし、後述するように、時と場合によっては、期待や評価を集め過ぎないほうが良いことすらある。

 ところが、承認欲求や所属欲求の補給線の乏しい人には、そういう醒めた目線が難しくなる。なぜなら、よそで承認欲求や所属欲求が充たせていなければ目の前の学校や職場で充たすほかなく、そこに自己評価を全賭けするしかなくなってしまうからだ。自己評価の一部が賭けられているのでなく、全部が賭けられているとしたら、緊張したり足がすくんだりしてしまうのは無理もない。 

 反対に、家庭や趣味仲間や地元コミュニティに、承認欲求や所属欲求の補給線をなにか持っている人は、新環境ですぐさま認められなくても、自己評価がゼロになってしまうおそれがない。なぜなら、自分が認められるレイヤーが複数あって、一か所で自己評価がなかなか高まらなくても、それで自己評価が全滅してしまうおそれが無いからだ。こういう人は、一度に複数のレイヤーで同時につまづくか、過労や消耗といった身体的ダメージが蓄積するかしない限り、相当しぶとい。

2.もうひとつは、今まで失敗経験があり、余計に力が入り過ぎている場合。就職に失敗し、「今度こそは」という思いで再就職する人に割とみられるパターンだが、「今度こそは」という気持ちは、ときに、人を無駄に力ませる。無駄な力みは違和感となって周囲に伝わりやすく、ただそれだけで適応を難しくする。「うまくいかなくてもいいから、やってみる」ぐらいの気持ちのほうが、この点ではまだしも有利だ。

3.また、若い人の場合は、それと正反対な人も見かける。今まで失敗らしい失敗をしたことがない……というより、失敗できない人生を歩いてきた人の「絶対に認められたい」。良い高校に入り、良い大学に入り、課外活動も立派で、良いところに就職する……といった、他人が羨むような人生にみえる若者の内心が、じつは金ぴかのレールから逸れてしまうことへの強い不安に満ちていて、いつも金ぴかのレールの上で認められていなければ生きていられない、といった境地のことはよくある。

 いわば、自己評価を金ぴかレールの上に固定してしまっているタイプだが、伊達に金ぴかレールを歩き続けていないというか、これまで培ってきた有能さと根性で、あるていど周囲の期待や評価を勝ち取れることも多い。そのかわり、いったん新環境からドロップアウトし、今までどおりには認めてもらえないと感じはじめると、自分が認めてもらえていないという未経験の状況に対応できないまま、不適応を重ねて泥沼に陥ってしまう。本人も、こうした弱点を無意識のうちに知っているので、絶対にレールから逸れないように努めてはいるが、そのことを他人に察知されて、いいように利用されてしまうこともある。
 
4.あと、意外と軽視できないのが、頑張って認められようとして、その頑張りが等身大の自分よりも高い評価を呼び込んでしまい、新環境に適応するハードルをみずから高めてしまう人。
 
 新環境のなかで期待や評価を集めるのは、一般に、良いこととみなされている。確かに、給与や昇進やコネクションといった点でみれば、「あいつは期待できる」「あの人、なんかいいよね」と思われるのは良いことかもしれない。だが、そういった期待や評価が、より難しい課題を・より早く呼び寄せてしまうこともある。本人としては、とにかくも新環境に適応しようと頑張っているつもりが、かえって適応のハードルを高め、苦しめてしまっていることが往々にしてある。人生経験を積んだ後はともかく、まだ若いうちは、そうした行き過ぎた適応による自縄自縛の罠にハマる人は案外いる。この自縄自縛を経験した人は、どこまで認められるのが自分にとって適正で、どこからが不適(または無謀)なのか、考え直さなければならない。
 
 なお、先に挙げた金ぴかレール系の優秀さに囚われている人などは、そこらへんを上司や同僚に察知されてしまい、難しい課題を処理するポジションに、良いように転がされてしまう危険性が高くなる。「絶対に認められたい」というこだわりは、見える人には手に取るように見えるので、付けこまれる隙となる。難しいところかもしれないが、そういう人は、どこかで適度に挫折したり認められずに落胆したりしておいたほうが、人生の防御力があがる。
 
 

「ここで認められないと詰む」は詰む

 
 ツラツラ書いてきたが、何が言いたいのかというと「認められなくてもいいや」って気持ちが本当は大事だよね、ということと、そういう気持ちを成立させるための前提条件に気をつけなきゃいけないよね、ってことだ。新しい学校や職場に適応し、ちゃんと認められる状態になるに越したことはないけれども、そのことで心がいっぱいになるような状態を避けるためのコツみたいなものが、人生を転がしていくにはあったほうが良いと思う。

 で、新著でも書いたけれども、その結構大きなウエイトは承認欲求や所属欲求の補給線を分散させること、「認められたい」を充たせるレイヤーを複数もっておくことにかかっている。金銭欲や栄達欲しか見ていない人には、一見、無駄にみえたりコストパフォーマンスが悪かったりする付き合いや趣味の世界が、「ここで認められないと詰む」を軽減させるためのバッファとして、あるいは自己評価のリスクヘッジ先として有効に機能している人はたくさんいる。人生や自己評価を一点集中させるのは、思うほど効率的な生き方ではない。

 ただし、付き合いや趣味の世界などにかまけ過ぎると、今度は時間的・体力的に死ぬことになるので、どこらへんが自己評価のリスクヘッジと、時間的・体力的に死ぬことの妥協点になるのか、それぞれに自分の答えを探して、一番良いところに持っていく必要がある。
 
 それと、経済的にも死なないように。極論を言うなら、メチャクチャにお金を使って承認欲求や所属欲求を充たして「ここで認められないと詰む」をリスクヘッジできるほどの金銭的余裕があるなら、やっちゃったって構わないのだと思う。でも、ほとんどの人はそこまでの金銭的余裕が無いはずだから、経済的に死なないための配慮は必要だ。
 
 この視点で考えると、トータルとしての適応ゲームは、「認められたい」を巡る自己評価のリスクヘッジと、時間的・体力的制約と、経済的制約の妥協点探し、に限りなく近くなる。

 この3つの要素は、個人によって強弱がまちまちなので、自己評価のリスクヘッジをあまりしなくて大丈夫な人とそうでない人、時間的・体力的な制約が少ない人と大きい人、経済的制約が緩い人と厳しい人では、適応ゲームの最適解もまちまちになる。だから、ある人にとっての最適解が、別の人には「ものすごくお金を無駄遣いしている」ようにみえることもあるだろう。このあたり、自分で考えて、自分でその加減を調整していくしかない。

 適応ゲームの最適解がまちまちになるということは、人生の最適解もまちまちになるということだ。そのなかで、ときに笑い、ときに苦しみながら、人の人生はなるようなかたちに収まっていくのだろうし、収めていくほかないのだろう。こうしたことは、三十代や四十代にもなれば大半の個人が気付くものだけど、十代や二十代のうちから勘付いて、実行できる人はあまりいない。

 なので、今、「ここで認められないと詰む」と思い込み始めている若い人は、とりあえず、疲れているなら神経を休めて、少しゆとりがあるなら旧交を温めたりして、自分自身がグラグラ煮え過ぎないよう、軌道修正してみて欲しいと思う。そして今すぐは難しいとしても、自分自身にとっての適応ゲームの最適解を、少しずつ探してみて欲しいとも思う。
 
 

認められたい

認められたい

 

傑作ワインの基準で、傑作アニメについて考えてみる

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
 No.I don't think so.
 
 私はid:orangestarさんから、このように言及されるとは思っていなかったので、驚いてしまいました。たとえるなら、「はてなシティの海辺で小魚を網で捕っていたら、突然、空から鯛のおかしらが降ってきた」ような驚きです。
 
 さておき、私も自分の意見ってやつを書き並べて、インターネットディベートごっこをやりましょう。「違った意見」をぶつけあってホカホカできる相手って、あまり見つからないですからねえ。
 
 

「傑作の定義は人それぞれ」という原則論に立ったうえで

 
 まず、あらかじめ断っておきたいのは、「傑作」という言葉の定義は曖昧だ、ということです。リンク先の記事についたはてなブックマークにも、さまざまな「傑作」定義に基づいたコメントが並んでいますね。「傑作とはなにか」の定義は人それぞれであって構わないでしょう。また、同一人物においても、時と場合と対象によって定義の揺らぎが生じるはずです。
 
 ただし、これでは「傑作」について意思疎通がとれなくなってしまうので、「私が語る傑作とは」「ここでいう傑作とは」みたいな但し書きが必要になります。
 
 ひとつ前の記事でも、私は
 

『鉄血のオルフェンズ』を、私は傑作と評することはできません。ただ、ここでいう「傑作」とは、セールス良好で、みんなの話題と記憶に残るような作品になる、という意味です。この視点で言うと、『Vガンダム』『ガンダムF91』といった、一部の愛好家に熱烈に愛される作品は「傑作」に含まれません。もちろん『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』も「傑作」に含まれず、どちらかというと『けものフレンズ』や『魔法少女まどかマギカTV版』あたりのほうが「傑作」という認識です。

 と書いていて、ここではセールス良好でみんなの話題と記憶に残るような作品を意味していますよー、と前振りをしています。
 
 ですがちょっと失敗もしました。私は「傑作たるもの、完成度が一定の水準に達していて、破綻や欠点が大きすぎず、そのジャンルのほとんどの愛好家が高い評価を与えざるを得ない」と付け加えておくべきでした。なぜなら、『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』も、あれはあれで社会現象に繋がるほどセールスに貢献し、みんなの話題と記憶に残る作品だったからです。でも、私は『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』を「傑作」とは呼びません。24話までは、傑作と呼んで差し支えなかったでしょう。でも25話と26話は事実上未完成*1だったので、TV版だけでは「傑作」と呼ぶのは憚られます。劇場版の25話と26話が加わって、ようやく「傑作」らしくなりました。
 
 このような考え方は、ワインを楽しんでいるうちに身に付き、他ジャンルの鑑賞にも適用されるようになったものなので、それについてツラツラ述べてみます。
 

*1:ちなみに私自身はあの25話と26話がものすごく“好き”で、私の人生を変えたのはここだと思っています。自己啓発セミナーみたいだって?うるせえんだよ!

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『鉄血のオルフェンズ』は傑作になり損なった意欲作、と思いました

 
orangestar.hatenadiary.jp
orangestar.hatenadiary.jp
 
 さすが。ぞくぞくする感想でした。
 
 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』を視聴した人の多くは、多かれ少なかれ、id:orangestarさんに近い感想も抱いたのではないかと思います。でも、ここまで言語化できる人はめったにいないんじゃないでしょうか。
 
 「マクギリスは、秩序を知らないから、秩序と暴力の関係を読み損なった」とは、まったくそのとおりだと思います。なるほど、そういう風に言語化できるわけですか。
 
 私は『鉄血のオルフェンズ』の感想をまとめようか迷っていましたが(今、いろいろ忙しい)、触発されて、自分の『鉄血のオルフェンズ』観を書き残したくなってしまいました。、時間が許す範囲で、orangestarさんへの私信として並べてみます。
 
 

素晴らしい骨格のストーリーと、肉付きが貧弱だった終盤の演出

 
 まず、これを書きだしておかないと先に進めそうにないので、書いてしまっておきます。
 
 『鉄血のオルフェンズ』を、私は傑作と評することはできません。ただ、ここでいう「傑作」とは、セールス良好で、みんなの話題と記憶に残るような作品になる、という意味です。この視点で言うと、『Vガンダム』『ガンダムF91』といった、一部の愛好家に熱烈に愛される作品は「傑作」に含まれません。もちろん『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』も「傑作」に含まれず、どちらかというと『けものフレンズ』や『魔法少女まどかマギカTV版』あたりのほうが「傑作」という認識です。
 
 私は、『鉄血のオルフェンズ』のストーリーラインと、それを貫く大原則を愛していました。
 
 人間は、それぞれの所与の手札や立場のなかで最善を尽くして生きている。でも、生きるために行った所業は、因縁やカルマとなって蓄積し、それぞれの手札や立場に応じたかたちで、自分自身に返ってくる。クーデリアはそうやって自分自身の進退を定めていったし、それは、鉄華団の面々もマクギリスも同じでした。その、進退のコントロールというか、因縁やカルマの社会化というか、そういった手つきに関しては、クーデリアが頭一つ抜けていて、蒔苗先生に後継者と目されるだけのことはあったと思います。このあたり、orangestarさんが仰っているように、クーデリアと鉄華団のコントラストはくっきりしていたし、マクギリスとのコントラストもくっきりしていたと思います。
 
 だから私は、クーデリアは“育ちがいいな”と思いました。因縁やカルマを背負ってマニピュレートする立場の家系に生まれた娘だけのことはあるな、といいますか。イオク様も、この点では良い線行ってたと思います。彼は無能でしたが、“育ちの良さ”によって身に付いた精神性によって、あれだけ無能でも部下に慕われていました。封建的な組織において、人の上に立ち、人に死ねと命令する立場に必要な精神性や物腰を、いつの間にか身に付けていたというか。
 
 私にとってオルフェンズの怪しい魅力のひとつは、「因縁やカルマの蓄積が、手札や立場に応じたかたちで」蓄積していくという不平等感でした。ところが、それはあくまで原則でしかないんですよね。手札が良く、立場が高くても、序盤に鉄華団に挽かれた人達やカルタ・イシューのように、因業覚悟で突っ込んでくる連中の一刺しでちゃんと死ぬんですよね。イオク様が、最後の最後に巡り合わせに挟まれて死ぬのも、そういう感じがして楽しかったです。
 
 あと、三日月にくっついていたハッシュが無意味に死ぬの、ご指摘のとおり素晴らしいですね。そういうこともあるのが鉄血世界なんですね。後述する理由で、私はその素晴らしさに気づき損ねましたが。
 
 とにかく、原則性を背負いながら鉄華団が立ち上がり、人が死ぬたびに(そして殺すたびに)因業を抱えて重くなっていくのをニヤニヤしながら私は見ていました。不自由になっていく三日月の身体は、鉄華団が支払った代償と、背負った因業のバロメータとしてふさわしいものでした。
 
 そして私の期待どおり、鉄華団は栄華から一転、反逆者に転落し、オルガは死ぬべくして死んで、三日月も死にました。最高です。ガンダムの新機軸です。アトラと暁が残り、クーデリア達が世界を引き継ぎ、死んでいった者達の因業を最も良いかたちで描いたエピローグは、これ以上ない着地点だと私は感じました。
 
 だから、ストーリーとか原則性っていう点では『鉄血のオルフェンズ』は本当に素晴しかったんだけど、終盤になって、そのストーリーを見せるための手つきが雑になったのが私は気になりました。
 
 
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ #48「約束」感想 - たこわさ
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ #49「マクギリス・ファリド」感想 - たこわさ
 
 上記リンク先はちょっと辛口かもしれませんが、視聴当時、私も似たような感想を持ちました。なるほど、鉄華団は追いつめられなければならなかっただろうし、人は死ななければならなかったでしょう。オルガの死も、ほとんどの視聴者が覚悟していたはず。
 
 でも、重要人物がアッサリと死んでいって、それで、物語がちゃんと盛り上がっていたでしょうか。
 
 私は、この48話と49話を観ていた二週間、かなり苛立っていました。制作側が「どんな物語をやりたいのか」は伝わってくる。けれども「どう物語を魅せたいのか」が伝わってこない。キャラクター達の死亡フラグ管理は整然としているけれども、その死に、説得力が伴っていない。そんな説得力不在の物語のきわみに、オルガのあっさり風味な銃撃があったと私は感じました。なんだよ、オルガまでこんなにぞんざいな手つきで殺しちまうのか、と。
 
 ハッシュの死に関しても、私はorangestarさんに指摘されてはじめて「なるほど」と思いましたが、視聴当時は全くそんな事は考えられませんでした。なぜなら、次々に、アッサリと(単に無意味に、ではなくアッサリと!)死んでいくキャラクター達の死に紛れていたから、気づかなかったのです。「あ、ハッシュもあっさり逝かせたか。ひでえなあ」ぐらいしか思いませんでした*1
 
 鉄華団が追い詰められていく、歌謡曲で言うなら「サビ」に相当する場面で、肉付きの良いドラマツルギーが伴っていなかった、と感じたわけです。第一期の終盤や名瀬の兄貴が死んでいく場面では、しっかりとドラマツルギーの握り拳が利いていたし、モビルアーマー復活の際にもラミネート装甲とビーム不在のギミックが明かされるぐらい気が利いていたので、なおのこと肉付きが乏しいと感じられました。これまで、あれだけ魅せてくれたのに、いよいよ鉄華団が散って行くという肝心な時に、どうして『ガンダムAGE』のごとく淡々と物語を進めてしまうのか?! そのことが、私には大変悔しく、食い足りないように感じられました。
 
 マクギリスの顛末も、終わってしまえば「野良犬が、野良犬らしい最期を迎えた」の一言に尽きるし、この作品の原則性とも矛盾しないのですが、このマクギリスの立ち回りも、後半3話はあっさりし過ぎていました。ガンダムバエルがお飾りとして描かれたことも相まって、マクギリスはかわいそうな野良犬以上でも以下でもない落着点に辿り着きました。ちょっと古い表現で恐縮ですが、『ガンダムZZ』のマシュマー・セロとたいして変わらない討死をしたように思います。視聴時点において、マクギリスの死に対する私の感想は「もっと、重要キャラクターらしく死ね」でした。野良犬なら野良犬なりに、もっと頑張って欲しかった。
 
 一気に視聴されたorangestarさんには、こうした問題点が目につきにくかったのかもしれません。が、毎週テレビに釘付けになっていた身には、終盤のスカスカ感というか、ドラマツルギーの欠乏状態は堪えました。感覚としては、以下のリンク先の作品にあったような欠乏感に近いといいますか。
 
 [関連]:『俺の妹はこんなに可愛いわけがない』は恋愛を描ききれなかった - シロクマの屑籠
 [関連]:ある三十代ガノタによるガンダムAGEの感想、または感傷 - シロクマの屑籠
 

そう、この作品はどこもここもこうなのだ。話の構図、戦闘の転帰、どれもハッキリしすぎていて、予想もしやすい。いや、予想のしやすさ自体は、必ずしも罪ではない。しかし、死亡フラグが立った人間の予測された死までのプロセスを「消化試合」と取られてしまうのか、それとも「ベタだけど凄かった」と評価されるのかは常に問われるところなわけで、残念ながら、ガンダムAGEのソレは「消化試合」と取られやすい、粗さが目立っていたと思う。「先読みのしやすさ」を説得力に化学変化させていくためのディテールを欠いていた、というか…。

http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20121005/p1

 
 
 一気に視聴するのと毎週一話ずつ視聴するのでは、見え方が違うので、これはどちらが正しいとかそういう話ではありません。むしろ、新たに『鉄血のオルフェンズ』を見る人は、orangestarさんに近い感想を持つのかもしれません。ただ、中盤ならともかく、終盤になって、急にドラマツルギーの肉付きがガクッと削げ落ちるのは、「傑作」と言われる作品にはあってはならないことだと思います。あるいは、ドラマツルギーの肉付きの欠如を補うような、ストーリーをねじ伏せる怪物じみた力が欲しかった。 
 
 

「ガンダム」である必要はあったのか

 
 で、ストーリーをねじ伏せる怪物じみた力が、終盤のガンダムバルバトスやガンダムバエルには無かったんですよね。
 
 orangestarさんは、「これまでのガンダムと違うものを作った」ことを評価されていますが、私は、この作品のガンダム達のふがいなさには落胆しました。いや、スペースヤクザな点とか、実弾-装甲主義とか、いろいろと冒険をされている点には感服するほかないのですが。
 
 でも、「ガンダムにはガンダムであって欲しい」と、私は思ったんですよ。
 
 歴代のガンダムには、ストーリーをねじ伏せるジョーカーのような力がありました。最近だと『ガンダムUC』のユニコーンガンダム&バンシーなどが典型的ですが、おいおい、そこまでやるのかよ、という強引さがあってナンボのガンダムだと、少なからぬ視聴者は期待したのではないかと思います。
 
 でもって、「鉄血のオルフェンズ」にも、そういう場面はあるんですよね。第一期の最終話、三日月が無茶をやることで、ガンダムバルバトスは素晴らしい活躍をみせました。文字どおり、ガンダムが血路を開いた格好です。これは、今までのガンダム作品におけるガンダムの描き方と遠くありません。
 
 火星のモビルアーマー退治の時もそうです。ああ、まさにガンダムだ、ガンダムが局面をつくっていく、と胸を弾ませて見ていました。それに感化されたジュリエッタが人間性を見失いかけていくのも、いかにもガンダムらしくて似つかわしい。
 
 もし、これらの場面が無かったら、私も、終盤のガンダムの鳴かず飛ばずに納得していたかもしれません。
 
 ところが終盤において、ガンダムバルバトスも、ガンダムバエルも、「これが、ガンダムの力だ!」というものを魅せてくれませんでした。やだー、こないだまで頑張ってたじゃないですかー!
 
 終盤のガンダムバルバトスは善戦していたけれども、ただ善戦していたに過ぎず、局面をつくるには至りませんでした。で、体よく討たれて「悪魔のガンダム」ですよ。
 
 ガンダムバルバトスが「悪魔のガンダム」として討たれる場面は、本当はもっと劇的でなければならないのに、と私は思いました。なにせ、主人公の乗るガンダムが、悪魔として討ち取られるほどの場面なのですよ?ジュリエッタがバルバトスの首級をあげるシーンは、それ自体はよくできていたけれども、三日月とガンダムバルバトスが終盤に何も活きなかったので、もったいないと感じました。
 
 三日月とバルバトスが運命に流されて処分されていったこと自体は、ストーリーの整合性や原則性には合致しています。けれども、ガンダムという作品におけるガンダム主人公としての役割としては、納得のいくものではない――私は、そう感じました。
 
 ガンダムバエルにしてもそうです。
 
 ギャラルホルンの権威の象徴だというのはわかる。わかるんだけど、あんただってガンダムだろ、それも、一番のガンダムでしょう、だったら何かやってくれよ、と思った視聴者は、私だけではなかったように見受けられました。
 
 歴代のガンダムなら、終盤ともなれば、インチキで理不尽な力のひとつやふたつ見せつけて、ストーリーをかき回すものです。『ガンダムUC』はちょっとやり過ぎでしたが、でも、『ガンダムUC』を作った人達は、ガンダムのなんたるかを理解して終盤を描いたのだと思います。
 
 こういった諸々は、「ガンダム」の名を冠していない作品だったら気にすべきではないのですが、この作品は「ガンダム」と銘打たれていたわけで、私は、ガンダムという存在に終盤をかき回して貰いたかった。それと、これは邪念かもしれませんが、こんなんじゃガンプラが売れないじゃないですか。ガンプラを売るためには、ガンダムが活躍して、視聴者を魅了しなければなりません。にも関わらず、ガンダムバルバトスは獣のように狩られて、ガンダムバエルは良いところがありませんでした。ガンプラを商う気の無いガンダムとは、本当にガンダムなんでしょうか?
 
 ガンダムバルバトスは、歴代のガンダムに比べるとサイコガンダム寄りというか、三日月の身体機能を蝕んでいくのも本作品の原則性に一致していて、とても楽しいモビルスーツでした。それが、同じくサイコなアインを仕留めた25話は、私にはとても楽しかった。だったら、それと同等以上の何かを終盤にみせてくれなければ、竜頭蛇尾になっちゃうじゃないですか。
 
 そう、ガンダムの活躍にしても、鉄華団が散って行くプロセスにしても、二期は全体的に「竜頭蛇尾」だったように思います。かろうじて、戦後の描写で失点を取り戻した感はあったけれども、こと、ガンダムの活躍と男達が散って行く過程のドラマツルギーに関しては、疑問を禁じ得ないものでした。もったいない!
 
 

でも、楽しみましたよオルフェンズ

 
 そうは言っても、私は『鉄血のオルフェンズ』を楽しみました。だからこんなに感想を書きたくなるんでしょう。以下、細々としたことを。
 
 ・スペースヤクザなガンダムという構図は素直に楽しめた。そうか、路上でパイロットが銃撃されて死ぬのかと、感心した。この点と、オルガ&三日月の死が約束されているストーリーが、『鉄血のオルフェンズ』の新機軸だと思っていた。
 
 ・私は人型ロボット兵器が実弾武器主体で戦うのはさほど好みではない。けれども、この作品において、実弾をメインに据えるための説得力は感じられた。宇宙艦のデザインとかも含めて。モビルアーマーのビームをモビルスーツの装甲が弾いた描写は、白眉。
 
 ・でも、あのビーム兵器を見た時に「ああ、俺ってビーム兵器やレーザー兵器が好きなんだなぁ」と思い知った。ちなみに私は大学生ぐらいまではビーム兵器が好きで、その後しばらくだけ実弾兵器万歳になって、歳を取るにつれて、再びビーム兵器万歳に戻った。個人の感想です。すみません。
 
 ・orangestarさんが書いたように、クーデリアが一番たくさん人を殺したのだと思う。たぶん、これからもそう。そのかわり、クーデリアが一番たくさんの人を救う。そうやってクーデリアは「老人」になっていくのでしょう。にも関わらず、クーデリアは因業を手懐けながら、人を使う立場として屹立していて、人間をやめてもいない。マクギリスには無いものをことごとく持った人だと思う。英雄だ。
 
 ・同じ野良犬でも、誰も信じず誰も寄せ付けず一人で暴走して自滅したマクギリスと、皆で寄り集まって暴走して行き詰まった鉄華団、この両者のコントラストも割と面白かった。正直、マクギリスがここまで不器用に振る舞うとは想像していなかった。いや、不器用だからこそ、ああするしかなかったわけか。
 
 ・イオク様が生存するのか死ぬのか、最期までドキドキした。私は「イオク様は生き残って名君になる」にチップを賭けていたが、因業が巡ってきてサンドイッチになった時には、なぜか笑いがこみあげてきた。なんだろう、とにかくイオク様は良いキャラクターだったと思う。最期まで憎めない馬鹿者だった。
 
 ・ジュリエッタはいいキャラクターだった。彼女がいなかったら、イオク様周辺は寂しかっただろう。三日月とガンダムに引き込まれて、人間やめそうになるのも良かった。ちなみに昔の冨野ガンダムだったら、彼女は確実に死んでいたように思う。
 
 ・というか、ジュリエッタに限らず、この作品の女性キャラクターはみんな魅力的だった。男性キャラクターもだいたい魅力的だった。
 
 ・なかでも、名瀬の兄貴はまさに兄貴だった。この人も、死ぬしか無さそうな雰囲気を漂わせていたが、折り目正しく死んだ。兄貴~!!
 
 ・ガエリオは、良い奴だった。彼の成長物語としてのオルフェンズ。なるほど、『鉄血のオルフェンズ』は群像劇というのはそうだと思う。イオク様の愚直さもそうだが、ガエリオの甘さが欠点として描かれるだけでなく、彼の持ち味としても描かれる(そして、野良犬連中にはそれが無い!)のは、とても良かった。こういうところは、びっくりするほど凝っていたと思う。
 
 ・戦後描写にアルミリアが登場しないのはちょっと気になった。大丈夫なんだろうか。ガエリオは気にしている様子は無かったが……。
 
 ・orangestarさんが詳述しているが、葬儀や教育も含め、鉄華団に文化がもたらされていくプロセスは味わい深いものだった。なるほど、ヒューマンデブリがデブリであるゆえんは、彼らが文化を持たず、歴史を紡がない(紡げない)ことによるのか。鉄華団は消失しても、アトラと暁は残り、歴史は紡がれていく。終わり際、鉄華団のお墓が出てきたカットには感激した。
 
 
 
 そろそろ時間切れなのでやめますが、私は、『鉄血のオルフェンズ』は傑作になり損なった意欲作だと思いました。orangestarさんのような、感受性の強い人が一気に視聴すればバッチリだろうけど、これじゃあガンプラもブルーレイも売れないだろうなぁ、と。でも、ガンダムシリーズってそういう作品が多いし、円満な傑作である必要は無いので、これはこれで良かったのかな、と思います。なにより、こんなセールスの悪そうなガンダムを、日曜の5時に長々と放送してくれたこと自体、眼福と言わざるを得ません。
 
 なんか、まだ書き足りないのでもう一度視聴したいところですが、現在多忙につき、諦めようと思います。orangestarさん、楽しい感想ありがとうございました。おかげで、2時間ほどキーボード叩いてしまいましたよ。ぼくのだいすきなジュリエッタちゃんが幸せになりますように。
 

*1:しかし、よく考えると、ハッシュの野心って、戦後世界には要らないですよね。そういう意味では「処分」されてもおかしくはなかったわけですかね