シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「どうせなら、よく訓練されたナルシストになろうぜ」

 
 巨大な自己愛と、巨大な行動力 - 常夏島日記
 http://d.hatena.ne.jp/trobar2108/20130602/1370137241
 
 去年、今年と、私の自己愛の問題に言及した文章をトラックバック経由で送っていただいた。こういうテカテカした心理学的テーマは大好きなので、ごちそうさまです。
 
 私は、自分自身をナルシストだと思っている。そうに決まっている。たぶん、一生そうなんだろうなとも思う。「自分大好きっ子」といえば聞こえがいいが、三十代も後半になれば「自分大好きおじさん」である。「自分大好きおじさん」……なんてむさ苦しい!ぜんぜん成熟していない人物みたいだ。
 
 そもそも、インターネットに“自分以外の誰かが読んでくれるであろう”文章を垂れ流し、生意気にも「で・ある」調でシヨウモナイ事を書き並べてニヤニヤしているぐらいだから、お前はナルシストと言われても言い訳のしようがない。職業物書きではない以上、「私は自己愛を充たしたい気持ちとは無縁にブログを書いてます」なんて言ったら大嘘になって、閻魔様に舌を抜かれそうだ。
 
 それと、私は精神分析学派のなかではコフートに心惹かれていて、出版した本もコフートの自己愛理論をベースにしたけれど、自己愛に言及せずにいられない&自己愛理論に惹かれずにいられないということは、自分自身のメンタリティのベースのところで、そのあたりが引っかかっているのだろう*1。昔、年長の精神科医が冗談めかして「精神科医は、自分の病理に関係のある専門領域に自然と引き寄せられていく」と予言者めいたことを言っていたけれど、もしそれが当たっているとしたら、私の個人精神病理のベースには自己愛の問題が横たわっていることになりそうだ。
 
 ただ、こういうのは個人の問題であると同時に、社会の問題でもある。インターネット界隈を見渡すと、自己愛を充たすことを第一の目的とした営為が目にうつる。「いっぱしだと認められたい」「仲間意識を持ちたい」「スポットライトを浴びたい」……こうした欲求と、アフィリエイト的欲求が悪魔合体したような風景が、Facebookでも、ニコニコ動画でも、twitterでも、繰り広げられている。小説ワナビー、評論ワナビーといった人達もそうだろう――スキルアップするために手を動かすのは面倒臭いけれども、スキルアップした後のひとかどの人物のような気分だけは味わいたいという人達にとって、ワナビーはなかなか優れた処世術だ――内実が空っぽでもナルシストとしての心理的欲求は充たせるのだから、たいした発明だ。
 
 人間は多かれ少なかれ自分がかわいいものだし、そうした自分中心主義は、思春期男女が技能や人脈をたぐり寄せるためには必要不可欠でもある。だから、思春期の人が必死にナルシストをやっていたとしても、それは全然おかしくない*2し、若い人のナルシシズムが勃起する瞬間には寛容でありたい。
 
 けれども思春期の延長が叫ばれ、いつしか誰もが若々しい姿とメンタリティのまま老いるようになってくるなかで、中年世代や老年世代なのに、青少年とほとんど変わらないナルシスト、ということが往々にしてあり得るようになってきた。最近は、40代〜60代になっても自分中心主義というか、衰えの季節にさしかかっても栄達欲や名声欲を求めてやまず、後進の育成をうっちゃって、むしろ後進から栄養素を吸い上げて肥え太ろうとする人が珍しくない、と指摘される。後進の成長を脅威に感じ、干支が一回り以上下の人を牽制しようとするタイプもいる。
 
 もちろん、昭和時代にそういう年長者がいなかったわけではない。けれども、良くも悪くも昔は、そうしたナルシシズムの問題なり形なりは、個人の判断・欲求以上に組織の論理・システムによって規定されていた。それが今じゃ組織の論理もシステムによる束縛もキツくなくなったので、自由なフィールドにおいてほど、そうしたナルシシズムがはっきり析出するようになってきた。
 
 じゃあ、年を取ったらナルシストをやめなければならないのか?
 
 無理だと思う。
 
 例えば……今この文章を読んでいるそこのあなた!あなたは自分が一番かわいい・自分が一番大事って心境を、ポイっと捨てられますか?世の中には、自分以外にも大切な何かを見つけ、自分を二の次にしてでも守ろうとする人が、いる。しかしそういう人だって、「自分大好き」とまではいかなくても「自分が大切」ぐらいの気持ちは持っているだろう*3。ナルシストを厳密にやめるってのは、ほとんど悟りの境地みたいなものだ――自分自身のことで、うぬぼれることも、寂しいと思うことも無い境地。そこまでいけるのは、お釈迦様ぐらいのものじゃないだろうか。普通の人間は、生涯にわたってどこかしらナルシスト的な部分・自分が好きな部分があって、そのために誰かの反応や繋がりを求めるものだと思う。
 
 

「よく訓練されたナルシストを目指そう」

 
 それでも私達は社会的に穏当なナルシストにはなれる、と思う。
 
 タイトルに書いた「程度の良いナルシスト」ってのも、そういうことだ。自己愛の成熟、と言ってもいいのかもしれないけれども、ここでは「社会化されたナルシスト」「よく訓練されたナルシスト」と言い換えておきたい。
 
 ナルシストと言っても、いろんな人がいる。
 
 三歳児のわがままみたいに、泣いたり喚いたりモノを投げたりして自分の欲求を充たし、周囲の人間をマニピュレートする人も、これはこれでナルシストかもしれない。けれども、そんな生き方をしていれば、周囲のいい迷惑だし、当人自身もたぶん幸せにはなれないだろう。こういうナルシストは、程度が悪いと思う。ちっとも訓練されていない。
 
 あるいは、他人を誹謗中傷したり見下したりすることで、自分自身を立派な人間・ひとかどの人間だと思い込むことで自己愛を充たしてやりくりするのも、あまり良いやり方ではないと思う。そんな内心の処世術をオンラインでもオフラインでも抱き続けているようでは、友達もできにくいし、社会適応も捗らないだろう。
 
 もう少し訓練されたナルシストになると、社会のルールや空気に逆らわない範囲で自分中心主義をやるようになる。他人の顔色や反応を覗いながら、有頂天になれる局面では有頂天になり、そうでないところでは亀みたいに首をひっこめて大人しくしているタイプの人も多い。このタイプは、現代社会では割と珍しくないナルシストというか、どこにでもいるタイプで、例えば「twitterや2chやブログでは意気軒昂で超尊大、けれども職場や学校では至極おとなしくしているタイプ」なんかがこれにあたる。ネットの大気を汚してはいるかもしれないけれども、これぐらいだったら(あまり)社会の迷惑にはならないし、本人の社会適応もたぶん守られる。ただし、これをあんまりやりすぎると、ネット弁慶になったり、自分の得意分野でだけ偉そうになったり、苦手意識のある場面のスキルアップが遅れまくったりするかもしれない。
 
 なかには、人に褒められる天賦の才みたいなものがあって、チヤホヤされやすい立場に立ってナルシストを貫く人もいる。社会から認められやすい能力やキャラクターを打ち立てることに成功すれば、比較的全方位にナルシストがやれるかもしれない。特殊な職業だったり、特殊な才能だったり、際だった社交ノウハウとコミュニケーションの技倆を持っていれば、そういうナルシストができあがることもあるだろう。一見、これは最強のナルシストのようにみえる。けれども、自分の才覚や栄華に頼りすぎたナルシストは、いつか来る老いや衰えに対処できなくなるかもしれない。なまじ、自己愛を充たしやすい立ち位置に長年居座り続けていると、そうした立ち位置を支える才能が枯れてきた時に一苦労も二苦労もしなければならないかもしれない。この路線でクンフーを重ねてきたナルシストには「中年期危機」が待っていそうだ。
 
 それなら、これらの先のナルシスト道、もっともっと訓練されたナルシストってのはなんだろう?
 
 私にもよく分からない。きっとそれは、自分がチヤホヤされたい気持ちや心強くなりたい気持ちを捨てきってはいないけれども、自分が老い衰えても悲観しすぎないような社会適応で、栄光やスポットライトを求めるために無茶な努力をし過ぎないようなナルシスト、だと思う。それと、縁のあった人の成功や成長を喜べるようなナルシスト、少ない自己愛充当で十分満足できるナルシストなんかも良さそうだ。「自分大好きおじさん」はやめられなくても、もう少しだけ程度の良いナルシストを目指したい――そういう目標みたいなものは捨てないでいたいと思います。
 

*1:このブログを長いこと読んでいる人向けに補足するなら、「シロクマさん、自己愛に言及しましたね!」ってやつだ。これほど自己愛に言及しているということは、それが私の執着なんだろう。他人事じゃないから関心を抱くのだ。

*2:だから、思春期を迎えた段階で自分中心主義になれない人は、思春期の技術開発競争や人間関係の構築に大きなディスアドバンテージを負う。思春期に自分中心主義にスンナリ入れるかどうか、およびその際のスキルレベルは学齢期以前に自分の欲求やトライアルに夢中になれたか否かによってかなり左右される。自分自身に夢中になることを知っていて思春期を迎えた人は幸いである。

*3:「自分大嫌い」という人にしても、あれは「自分大好き」を長調から短調にした変奏曲みたいなもので、「本当はピカピカしていたい自分」に届かないからこそ「自分が大嫌い」という苛立ちが生じてくるものだし