シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

でも「東京を知らない」地方民は、東京の価値観や競争に巻き込まれずに済むんですよ?

 
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 リンク先には、「地方と東京では基礎的な生活コストはあまり変わらない。自動車の費用や収入差も考えれば、地方有利と言えない」的なことが書かれている。流通の発達したこのご時世、地方だからといって農産物が安く買えるわけでもないから、基礎的な生活コストはあまり変わらないという認識自体、そんなに間違ってはいないと思う。こちらが示しているように、首都圏は全体として物価が高めだとしても。
 
 それでも、基礎的な生活コスト以外のところでは、地方で生まれ育つ人と東京で暮らす人では必要なコストはだいぶ違うのではないだろうか。たとえば自意識を充たすために必要なコスト、社会のなかで競争し勝ち残るためのコストは、東京のほうが高コスト体質ではないだろうか。
 
 

本題に入る前に

 
 あらかじめ断っておく。
 
 東京と地方どちらが暮らしやすいか、あるいは大都市圏~郊外~過疎地のグラデーションのなかでどこがコストパフォーマンスに優れているのかを論じる前に、まず「生まれ育った地元か否か」「その地元の生活に役立つリソースを持っているか」が決定的に重要であることを断っておく。
 
 地元に不動産やコネクションや土地勘を持っている人は、そうでない移住者よりも断然生活しやすい。たとえば親の仕送りが若干多かろうとも、18歳かそこらで初めて上京する人達は、ただそれだけで東京暮らしのハンディを背負っていると言える。同様に、郊外~町村部での生活も、地元のコネクションや土地勘の有無、実家の有無などによって有利不利はぜんぜん違う。
 
 だから、地方と東京、どちらがコストがかかるかを論じる際には、地方/東京それぞれの地元組なのか移住組なのか、地元にリソースを持っている人間か持っていない人間かのほうが問題として大きいことを重々踏まえたうえで、ディスカッションに入るのが良いと私は思う。以下の文章も「東京が地元ではない、地方の人間が書いたもの」と了解したうえで読んで頂きたい。
 
 

「東京を知らない」というメリット

 
 私は、地方で生まれ育った田舎者だが、そのおかげで、とても低コスト体質な人間になれたと思っている。
 
 北陸の寒村で生まれ育った私は、ずっと東京というものを知らなかったから、東京に憧れることもなかったし、東京で暮らしたいとも思わななかった。もちろん私の大好きなサブカルチャーの文物は地元には乏しかったけれども、私には、金沢市や富山市で用が足りるように思えた。学力だって、地元進学校を出て地元大学に入学できれば十分だと思っていたから、東京や大阪への進学は関心の埒外だったし、中学校の同級生の大半も、そんなに遠くまで進学・就職することを考えていなかった。
 
 東京や大阪に住んでいる人にはおかしな物言いかもしれないけれども、私が田舎に生まれて田舎に育ったメリットのひとつは、「東京や大阪に進学したいと思わずに済んだこと」だったと思っている。
 
 大学生になってようやく、私は東京の、奇跡のような文物の集積に仰天した。学問も人材もサブカルチャーも東京に集中していること、多種多様な選択肢が埋もれていることを、私は思春期の後半にやっと知った。ただし、東京の多種多様な選択肢とは、札束で殴って勝ち取る類のものだということもすぐに判ったので、「東京に移住したいと思わずに済んだ」。
 
 そして地元の同窓生の大半は、東京に多種多様な選択肢が埋もれていること自体をそもそも知らない。東京といえば、浅草と秋葉原とスカイツリーとディズニーランドといった風な地方民にとって、東京とは、観光地以上でも以下でもない。そもそも「ディズニーランドといえば東京」といった感覚の人が、地方には大勢住んでいる。
 
 東京に憧れることなく、観光地としてしか認識していない地方民は、東京に移住するために金銭や学力を費やす必要もないし、東京に憧れるせいで地元の暮らしにコンプレックスを持つような自意識のコストを負担する必要もない。生まれが首都圏でもない人間が東京に移住したがり、憧れの目線を送るのは、なかなかコストパフォーマンスの悪いことだと思う。
 
 そして教育やファッションや文化といった、周囲との競争に勝ち抜くためのコストの面でも、地方と東京、中央と末端の間には大きなギャップがある。
 

 
 引用:教育費 [ 2008年第一位 埼玉県 ]|新・都道府県別統計とランキングで見る県民性 [とどラン]より

 これは、2008年の教育費の偏差だが、一目瞭然、東京都民や埼玉県民は教育に高いコストを投じている。これを、学力向上手段が豊かだと解釈する人もいるかもしれないが、穿った目で見るなら、東京都や埼玉県で「人並みの学力」を獲得するためには、他県よりも高い教育費をかけなければならない、ということでもある。首都圏の人間は平均としては高学歴志向で事実高学歴かもしれないが、それは札束で塾や私立学校を殴りにかかればこその話であって、そうした費用を賄えない家庭の子供にとって、過酷な世界と言わざるを得ない。
 
 そのような競争は、ファッション面や文化面でも言える。
 
 東京(やそのほかの大都市圏)に住まう若者のファッションと、地方都市に住まう若者のファッション、そして町村部に住まう若者のファッションは明らかに異なっている。大まかに言って大都市圏のファッションが最も洗練されていて、多様性があり、最も見栄えが良い。しかし裏を返せば、それだけファッションにかけなければならないセンス・時間・金額が大きいということの現われでもあって、国道沿いの量販店の衣服ですべてが事足りる町村部に比べて競争が厳しいということでもある。
 
 サブカルチャーの文物にしたってそうだ。インターネットやネット通販によって地方と東京の格差は縮まったと言うけれども、ここでも大都市圏~地方都市中枢~町村部のギャップはけして小さくない。流行のソーシャルゲーム、流行のデジタルガジェット、そういったものに数ヶ月~1年程度のギャップは未だに存在している。飲食店にしたって、たとえばスターバックスは大都市圏では一種のインフラだが、地方ではいまだに“カルチュアルな威光”を保っている。流行に敏い人からみれば、未だにスターバックスをありがたがっているのは野暮にみえるかもしれないが、逆に言えば、それだけ流行遅れでも地方暮らしでは困らない、ということの表れでもある。
 
 このように、消費社会的で文化競争的な面、とりわけ若者レベルの競争に関しては、東京の暮らしは厳しくて、地方の暮らしは易しい。ところが、東京のほうしか見ていない人は東京基準でしかモノを考えないし、地方から離れない人間も地元基準でしかモノを考えないから、そういう社会的コストの差異、競争に対する感覚のギャップはほとんど意識されないし、語られることもない。東京基準のモノの考え方のままで地方に赴き、地方のファッションセンスやサブカルチャーの時間差を嘲笑するような人は、競争コストを低く抑えられる地方のメリットを見落としてしまうだろう。
 
 

東京の価値観や自意識のまま地方に来てもメリットは乏しい

 
 だからこの問題に関しては、私は、東京に生まれ育った人達や東京にわざわざ移住する人達が大変そうにみえるし、「まだ東京で消耗しているの?」というフレーズにも一抹の真理が宿っていると思う。
 
 そりゃあ東京はいい。
 なんでも揃っているし、なんでも高水準で、なんでも選べる。
 
 でも、裏を返せば、なんでも揃っているなかから何かを選ばなければならないし、天国と地獄ほどの個人差・世帯差のなかで激しく競争しなければならないってことでもあるのだ、東京ってやつは
 
 それに比べれば、いつまでも東京を知らない純然たる地方民や、郊外でいわゆる「マイルドヤンキー」として過ごす人は、諸々の競争、諸々の高コスト体質が強いる消耗から「降りる」ことができる。というより「降りている」こと自体に気づかないから、東京の眩しさに自意識をやられて変なコンプレックスを持たずにも済む。主観的な幸不幸で考えるなら、東京の諸競争のスピードと無縁で過ごせるのは、ただそれだけで大きなメリットだし、経済的・心理的コストを大幅に軽減できる秘訣でもある
 
 いちばん「東京で消耗している」のは、東京になんらリソース蓄積が無いのに東京で暮らしていて、しかも価値観や自意識が東京ベースになっちゃっている人達だと思う。お金もコネも不動産もある人が東京で暮らすのは快適だろうし、東京を知らないままの地方民もそれはそれで悪くない。最悪なのは、お金もコネも不動産も持たないのに東京の重力に魂を奪われ、東京の諸競争のスピードに呑み込まれている人達だ。まさに「まだ東京で消耗しているの?」という言葉がふさわしい。
 
 尤も、とにかく東京から地方に移住すれば良いかといったら、そうでもないことも明白だ。地方で新しい仕事を探すのはなかなか大変だし、せっかく地方に移住しても、価値観や自意識を東京に置いてきたままでは、地方に生まれ育った人間にとってほとんど生得的な、あの低コスト体質は手に入らない。結局「あなた、地方でも東京と同じライフスタイルで消耗しているんですね」的な事態に陥ってしまう。
 
 そろそろ飽きてきたので強引にまとめると、「東京の価値観や自意識」にすっかり染まってしまった人には、地方の低コスト体質と、それと対照的な東京のスピードが認識しにくくて、でも、その認識ギャップは幸不幸を案外左右するんじゃないかってことです。