シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

故人の肉筆

 
 ちょっと前に、恩師の一人が亡くなった。
 
 その人は、統計的な根拠に基づいた精神医学を厳しく教えてくれた人で、DSMやICDといった診断基準がなぜ必要なのかを身をもって示してくれた人だった。
 
 その人の過去をみる限り、その人も、最初から統計的な精神医学を愛好していたわけではないようだった。が、教鞭を執る時のその人は、そういったことをおくびにも出さず、統計的な根拠に基づいた診断と治療を私達に勧めていた。
 
 結局、私が専攻領域*1として選んだのは、その人が教えてくれたことの外側だった。統計的な根拠が蓄積しにくい領域、時代の一回性にもとづいて変転していく領域こそが、私の戦場だ。けれどもそれだけでは精神科医としてまともな仕事はできないわけで、これからも、根拠に基づいた診断と治療を教わり続けるだろう。その土台を与えてくれた一人が、その人だった。
 
 で、仕事中にカルテ倉を調べていたら、その人が書いた古いカルテがたくさん見つかった。まるで、その人が蘇って語りかけているように感じた。病歴、診断とその根拠、治療方針が簡潔にまとめられて、見事なものだった。
 
 技倆と知識と知性に裏打ちされた、そして縮れたラーメンのような自体が一種独特な、故人の肉筆。
 
 ああ、肉筆というのはこんなに生々しいものなのか、と思わずにいられなかった。
 
 私はインターネットが大好きなブロガーだから、文章と文体だけから人をウォッチすることには慣れているつもりだ。だが、それだけに、肉筆の字体から人をプロファイルするのは苦手だ。恩師の字体からも、「この人の字体はこうだから、こういうパーソナリティである」とはちっとも想像することができない。
 
 だけど、この縮れたラーメンのような肉筆を眺めていると、文章や文体とはまた違ったかけがえのなさ、故人の気配を思い起こさせる何かが宿っている気がして、えらく強い刺激だな、と私は思った。
 
 文章をPCやスマホで綴ることが増えて、肉筆でモノを書く機会がめっきり減った。それによって得たものもあるが失ったものもある。肉筆に宿る“そのひと性”は、その失われたものの筆頭格だろう。
 
 普段、デジタル媒体を介して文章を読み書きしている私のような人間は、肉筆に宿った“そのひと性”を忘れてしまっている。忘れてしまっていて、さも、それが当たり前のように思い込んでいる。肉筆の字体からデジタルの字体に移行したことによって剰余として切り捨てられたものなど、最初から無かったかのように文章を目で追い、文体から滲み出るものを吸い上げては、これで足れり、と思い込んでいる。
 
 古いカルテを眺めて故人を偲ぶと同時に、肉筆から離れて生きている自分自身の境遇を顧みて、少し驚き、少し悲しくなった。
 
 これからの社会は、きっと、今以上に肉筆を忘れていき、ますます多くの文章はデジタルメディアに占められていくのだろう。それは基本的には進歩であり、恩恵をもたらすものに違いないのだが、その進歩の陰で忘れられていく、というより意識しなくなっていくものもあるのだなぁ、と、かび臭い部屋で詠嘆したのだった。
 

*1:いや、そんなにご立派なものではなく、趣味道楽として選んだ領域と言ったほうが誠実だろう

コピーのはびこるインターネットで、個人ブログにできること

 
DeNAがヘルスケア絡みのキュレーションメディア商売で大炎上(山本一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

WELQの面接で落とされ、その後WELQが炎上して、思うところ

グーグルの世界では「コンテンツイズキング」ではなく「コンテンツイズプア」である - P系リンク乞食スペシャル

切込隊長の凋落は「個人メディア」だったネットの終りを象徴している
 
 先月末から今月にかけて、インターネット上に無断コピーが出回る話とか、インターネットではコンテンツがプアだとか、関連のありそうな話題が立て続けに出回って、四番目の記事のような「個人メディアとしてのネットの終焉」って意見も出てきて、興味深く眺めていた。
 
 何か書きたいけれどもブログ記事として綺麗にまとめられそうになかったので敬遠していたが、それでも書きたくなったので、まとめるのを放棄してとりとめなく書き連ねてみる。
 
 

秒速でコピーされる環境が最高な人もいる

 
 上掲の、『グーグルの世界では「コンテンツイズキング」ではなく「コンテンツイズプア」である』という記事は特に興味深かった。この記事どおりに考えるなら、なるほど、小手先でいじったコピー記事がインターネットに氾濫するのはよくわかる。
 
 DeNAの炎上案件をはじめ、現時点ではこうしたコピー・剽窃にバッシングが集中しているけれども、こうしたバッシングが「コンテンツイズプア」なインターネットの状況を土台からひっくり返すとは私はあんまり思っていない。結局のところ、グーグルが何を考え、どのように検索結果を並べたがるかにかかっているだろう。
 
 もちろんグーグルとて、自社の検索エンジンには良い性能でいてもらいたいと望み、努めているはずだ。だとしたら、SEO対策しまくった劣化コピーが目立ちやすい現況をいずれは改善させていくだろう。
 
 そういう近未来のことはさておき、当面は、人目を惹きやすいコンテンツがコピーや剽窃の対象になるフェーズが続くと想定すると、この状況を、個人のブロガーなり配信者なりはどう生かせばよいのか……が私としては気になる。
 
 この状況下で、署名入りの記事やコンテンツを発信し、それでもって自分自身にお金がキチンと入ってくる構図をつくるのはなかなか難しかろう。時間をかけて人目を惹くものを作っても、それが秒速でコピー&拡散&希釈されてしまうとしたら、純-生産者*1よりも模倣者のほうが少ない時間で大きな利益を獲得できる。文章のような媒体は特にそうだろう。
 
 でも、この状況は「署名入りの記事やコンテンツを配信し、それでもって自分自身にお金がキチンと入ってくるような構図をつくる」という一点に拘らないなら、そう悪くはないんじゃないか。
 
 人目を惹くもの・PVが得られそうなものをアップロードできる限りにおいて、秒速でコピーされる世界とは、自分のオピニオン、情念、ポリシーといったものを爆発的に拡散させる可能性を秘めているようにもみえる。
 
 なにせ自分自身が頑張って宣伝するまでもなく、模倣者の群れが勝手に増幅器の役割を果たしてくれるのだ。これは、署名や金銭収入ということに拘らなければ、そしてコピーの質がどれぐらい変化するかを問題にしなくて構わないなら、大きなチャンスだ。個人の発信力ではあり得ないほどの拡散力、あるいは伝染力を発揮できるチャンスがある。
 
 google検索をはじめとする現在のインターネット環境、そして「コピーすればコピー屋が得をする」環境は、まっとうなコンテンツを配信してまっとうに儲けたい人には直接利益が少ない。けれども、コピーの質を問わず、とにかくオピニオンや情念やポリシーをメディア空間に木霊させたいと思っている人には、現在のインターネットは巨大なアンプ装置みたいなものだ。
 
 たぶんだけど、世論のうねり、いや世論の脊髄反射みたいなものを望んでいる人達のなかには、もう、そういう未曽有のチャンスを知悉していて、今日のネット環境を巨大なアンプ装置として使っている人がいるんじゃないのかなぁ、と私は思う。今年はいろいろな政治的/商業的拡散が国内外で起こったけれども、それらもまた、現在のインターネットが巨大なアンプ装置として働いていて、良い意味でも悪い意味でもコピーが幅を利かせた結果ではないか、という風に思ってしまう。
 
 「頼んでもいないのにコピーが大量生産される」環境は、“正当な著作権稼業”というゲームのプレイヤーには最悪だが、“とにかく拡散すれば勝ち”というゲームのプレイヤーには最高だ。コピーする側だけが勝利者とは限らない。
 
 しかし、こんな賭場みたいなインターネットがいつまでも放置されているとは考えにくいので、幾星霜か経った後、「あの頃のインターネットってヤバかったよね、狂気の沙汰だったよね」と回想されるのだろう。というか、そうなって欲しい。
 
 

各方面の専門家が優秀なコンテンツを出すようになったら

 
 それと、「インターネットに各方面の専門家が優秀なコンテンツを出すようになったら個人メディアは終わり」的な話について。
 
 これはもうちょっと整理しやすい。
 
 旧来のインターネットと呼べるものは、そもそも、各方面の専門家がコンテンツを配信するような方向性とは180度正反対の、インフォーマルな、アングラなコンテンツだった。
 
 確かにインターネットには各方面の専門家が優秀なコンテンツを出すようになってきているのだろう、そして、それがアマチュアの適当なコンテンツのニッチを塗り替えるというのも理解できる話だ。フォーマルなコンテンツに置き換えられるべきものは、専門家やプロによって置き換えられるに違いないし、それはインターネットというメディアが成熟した証でもある。
 
 だが、専門家の優秀なコンテンツに塗り替えられるアマチュアのコンテンツとは、フォーマルなコンテンツの代替品のたぐいであり、逆に言うと、専門家がネクタイを締めてスーツを着て解説するようなコンテンツとは、どのみち(各界の)フォーマルな領域、権益のかかった領域に限られる。
 
 旧来のインターネットと呼べるもののなかには、フォーマルなコンテンツに置き換えられようのないコンテンツがたくさん含まれていたし、今も含まれている。意味が少し損なわれるのを承知で、あえてわかりやすい言い換えを試みるなら「専門家は、専門家としてのカネと権益の介在しないコンテンツには手を伸ばさない」。まともな専門家ほど、そうだろう。
 
 もちろん、エンタメの専門家などが「草の根の面白コンテンツ」などと称してヒットを狙うこともときにはあるだろう――草の根というには出来過ぎたコンテンツを盛大な仕掛けによってバズらせる、なんてのは大いにあり得る――。だが、たとえそうだとしても、専門家が手を突っ込むのは採算性や権益性が期待できる領域に限られるわけだから、素人くさいもの・採算性や権益性を度外視して素朴にアップロードし続けてきた個人メディアほど専門家とニッチが被らない。
 
 もし問題があるとしたら、ネットメディア上の可処分時間をプロのコンテンツと競合するという点だが、素朴な素人コンテンツを楽しんでいる人は出来過ぎたプロっぽいコンテンツとは別個にこれを楽しんでいるか、コンテンツというより人間を楽しんでいるので、需要は残ると思われる。だから、個人的なものを素人としてアップロードしているブロガーなどには、このへんはあまり関係のない話だろう。
 
 

インターネットの大河のなかで、個人的なものでありたい

 
 いずれにせよ、現況は、ブロガーをはじめとする個人メディアの人がコンテンツ制作をとおして営利をあげるには不利なものだと思う。営利をあげるならコピーを優先させるべきだろうし、専門家と刃を交えなければならない領域で火遊びをしている人達は、大きなリスクを覚悟しなければならないだろう。
 
 ただし、これらは「自分の署名が入ったコンテンツで営利を獲得する」という命題に則って考えれば……の話なのであって、そこを度外視してインターネットで活動している人達にはそれほど厳しい状況とは言えない。個人的なものを素朴にアップロードして楽しんでいる人、目立つ必要も儲ける必要もない人には、あまり状況は変わらないのではないか。
 
 それと。
 
 私には、インターネットメディアがものすごく大きなミームの河にみえることがあって、この視点で眺めると、その大河のなかで、独創性とか、個人の営利とか、そういったものを個々人が争っている姿がプランクトン同士がいがみあっているように感じられる。利益をあげようとする大企業は、さしづめ魚といったところか。
 
 そういう、個々人という単位で考えるなら、Aさんが書いたのにBさんがパクった、Cさんが獲得するべき人気をDさんがコピーして奪い取った、というのはきわめて重要になってくるし、現代社会の枠組みに則って粛々と対処すべきだろう。
 
 でも、インターネットメディアを流れる言葉の群れ、世論、流行り廃りとは、いつも個人によって興るというより、複数の人達のコピーともインスパイアともつかない連なりによって興っているようにも思える。あるいは時代精神とかテクノロジー的な背景こそが重要で、誰かがコンテンツにしたから大河の流れが変わったのでなく、大河の流れが曲がっているところで、たまたま「これからワシが大河を捻じ曲げてみせようぞ」と叫んだ予言者が得をする……という風にもみえる。
 
 そうしたなか、一人の個人、一つの団体が、インターネットから営利を得たり、「大河を捻じ曲げてみせた」栄誉をいただいたりするのは、個人主義的には正当でも、そこにコミットしたすべての人からみれば不当なことのようにもみえて、そのあたりに執着するのはあたかも曼荼羅の真ん中に自分自身のドヤ顔写真を貼り付けるような、不遜な態度に思える瞬間もあったりする。
 
 なんだか俗世を離れた話にズレてきたけれども、いや、それだけ私も、インターネットを世俗の法に照らして考える時間が増えてきたってことなのかもしれない。カネ。利権。栄誉。でも、そういったものにとらわれずにインターネットを呼吸する場所と方法が無くなったわけではないはずだ。
 

はてなブログは、あなたが日々の生活から感じたこと、考えたことを他人と共有できる場所です。記事を書き続けることで、あなたの感性や関心が読者にも伝わり、同じ興味を持つ人とのつながりが生まれます。

ぜひ、あなたの言葉で、あなたならではの視点で、あなたの考えていることや、あなたの体験を、はてなブログに書き残してください。

それはきっと、見知らぬ誰かのためになります。

それはきっと、いつか見返す未来の自分のためになります。

私たちは、そんな「見知らぬ誰かのため」や「いつか見返す未来の自分のため」になるであろう言葉を書き記す、そのためのツールとして、はてなブログをご利用いただくことを望んでいます。

私たちは、はてなブログを通じて、「見知らぬ誰かのため」や「いつか見返す未来の自分のため」になるであろう言葉が書き残されていく世界を、形作っていきたいと思っています。
はてなブログのpolicy より引用

 
 そうとも。引用のような精神のインターネットは、まだ死んじゃいないし、これからも簡単には死なないだろう。死ぬべきではないし、滅ぼしてはいけない。
 
 こういった、あくまで個人的なブログのたぐいもまた、大河を構成する要素のひとつひとつなのだ。大河のうねりのなか、カネや利権や栄誉は集まるところに集まるだろうけれども、焦点だけが大河を形づくっているわけでもコントロールしているわけでもない。だからまあ、コピーだ営利だといった領域に過敏になることなく、個人的なもの・自分的なものを好きなようにこれからも楽しんでいきたいし、そのようなブロガーや配信者を、個人的なもの・一人の人間的なものとして私は楽しんでいきたいと思う。
 
 当初の予想どおり、まとまりの悪いものができあがったが、疲れたのでこのままアップロード。
 

*1:なにをもって純-生産者と称するかは本当は込み入った問題だが、ここでは、そのあたりについて深堀りしない。

おれらがロールモデルになるんだよ!

 
 これから書く話は社会全体についての話、広く薄い総論っぽいやつです。特定の個人・立場を名指しした話(各論)ではありませんので、ご容赦ください。
 
 わりと最近まで、「父性の喪失」とか「母性のディストピア」とか、父親と母親は一体どうなっているんだ、的な話が語られてきました。「成熟のなくなった社会」という言葉も、もう使われ始めてから数十年が経ってます。
 
 昭和時代の父親や母親にあったであろう親のイメージやロールモデルが失われ、地域社会が希薄になって子育てを抱える機能を失ったという意味では、「父性や母性は失われた」のでしょう。昭和時代の視点からみたところの父性的・母性的な諸々が失われたのは事実です。
 
 昭和世代が、彼ら自身の尺度に基づいて父性や母性や成熟を語る限りにおいて、彼らの物言いが間違っているとは私は思いません。
 
 けれども「昭和は昭和、今は今」でもあります。
 
 過去の世代からどのように評価されようが、今、私達は世代再生産の担い手となり、ひとりひとりが社会の担い手として確かに生きています。この場合、子どもを育てているか否かはたいした問題ではありません。社会の構成員の一人として存在している限りにおいて、なんらかのかたちでこの社会を担って生きているのです。そして、私達が今を生きている姿が、後発世代のロールモデルとなっていきます。
 
 もちろん、ここでいうロールモデルとは「模倣の対象」とは限りません。現在の学生さん達は、年上の人々の生きざまを眺めて、ある部分はコピーしようとするでしょうけど、別の部分では反発・否定もするでしょう。でも、ロールモデルって本来そういうものでしょう? 完全なる模倣しか許さない、“あそび”の少ないロールモデルなんて、どんなにご立派な内容でもロクなものじゃないし、年長者たるもの、そうやって年少者が取捨選択するのを許容する態度が伴っていていいんじゃないかと思います。
 
 私達が、ロールモデルになる番になったんですよ。
 
 私達はみな、平成時代の、これからのロールモデルとして否応なく年少世代からまなざされているのです。若者というものが、年長世代を眺めて模倣や反抗や否定を行う立場なのに対して、もう若者ではない私達は、年上世代を眺めると同時に、年下世代からは眺められる立場にあります。望ましいお手本となるのか、反面教師として忌避されるのかはともかく、もう、一方的に年上世代を寸評していればOKな立場ではなくなったのが、おじさん・おばさんの社会的ポジションではないでしょうか。
 
 念押ししておきますが、これは、子育てをしている父親や母親だけの話ではありません。上司と部下の狭間で働いている独身の人も、いや、働いていない人も、皆、なんらかの参照項として年下世代からは眺められるという意味ではロールモデルなのです。「ああいう年長者になりたい」も「ああいう年長者にはなりたくない」も、角度は違っても、参照項という意味では同じ。
 
 「ロールモデルになんてなりたくない」という声もあるでしょう。もちろん、画一的な「正しいロールモデル」を全てのおじさん・おばさんに押しつけ、期待するのは今という時代には合っていません。多様なロールモデル、多様な参照項があって然るべきです。しかし、だからといって、年を取った私達が年少者の参照項にならずに済ませられるかと言ったら、それもまた不可能なことです。
 
 だったら、どのような星回りであれ、良かれと思う生き方を、その人の星回りのなかで精一杯に果たしていくしかないんじゃないか、と私は思います。
 
 「私は、あまり良い人生を生きていない」「私は社会のためになっていない」と思うような生きざまが、別の誰かには「すがりたくなるようなロールモデル」とみなされることは往々にしてあり得ます。それで助かっている人、それが貴重な模倣の対象になっている人も、どこかに必ずいるのです。社会も人も多様だから、そういう可能性はいくらでもあります。だから、人生の先輩として生きているほとんど全ての立場・生きざまは、ロールモデルとしての存在価値と意味を含んでいる、と私は思います。人生を重荷と感じながら、それでも生きている人達の生きざまにしても同じ。きっと後発世代はそこから何かを学び、必要なら、模倣することだってあるでしょう。
  
 冒頭で申し上げたように、これは、ものすごく総論的で抽象的な、原則論的なお話です。「何も言っていないに等しい」とおっしゃる人もいるでしょう。そうかもしれません。でも、人間社会ってのはこうやって年上から年下へと、色んなものが受け継がれて今に至っているのは確かなのです。ロールモデルになりたいか、なりたくないか、そういった意志の話ではありません。
 

社会契約と商取引を突き詰めた「自立」では、幸福になれない

 
cybozushiki.cybozu.co.jp
cybozushiki.cybozu.co.jp
 
 先月と今月、サイボウズ式さんに「自立」をテーマにした2つの記事を載せていただいた。
 
 前半は「望ましい自立」について書いたけれども、後半を書いているうちに、その「自立」という枠組み、自立を当然とみなしている私達って一体なんなんだという気持ちが膨らんできて、“しがらみ”や“腐れ縁”もあったほうがいいんじゃないか、という気持ちをそのまま書くことにした。
 
 この期間に改めて気づいたのは、“私は「自立」ってやつをあんまり信じていない”ということだった。
 
 いや、ある程度は「自立」を信じている頼りにもしているのだ。世間からみて「自立した個人」とうつるような振る舞いを身に付けてもいる。現代社会、とりわけホワイトカラーな世界では「自立した個人」とみなされる振る舞いをしたが得をする場面が多い、ということも重々承知している。
 
 でも、たとえば、東京でそれなりの収入を稼いで生きている人達の大半に比べると、私の「自立」に対する“忠誠心”は足りていないと思う。
 
 

都会のコミュニケーションは契約的・商取引的だと感じた

 
 私は「自立」がまだまだ浸透していない、大都市圏やニュータウンよりも“しがらみ”や“腐れ縁”のずっと強い地域(と時代)に育った。
 
 私は「自立」について専ら教育によって教わった。しかし、私が生まれ育った土地の人々には、その「自立」とは相いれない、“しがらみ”や“腐れ縁”によって事が進んでいく部分がたくさんあって、良くも悪くも人々の言動と幸不幸を左右していた。教師が教えるとおりの「自立」をストレートに実行すれば、「出る杭は打たれる」かもしれない、“しがらみ”と“腐れ縁”に満ちた世間。でも、そのような世間を子ども時代の私は悪いものだと思っていなかった。
 
 たとえそれが、思春期になって私自身が打ち据えられる一因になったとしても。
 
 成人した後、私は生まれ育った地域の人々と比べて「自立」寄りのライフスタイルを実現している人々に出会った。“腐れ縁”や“しがらみ”の密度が薄く、人間関係もキャリアアップも社会契約の秩序にのっとってサクサクと剪定していく人々が、私には「自立」しているようにみえた。
 
 絵に描いたような「自立」。
 他人に頼り過ぎない「自立」。
 「自立」がここまで徹底している人間を、子ども時代は知らなかった。
 
 ただし、そういう人々が「自立」しているからといって、幸せとは限らないようにもみえた。ドライで、ギブアンドテイクで、ほどほどの距離感で、目的や用途に忠実な都会の付き合いは、どれほど温情を繕っても利害と損得の方程式に忠実っぽくにみえた。それでも幸福な人間関係は求めているらしい。だとしたら、その幸福のかたち、幸福の方程式とはどういうものなのか?
 
 「自立」と、それと表裏一体な利害と損得の人間方程式は、都会の人間関係やコミュニケーションの背景にある一種の枠組みみたいなもので、それ自体が幸不幸を左右わけではない。「自立」を目指してすこぶる幸せそうな人もいるし、「自立」を目指しながら不幸の泥濘をのたうっている人もいる。
 
 ただ、この「自立」という枠組みのなかで幸福追求をしなければならないのが現代の――なにより都会の、そしてグローバルの――ルールであり幸福の方程式なのだなと、私は推定することにした。それとて私自身の心象の一部が東京という街に投影されただけなのかもしれないが、だとしても、そのような投影が最も頻繁に起こる街は東京だったことを思えば、やはり地域や時代の違いはあるように思えた。
 
 それから長いこと経って、一冊の本に書かれていることが私の体験によく似ていると気付いた。
 

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 下―純粋社会学の基本概念 (岩波文庫 白 207-2)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 下―純粋社会学の基本概念 (岩波文庫 白 207-2)

 
 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』風に表現すると、私が生まれ育った地域の人々はゲマインシャフト的で、都会、とりわけ東京の人々はゲゼルシャフト的だった。もちろん、私が育った環境でも契約社会的な要素はそれなり含まれていたけれども、度合いとして、東京のそれには及ばない。地元でとれた海産物や農産物の交換、和菓子の贈答、自民党の議員集会、そういった諸々に、“しがらみ”や“腐れ縁”の匂いが立ち込めていて、契約社会や貨幣経済のロジックとは異なる方程式に沿って人々が動いていた。
 
 

社会契約的なマインド

 
 で、仕事や人間関係が契約社会的で「自立」を重んじている彼らのマインドもまた、社会契約に則っていると思った。
 
 ――ギブアンドテイクが成立し、与えることと受け取ることの収支のとれた、(経済的か心理的か文化的かはさておいて)なんらかの商取引が成立したコミュニケーションを志向する。のみならず、そうした収支は短いスパンで決算される。もし一方的に与えたり受け取ったりしているなら、“しがらみ”や“腐れ縁”として正当化することは許さず、関係は解消されなければならない――
 
 だから「自立」を重んじる人間が寄り集まった都会では、経済面だけでなく、心理面においても、契約社会的で、もっと言うと商取引的なロジックに忠実なかたちで人間関係を営むことが良しとされているようにみえて、それが都会というフィールド全体を覆っている。だから、こうした社会契約的で商取引的なマインドは単なる個人の精神病理ではなく、フィールド全体に共通した社会病理として立ち上がってきているように、田舎者の私にはみえる*1。そしてそれは、文化人類学や進化生物学の書籍に書かれているような、過去のホモ・サピエンスのマインドの典型とは大きく異なっている。
 

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

 
 だから私には、都会というフィールドでは当たり前になっている、この「自立」を重んじたマインドが、あまりにも社会契約や商取引のロジックをなぞらえ過ぎている、と思えてしまう。いや、社会契約や商取引が社会の隅々にまで浸透していくうちに、精神までもがそれらの影響下に置かれるようになり、それ以前に支配的だった、たとえば“しがらみ”や“腐れ縁”などと親和的だった精神から置き換わっているようにも思えてしまう。
 
 もちろん、社会契約や商取引に則った人間関係やライフスタイルにもメリットはある。非常に人間関係がすっきりするし、用途や目的別に人間関係を切り分けて経済的・心理的・文化的な利益をあげていこうと思う人にとって、ゲゼルシャフト的なマインドは“利に適っている”。
 
 だが、こういうマインドを突き詰めて内面化すると、人間とは結局、その内面も含めて、個人という法的単位・経済的単位以上でも以下でもなくなってしまう。社会契約と商取引のロジックを深く内面した人々の幸福観は、「百万長者が幸せで、貧乏人は不幸せ」という価値観に、ほんの少し心理学的なアレンジメントを加えたものとなる――「ギブアンドテイクな経済的・心理的状況のなかで、儲けの多い人間になりましょう!」
 
 これは、「カネと承認欲求を集めるのが幸せな人間(=カネも承認欲求も集められない人間は不幸せ)」という、2010年代のインターネットに氾濫しているテンプレートとも矛盾しない。そして、このテンプレートにあまり抵抗感や違和感を持っていない人というのは、今日日はそれなりいるのだろう。少なくとも、契約社会と商取引への信奉の篤い人々においては。
 
 

“しがらみ”や“腐れ縁”がアンカーになってくれる

 
 でも、私は田舎者だから、そして「自立」というやつが少し苦手だから、そういう社会契約と商取引を突き詰めたような生き方についていけない。
 
 家族をはじめ、どこかに“しがらみ”や“腐れ縁”に相当するような人間関係、つまり、社会契約や商取引の感覚で取り扱えない人間関係がなければ幸せになれそうもないし、自分自身のアイデンティティも維持できないのではないかと思う。
 
 ここまで散々書いてきたが、なんやかや言って私は現代社会のこの方程式にある程度は従っているし、そこから恩恵も受けている。でも、それだけでは私はきっと、どこまでも社会を彷徨い続ける一枚の千円札のように、落ち着くところもなく、自分が何者であるかも定まらず、「私とは何か」という問いに悩み続けるだろう。だがありがたいことに、“しがらみ”や“腐れ縁”は、そんな私の心にアンカーを打ち込んでくれる。“しがらみ”や“腐れ縁”は、私という人間のアイデンティティを形づくり、心が漂流してしまうのも防いでくれる。逃れ難いものだからこそ、選ぶ必要も、取捨しなければならない義務も負わなくて良いし、安定している部分があるからこそ、腰を落ち着けて他の物事に取り組むこともできる。
 
 ただし、こういうアンカーは一本では危ないのだろう。二本、いや、できれば三本欲しい。
 
 ストイックに「自立」を重んじる家庭でない限り、家族は強力なアンカー足り得る。法的にも生物学的にも、これほどの“しがらみ”や“腐れ縁”は存在しない。
 
 けれども、家族以外に対しては「自立」を徹底し、ほどほどのギブアンドテイクな社会契約的な関係をつくっている人は、家族が唯一無二の“しがらみ”や“腐れ縁”になってしまう。こうなると、家族というインナーワールドは相対化されることなく絶対化されてしまい、“しがらみ”や“腐れ縁”のしんどい側面が首をもたげやすくなってしまう。
  
 だから、ちょっと捻じれたことを言っているかもしれないが、“しがらみ”や“腐れ縁”は一本だけでなく、二つか三つぐらいあったほうが安定するのだろうと思っている。一本のロープに負荷が集中するより二本か三本のロープに負荷が分散していたほうが安定するのと同じだ。
 
 まあ、こうやって“しがらみ”や“腐れ縁”の負荷分散とか相対化を考える思考方法自体は、ほどほどの付き合いを良いものとし、過剰な依存を厭う「自立」した個人のソレに基づいているわけで、私は“しがらみ”や“腐れ縁”も深くは信奉していないのだろう。
 
 たぶん私は、社会契約と商取引を突き詰めたような生き方も、“しがらみ”と“腐れ縁”に全てを委ねる生き方もしたくない。だったら両方のイイトコドリをしていくのが良いわけで、新旧のマインドの中間あたりを狙って、綱渡りのように生きていこうかなと思う。たぶん、私の求める幸福も、その綱渡りの先にあるのだろう。
 

*1:細かい話だが断っておくと、社会病理と呼ばれるものは個人の精神病理のなかでは意識の表層に近く、非-生物学的に規定されている後天的な要素なので、個人の精神病理のなかでも生物学的に規定されている先天的な要素に比べれば修正を被る余地は大きい。ある個人において心理的で重篤な問題が立ち上がってくる時には、表層的な社会病理に着目したほうがセンセーショナルではあっても、たいていの場合、もっと深層的な個人精神病理のほうが、その重篤な問題に占めるウエイトは大きい。ただし、そのような重篤な問題が立ち上がってくる形式やコンテキストには表層的な社会病理が関わってくることも多く、修飾は受けるので、例えば世を騒がせるような大犯罪などがあった場合には、どちらのアプローチも捨てがたいと思う

「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉と、これから

 
togetter.com
 
 リンク先には、恋愛を経ないで結婚を望む若者の話がまとめられている。
 
 昔から「結婚と恋愛は別物」とは言われているにもかかわらず、結婚するために必ず恋愛を経由しなければならないのは理不尽なわけで、こういう意見が出てくるのも当然だろう。家族を持つ・子どもを育てるといった家庭的なノウハウと、異性とときめいた時間を過ごすためのノウハウは大きく違っているので、恋愛が下手だから配偶者として不適かといったら、そうとも限らない。むしろ世の中には、恋愛上手だけれども結婚相手としては最悪な人も多い。だから、結婚する前に恋愛しなければならないという固定観念は「恋愛なんてどうでもいいから結婚したい」人には邪魔でしかない。
 


 
 岡田育さんが言っているように、恋愛の延長線上に結婚があるというのは一種の思い込み、あるいは共同幻想でしかない。
 
 

猫も杓子も恋愛だった、あの時代

 
 そういえば、猫も杓子も恋愛を持ち上げていた、あの、恋愛結婚の時代とは何だったのだろう?
 
 ある時期までの恋愛結婚には、伝統的なライフスタイルや価値観から離れ、欧米風のライフスタイルや価値観に憧れるニュアンスが含まれていた。好きな者同士が自由に結婚できる社会は、そうでない社会よりは望ましいものだっただろう。
 
 だが、恋愛結婚のアーリーアダプター達の二代目が思春期を迎え、恋愛結婚のレイトマジョリティが結婚適齢期を迎えた後の時代においては、そうとも限らない。
 
 憧れの対象だった恋愛結婚は、いつしか当然のテンプレートとなり、ある種の強迫性を帯びてきた。「好きな者同士が、自由に伴侶を選びあう」はずの恋愛結婚が、「好きな者同士を探さなければならない」ものへと変貌していった。今にして思えば、四半世紀ほど前の若者は、今の若者よりも必死に恋愛して、結婚しようとしていたと思う。彼氏・彼女がいることが正義で、彼氏・彼女がいないことが悪であるかのような雰囲気が漂っていた。90年代のクリスマスの雰囲気などは、まさにそういうものだった。
 
 そして、そういった雰囲気についていけない者には、「ダサい」という烙印が容赦なく押された。「まじめな」「かたい奴」だとしても、「ダサくて」「恋愛ができなければ」話にならない――そんな風に考えている人が、当事者たる若者だけでなく、少し年上の人達にすら珍しくなかったことを、私はよく憶えている。
 
 今にして思うと、あの、恋愛にみんなが必死になっていた時代に、心の底から恋愛したがっていた人はそれほどいなかったんじゃないかと思う。
 
 「みんなが恋愛しているから」「テレビやドラマで恋愛が恰好良いこととして描かれているから」「恋愛していないとダサいと思われるから」、なんとなく恋愛しよう、とにかく恋愛しなければ、と思っていた人って結構いたんじゃないだろうか。表向きは自由なパートナー選択が浸透したようにみえて、実のところ、恋愛の強制というか、自由選択を無理矢理に押し付けたものではなかったか。恋愛結婚推進派は、見合い結婚やイエの都合による結婚の不自由を批判し、自由な恋愛を良いものとしていたけれど、そういう自由が与えられた結果として、それでみんな恋愛を謳歌し結婚できていれば、世の中はこんなに少子化にはなっていない。
 
 恋愛と結婚がセットとみなされるようになって実際に起こったのは、非婚化と少子化だった。それと、恋愛して結婚しなければならないという、強迫的な固定観念。
 
 

アーリーアダプターにとっての自由はレイトマジョリティにとっての束縛

 
 ところで私は、旧来の束縛から自由にしてくれるような価値観やライフスタイルは、ある時点までは自由の源でも、ある時点からは抑圧の源になってしまうと思っている。
 
 そこには例外は無くて、初期のキリスト教の教えも、昨今の個人主義も、諸々の解放運動のたぐいもたぶん同じ。新しい価値観やライフスタイルがまだ世間に浸透しきっていないうちは、それらはアーリーアダプターを自由にしてくれる。だが、レイトマジョリティにまで浸透し、半ば常識とみなされるようになると、今度はその価値観やライフスタイル自身が旧来の束縛に取ってかわって、人々の心を縛り付けるようになる。
 
 恋愛結婚もそういうものだったのだろう。
 
 加えて、マスメディアと企業家がそこに手を突っ込んで、恋愛と結婚が、さも常識であるかのように吹聴した。若者に恋愛してもらったほうがお金が儲かる、若者がお金を落としてくれる、というわけだ。
 
 言い換えると、トレンディドラマやクリスマスのシティホテルやレジャースキー場は、あの世代の男女関係に値札をつけて換金したってことだ。値札のついていなかったものに値札をつけて金儲けとは、いかにも現代資本主義的なことだが、そのためには、恋愛が固定観念になって、クリスマスを異性と過ごすのが常識になって、カップルでスキー場に出かけるのがトレンディでなければならなかった。バレンタインデーだってそうだ。そうやってメディアをあげて馬鹿騒ぎをして、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気をつくることが、お金儲けをしたい人達にとって肝心だったのだろう。
 
 おぼこいことに、私も私の周辺の同世代も、そういう換金の構図にはほとんど気付いていなかったが。
 
 

やっと恋愛の呪縛が解消されてきた

 
 でも、バブルがはじけて、就職氷河期があって、恋愛結婚についていけない人が続出して、それからも長い時間が経って。どうやら下の世代は恋愛の呪縛から少しずつ解放されてきたようにみえる。
 
 恋愛したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
 結婚したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
 
 もちろん現在でも、「孫の顔が観たい」的なプレッシャーは残っている。けれども、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気が無くなっただけでも好ましいことだ。
 
 他方で、以下のような見解もある。
 



 
 そう、いつしか恋愛と恋愛結婚には「恋愛できるぐらいに社会性を身に付けている」という成長の証、つまり通過儀礼としての性質を帯びていった。自由な個人主義社会ができあがり、社会から通過儀礼らしきものがことごとく消え去った後には、恋愛経験が通過儀礼としての機能を帯びるようになった。通過儀礼としての機能を帯びるようになったということは、つまり、恋愛もまた個人を抑圧する社会的因子の一つになったということに他ならない。
 
 しかし今、恋愛のそうした通過儀礼的で抑圧的な性質までもが希薄になりつつある。おめでとう! 私達は、またひとつ自由になりましたね! まあ、この自由もまた未来の不自由の芽になっていくのだろうが、その負債を支払うのは現世代ではなく未来の世代なので、今は喜んでおけば良いのだろう。
 
 恋愛の呪縛が解消された後の世界は、戦前世界に先祖返りするのではない。イエも血縁も希薄になった現代社会における「恋愛抜きの結婚」とは、旧来の結婚に比べてもっと社会契約的で、もっと経済的で、もっと身も蓋も無いものになるだろうと私は予感する。そういう、身も蓋も無い結婚や社会契約的なパートナーシップが新しい常識となり、新しい抑圧の源となった時、未来の世代は何を思い、何を悩むだろうか。