シロクマの屑籠(夏休み体制中)

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

背伸びしない「大人のデート」、背伸びする「大人のデート」

 
 昨日、twitterで「大人のデート」って言葉を見かけた。
 
 

 
 ビリヤード。ショットバー。これが「大人のデート」……。そういえば私も「大人のデート」にビリヤードやショットバーを連想していた時代があった。学生時代に連想していた「大人のデート」は、少しバブル景気の名残りを帯びていたかもしれない。なんにせよ若返ったような気持ちになった。
 
 ところが私ときたら、行儀悪くも以下のようなことをつぶやいていた。
 
  
 外国旅行も、河川敷の散歩も、サイゼリヤでの食事も、大人同士で楽しめるなら、それが「大人のデート」ってやつじゃありませんか?というわけだ。成人式から倍の歳月を生きてしまった私が信じる「大人のデート」には、ビリヤードやショットバーはあってもいいけれども無くても構わない。大切なのは、異性と何をするかではなく、異性と一緒の時間を楽しめるかどうかじゃないか?その感覚に嘘いつわりはない。
 
 

年少からみた「大人のデート」と年長からみた「大人のデート」

 
 まるで二十年前の自分のような若々しい「大人のデート」と、現在の私自身の「大人のデート」。言葉こそ同じでも、意味しているものは全く正反対だ。
 
 冒頭のツイートも過去の自分もそうだけど、二十代前半に語られる「大人のデート」という言葉には、等身大の自分には無いもの、これから身に付けたい所作への憧れが含まれている。成人式から時間がそれほど経っていない男女には、まだまだ慣れ親しんでいない成人向けのレクリエーションや娯楽施設がたくさんあるわけで、そういったものを楽しみたい・異性と一緒に嗜みたいと夢見るはそれなり健全なことだ。なにごとも最初は“大きすぎる服”かもしれないけれど、そういう憧れの気持ちがあればこそ、人は新しい経験を積み重ね、慣れ親しんでいくことができる。
 
 私は「異性とデートに行く際に、いろんな楽しみを共有できる自分になっておきたい」と強く願い、「大人のデート」に憧れて実践を積み重ねれば、そういう自分自身に近づけるだろうと思う。少なくとも、そう願わず、なんら実践を積み重ねないよりはよほど可能性があると思う。
 
 いっぽう、現在の私が思い描く「大人のデート」という言葉は、それとは正反対だ。異性とどこへ行くにも何をやるにも等身大の自分で構わず、本人同士が楽しければなんだって良いじゃないか……という気持ちが強い。むしろ、背伸びの気持ちを含んだデートなんて「子どものデート」ではないか。私はそういう「子どものデート」話を見かけると「それって大人のデートじゃないよ」という気持ちと「ああ、あの頃の背伸びにはもう帰れないんだな……」的な気持ちがゴチャ混ぜになる。
 
 でも、私がもっと年を取ったら、案外「大人のデート」は再び背伸びを含んだものになるのかもしれない。いや背伸びというより、背筋を伸ばした、と言うべきか。今の私の「大人のデート」観は、背伸びが無いかわりに背筋もあまり伸びていない、と思う。昭和時代の団体旅行の面々ほどではないにせよ、悪い意味でおじさん・おばさんめいた開き直りがある。中二病が高二病になり、やがて大二病になるように、私の「大人のデート」観も、どこかでグルっと回帰するのかもしれない……。
 
 ともあれ「大人のデート」という言葉を十代二十代の側から眺めるのと、三十代四十代から眺めるのでは、たぶん意図するところがまったく違っている。それがいけないわけでなく、それでいいんだと思う。ただ、インターネット上で「大人のデート」という言葉を使う時、それが健全な背伸びの感覚を含んだ若々しいものなのか、応分に年齢と経験を積んだ後の等身大志向なのかを読み違えると、結構な誤解や勘違いが生じるんじゃないかと気づいたので、ちょっとブログに書き留めておいた。