インターネット上の言動を眺めていると、ときどき、驚くほど激しい自己卑下に遭遇することがある。「俺はダメで最低な人間なんだよ!」と自分自身を激しく非難し、矮小化し、残酷な言葉で切り刻むような“blog記事”“mixi日記”に遭遇し、「なにこの人。気持ち悪い」「どうして自己卑下するのか意味不明」と感じる人も多いのではだろうか。
しかし、一見なんのメリットも無いようにみえる激しい自己卑下にも、それなりの動機やメリットが隠れているはずである。少なくとも私のみる限り、サドっ気とマゾっ気が強く自己陶酔が大好き人間にとって、激しい自己卑下はそんなに悪いものではない筈だ。
サドってアンアン!マゾってアンアン!
第一に、激しい自己卑下は、激しく鞭打つ愉しみを含んでいる。お前はこんなにダメなやつなんだ、お前のようなやつは虫ケラ以下だ、と連呼することによって、弱者をいたぶる快楽を堪能することが出来る。*1自分が攻撃の対象とはいえ、弱点を丸裸にして晒し者にしていくプロセスは、サドっ気のある人間にとって味わい深いものがあるだろう。「サドってアンアン!」である。
第二に、激しく卑下され打ちのめされる快感を味わい、あまつさえ他人に見せびらかすことで、自己陶酔することも出来る。自分自身の劣等感やコンプレックスを打ち据えられる悦び、その恥ずかしくも這いつくばった姿を見せびらかして感じられる快感は、どう考えても「変態だー!」としか言いようが無いが、しかしマゾっ気の強い人にとっては、そのような自己陶酔の変奏形式は十分に有り得る。「恥ずかしい姿を公衆の面前に曝している俺」を夢見る人達にとっては、まさに「マゾってアンアン」である。
第三に、自分語りに耽ることが出来る。自分自身に最高度の関心を抱いている人にとって、自分語りに勝る慰安の機会は無い。まして、それが(形式上)罪の告解という形式をとっていれば、いやがうえにも自分語りがヒートアップするというものである。「自分語りでアンアン」である。
このように、激しい自己卑下は、サドマゾ傾向の強い自分語り大好き人間にとって複数の快楽を同時に堪能できる優れた方法だと言える。他人からの直接的な助力を必要とせず、概ね自己完結した形で、サディズムとマゾヒズムをたっぷり充たしながら自分語りに耽ることが出来る。あるいは、マゾっ気を充たすために衆人環視が必要だという人の場合も、ネット上で激しい自己卑下に耽るなら、誰かがみてくれていると期待できるのでノープロブレム。「大丈夫。あなたの恥ずかしい姿をみんなみてますから」。公衆で見られているという快感が、彼のサディズムとマゾヒズムを加速するのは言うまでも無いし、何か勘違いして「あなたは誠実な懺悔をする人ですね」などと声をかけてくれる人が混じっていれば、悦びもひとしおというものである。
サドってアンアン!マゾってアンアン!
ふたりだけの背徳劇!俺と!俺の!
自意識や自己愛を充たすための様式のバリエーションと業の深さには、際限というものが無い。激しい自己卑下によがっている人達は、そのことをよく教えてくれていると思う。
*1:しかも、鞭打つ相手が自分なので、本当に危ない一撃にならぬよう手加減しながらやれるので、“事故”が無い。