シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

くそっ!俺も妊娠して母親になりたかった!!

 
 
 
子どもの脳の発達に「母親の声」が大きく影響している(米研究結果) | TABI LABO
 
 リンク先を読んで、あらためて「父親は母親に追いつけない!」と思った。
 
 子育てにおいて、父親が母親に敵わない部分があるのは、以前から見知ってはいた。
 

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (下)

マザー・ネイチャー (下)

 
 この『マザー・ネイチャー』には母親について本当にいろいろなことが書かれていて、そのなかには、(子育てに際しての)父親と母親の生物学的・ジェンダー的なギャップについての言及もある。ただし、養育者としての役割を父親が果たせないわけではない論拠も記されていて、父親の養育者願望を打ち砕くような書籍ではない。
 
 実際に父親をやっていて感じるのは、母親に比べて子育ての“性能”がやっぱり敵わないという事実だ。もちろん、個人差によっては父親のほうが母親よりも子育てが上手という家庭は存在し得るだろう。けれども私自身を顧みても、他の家庭の様子を眺めても、母親と同等以上の子育て“性能”な父親は珍しいと思わざるを得ない。私の知っている父親は、ことごとく、母親ほどには子育て“性能”を発揮していなかった――少なくとも幼児期あたりまでは。
 
 精神分析寄りな学説には、「父親が子育てで重要なのは一定の年齢以降」「父親は他者性の象徴」といったことが書かれている。子どもに密着しがちな母親にはできない役割を父親はやってのけられる、というわけだ。それは十分承知しているし、現在の私は、まさにその他者性の象徴として家庭内で機能していると思う。母子関係の距離感を是正するバッファとして父親たる私の役割はけして小さくないし、面白くないわけでもない。父親の役割というのも、なかなかこれで、苦労に見合った引き受け甲斐がある。
 
 それでも、冒頭リンク先のような記事を読むたび、私は思ってしまうのだ。
 
 「母親になってみたかった!」
 「妊娠してみたかった!」
 と。
 
 妊娠は、母親の胎内で起こる、きわめて生物学的な現象だ。出産~授乳に至るプロセスもそう。前掲『マザー・ネイチャー』には、母親と子どもは胎内にいる時から別の人間である論拠がたくさん書かれているが、と同時に、父親には経験不可能な、母親と子どもの繋がりについてもたくさん書かれている。人工ミルクを与える、スキンシップを行うなどで肉薄することはできても、子宮も乳房も無い以上、父親が完全なる母親自身になることはやはりできない。
  
 それに、私の家庭でも大半の家庭でも、仕事と子育てをめぐる世間的な役割分担は、完全には解消しきれない。母親に限りなく近い子育てをやるべく、ぎりぎりのリソースを突っ込んだが、それでも私は母親に追いつけなかった。家計が破たんしてしまっては元も子もない。
 


父親と母親が子どもと過ごす時間を比較したグラフ。特に平日、父親が子どもと過ごす時間は圧倒的に短い。引用:厚生労働省『21世紀出生児縦断調査』第5回調査の概要より作成。

 上記グラフにあるように、父親は母親に比べて子どもと過ごす時間が短くなりやすい。この、ジェンダー的な役割分担の壁はなかなか厚い。父親が子どもと過ごす時間はまだまだ贅沢品である。
 
 これらの総決算として、私は母親ではなく父親になった。それは当然の成り行きだろうし、それで家庭内に問題が生じるわけでもない。もちろん配偶者には深い感謝の念を抱いている。けれども時々、妊娠~養育によって起こる母子間のできごと、あの奇跡のようなシンクロニティを、当事者として体験してみたかった気持ちが蘇る。まあそうなったらそうなったで、今度は「父親になりたかった!」などとこぼしていたのかもしれないが。私は欲張りだ。
 

「自分探し」は贅沢品になりつつある

 
 「そんなに自分自身に夢中になっていられるなんて、いい“ご身分”ですね」。

 いつか、そんな風に言われる日が来るかもしれない。

庶民のものになった「自分探し」

 
 21世紀が始まった頃までは、世間では「自分探し」が流行していた。当時は思春期モラトリアムが延長していると盛んに言われていた時期で、「思春期は30歳まで」「いや35歳までだ!」といった学説すらあった。
 
 いや、これらを過去形にするのはまだ早い。「いつまでも自分探し」「本当の自分を探す旅」みたいな執着が絶滅したわけではないし、twitterやYouTubeやブログを駆使して「砂金採りのような自分探し」に挑んでいる人もいる。動画配信者やブロガーを眺めていれば一目瞭然だが、そういう「砂金採りのような自分探し」に挑む人は、金銭的に恵まれた人達ばかりではない。お金に困っていそうな人が「今とは違う自分」を夢見て一生懸命頑張っているケースも珍しくない。
 
 あらかじめ書いておくと、私はそのことを批判したいわけではない。
 
 モラトリアムが許される状況のなかで、自分自身の理想を探し求め、理想に近づくためにあがくのは素晴らしいことだと思う。状況が許すなら、あらゆる男女に「自分探し」のチャンスは与えられるべきで、やる/やらないの自己決定権は貴ばれるべきだ。
 
 でも、そういう「自分探し」が許される状況は、いつまで存続するのだろうか?
 
 

「自分探し」は本当は贅沢だった

 
 歴史をひも解くと、「自分探し」や「自分がわからない」といった悩みは、“近代的自我”や“個人主義”が日本にもたらされた後の、かなり新しいものだ。“高等遊民”という言葉が象徴しているように、アイデンティティの空白に悩める身分の若者は非常に限られていた。富裕な家庭に生まれ、イエの都合にもあまり縛られずに済む好都合な若者でなければ、モラトリアムな時間を持つこと自体が困難だった*1
 
 ところが戦後に高度経済成長がおこり、“一億総中流”なんて言葉が流行するぐらいには庶民生活に余裕ができた結果として、「自分探し」という欲求、「自分がわからない」という悩みが一般家庭にも普及していった。そう、「普及」だ!――カラーテレビやエアコンが普及したのと同じように、「自分探し」「自分がわからない」という悩みが普及したのである。このあたりは、アメリカも日本も韓国もおおむね同じだ。アメリカでは「自分探し」や「自分がわからない」が日本より早く普及し、韓国では日本より遅れて普及した。
 
 「家庭の諸事情に縛られない若者が、自分の可能性を模索できる」程度のゆとりが一般家庭に生じたからこそ、「その自由を活かしてどのような自己イメージやアイデンティティを手に入れるのか(or それとも手に入れられないのか)」が世間的な悩みになっていった。

 そうした「自分探し」の庶民化を裏付けているものはいろいろあるだろう。90年代の心理学ブームも、『進め!電波少年』で猿岩石のヒッチハイクが人気を博したのも、「自分探し」の時代に共鳴したものだった。個人的には、『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットも挙げたい。ああいう自己探求的な懊悩をぶちまけたアニメが社会現象になること自体、あの時代が「自分探し」や「自分がわからない」に親和的だったことを暗に示している。
 
 

エリートの子弟でない限り「自分探し」は難しい

 ところが時は流れ、社会状況は一変した。識者は「格差の固定化した社会」「貧富の差の激しい社会」を懸念するようになり、たぶん、それは当たっているのだろう。大学の奨学金がどんどん増え、大学生への仕送りがどんどん減っていることが示しているように、今日、若者の「自分探し」を支えるだけの経済的・時間的余裕は一般家庭からどんどん失われている。それ以前の話として、『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』の家庭が豊かとみなされる程度には、一般家庭とか中流といった言葉が意味を為さなくなってしまった。
 
 私が大学生だった90年代は、まだ「大学は遊びに行くところ」という“不謹慎”な言葉を巷で耳にしたし、実際、良い意味でも悪い意味でも大学生の相当数は“キャンパスライフを謳歌”していたように思う。けれども今、そうやって“キャンパスライフを謳歌”できる大学生はけして多くない。「大学は遊びに行くところ」などと考えている人はあまりいるまい。大学は、生き残るための通過点としての性格を強め、転職もまた、決して足を停めてはいけない生存戦略の一環として為されるようになった。綿飴のようなモラトリアムの気分は、最も豊かな者と最もオットリした者にしか許されない。
  
 まあ、階層や格差が固定化しつつある社会状況のなかでは、「自分探し」に時間やお金をかけたところで、浮上してくる選択肢などたかが知れているともいえる。本当に何者にもなり得て、本当に「自分探し」ができるのは、それを支えるための諸力――財力、学力、時間、コミュニケーション能力など――を揃えた人間ぐらいだということを、現代の若者は数十年前の若者よりもよく知っているのだろう。少しずつ少しずつ、「自分探し」は恵まれた子弟の特権に戻りつつあるのではないか。それこそ昔の「高等遊民」のように。
 

*1:もっとも、高等遊民には「望むような就職先が得られない事態に直面した富裕層の子弟」という側面もあるが、望むような就職先が得られないから高等遊民にたゆたうという姿勢自体は、やはりモラトリアム的である。

でも「東京を知らない」地方民は、東京の価値観や競争に巻き込まれずに済むんですよ?

 
www.sugatareiji.com
 
 リンク先には、「地方と東京では基礎的な生活コストはあまり変わらない。自動車の費用や収入差も考えれば、地方有利と言えない」的なことが書かれている。流通の発達したこのご時世、地方だからといって農産物が安く買えるわけでもないから、基礎的な生活コストはあまり変わらないという認識自体、そんなに間違ってはいないと思う。こちらが示しているように、首都圏は全体として物価が高めだとしても。
 
 それでも、基礎的な生活コスト以外のところでは、地方で生まれ育つ人と東京で暮らす人では必要なコストはだいぶ違うのではないだろうか。たとえば自意識を充たすために必要なコスト、社会のなかで競争し勝ち残るためのコストは、東京のほうが高コスト体質ではないだろうか。
 
 

本題に入る前に

 
 あらかじめ断っておく。
 
 東京と地方どちらが暮らしやすいか、あるいは大都市圏~郊外~過疎地のグラデーションのなかでどこがコストパフォーマンスに優れているのかを論じる前に、まず「生まれ育った地元か否か」「その地元の生活に役立つリソースを持っているか」が決定的に重要であることを断っておく。
 
 地元に不動産やコネクションや土地勘を持っている人は、そうでない移住者よりも断然生活しやすい。たとえば親の仕送りが若干多かろうとも、18歳かそこらで初めて上京する人達は、ただそれだけで東京暮らしのハンディを背負っていると言える。同様に、郊外~町村部での生活も、地元のコネクションや土地勘の有無、実家の有無などによって有利不利はぜんぜん違う。
 
 だから、地方と東京、どちらがコストがかかるかを論じる際には、地方/東京それぞれの地元組なのか移住組なのか、地元にリソースを持っている人間か持っていない人間かのほうが問題として大きいことを重々踏まえたうえで、ディスカッションに入るのが良いと私は思う。以下の文章も「東京が地元ではない、地方の人間が書いたもの」と了解したうえで読んで頂きたい。
 
 

「東京を知らない」というメリット

 
 私は、地方で生まれ育った田舎者だが、そのおかげで、とても低コスト体質な人間になれたと思っている。
 
 北陸の寒村で生まれ育った私は、ずっと東京というものを知らなかったから、東京に憧れることもなかったし、東京で暮らしたいとも思わななかった。もちろん私の大好きなサブカルチャーの文物は地元には乏しかったけれども、私には、金沢市や富山市で用が足りるように思えた。学力だって、地元進学校を出て地元大学に入学できれば十分だと思っていたから、東京や大阪への進学は関心の埒外だったし、中学校の同級生の大半も、そんなに遠くまで進学・就職することを考えていなかった。
 
 東京や大阪に住んでいる人にはおかしな物言いかもしれないけれども、私が田舎に生まれて田舎に育ったメリットのひとつは、「東京や大阪に進学したいと思わずに済んだこと」だったと思っている。
 
 大学生になってようやく、私は東京の、奇跡のような文物の集積に仰天した。学問も人材もサブカルチャーも東京に集中していること、多種多様な選択肢が埋もれていることを、私は思春期の後半にやっと知った。ただし、東京の多種多様な選択肢とは、札束で殴って勝ち取る類のものだということもすぐに判ったので、「東京に移住したいと思わずに済んだ」。
 
 そして地元の同窓生の大半は、東京に多種多様な選択肢が埋もれていること自体をそもそも知らない。東京といえば、浅草と秋葉原とスカイツリーとディズニーランドといった風な地方民にとって、東京とは、観光地以上でも以下でもない。そもそも「ディズニーランドといえば東京」といった感覚の人が、地方には大勢住んでいる。
 
 東京に憧れることなく、観光地としてしか認識していない地方民は、東京に移住するために金銭や学力を費やす必要もないし、東京に憧れるせいで地元の暮らしにコンプレックスを持つような自意識のコストを負担する必要もない。生まれが首都圏でもない人間が東京に移住したがり、憧れの目線を送るのは、なかなかコストパフォーマンスの悪いことだと思う。
 
 そして教育やファッションや文化といった、周囲との競争に勝ち抜くためのコストの面でも、地方と東京、中央と末端の間には大きなギャップがある。
 

 
 引用:教育費 [ 2008年第一位 埼玉県 ]|新・都道府県別統計とランキングで見る県民性 [とどラン]より

 これは、2008年の教育費の偏差だが、一目瞭然、東京都民や埼玉県民は教育に高いコストを投じている。これを、学力向上手段が豊かだと解釈する人もいるかもしれないが、穿った目で見るなら、東京都や埼玉県で「人並みの学力」を獲得するためには、他県よりも高い教育費をかけなければならない、ということでもある。首都圏の人間は平均としては高学歴志向で事実高学歴かもしれないが、それは札束で塾や私立学校を殴りにかかればこその話であって、そうした費用を賄えない家庭の子供にとって、過酷な世界と言わざるを得ない。
 
 そのような競争は、ファッション面や文化面でも言える。
 
 東京(やそのほかの大都市圏)に住まう若者のファッションと、地方都市に住まう若者のファッション、そして町村部に住まう若者のファッションは明らかに異なっている。大まかに言って大都市圏のファッションが最も洗練されていて、多様性があり、最も見栄えが良い。しかし裏を返せば、それだけファッションにかけなければならないセンス・時間・金額が大きいということの現われでもあって、国道沿いの量販店の衣服ですべてが事足りる町村部に比べて競争が厳しいということでもある。
 
 サブカルチャーの文物にしたってそうだ。インターネットやネット通販によって地方と東京の格差は縮まったと言うけれども、ここでも大都市圏~地方都市中枢~町村部のギャップはけして小さくない。流行のソーシャルゲーム、流行のデジタルガジェット、そういったものに数ヶ月~1年程度のギャップは未だに存在している。飲食店にしたって、たとえばスターバックスは大都市圏では一種のインフラだが、地方ではいまだに“カルチュアルな威光”を保っている。流行に敏い人からみれば、未だにスターバックスをありがたがっているのは野暮にみえるかもしれないが、逆に言えば、それだけ流行遅れでも地方暮らしでは困らない、ということの表れでもある。
 
 このように、消費社会的で文化競争的な面、とりわけ若者レベルの競争に関しては、東京の暮らしは厳しくて、地方の暮らしは易しい。ところが、東京のほうしか見ていない人は東京基準でしかモノを考えないし、地方から離れない人間も地元基準でしかモノを考えないから、そういう社会的コストの差異、競争に対する感覚のギャップはほとんど意識されないし、語られることもない。東京基準のモノの考え方のままで地方に赴き、地方のファッションセンスやサブカルチャーの時間差を嘲笑するような人は、競争コストを低く抑えられる地方のメリットを見落としてしまうだろう。
 
 

東京の価値観や自意識のまま地方に来てもメリットは乏しい

 
 だからこの問題に関しては、私は、東京に生まれ育った人達や東京にわざわざ移住する人達が大変そうにみえるし、「まだ東京で消耗しているの?」というフレーズにも一抹の真理が宿っていると思う。
 
 そりゃあ東京はいい。
 なんでも揃っているし、なんでも高水準で、なんでも選べる。
 
 でも、裏を返せば、なんでも揃っているなかから何かを選ばなければならないし、天国と地獄ほどの個人差・世帯差のなかで激しく競争しなければならないってことでもあるのだ、東京ってやつは
 
 それに比べれば、いつまでも東京を知らない純然たる地方民や、郊外でいわゆる「マイルドヤンキー」として過ごす人は、諸々の競争、諸々の高コスト体質が強いる消耗から「降りる」ことができる。というより「降りている」こと自体に気づかないから、東京の眩しさに自意識をやられて変なコンプレックスを持たずにも済む。主観的な幸不幸で考えるなら、東京の諸競争のスピードと無縁で過ごせるのは、ただそれだけで大きなメリットだし、経済的・心理的コストを大幅に軽減できる秘訣でもある
 
 いちばん「東京で消耗している」のは、東京になんらリソース蓄積が無いのに東京で暮らしていて、しかも価値観や自意識が東京ベースになっちゃっている人達だと思う。お金もコネも不動産もある人が東京で暮らすのは快適だろうし、東京を知らないままの地方民もそれはそれで悪くない。最悪なのは、お金もコネも不動産も持たないのに東京の重力に魂を奪われ、東京の諸競争のスピードに呑み込まれている人達だ。まさに「まだ東京で消耗しているの?」という言葉がふさわしい。
 
 尤も、とにかく東京から地方に移住すれば良いかといったら、そうでもないことも明白だ。地方で新しい仕事を探すのはなかなか大変だし、せっかく地方に移住しても、価値観や自意識を東京に置いてきたままでは、地方に生まれ育った人間にとってほとんど生得的な、あの低コスト体質は手に入らない。結局「あなた、地方でも東京と同じライフスタイルで消耗しているんですね」的な事態に陥ってしまう。
 
 そろそろ飽きてきたので強引にまとめると、「東京の価値観や自意識」にすっかり染まってしまった人には、地方の低コスト体質と、それと対照的な東京のスピードが認識しにくくて、でも、その認識ギャップは幸不幸を案外左右するんじゃないかってことです。
 
 

「子育て」の空気と日本の空気

 


 
 ここ十年ぐらいで、インターネット上で子育てについての文章を見かける機会が多くなった。子育て個人ブログを掘り起こすと、天国のような親子関係が綴られたブログもあれば、天国を装った地獄を垣間見せるブログもあって、娑婆世界の広さに驚かされる。
 
 さておき、インターネットのトラフィックをさらっていくのは、幸福な子育ての、個人的な記録などではない。育児負担やストレスに潰れそうな話、育児にまつわる夫婦の摩擦の話、そういった「不幸な子育ての物語」が専ら注目を集める。ときには、それが社会問題として議論されることもある。
 
 インターネット上で流行りやすいのは、ちょっと主語が大きめで不幸寄りな子育ての「物語」、いや「コンテンツ」ということだ。
 
 のみならず、子育てについて成人同士で会話をする時にも、子育ての苦労話には引け目はあまり感じず、子育ての楽しい話をする際には“遠慮”が要る。
 
 
 “遠慮”ではなく、上記に倣って“慎み”と言い直すべきかもしれない。大人社会に順応するためには、こういう“慎み”は重要だ。オンラインでもオフラインでも、子育ての楽しさの真髄は語られるべきではないとされ、“慎み”のオブラートに包んだかたちで子育ては語られなければならない。
 
 でも、これって本当に良いことなんだろうか?
 
 

おおっぴらに子育てを語る際の「空気」

 
 子育ての体感は、苦しさが優勢な家もあれば、楽しさや育て甲斐が優勢な家もあるだろう。いや、ひとつの家庭、ひとつの親子でも、苦しさの勝る時期もあれば、楽しさが勝る時期もある。子育てが苦しさ一辺倒というのも、楽しさ一辺倒というのも、少数の例外でしかない。
 
 ところが、オンラインでもオフラインでも子育ての苦しい部分は話題にしやすいのに、子育ての楽しい部分・やり甲斐のある部分は話題にしにくい。本当に幸せそうな子育てブログが静かに営まれていることが示すように、そういうのは拡散もしにくい*1
 
 結果、インターネット内外で「子育ては苦しい」「子育てはストレス」と強く印象付けられやすい。子育てをしている人はともかく、子育てをしていない人はとりわけそうではないだろうか。だが、これは子育ての内実の半分ぐらいしか言い表していない声であって、公正を期するなら、ネット内外には「子育ては楽しい」「子育てには遣り甲斐がある」といった言葉がもっと流通しても良いのではないだろうか。
 
 もちろん、こうした「子育ては楽しい」「子育ては遣り甲斐がある」といった声には反発もあるだろう。
 
 例えば、「その楽しい子育てを見て傷ついている人もいるんだ!」「楽しい子育てを見聞きしたら、苦しい子育てをしている人に申し訳ないだろう!」といったものである。
  
 そういった懸念は、あるていど実際そのとおりだろうし、それが“慎み”を生むというのも理解している。しかし、子育ての苦労話やストレス話しか許容しない空気や雰囲気が社会に蔓延するのも、それはそれで問題ではないだろうか――つまり、子育てについては苦しさやストレスを語るのが適切で、楽しさや遣り甲斐について語るのは不適切とみなす空気によって、日本社会の子育て観は不当に歪められているのではないだろうか。そして、“慎み”の名のもと、そのような空気を支え合うことによって、私達は“奴隷の鎖自慢”のような状況に加担しているのではないだろうか。
 
anond.hatelabo.jp
 
 上記リンク先につけられたはてなブックマークコメントを見ていても思うのだが、仕事も子育ても苦労話しか許容せず、楽しい話をブッ叩く雰囲気がモクモクできあがるのは、日本社会のすごく良くないところだと私は思う*2
 
 インターネットを眺めていると、普段、空気に流されがちな日本社会を批判しているアカウントが、子育ての話題になるや「子育ては苦しい」「子育てはストレス」的な論調しか許容しない態度をとり、“察しと思いやり”を言外に要求しているのが垣間見えることがある。そういうのをみるたび、やはり日本は空気の国、“察しと思いやり”の国なのだなぁと再認識せずにいられない。
 
 

「子育ての苦しさ」はコンテンツになるが、「子育ての楽しさ」はコンテンツにならない

 
 どうしたら、この「空気」を変えられるのだろう?
 
 かりに、子育て当事者それぞれが「子育ての楽しさ」「子育てのやり甲斐」を語れば解決するとしたら、既存の子育てブログやアカウントがもっと人気を集めて、もっと影響力を持っていたっていいはずだが、残念ながらそうはみえない*3
 
 たぶん、「子育ての苦しさ」「子育てのストレス」はそのまま物語やコンテンツになり得るけれども、個別の「子育ての楽しさ」「子育てのやり甲斐」は物語やコンテンツになり得ない。また、前者は、当事者の体験談がそのまま社会問題や社会正義の話として語られ得るけれども、後者はそのようなアングルを持ちえない。これも大きい。
 
 「社会問題がメディアに抽出されるのは良いことじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、喜んでばかりもいられないと私は思う。社会問題がメディアに抽出されるのはもちろん良いことだが、社会問題ばかりがメディアで目につきやすいのは、それはそれで偏っている。まして、その偏りが世間の空気に加担しているとなれば、尚更である。
 
 「子育ての楽しさ」が「子育ての苦しさ」という空気を押し戻していくのは、相当難しいと思う。もちろん、子育て家庭それぞれの平均的な苦しさやストレスが全般的に解消に向かえば「空気」も緩和されるかもしれないが、子育て言説の消費状況を眺める限り、空気を読み合う“察しと思いやり”が幅を利かせる状況と、それによって生じる“奴隷の鎖自慢”っぽい空気は、それだけでは解消されないように思う。
 
 それでも、「隗より始めよ」の精神で、私自身は子育てのポジティブな面を積極的に語っていきたいな、と思う。
 

*1:ちなみに、メディア受けの良いように整形された子育ての楽しさなら、遠くまで拡散することがある。だが私は、それらの造り込み感に辟易してしまう。子育ての楽しさの、艶やか過ぎるシミュレーション。

*2:ただし、リンク先の文章は少々喧嘩腰なので、それで反発コメントが集まっているという側面もある。

*3:もっとも、人気や影響力を集めるにつれて、子育ての楽しさややり甲斐はメディアの力場に汚染されていくので、人気や影響力を集めないほうが不幸を避けやすいとは言えるが。

TV版『ガンダムUC』の「ブツ切れ感」が改善してきた

 

機動戦士ガンダムUC(ユニコーン) [Mobile Suit Gundam UC] 4 [Blu-ray]

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 今年は、日曜日の朝7時からテレビ版『ガンダムUC』をやっていて毎週視聴しているが、テンポが悪くて落ち着きが無かった。
 
 この作品には、中年ガンダムファンの脳髄を痺れさせるモビルスーツがモリモリ登場し、私としては落涙を禁じ得ないのだが、盛り上がってきたところでエンディングテーマを迎えてしまい、構成の「ブツ切れ」感が否めなかった。
 
 OVA版に比べてTV版の『ガンダムUC』は尺が短い。そのせいで、中年ガンダムファンの魂がようやく暖まってきた頃に終わってしまう展開が多かったのである。「せっかくエンジンがかかってきたところなのに、もう終わりかよ!」
 
 

「TVの尺では駄目」とは限らない

 
 それで比べたくなってしまうのは、TV版『宇宙戦艦ヤマト2199』だ。
 

宇宙戦艦ヤマト2199 1 [Blu-ray]

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 『宇宙戦艦ヤマト2199』も、OVA版からTV版にコンバートされた作品だが、「ブツ切れ感」にさほど悩まされなかった。なぜか?
 
 本当の理由はわからない。けれども両作品を見比べていて思うのは、OVA版『ガンダムUC』の構成の良さが、かえってTV版へのコンバートを難しくしているように見える、ということだ。
  
 OVA版の『ガンダムUC』は二時間近い尺を目いっぱい使って、それぞれの回の起承転結をキチンと組み立てていた。地球編の途中までは特にそうだったと思う。しかし、TV版にコンバートするにはそれを“バラさなければならない”わけで、原作の構成がキチンとしていたぶん、どうしたって「ブツ切れ感」が出てしまう。
 
 その点、OVA版の『宇宙戦艦ヤマト2199』は(最近のアニメの基準からすれば)のんびり進行だったのが幸いしたと思う。冥王星基地攻略など区切れの良い場面もあったけれども、全体としては、イスカンダルに向かって“ダラダラ”旅を続けていて、古いアニメの懐の深さが作品に宿っていた。ちょっと寄り道気味なサブストーリーが多かったのも良かった。
 
 そういう、現代アニメの視聴者には“贅肉”ともうつりかねない要素が、TV版『宇宙戦艦ヤマト2199』の一話一話を小咄にまとめる際に幸いしていたのではないか。
 
 

ここ数回の『ガンダムUC』はテンポがいい

 
 幸い、最近のTV版『ガンダムUC』は「ブツ切れ感」が改善している。
 
 今、TV放送している【トリントンの戦い~ミネバ・ザビ奪還作戦~ゼネラルレビル戦】のあたりは、OVA版ではテンポも尺も良くない部類だった。『ガンダムUC』という作品のなかでは、中だるみ気味だったと記憶している。
 
 「ところが」というべきか、「だからこそ」と言うべきか、TV版からは「ブツ切れ感」がほとんど感じられない。巧いところで区切っているとさえ感じる。エンディングテーマが始まるのも自然で、日曜の朝が滞りなく始まりますね!
 
 TV版ガンダムを視聴するってのは、古くからのガンダムファンにとっては“日曜ガンダム礼拝”に近いものだから、どうせなら、ガンダムの夢に気持ち良く入って気持ち良く出てこれるものであって欲しい。どうかこれからも、テンポの良い構成でありますように。