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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

皆さん、本当は「想像力の欠如」がお望みなんでしょう?

 
 
 
 貧困報道を「トンデモ解釈」する困った人たち -ある階級の人たちは「想像力」が欠如している
 
 「想像力の欠如」は、これまでも知識人やその周辺によって繰り返し指摘されてきた。階級・階層・立場の違う人達への想像力が欠けているのは問題だ、というやつである。
 
 リンク先は、そうした「想像力の欠如」を踏まえたうえで、どのようなコミットメントや報道が望ましいのか、真摯に悩む文章だと私は感じた。そして、あまりの難しさに「難しい問題ですね」という感想を述べるのが精いっぱいだった。
 
 ちなみに「難しい問題ですね」という言葉は、ある先輩医師の受け売りである。どうしようもない問題やどう動いても角が立つ問題に対して身動きがとれない(またはとらない)時に、彼は「難しい問題ですね」と口にしていた。彼が口にする「難しい問題ですね」は、どの選択肢にも痛みが伴う問題に対する深慮のようにも見えたし、考えるのを打ち切る際の大義名分のようにも見えた。その台詞のうちに歯がゆさを実感するようになったのは、その先輩医師と同じぐらいの年齢になってからのことである。
 
 それはそうとして、「想像力の欠如」は社会的には大きな問題だが、個人それぞれにとって、どのぐらい問題意識になり得るものだろうか。
 
 「想像力の欠如はいけない」――私だって、頭ではそう理解している。理解しているのだが、私自身の、いや、私達のライフスタイルを顧みた時、「想像力の欠如」とは解決すべき問題なのか、それとも望ましい状況なのか、ときどきわからなくなる。
 
 マクロな社会問題をいつも気にしている人達は、もちろん、「想像力の欠如」を社会問題として槍玉にあげるだろう。私も社会問題だと認識している。だが、「想像力の欠如」が社会問題であるという認識と、個人のライフスタイルや望みには大きなギャップがあるのではないか。それらが乖離しているからこそ、リンク先で鈴木大介さんが危惧しているような「ちゃんと伝わりにくい」「かわいそうバイアス報道」が生じやすくなっているのではないか。
 
 そのあたりについて、私が疑問に思っているところを正直に吐きだしてみる。
 
 

「想像力の欠如」って、みんなが望んだ結果じゃないの?

 
 私は、私自身とあなたに問うてみたい。

 「想像力の欠如」に困っていますか?
 
 「想像力の欠如した他人」に困っている人なら、ごまんといるだろう。モンスタークレーマーに苦慮する労働者などはその最たるものだし、マイノリティ属性を持った人が、そのマイノリティ属性に対する想像力の欠如に苦しめられていることも多かろう。
 
 それはそれとして、「私/あなた自身に、想像力が欠如している」という事態に、どれだけのデメリットがあるだろうか。
 
 「私は社会問題など意に介さない自己中心的な人間です」と大声で表明すれば社会的デメリットがあるかもしれないが、そういう大っぴらな表明をしない限りにおいて、自分自身の想像力の欠如によってデメリットを蒙る人は、あまりいないのではないか。
 
 「想像力が欠如していない」状態、すなわち、自分とは異なる階級・階層・立場・属性の人達への想像力が行き届いた状態には、コストがかかる。生活態度も価値観も出自も違っている人達に想像力を本当に働かせるためには、当然、そうした人達とのコミュニケーションが必要となる。それも、年に一度とか、三日限りとか、そういうものではなく、多かれ少なかれ継続的なコミュニケーションを持っていかなければならない。いや、コミュニケーションというより“接点”と言うべきか。
 
 だが、そのようなコミュニケーションや“接点”は、必然的にしがらみや摩擦をどっさりもたらす。最も成功した場合でさえ、気を遣ったぶんだけ神経は磨り減るだろうし、時間もかかる。そんな神経の摩耗や時間の消耗を、この効率至上主義な社会のなかで一体誰が望むというのか*1
 
 それよりは、メディア越しに「貧困」や「マイノリティ問題」を眺めやったほうが(あえていやらしい表現を使うが)“コスパが良い”のではないか。
 
 リンク先の鈴木大介さんは、貧困問題についてメディアで報道することの難しさと、安易な受け取られかたについて問題提起しておられる。その問題提起は至当だろう。だが、そうした問題提起が必要となる背景には、自分とは大きく隔たった人達に対する想像力コストをなるべく減らして済ませたい私達のニーズがあり、もっと言うと、「見たいものしか見たくない」「想像しやすいものしか想像したくない」メンタリティが拭いがたく存在するのではないか。
 
 そういったニーズやメンタリティがあると仮定したうえで「想像力の欠如」問題について考え直してみると、実のところ、私達は想像力の欠如に困っているのではなく、想像力の欠如を望んでやまず、手放したくないのではないだろうか。
 
 私は、その象徴を現代の都市空間や郊外空間に見る。
 
 昨今のオートロックのタワーマンションやニュータウンは、居住者にあるていどの同質性を提供したうえで、お互いが好き勝手に暮らしても摩擦やしがらみを最小限にできる構造になっている。それらは最近に始まったことではなく、20世紀から連綿と受け継がれてきた、人と人との摩擦やしがらみを最小化して快適なライフスタイルを実現するための、一連の運動のなかでできあがってきたアーキテクチャだ。
 
 雑多な人間同士が集落や団地に押し込められて、職場でも私生活でも「付き合い」が避けられなかった昭和時代の苦しみから逃れたいという、皆の思いが具現化した結果として、今日の、誰もが好き勝手に暮らして、それでいて摩擦やしがらみを最小化できる生活空間が立ち上がってきたことを私は忘れることができない。そして、そのような生活空間を、本当は誰もが――貧困問題の当事者と呼ばれる人達すら含めて――望んでやまないということも。
 
 本当の意味で、自分とは異なる階級・階層・立場・属性の人達への想像力を養いたいのなら、メディアを読み漁るのでも、数日程度のボランティアを体験するのでもなく、雑多な人々とコミュニケーションや接点を持ち続けられるような生活やライフスタイルを採用していく必要がある。だが、そこにはしがらみや摩擦がどっさり待っているし、それは現代風のライフスタイルに慣れきった者同士ではとりわけ辛いと想定される。それでも「想像力の欠如」を克服し、人と人とがわかりあえるとしたら、こんなに素晴らしいことはない。しかし、そんな勇気ある一歩を踏み出し、実際にわかりあえる“英雄”のような個人は、どこにどれだけいるだろうか。
 
 

「想像したいものしか想像したくない」「でも私のことはわかって欲しい」

 
 他方で、私達は「想像力への期待」を抱えてもいる。
 
 私達は、見たいものしか見たくないし、想像したいものしか想像したくない。公正なメディアの報道すら、自分達に都合の良いように脳内補完して解釈しがちだ。にも関わらず、当事者に回っている時の私達は、私達自身の苦しさや境遇をきちんと見てもらいたい、対処して貰いたいと望み焦がれる。
 
 お年寄りは、年金問題や医療費問題に思いを馳せて貰いたい。
 子育て中の壮青年は、「保育園落ちた日本死ね!」をわかって貰いたい。
 そのほかの立場・属性の人達も、それぞれの立場・属性に応じて対処して貰いたいと声をあげる。
 
 他人事については「想像力の欠如」にまどろんでいたい私達ではあっても、自分自身のことについては「想像力を期待」する――これは、想像力のダブルスタンダードとも言うべき態度だが、現代日本においては――いや、どこの国でもそんなものかもしれないが――ありがちな態度である。その想像力のダブルスタンダードに立脚したかたちで言説空間の議論や駆け引きが行われ、政治的デシジョンや“あるべき規範的態度”が形成されているのが、現状のようにみえる。
 
 言うまでもなく、そのような政治と規範の形成プロセスは「想像力の欠如にふさわしい、見当違いなものになってしまう」リスクを生む。ときに、エリートが見当違いな貧困対策を表明する背景には、そうした見当違いも多分に含まれているのだろう。また、自分とは異なる立場・属性の人間を悪しざまに罵って憚らない、昨今の政治的/コミュニケーション的風潮も、そうしたダブルスタンダードに因って立つ部分があるように思われる。
 
 社会全体のことを考えるなら、このような「想像力の欠如」は是正されて然るべきだろう。しかし、私達がこしらえ、支持してきたライフスタイルや生活環境が正反対の方向性である以上、口ではツベコベ言っていても、「想像力の欠如」した「都合の良い生活空間とライフスタイル」を手放したくないのが私達の本音ではないのか。とはいえ、本音丸出しはいかにも恰好がつかないから、「メディアを読んで勉強して」「難しい問題ですね」と嘆いてみせることで、想像力のダブルスタンダードを糊塗し、さも社会問題への意識が高いような態度を形成する――私自身も含め、ありがちで疎ましい賢しさと言わざるを得ない。
 
 

それでも「想像力の欠如」を乗り越えていくとしたら

 
 こうした現状を踏まえたうえで、摩擦やしがらみを厭わず、「想像力の欠如」を埋め合わせる方向に進んでいくためには、どのように行動すれば良いのだろうか。
 
 個人レベルの理想を言えば、自分とは異なるさまざまな人々とのコミュニケーションの機会を丹念に拾い上げていくこと、それも、単発で終わるものではなく、持続するような性質のコミュニケーションを保持しておくことだろうし、そのように努める余地は誰にでもある。
 
 ただし、既に「想像力の欠如」に慣れきった私達が、垣根を越えて異なる階級・階層・立場・属性の人と付き合っていくのは簡単ではない。高いコミュニケーション能力が必要とされるだけでなく、時間やお金もかかるだろう。ストレスだって大きいに違いない。
 
 なにより、学校生活でも職場生活でも同質性の高い――たとえば東京のエリート校の出身者同士、あるいは地方の実業高校出身者同士のような――生活環境で生まれ育ってきた人間は、そう簡単には想像力の壁を突破できない。生まれながらに慣れ親しんだ価値観や規範意識を当然と思っている場合は、それが“色眼鏡”になって“ボタンの掛け違い”を生むこともある。
 
 同質性の高いモノの見方しかできない人間それぞれが、みずからの所属する集団の外側に想像力を働かせる意志と能力を欠いたまま、それぞれ好き勝手に生きている(そして生きざるを得ない)という意味では、確かに日本は階層社会になりつつあるのだろう。
 
 たぶん、こうした問題を根底から解決するためには、その「想像力の欠如」の苗床となっている、現代の生活環境やライフスタイルが刷新されなければならないのだと私は思う。だが、私達にその意志と覚悟があるだろうか? 戦後以来の人々の願いや夢が結実した都市空間や郊外空間の彼岸に、私達は辿り着けるのだろうか。
 

*1:そして一体誰に可能だというのか