シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

中二病っぽい自己顕示と、インターネット今昔

 
 
 中二病っぽい、幼稚な万能感をいくらでも誇示できる空間としてのインターネット。
 
 こういう雰囲気がインターネットの世界から失われて、既に久しい。
   
 1990年代〜2002年ぐらいまでのインターネット----つまりblogやSNSが普及する以前のインターネット----には、中二病的なメンタリティを顕わにした“ホームページ”や、自己顕示の権化のようなBBS(掲示板)を、かなりの頻度でみかけることができたし、そのような、宝石箱をひっくり返したような自意識を、長期間観測しつづける機会も沢山あった。おそらく日常生活のなかでは抑圧されているのであろう、溢れるような万能感を隠すこともなく、PCのスペック自慢やら、自作ポエム自慢やら、ありとあらゆるものを披瀝してやまない愛するべき“ホームページ”達。当時、インターネットを始めて間もなかった頃の私は、“インターネットっていうのは、万能感をぶちまけても怒られにくい場所なのかなぁ”とさえ思っていた。
 
 でも、今はそういう時代ではない。
 
 blogでも2chでも、いかにもな中二病な書き込みはヒソヒソ話や罵倒の対象になるし、時にはもっと面倒な対価を支払わされることもあり得る。顕示性と自意識の宝石箱をひっくり返したような“痛いホームページ”の類も、昔だったら三年、四年と余命を保っていられたかもしれないが、今じゃ、ある程度以上のアクセス数を集めるようになればネットイナゴや好事家に目をつけられ、それ相応の洗礼を浴びることになる。ビス止めの心臓や、途方も無い鈍感力を持った人間でもない限り、“ただ痛いだけのホームページ”を何年にも渡って運営し続けることは難しくなってしまった
 
 いま、“その場の空気にそぐわない中二病を嘲笑しても構わない”“顕示性だけが目立つサイトはバカにしても構わない”という雰囲気は、日本のインターネット空間のかなり広い範囲*1に浸透しているようにみえる。そうやって出る杭がうたれまくったせいか、現存する“痛いホームページ”をグーグル検索で引っ掛けようと思ったら、ちょっとした工夫が必要になってきている。まして、そのような自意識を長期間定点観測できる場所(と人物)となると、これはもうかなり珍しく、貴重である*2
 
 

インターネットは、本当に中二病の無礼講空間だったのか?

 
 こんな風に書くと、「昔のインターネットは中二病や自己顕示欲の無礼講空間だったのかー」とか「インターネットの自由とは、そうあるべきなのだ」、と言い出す人も出てくるかもしれない。けれど、今も昔も、“世界中に情報発信され、誰もが閲覧することができる”というインターネット性質には変わりが無かったわけで、往時の、羽目を外した顕示欲や自意識を手放しで賞賛できたかというと、そうではなかった筈である。少なくともインターネットの謳う自由というのは、そういう自由ではなかった筈だ。
 
 ただし、今と昔ではかなり違うところもあって、
 

  • ソーシャルブックマークやRSSの類が普及していたわけでもなかった
  • 検索エンジンの普及もそれほど進んでいなかった。
  • インターネットへの接続インフラが、今よりずっと悪かった。
  • SNSやblogのような情報発信しやすいツールも普及しておらず、
  • インターネットがギークやオタクの占有物に近い状況だった。
  • オタク系のホームページやテキストサイトを中心に、相互リンクの風習が普及していた。

 
 …のように、検索性や接続性には雲泥の差があった。
 
 この検索性と接続性の悪さのおかげで、当時、自分の価値観とは相容れない“痛いホームページ”が目に飛び込んでくる頻度はかなり低かった。ちょっと重めのページを表示するのに何十秒もかかったダイヤルアップ接続の時代、yahoo!のトップページあたりを起点に“ブッ叩きたい痛いホームページ”を探そうと思ったら、リンクを辿りに辿って、かなり根気よく“ネットサーフィン”しなければならなかった*3
 
 そのうえ、当時は同じジャンルのサイト同士が相互リンクで繋がっているという風習が色濃かったこともあって、全く異なるジャンルや価値観のサイト管理者同士が遭遇してしまうような不幸な出会いの確率は、まだしも少なめに抑えられていた(少なくとも、現在よりは)。もちろん、延々とネットサーフィンする人間であれば、異種族との遭遇は不可能ではなかったけれど、ダイヤルアップ接続の時代に、そのような執拗な行為をやるにはかなりのバイタリティが必要だったとはいえる。
 
 結果として、当時のインターネット空間の未整備っぷりがバリアーとなる形で、ある種の棲み分け(ゾーニング)を成立させていたような気がする。この、意図せざるゾーニングのおかげで、自己顕示の塊のようなポエムやPC自慢の“痛いホームページ”であっても、ある程度は生き残りやすかったんじゃないのかな、と私は回想する。
 
 

“痛いホームページ”は、衆人環視のもとでは生きていけない

 
 翻って、現在のインターネット空間は、衆人監視や相互監視の為のツールがあまりにも普及しすぎている。ソーシャルブックマーク、RSS、検索エンジン、そして2ちゃんねるやtwitterなどの普及によって、“痛いホームページ”は遥かに発見しやすく、様々な価値観を持った衆人監視に曝されやすくなってしまった。そして“出る杭は打ちまくって構わない”という価値観のもと、中二病の過ぎたblogや、自己顕示欲のタガの外れたホームページには、容赦のない眼差しの弾丸がうち込まれるようになった。そして、そのような衆人環視のもとで揶揄や罵倒を集めたホームページの大半は、泡沫のように消えていかざるを得ない。お行儀の良くないサイトはボコられて当然、汚物は消毒だ〜!というのが当世インターネット事情のようである。
 
 
 “痛いホームページ”は、お天道様のもとでは生きていけない、ウェブ黎明期の徒花だったのだろう。
 
 もう、あの“古き良き時代”に戻れないし、インターネットの建前からすれば、過去の姿がおかしくて、現在のインターネット空間のほうこそが正当に近いというのは私にも分かる。けれども、あの時代のインターネットが、不遇な人達が伸び伸びと自意識を発散する場として・抑圧された自己愛をパブリックに顕示できる(かのように感じられる)数少ない空間としての役割を引き受けていたことを思い返すとき、私はある種のセンチメンタリズムを感じずにはいられない。
 
 今は、インターネット上で自意識や自己顕示欲を撒き散らすことは不可能に近く、それなりの“身振り”や“礼節”が求められる時代だ。それはまあ、歓迎すべきことだけれど、つまり、インターネットがそれだけメディアになったということでもあるし、息苦しい本来の姿をみせはじめた、ということでもあるのだろう。
 
 この、衆人環視のハイウェイで奇声をあげる者はその奇声にふさわしい反応を覚悟しなければならないし、それを避けたい人は“身振り”や“礼節”に、せいぜい気を配るべきなのだろう。少なくともpublic設定されたインターネット空間には、王様の耳がロバの耳だと叫ぶ穴も、天然ゾーニングで護られた秘密基地も期待すべきではないのだろう。
 
 すべてを白日のもとに!
 ああ、待ち焦がれていた自由なインターネット
 お天道様を嫌うダンゴムシ達に、救いあれ!
 
 

*1:2chの少なからぬ板やネットゲームを含む

*2:ちなみに、寿命が二ヶ月ぐらいのblogやホームページが、そのような痛さを提示して、一瞬のうちに消えていく光景ならば、今でもそれなりに発見することが出来る。だが、長続きはしないのだ

*3:半径ワンクリックなんてものじゃない!