シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「みんなの知恵を集めたら」「ネットの知恵が薄まった」

 
 
  
蜂蜜入り離乳食で乳児死亡、クックパッド「レシピ再確認する」…豚ユッケにも批判噴出 - 弁護士ドットコム
 
 
 「離乳食としては危険な、ハチミツを使った離乳食のレシピが掲載されている」「生肉を使った不適切なレシピも掲載されている」等でクックパッドが批判されているらしい。
 
 【知名度のあるネットサービスに間違った情報が存在する=悪い】とみる以前に、そもそも、ユーザーが投稿しあうタイプのネットサービスにはついてまわる問題なのだろう。
 
 2ちゃんねるに書き込まれた情報も、google検索で拾える情報も、クックパッドや食べログやYahoo!知恵袋に書かれた情報も、玉石混交という点では変わらない。
 
 00年代には、インターネットにみんなの知恵を集めたら、素晴らしいものができあがるんじゃないかという期待が生まれた。いわゆる「web2.0」である。
 

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

 
 匿名の筆者が集まり、無報酬で優れた情報を提供していた昔の情報サイト*1を思い出すと、「web2.0」的な、みんなが知恵を出し合って集合知を耕していくインターネットを夢想したくなるのもわかる。そんな時代だったからこそ、『ウェブ進化論』は売れたのだろう。
 
 でも、今にして思うと、それはネットがアーリーアダプターのものだった頃の風景であり、スーツを着た人々が「ネットビジネス」に本格的に乗り出す前の風景でしかなかったのだと思う。
 
 ネットがレイトマジョリティにまで浸透し尽くし、スーツを着た人々が「ネットビジネス」にしのぎを削るようになってから、現実の「web2.0」がクッキリしてきた。
 
 
 [関連]:嫌われるウェブ2.0 | 辺境社会研究室
 
 上記リンク先の論旨とは少しずれるが、この件に関連したフレーズを引用してみる。
 

 ブロガーも、まとめ主も、クックパッドの投稿者も、自分以外の「他人」で、そうした他人の、少なくとも一部が質の低いコンテンツを作り、検索結果を占拠し、中にはお金まで貰っておいて、まわりに迷惑をかけている……それが平均的なネットユーザにとってのCGM(注:Consumer Generated Media)の現在なのではないか。

 インターネットを利用している大半にとって、現在の「投稿者」とは「他人」であり、しかもその一部はお金を稼ぎながら低品質の情報をまき散らしている……という認識は、そのとおりだと思う。さらに、
 

 ウェブ2.0が生まれ、CGMが持ち上げられていたときは、もっと明るい未来が約束されていたはずだった。これまでマスメディアだけが保有していた情報発信の力が一般人に開放され、ネットユーザに声が与えられることで多様な知識がオンラインに集まり、そこから集合知が生まれる……そう喧伝されていたものだ。
 それなのに、結局のところ平均的なネットユーザは、Twitterで呟く以上の情報を発信しないままである。いまや集合知など誰も信じない。情報発信をしているのはごく一部で、それも金儲けのためが大半で、そのためにはヘイトでも炎上でもなんでもやる……そういう例が目立ってしまう状態が、CGMの顛末なのかもしれない。

 とも論じている。
 
 たくさんのネットユーザーに情報発信の機会が与えられても、集合知の向上は起こらなかった。かわりに起こったのは、低品質な情報の氾濫、金銭収入のために量産される投稿の氾濫だった。「人が集まれば集まるほど知恵が集積する」というのは間違いだった。現実は「人が集まれば集まるほど書き込みが溜まるだけ」でしかなかった。そして、インターネットが研究者のものからギークやナードのものへ、アーリーアダプターのものへ、さらに「みんなのもの」へと変化するにつれて、溜まっていく書き込みの質に変化が訪れるのも必定だった。
 
 今も昔も、インターネットには玉石混交の情報が混じっているから、個々人の情報リテラシーが問われているという点は変わりない。だが、低品質な情報があまりにも大量生産された結果として、
 
 1.信頼できる情報を検索エンジンで拾う際に、今まで以上の工夫が必要になった
 
 2.信頼できない情報にも、一定の需給関係が生まれるようになった
 
 点が、00年代とは違ってきていると思う。1.については別の機会にゆずるとして、ここでは、2.についてもう少し述べる。
 
 

どうしようもない人が、どうしようもない情報を喜んで摂取している

 
 インターネットには、間違った情報や「誰でも知っていそうな、どうしようもない情報」がたくさん存在する。それらは、発信者のどうしようもなさを反映していることも多い。だが、それだけでなく、情報を受け取る側にも、そういった間違った情報やどうしようもない情報を受け取るニーズがあるから淘汰されずに生き残っている、という部分もあるだろう。
 
 以前、どこかのブログでそんな文章を見かけたような気がして、頑張って探してみたら見つかった。これだ。
  
 つまらないブログやブコメと光と闇 - さよならドルバッキー
 
 リンク先の主旨は、「つまらないブログ記事をソーシャルブックマークで称賛している人」についてだが、文中に、以下のようなくだりがある。
 

 以前「掃除をしたらきれいになりました」というような記事に「そうですね、掃除いいですね」とか「掃除をすると言う発想が素晴らしい!」とかそんなブコメがたくさんついているのを見て眩暈がしたことがあります。それを「お前らバカか?」とか「アクセス稼ぎのおべっかか?」とかそういう風に考えるのは簡単です。でも思ったのが、「この人たちは本当に掃除をしたらきれいになることを称賛している」ということです。
 つまり、当たり前だけど見ている次元が違うんじゃないかということです。インターネットにはいろんな人がいます。掃除という行為について今更何を言うんだと言う当たり前な人もいれば、「掃除ってこうやってするんだ!」と目を輝かせて聞く人もいます。で、後者の意見が目立てば「掃除サイコー!」になるわけで。でもそうじゃない感覚の人からすると「掃除したくらいで何いい気になってるの?」となる。

 
 一般に、「掃除をしたらきれいになりました」という情報には値打ちは無い。大半の人は、そんな「お役立ち記事」を見かけたら「ネットのノイズ」とみなすだろう。
 
 しかし、「掃除をしたらきれいになる」という事すら知らない人、掃除のハウツーが根本的に欠落している人からみれば、その記事は実際に「お役立ち記事」とうつるし、そこに需要が生まれる。大半の人にはどうしようもないブログ記事でも、「お役立ち記事」としてのニーズが生じることになる。
 
 「つまらないブログ記事をソーシャルブックマークで称賛している人」に関しては、“はてなブックマーク互助会問題”と呼ばれて論議されていた。これもこれで「web2.0」が辿り着いた現状を象徴しているので、興味のある人は以下のリンク先に寄り道してみて欲しい。
 
 [参考]:はてなブックマーク互助会と炎上耐性 - あざなえるなわのごとし
 [参考]:はてなブログ互助会についてデータ解析してみたかった - ゆとりずむ
 
 
 だが、私が気にしているのは、一昔前まではネットで需要が生まれにくかったはずの情報にまでニーズが生じていることのほうだ。さしずめ、残念な情報のロングテール消費とも言えるかもしれず、これもこれで「web2.0」的ではある。
 
 残念な情報のロングテール消費は、どうしようもない情報を流通させるだけにとどまらない。冒頭で触れたハチミツ入り離乳食のような、有害な情報についても、ニーズがあれば供給が支えることになる。こういう時に、まず「有害な情報を垂れ流した奴が悪い」と考えるのは尤もなことだが、たとえば「ハチミツ 離乳食 作り方」と検索するようなニーズがまず存在し、そのようなニーズがあってはじめて有害な情報がトラフィックとして成立していくという視点も、忘れてはならないと思う。
 
 ニーズの無いところにはトラフィックは流れない。
 
 だから、情報発信する側だけに責があると考えるのは、筋違いだ。
 
  

「残念な」インターネットは「民主的」でもある

 
 『ウェブ進化論』で「web2.0」を語った梅田望夫さんは、その3年後の2009年、インタビューに答えて「日本のウェブは「残念」」と仰っている。あるいは梅田さんは、「Web2.0」がこうなっていく未来に気づき、諦めたのかもしれない。
 
 だが、2017年を迎えてみると、「残念」になっているのは日本のインターネットだけではなかった。ポスト・ファクトなどという単語が流行り、大国の大統領選でデマサイトが問題になる程度には、海外のインターネットも順当に「残念」になっているようにみえる。
 
 こうした現在のインターネットの風景を00年代の梅田望夫さんに見せたら、さぞ落胆するだろうし、00年代の私に見せたとしても落胆するだろう。
 
 ただ、現状の「残念」なインターネットとは、ある意味において「民主的」でもある。現在のインターネットは、ハイブロウな人達の独占物でも、ナードやギークの独占物でもない。検索エンジン最適化問題のような問題もあるにせよ、人間社会や世相を反映しているメディアという意味では、現代のインターネットほど実相に迫っているものはあるまい。
 
 本当の意味でインターネットがみんなに普及し、あらゆるニーズに対応した需給関係が成立するところまで到達したからこそ、インターネットは、ガンジス川の畔のような混沌の相を呈するに至った。だとしたら、それを「残念」の一言で切って捨てて構わないのか? もちろん、インターネットはハイブロウであるべきと考える人なら一刀両断だろうが、私は、自分自身がハイブロウな人間ではないことを知っているから、そこまで割り切れない。
 
 

*1:たとえば当時の2ちゃんねるまとめwikiや、一部のゲーム攻略wikiなど

なるほどオタクは死んだわけだ。なぜなら、1人ではいられなくなったから。

 
 「オタクが死んだ」という言葉は、今までにも散々語られてきたことだし、今更、オタクなどという言葉に拘ってもあまり意味は無い。
 
 ただ、ここ2~3年、「オタクがカジュアル化した」というお決まりの言葉ではカヴァーできない次元でオタク的ライフスタイルが難しくなったと感じる場面が増えたので、そのあたりについて今の考えを述べてみる。
 
 

【オタク=1人で過ごす時間の長い愛好家】だった

 
 1970~90年代からオタク的な愛好家生活をしていた人には当たり前で、2010年代からオタク的な愛好家生活をしていると思っている人には当たり前とは言えない、大切なことがある。
 
 それは、オタクの趣味生活とは、長い時間を、1人で楽しむものだった、ということだ。
 
 漫画オタクであれ、ゲームオタクであれ、アニメオタクであれ、オタクというのは自分1人でも楽しめる趣味を1人で楽しみ、好きに追いかけていくようなライフスタイルだった。
 
 それがために、オタクがオタクであるために必要だったのは、個人的な欲求を一人で煮詰められる空間、つまり子ども部屋だった。ビデオテープ、プラモデル、漫画、ゲーム。そういったものを詰め込み、自分だけで楽しめる空間としての子ども部屋は、オタクがオタクであるための必要条件だったし、ゆえに、旧来的な地域社会の家庭でなく、都市部やニュータウンの家庭において勃興したライフスタイルだった。
 
 [関連]:生まれて初めて出会った「おたく」――80年代地域社会の記憶 - シロクマの屑籠
 
 
 今でこそ、アニメもゲームも漫画もネット配信され、スマホさえあれば、ひととおりのコンテンツを楽しめる。だが、20~30年前はそうもいかなくて、1人でコンテンツに耽溺するためにはいろいろな前提条件をクリアしなければならなかった。
 
 

スマホ時代の愛好家は、どこまで1人になれるのか

 
 一方、スマホはいつでもどこでもコンテンツを提供してくれる。そのかわり、「1人でコンテンツを楽しむ」という前提がやや怪しい。
 
 スマホは私達を引きこもらせない。
 
 かつてPCは、引きこもるためのツール、引きこもるオタクの部屋の心臓部をなすものだったが、常時接続とSNSによって、外部と接続する……というより接続せずにはいられないツールと化した。そして一般的な若者においては、PCは普及率の低いアイテムであり、かりにPCを用いていたとしても、スマホを併用するのが当然になった。
 
 スマホがコミュニケーションのプラットフォームとしてだけでなく、コンテンツの閲覧、情報収集、オンラインショッピング、ゲームプレイのプラットフォームとして重視されていくにつれて、若者は、いや、私達は、いつでも誰かと繋がっているようになった。
 
 実際そうなのだ。自室に引きこもっている時、スマホで何かを楽しんでいる時、私達はたえず誰かと繋がっている。知り合いからの「いいね」や「シェア」、気にしている人の発言、そういったものと背中合わせで過ごすことが常態化している。
 
 空間的に引きこもっていても、情報的には引きこもっていない。繋がっているのだ。SNSという名の空間、インターネット空間という名の広場に、私達は「出かけっぱなしでいる」。もし、そこで何らかのフィーバーが起こっていれば、その熱気に攻囲されてしまうだろう。
 
 もし、情報的にも引きこもりたければ、その愛してやまないスマホの電源を、タブレットやPCの電源を、切らなければならない。だが、SNSやインターネットへの常時接続に慣れ親しんだ人間がオフライン状態で長く過ごすためには、それなりの意志やきっかけが必要になるだろう。
 
 さて、オタクの話に戻ろう。
 
 現代のオタクは、自分1人の楽しみを詰め込める空間を持っているだろうか。スマホを個人所有し、子ども部屋やワンルームマンションを与えられている限りにおいては、そうだとも言える。だが、そうではないともまた言える。なぜなら、オタクを自称する若者といえど、いや、オタクを自称するような若者ほど、最近はSNSによって情報的に繋がっているから。好きなアニメを観ている時も、待ちに待ったゲームを遊んでいる時も、1人きりで作品と向き合った状態は長続きしにくく、他のSNSユーザーや知人と繋がりあった状態でコンテンツに触れてしまいやすい。たぶん、それが2010年代という時代の特徴だから。
 
 こうした話を誇張と捉えたがる人も、少なくとも右の事実は認めなければなるまい――目当てのコンテンツを楽しんだ後、長時間にわたって、そのコンテンツについての自分の感慨や考察を1人で温めて発酵させることは難しくなった、と。
 
 昔のオタクは、空間的にも情報的にも切り離されていることが多く、それがために、同好の士が集まる同人誌即売会のような機会は貴重だったし、情報共有の手段としての雑誌やゲーセンノートのたぐいも重要だった。
 
 だが、今はその反対ではないだろうか。あまりにも、オタク達は、いや、私達は、空間的にも情報的にも繋がり過ぎていて、1人で引きこもってコンテンツと静かに向き合うことが困難になっているのではないだろうか
 
 現在でも、強い意志でもってスマホの電源を切り、目当てのコンテンツとひたすらに向き合えれば、一応、引きこもったオタクライフは再現できなくもないかもしれない。だが、アニメ視聴やゲームプレイをスマホに頼っている場合はそうもいかないし、そもそも、強い意志とやらがいつまで続くのかは怪しいものである。
 
 「オタクは死んだ」とは何年も前から繰り返し語られていた言葉だが、こうやって考えてみると、「1人でコンテンツと向き合う愛好家としてのオタク」は本当に瀕死なのである。今、そういう意味でオタクと言い得るライフスタイルをやりやすいのは、SNSやインターネットと繋がりにくく、オフラインを前提とした趣味領域ではないだろうか。
 
 だが、残念ながら、長年にわたってオタクの象徴とされていたのは、アニメやゲームやライトノベルといった、『げんしけん』風に言うなら現代視覚文化の領域だったわけだから、こと、それらに限っていうなら、1人で静かにコンテンツに向き合う愛好家としてのオタクは絶滅の危機に瀕していると言って過言ではないだろう。
 

はてな匿名ダイアリーで「アニメ評価を攪乱せよ」と書いた20代/40代のあなたへ

 
anond.hatelabo.jp
 
 はてな匿名ダイアリーに、『けものフレンズ』批判、というより「『けものフレンズ』がネット上で御神輿のように持ち上げられ、バズっていく消費状況」を批判する文章がアップロードされていました。
 
 

真実などどこにもない。ウソを倒すのはまた別のウソ。
ポスト真実の時代の戦い方が、まさにここにはある。

 

アニオタたちがもし上記の行動を「自覚的」にやっているのだとしたら、それはいかにもオタクらしく捻くれていて、しかし少々のユーモアも感じさせる、気の利いたいたずらのようにも思える。
しかしもし無自覚的・無意識的にそれをやっているのだとしたら、それは鬱々とした大衆の暗い感情が病理的に発露してしまったかのような、なんだかこれから先が心配になってしまう「症状」だともいえる。

 
 いやあ、エネルギーが感じられて楽しい文章ですね。はてな匿名ダイアリーという、人間の怨念や欲求が無名の地縛霊となって這い出すメディアだからこそ、このような奔流がみられるのかもしれません。
 
 それでも、こういった文章をアカウントを明かさずに匿名で書いてしまうのは勿体ないと思いました。今、これだけ長ったらしいアニメの消費状況批判を書き綴る人は、そんなにいないと思います。せいぜい、持論をtwitterに垂れ流して、自分でtogetterにまとめる人ぐらいではないでしょうか。
 
 冒頭であなたは
 

 自分のブログに書くとなんだか炎上しそうなのでここに書くことにする。

 
 と書いていますし、『けものフレンズ』とインターネットを巡る現状を踏まえると、実際、“必要以上に”燃えたんじゃないかと思います。だから、匿名ダイアリーに書くという動機自体は理解できます。ただ、匿名ダイアリーに書くということは、怨念や欲求が人のかたちを取らず、地縛霊のような言葉が一人歩きするに過ぎないので、寂しいところもあります。
 
 今夜は、ブログに無意義な文章を書きたくてしようがないので、あなたが20代の若者であると想定した感想と、あなたが40代の中年であると想定した感想を書き並べてみます。
 
 

20代で「アニメ評価を攪乱せよ」と書いたあなたへ

 
 とても楽しい文章でした。
 
 お若いのに沢山のボキャブラリーをご存じで、それらを使いこなそうと努めているように見受けられました。
 
 のみならず、現代のアニメ作品の消費状況、特にSNS等のネットメディアがアニメ視聴者の消費動向を変化させているさまは、そのとおりだと思います。今日のインターネットは神輿となるコンテンツを常に必要としていて、2017年冬アニメでは、『けものフレンズ』がその顕著な例だった、というお考えは間違っていないと思います。
 
 あなたの文章には過剰な表現が多く、どこか喧嘩腰で、高踏的だと私は感じました。
 
 たとえば、「アニオタ・コミュニティ」という語彙。「アニオタコミュニティ」ではなく「アニオタ・コミュニティ」とわざわざ書くのが独特ですね。これが勘違いだったとしても、「空虚な作品」「ポスト真実」「意味不明な舞踏」「大衆の暗い感情が病理的に発露」「「症状」」といった語彙がちりばめられているのにはクラクラしました。
 
 すばらしいですね!
 
 自分の思いの丈を、こういった勢いのある文章で書いてサマになるのは、十代~二十代ぐらいまでなんですよ。あなたが2017年のアニメ消費状況を心配している愛好家だとしたら、こういう文章をブログに書けるのは今のうちです。こういう勢い過剰な文章をブログに書くと、十年後には素晴らしい思い出となるでしょう。また、こういう文章を書いて多少なりとも肯定的に評価される可能性があるのは若いうちだけなので、せっかくなら匿名ダイアリーではなく、アカウントのはっきりしたブログでやってみて欲しかったです。
 
 また、『けものフレンズ』の消費状況をクッキリ批判することを優先させたためでしょうか、あなたは『けものフレンズ』そのものの値打ちを過小評価しているようにもみえました。が、ひょっとして、あなたが『けものフレンズ』という作品自体を気に入らないだけなら、それもそれで許容されることかもしれません。もちろん、そこはツッコミどころですし、炎上のトリガーとなるでしょう。しかし、若いアニメ愛好家が偏った批判をやって燃えたからといって、失うものは少ないでしょうし、「多少のバランスの悪さは仕方がない。だって若いんだから」とみなす人も多いのではないかと思います。
 
 もし、2017年の私が同じような趣旨のブログ記事を書くとするなら、『けものフレンズ』を批判し過ぎず、真摯に愛好している人達を敵に回さず、「みんなとバズれるなら何でも構わないようなネットイナゴ連中」だけを焼灼するような表現を心がけるでしょう。
 
 賢明なあなたのことですから、きっと「自分の意見をバズらせるためには一定の火力があったほうが良い」ことには気付いているのでしょう。何かを焼くのはブログ記事を書く際に重要なエッセンスです。が、今回はちょっと“薪のくべかた”がぞんざいというか、危なっかしいようにみえました。そういう意味では匿名ダイアリーを選んだのは正解です。でも、これから経験を積み重ねれば、もっと上手に、いやらしく、薪をくべられるようになると思います。
 
 それから、あなたが好ましいと思っている言い回しや考え方は、私の目には古臭い亡霊のように感じられました。が、すばらしいですね!
 
 2017年の二十代や三十代のほとんどは、あなたが理想視している批判や批評のたぐいに、まったく価値を見出していないと思います。まあ、1980~2000年の二十代や三十代の大半も、まったく価値を見出していなかったでしょうけれども。ともかく、あなたの文章がお手本にしている諸々の表現からは、旧くて懐かしいものを感じました。
 
 でも、あなたが十分に若いなら、周囲の同世代とは違った考え方をこねくり回して面白い文章の書き手になれるやもしれません。あなたのご年齢、あなたの生きた21世紀と、私が古臭いと感じる諸々の表現が掛け合わさった時、どのようなキメラが生まれるのか、観てみたい気がします。あなたはまだ粗削りで、レトリックに振り回され気味ですが、この路線でしっかり人生経験を重ね、昭和生まれの人間とは似て非なる表現と考察を磨きあげた時に、どんなものが生まれるでしょうか。
 
 断っておきますが、「面白い書き手」とは、「売れっ子」「有名な」「役に立つ」といった意味と必ずしもイコールではありません。あくまで「面白い書き手」以上でも以下でもありません。
 
 でも、そういう書き手が今も生まれ出てくるってこと自体は、インターネットの豊饒さの一部だと思うので、これからのご活躍を祈念申し上げたい次第です。どうか、良い思春期を。
 
 

40代で「アニメ評価を攪乱せよ」と書いたあなたへ

 
 こんなにバランスの悪い批判を匿名ダイアリーに投稿するというのは、一体どういう境遇、どういう了見なのでしょうか。
 
 アニメに限らず、あらゆる文物がSNS上で繋がりあって御神輿として消費されている、というのはわかる話です。しかし、そのことを言い表すために『けものフレンズ』を必要以上に腐してみせなければならないのは、書き手として力量不足と言わざるを得ません。
 
 あるいは、『けものフレンズ』が個人的に気に入らないだとか、『けものフレンズ』の長所が把握できないだとか、そういった事情があるのやもしれません。
 
 しかし、個人的に気に入らないからといって「30~50点の作品」「空虚な作品」と言ってしまうのは、自分の好きな作品と優れた作品の区別がつかない人のやることで、ベテラン愛好家として、なにより、批判や批評をする際の愛好家としては良くないところだと思います。
 
 まして、あなたが全く『けものフレンズ』の長所や美点を(作風を踏まえて)評価できないのだとしたら、愛好家としての感覚を疑わざるを得ません。数十年にわたってアニメを楽しみ続けてきたのに、特定の作風の作品しか評価できないのだとしたら、とんだガッカリさんですよ。
 
 喩えるなら、高級フランス料理や和風懐石の素晴らしさに惚れこむあまり、最も優れたピッツェリアのピザや蕎麦屋の蕎麦をこき下ろすような愚行に陥っていないでしょうか。
  
 それと、おおげさなレトリックが、せっかくの内容を空虚な響きにしてしまって残念感が漂っていました。
 
 あなたは、
 

ネット上の言語ゲームというのは、往々にしてこのような「過剰」に至るのだ。

 
 と書いていますが、あの匿名ダイアリーの文章自体、「過剰」をきわめた文章で、(あなたのおっしゃるところの)言語ゲームにズブズブになっているように見受けられました。あなただって、『けものフレンズ』の周りでオクラホマミキサーを踊る有象無象の一員になっているんですよ! なにせ、こんなに脂の乗った文章で、はてなブックマークを仰山集めてしまいましたからね。堆積したはてなブックマークをどんな気持ちで眺めているのかはわかりませんが、これであなたも共犯者です。
 
 もし、この構図を無自覚的・無意識的にやってしまっているのだとしたら、あなたの鬱屈した感情が制御されないかたちで発露してしまったような、(あなたのおっしゃるところの)「症状」だと言わざるを得ません。
 
 かりに、自覚的に「釣り」としてやっているんだとしても、なんだか大人気ないですね。こんなにレトリックをブイブイ言わせちゃって、若者が若気の至りでやっているなら背伸びしたユーモアだとしても、40代にもなって、こんな釣りを、はてな匿名ダイアリーなどという幽霊屋敷に公開せざるを得ないというのは、いかがなものでしょうか。
 
 あなたがどのようなアニメを視聴し、どのようなアニメ愛好家になったのかは存じ上げませんが、相当に偏った視聴姿勢を長く続けておられたようにもみえました。世の中のアニメ評価を攪乱するより、まず、あなた自身のアニメ視聴の態度や、アニメ評価尺度を攪乱したほうがいいのではないかと思いました。
 
 そろそろ時間切れなので、今日はこのへんで。
 

「わかる」について――午前3時の自動筆記

  
 (DSMやICDといった)現代の精神医学の診断体系は、良い意味でも悪い意味でも「わかる」性が治療場面に与える影響を最小にする効果を持っている。
 
 すなわち、精神科医自身の病理性がクライアントのそれと共鳴しあう現象を最小限に留めるわけで、それは、人それぞれ固有のまなざしの尺度や精神性をクライアントの観察・操作になるべく反映させず、共通評価尺度やスケールに則った対象クライアントの観察・操作を心がける科学的な方法にほかならない。
 
 反対に、力動精神医学は、まさにこの「わかる」性をできるだけ有用に・できるだけ無害に役立てようとする方向性にあるのだと思う。スーパービジョンを介したトレーニングは、まさにその自らのなかの「わかる」を精査し、できるだけ有用で、できるだけ無害なかたちで人固有のまなざしの尺度・精神性を生かすための修練の方法なのだろう。
 
 尤も、ほうぼうの精神科医や自分自身を振り返るに、この「わかる」性のコントロールはたいへん難しく、自分自身の手癖と「灯台もと暗し」に振り回される部分はゼロにはならないのだろう、と思う。
 
 精神分析の大家も、それぞれの時代の「わかる」性を切り拓いたわけだけれど、彼らも全知全能だったわけではなく、自分自身の「わかる」性に縛られて、まさに自分自身の「わかる」性と時代性が共鳴したなかで活躍していったように見受けられる。
 
 だから、「わかる」のかたち、「わかる」が現れ出て記述されるという“出来事”は、それそのものが(1.クライアント、と、2.記述者たる精神科医やセラピストの双方の)精神病理を反映しているわけで、精神科医それぞれは「それが先生の病理ですね」と誰かに言ってもらったり、自分自身を振り返ったりできる場所と時間を必要としていると思う。私の場合、それが精神科医の集う場所であったり、あるいは、はてなダイアリー、はてなブックマーク、はてなグループといったものだったのだと思う。
 
 今、私はこうやって「わかる」を吐き出しているけれども、これもまた私の病理を反映したものであり、私自身なのだろう。何かに着眼し、何かを表現するということは、「わかる」の形を吐き出して言語化していることに他ならない。独りで投影法的心理テストをやっているようなものだから。
 
 これは、他の人達の「わかる」にしても同じだ。インターネット上では、そういう複数名の「わかる」が繋がり合って、いわゆる「バズる」や「炎上」が起こったりする。「大ヒット」もそうかもしれない。ひとつの「わかる」の周辺に、たくさんの人々の「わかる」が、すなわち個人精神病理を反映した個人性が重なり合っていって、何万何十万ものPVとなってインターネットの刹那を占拠していく。【人の気持ちが動く/人の気持ちを動かす】ということは、理屈以上に、こうした「わかる」性の連鎖や相互効果によるものだと、私は(大枠としては)理解している。
 
 この、まとまりのない「わかる」性についてのメモは午前3時に悪夢から醒めてそのまま書き綴ったものなので、ある程度、自動筆記に近いものだと思う。ということは、この文章の「わかる」性は私の無意識や個人精神病理を反映した、「p_shirokuma」に近いものだと思うので、誤字や重複を訂正したうえでアップロードしてみた。
 

ほとんどの視聴者を包み込んだ『けものフレンズ』すごーい

(※この文章には『けものフレンズ』のネタバレが少し含まれます。これから観る人は、まだ読まないほうが良いと思います)
 
 
 

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

 
 
 『けものフレンズ』最終話まで観終わった。話題沸騰だったおかげか、早くも次回映像(二期?劇場版?)の予告も出ている。ありがたいありがたい。
 
 予想を大きく逸脱した最終話ではなかったと思う。SF的な世界背景をチラチラと見せつつも、『けものフレンズ』というタイトルどおりの内容に踏み留まり、そこを徹底的に磨き上げていた。ヴィジュアルノベルにありがちな大どんでん返しを仕掛けず、直球勝負で挑んできたことを考えると、続編でもフレンズがかわいそうなことになる可能性はあまりないと想定される*1
 
 たくさんの視聴者を引き付ける作品にはありがちなことだが、本作も当初、なかなか罪作りな作品のようにみえた。ケモナー、SF愛好家、ディストピア愛好家、“考察班”、癒し系まったりアニメ愛好家、等々の人達が、それぞれの視点から、それぞれの『けものフレンズ』を楽しんでいた。同じ作品を愛好しているたくさんの人々が、違った角度から、違った言葉でこの作品を称賛していた。
 
 よほどうまくいかない限り、いや、うまくいったとしても、この作品への評価は後半に進むにつれて割れるだろう――そんな風に私は思った。事実、作品が後半に進むにつれて、twitter越しに聞こえてくるつぶやきは、それぞれの視点からストーリー展開を固唾を呑んでみている雰囲気になってきた。自分が思い描くような結末に落着するかどうか、皆、気にしているようだった。

 そのさまは、『けものフレンズ』という作品に、思い入れのチップを賭けてルーレットを回しているようにも見えた。特定の展開・特定のエンディングを期待している人が、まるでルーレットの目にチップを積み上げている博徒のようにもみえた。予想が外れても楽しそうな人もいる反面、予想が外れたらがっかりしそうな人もいて、なんだか、アニメそのものの成り行きと同じぐらい、最終回終了後の視聴者の反応が気になった。
 
 

ほとんどの視聴者を包み込んだ最終回

 
 ところが、けものフレンズの最終話が放送されてみると、twitterのタイムラインは幸福な声に包まれていた。ごく一部、過剰な作品への思い入れと実物の齟齬に怒りの声をあげている人もいたものの、ほとんどが賛意や祝福の声で、賛否両論ではなく、諸手を挙げて歓迎しているような内容だった。
 
 アニメに限らず、一般に、たくさんの人々の思い入れを集めた作品、特にいろいろな視聴アングルを引き受け、それら全部の依り代となった作品は、どうしたって誰かのことを、いくらかの割合で裏切らずにはいられない。
 
 たとえば、作品にハードなSF的展開を期待している視聴者と、癒し系まったりな展開を期待している視聴者の両方を引き受けている作品は、ストーリーがどちらに転んでも、どちらかの視聴者の期待を裏切ってしまう可能性がある。かといって、へたに真ん中を行こうとすると、今度は「中途半端」という批判が飛んでくる。どこに向かってストーリーを走らせたとしても、一定程度には「裏切られた!」という声は避けがたい。
 
 ところが、『けものフレンズ』にはそれが少なかった。心温まるストーリー展開とキャラクターの活躍を第一としつつも、SF的な考察の余地も残し、懐の大きな作品の、懐の大きさそのままに大団円を迎えた。それぞれの視聴者には、それぞれの“けものフレンズ観”“ジャパリパーク”観があるだろうに、「感想が割れる」事態に至らなかったのは驚異的としか言いようがない。ストーリーラインやキャラクターの所作の作り込みや、謎かけ/回答提示の手綱さばきが抜群だったからこその快挙だろう。かくして、『けものフレンズ』は2017年の記憶に残るアニメ作品となった。
 
 

続編を観たいような…観たくないような…でも観たい!

 
 続きがあると言うけれども、このまま完結するのも悪くないなとも思った。TV版全12話で円満にできあがっているところに、これ以上何かを足して、蛇足になってしまったらもったいない気がするからだ。

 さりとて、劇場版なり2期なりがあれば、尻尾を振って観に行かざるを得ない。かばんちゃんやサーバルちゃんが活躍するところを、やっぱり観たいからだ。それと、背景世界に不穏な空気が漂っていても明るく楽しく、お互いの長所をたたえ合いながら笑いあって過ごしているフレンズのみんなも観てみたい。

 ここまで書いてみて、ああ、このアニメ本当に終わってしまったのか、毎週楽しみにしていたんだなぁと痛感した。今も、頭の中に「ようこそじゃパリパークへ」がリピートして止まらない。制作者の皆さん、ありがとう! 本当に良いものをみせていただきました。
 
 

*1:かばんちゃんが厳しい事実に直面する可能性は、十分にあるけれども