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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

次の思春期のために。次の次の思春期のために。

 
 Marginal Soldier: 大人になんてなりたくない:「若作りうつ」社会
 
 拙著「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)をお読み頂き、ありがとうございました。ご感想を拝見しながら、年の取り方と未来について、箇条書き的に書き連ねたくなったので、やってみます。
 
 
1.おおむね1980年代〜90年代頃から、私達は、制度的にも、思想的にも、空間的にも、年を取らなくて構わなくなりました。生物学的には年を取り続けているのに、見た目や振る舞いはいつまでも若々しくいられる社会。そのメリットについては、これまで十分喧伝され、現在もテレビCMなどで謳われています。でも、良いことづくめでもあるまい、という疑問が私にはありました。
 
 一般論として、人間が技術やイデオロギーによって何かを獲得する*1際には、必ずなんらかの喪失や変形を伴うものです。活版印刷も、電話も、インターネットもそうでした。社会的に年を取らなくて構わない新境地にも、それ相応の喪失や変形もあるはず――拙著では、そのあたりについて議論してみました。
 
  
2.もし、私達が私達の代だけで、社会を食いつぶし、思春期を堪能し、若さに酔って構わないなら、年の取り方がわからなくなった社会についても、さほど気にする必要は無いと思います。個人の自由の名のもと、いつまでも男子や女子を名乗って構わないし、エイジングの内実が不問に付される現代居住空間のメリットを最大限に生かせば良いでしょう。
 
 ところが、世界は私達だけのものではないし、私達だけが思春期に舌鼓をうって構わないわけでもなかったのでした。私達が若作りし、飽食し、漫画やアニメを観て憂さを晴らしている舞台であるところの、この世界は、先行世代から譲られたもので、後発世代に託していかなければならない、リレーのバトンのようなものでもあります。ライフサイクルにかわってライフコースという言葉が多用されるようになりましたが、私はああいう視点を好みません。なぜなら、「私達は、世界という名のトラックをしばらく駆けることを許された、バトンリレーの選手のようなもの」という着想が、ライフコースという言葉には宿っていないからです。
 
 ライフコース的にみるなら、今生きている人間は世界の主であり、自己とはセカイそのものかもしれません。しかし、ライフサイクル的にみるなら、今生きている人間は世界を間借りしている者であり、自己とは世界現在に参与する無数の構成素子のひとつ、と理解されるものです。
 
 そんな借り物の世界に際し、わがもの顔に春を謳歌して構わないのか?いや、生きるために仕方ない部分・ままならぬ部分があるのはいつの時代も同じでしょう。それでも、次世代に世界を受け継いでいく感覚が生活意識に含まれている成人が多いのか・それとも自分のライフコース以外はまったく眼中に無い成人が多いのかは、さまざまな場面に顕れて来るんじゃないですか、とは思うのです。
 
 
3.青年なり壮年なり老年なりの自由な振る舞いは、スタンドアロンで完結しているわけではありません。より年少の人達、未来の社会をつくりあげていく人達に絶え間なくまなざされ、参照されています。現世代は、そのような年少者からのまなざしや参照を介して、次の時代の種を蒔いている、と言い換えても良いかもしれません。そうした参照の“場”や“縁”は、拙著で触れたように、現代居住空間のなかで相当な変形を蒙っています。が、さしあたって「年少世代は年長世代を参照項とし、是とするにせよ、非とするにせよ、心理-社会的な足がかりとしている」というテーゼそのものは今も昔も変わりません。
 
 そうやって年少世代にまなざされ、次の時代と精神の参照元やインストール元になっている以上、年長世代は、少なくとも年少世代に対しては、なるべく年長者として、「大人」として、参照元として振舞うのが望ましいでしょう。その点になんらの責任も存在しないと言ってしまうのは、過ぎた省略だと私は思います。もちろんその際には、
 

 断っておきますが、私は「全員結婚しろ」「早く子どもをもうけるべきだ」と主張したいわけではありません。地域社会が健在だった時代には、子どもをもうけられない妻は「石女」と呼ばれ、冷遇されました。その手の悪弊を二十一世紀に蘇らせ、「結婚して子どもを作らないやつは駄目」的な風潮を作っても、誰のためにもなりません。現代社会における年の取り方と、そのロールモデルには、現代社会の多様性を反映したバリエーションがあって然るべきで、年長者が年少者に何かを分け与え、次世代の育成に寄与する道もひとつではないと思います。
 
 熊代亨『「若作りうつ」社会』P193、「いろんな年の取り方があっていい」参照。

 単一のロールモデルがタイトにインストールされるのではなく、多様性のあるロールモデル(の手札)が年少者の目に届くかたちが好ましい――私はそう思います。その多様性のなかで、各々の年長者が各々のポリシーの次元において「自分よりも年下の人間と接する時、願わくは、良き年長者として立ち振る舞いたい」という願いがあって良いのではないかとも。
 
 これは願いや祈りであって、そっくりそのまま年少者に届く性質のものではありません。年少者から褒められ・評価され・感謝されることを期待するような野暮な話でもありません。未来の構成素子を選ぶのは年少者自身であって、参照される年長者ではないのですから。
 
 
4.私は、「大人」や「成熟」といったポーズは、文化的・社会的な概念、あるいは幻想や理想の類だと承知しているつもりです。だからといって、無視して構わないかというそうではなく、年下の世代からは、そうした幻想や姿勢が不断に問われています。問われている以上、幻想や姿勢を引き受けなければならない。いつか、「おまえのやっていた「大人」や「成熟」は不完全きわまりないものじゃないか」と批判される日が来るのは避けられませんが、それはそれで次世代の成長の一環と理解すべきことで、悲しむべきことでもないでしょう*2
 
 子どもがいきなり大学生として生まれてくるのではなく、まず赤ん坊として生まれ、それから幼児や学童として養われていく以上、年長者がまずロールモデルとして参照され、それによって子ども時代の社会化が進んでいく……という構図は生物学的にも妥当なモデリングだと私は認識しています。だから、時代や地域や世帯による差はあれど、年長者は年少者の前では不可避的に「大人や年長者の立場を引き受けざるを得ない」はずなんです。
 
 にもかかわらず、その大人の自由が追求される風潮のなか、そうした年少者からの不断の問いかけはあまり問題視されて来なかった、のではないでしょうか。意識や態度の面だけでなく、空間設計の面でも、既に判断能力が具わり、生活半径が広まった思春期以降の個人の自由を具現化するためのアーキテクチャが優先されてきました。新興住宅地や高層マンションといった物理的なアーキテクチャだけでなく、インターネットという情報的なアーキテクチャにおいても同様です*3。これらは、個人が自分の見たいもの、やりたいもの、追いかけたいものを思いどおりに追いかけるには向いています。けれども年少者からの不断の問いかけを知覚し、それに応じる意識を育むには、あまり向いていないように見えてなりません。
 
 
5.そうした「年少者からの不断の問いかけ」は、昔は意識して答えるまでもなく、共同体内でシステム的に提供され、成人は(ほぼ強制的に)ルールや規範を提示させられ、年少者からの不断の問いかけに曝されました。ですが、いまはそうではありません。私はそこに、現代のエイジングについての重要な論点があると思っています。
 
 個人の自由が保障された社会には、良い面もたくさんあるわけですから、そうした良い面も含めて、下の世代に出来るだけ良いかたちで継承されていけたらいいなと思います。いやいや、「良いかたちで」でとは言わず「マシなかたちで」と表現すべきかもしれませんが。色々と、難しくなってきましたからね。
 
 私達自身の延長した思春期が、ではなく、次の世代の思春期や、その次の次の世代の思春期においても十分自由が保障された豊かな社会を継承していくためには、年長者はどのような意識づけをもって年を取り、どのような社会的ビジョンを持てば良いのか?私はそういう事を考えていきたいし、もっと学識があって進歩的な人達にも考えて頂きたいと願っています。
 

*1:たぶんに不自然に

*2:そもそも、最初から「大人」な人間なんて存在しないし、社会化の積み重ねによってかろうじて「大人」という役割を引き受け続ける体裁ができあがってくるだけであって、私は純度100%の「大人」になんて誰もなれないのだと思っています。あくまでめいめいが、なにかしら綻びのある「大人」を自分のキャパシティのなかで引き受けているのであって。そして子どもはそうした「大人」を、まず錯覚のうちに理想化し、やがて「大人」を引き受けている人々の綻びに気付いて脱錯覚していくのでしょう。このあたりは、ウィニコットの脱錯覚の理屈や、コフートの変容性内在化の理屈と、だいたい一致していると感じます。

*3:もしかしたら、法的にも、思想的にも。