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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

普通の人が尊敬できないように育てられた人達

執着

 
 「普通の人が尊敬できないように育てられた人達」
 
 特別な職業やメディアに登場するスターのようなキャラクターしか尊敬の対象にできないような・普通の職業の人やクラスメートには軽蔑に近い印象をデフォルトで抱いているような、そういう境地の人達が、まだまだ世の中には存在する。
 
 
 【メディアスターや凄い人しか尊敬できないような育て方をすると…】
 
 「三つ子の魂百まで」と日本の諺にあるけれども、これは「誰をどう尊敬するか」の分野でもかなり当てはまる。小さい頃、どんな相手をどんな具合に尊敬するように育てられたのかは、性分としてこびりつきやすく、後々まで尾を引きやすい。
 
 例えば、小さい頃から花形職業・メディアスター・伝記になるような偉人ばかり尊敬するように教え込まれ、近所の人や普通の職業の人なら見下しても構わないという家族の目線のなかで育ってしまった人は、その価値観を内面化させてしまいやすい。「尊敬対象かくあるべし」の理想が高すぎる人物になったり、良い面しかみせないメディアスターやキャラクターしか尊敬できず、清濁あわせもった生身の人間を殆ど受け付けないような人物に育っていきやすい。
 
 しかも理想が高すぎるものだから、理想に合致しない自分自身を省みて低い自己評価に甘んじてしまうか、逆に誇大な自己イメージにすがりついて劣等感を糊塗する*1か、どちらかに陥りがちでもある。普通の人が尊敬できないという理想の高さは、なにも他人に対してだけ発動されるものではない。「尊敬対象かくあるべし」の理想が高すぎる人は、その理想の高さで、しばしば自分自身まで焼き尽くす。その理想の高さに合致しない自分自身を省みて焼かれて苦しむか、自分は天才だと思いこんで理想の高さに焼かれないようにするか、どちらかを選ばざるを得ない。
 
 
 【普通に褒められても幸福になれない/普通の尊敬対象では満足できない】
 
 こうした問題は、両親の自己評価や他者評価によって、かなり左右されると推定される*2。例えば、両親がお互いを軽蔑しあい、しかも両親ともに自己評価が低く、両親じたいが花形職業以外を見下しているような家庭で育った子どもが、普通の人が尊敬できないような価値観を内面化してもそれほど不思議は無い。というか、そんな状況下で育った子どもが高すぎる理想を内面化することなく、普通の人・普通の職業の人を尊敬できるように育ったとしたら逆にびっくりする。学校の先生や近隣住民への尊敬を両親が厳しく禁じ、「あいつらは駄目な連中」などと日頃から子どもに吹き込んでいる場合などは、とりわけそうだろう。
 
 このようなメンタリティの人が幸福になるには、実際に花形職業なりメディアスターなりになってしまうほかない。
 
 だが、普通の人が尊敬できないように育てられた人は、大きなハンディを背負いながら栄光に挑むことになる;理想の高さと現実とのギャップに耐え切れずに折れてしまうリスクは常に高く、理想が高すぎるがために“鼻持ちならない奴”という悪評も集めやすい。こんなことだから、成功の見込みはますます小さくなってしまう。
 
 だからといって、もっと日常的で小市民的な自己愛の充たし方を目指せばいいかというと、それもまた難しい。いつも見下していたライフスタイル・尊敬してもいない人達からの承認 といったものを獲得してみたところで、そこから得られる自己愛のトークンにはたいしてご利益が無い点に注目する必要がある。偉大な人間しか尊敬できない人間は、褒められるにしても、尊敬や崇拝を投げかけるにしても、偉大で雄大で尊大な、特別製の対象でなければ満足が得られない。または、壇上でスポットライトを浴びるような、栄光に包まれていなければならない。
 
 あるいは素養と運と努力に恵まれれば、万雷の拍手に包まれた栄光の人生に至るかもしれない。だが、栄光を掴み損ねてしまったら誰にも尊敬されない・誰も尊敬できない地獄の境地を這うことになる。一握りの成功者となるか?大多数の落伍者となるか?いずれにせよ、無事平穏な暮らしに軟着陸して幸福や満足を見出すことも容易ではなく、彼/彼女らが「栄光か、死か」という心境から脱するための難易度は高い。
 
 

*1:そのためには、自分以外の人間を見下して回る処世術がとても重要になる。見下しを、誇大な自己欺瞞を維持するための、鎧として用いるのだ

*2:これが特に当てはまるのは、周囲と隔離された核家族のような、幼少期に両親以外の大人の価値基準が入り込まないような家庭環境の場合だろう。