シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

キョンみたいな人物は、エモーションの鍛錬ができていない。

 
 
 “涼宮ハルヒの憂鬱”の主人公は長門有希…ではなく、キョン、ということになっている。あの朴念仁なキャラクターは、メタな姿勢に終始しがちで、感激や情緒に身を委ねることがない。というよりも、感激や感動や夢中といった類のエモーションから逃げ回っているようにさえみえる。
 
 まぁ、キョンのような処世術にも長所がないわけではない。面倒事に巻き込まれにくく、何事もそつなくこなしやすいという点に関しては優れているし、何かに期待しすぎて裏切られて傷つくとか、そういう事も少なそうだ。しかしああいう処世術は、情緒を伴ったコミュニケーションには全く不向きだし、何かに感動したり夢中になってのめり込むということにも向いていない。
 
 情緒を伴ったコミュニケーションに向いていないということは、男女交際に際しては相手をヤキモキさせてしまいやすく、恋愛の機敏に優れない、ということでもある。あの、気の毒なハルヒのヤキモキっぷりをみてみればいい!ハルヒの不器用な気の向け方に、外野*1は既に気付いていても、キョンはちっとも気付かない。相手がハルヒでなくても、気づかないだろう。
 
 また、感動しにくい・夢中になりにくいという性質が、チャンスを奪ってしまうこともある。例えば特定分野を究めようと思っても、エモーショナルな体感を伴わないままモチベーションを維持するのは結構難しい。なぜなら、何かを記憶したり身につけたりしようと思った時にも、エモーショナルな体感を伴っているのと伴っていないのでは、記憶や身体に刻み込まれる度合いが全然違ってくるからだ。感動したり夢中になったりするような体感は、学習や体験を自分の血肉に変えていく際に大きな触媒効果を持っているものだ。エモーショナルな体感を伴わない学習や体験は、往々にして忘れやすく、身につきにくい
 
 加えて、感動や夢中といったエモーショナルな体験なしに生きてきた人は、一体全体自分がなぜ生きているのかがわからなくなりやすそうだ。「無難ではあっても平板な人生に何の意味があるんだろう?」的なアイデンティティクライシスをやり過ごすという難作業は、どれほど無難な人生を歩めたとしても*2容易ではない。それでも、感動や夢中といったエモーショナルな体験が記憶としてたくさん残っていれば、自分の人生に意味や価値を見出しやすくなるかもしれないが、自分の人生を感動や夢中から遠ざけたまま歳をとってきた人には、エモーションの追憶は味方をしてくれない。七夕も、夏休みも、文化祭も、感動や夢中といったエモーションを伴った形で記憶されない限りは、アイデンティティを問われるような場面ではたいした役にも立たない。
 
 

エモーションも、使い込まないと熟達しないのでは?

 
 なので、キョンみたいなタイプの人をみていると、これから先の人生で色々な機会を逸しながら、そのことに気付くでもないまま生きていくのだろうなーと思わずにはいられない。異性との情緒的な結びつきに恵まれず、感動や夢中をモチベーションの源として学ぶ機会にも恵まれず、自分の人生に意味や価値を添えてくれるようなエモーショナルな追憶にも恵まれないまま、加齢していく可能性がかなり高い。自分のことをメタな他人事のように傍観しながら、三十、四十と齢を重ねていった時、どのような境遇と実存的境地が待っているのか、想像するのも恐ろしい。
 
 けれども、キョンみたいな人達をみていて思うのは、“感動”や“夢中”みたいなエモーションって、誰にでも無条件に身につくものではないんじゃないか、ということだ。いや、“感動”や“夢中”の原型みたいなモノ*3は生来的に備え付けられているかもしれないけれど、“感動”や“夢中”の恩恵に与るべくレベルアップさせていく度合いには相当な個人差があるように見受けられるし、レベルアップが途中で止まったままの人も結構多いんじゃないか、という気がしてならないのだ。
 
 「そんな馬鹿な、“感動”も“夢中”も、エモーションなんてどれも先天的なもので、練習も学習も必要ない!」と言い出す人がいるかもしれない。けれども、本当にそうだろうか?
 
 母親に対して泣き笑いしている赤ちゃんをみていると、エモーションは先天的だ、と、言いたくなる気持ちもわからなくもないし、純先天的な部分もあるだろうな、とは思う。けれども、赤ちゃんの微笑みにろくすっぽ微笑み返さない母親・泣いても一切相手にしようとしない母親のもとで、そういった赤ちゃんの泣き笑いって普通にレベルアップできるだろうか?その年齢段階に相応しい学習やプロセスを積めなくても、エモーションのレベルアップが本当に可能だろうか?いま私が知っている限りでは、「すごく困難」といわざるを得ない。
 
 同じく、“感動”や“夢中”といった方面のエモーションも、それ相応の経験や体験を積んでいなければ、レベルアップできないんじゃないだろうか?ちょうど、中学一年生で物理や数学の勉強が挫折してしまうと高校大学でのレベルアップが見込めないのと同じように、ある年頃の段階で“感動”や“夢中”といったエモーションのレベルアップが頓挫してしまうと、そこでそのまんまになってしまうんじゃないだろうか?
 
 もちろん“感動”や“夢中”なんてものは、物理や数学の勉強に比べて先天的要素の割合が大きいには違いない。とはいえ、あちこちでキョンのような処世術の人達に出会うにつけても、“感動”や“夢中”といったエモーションを何処かに置き去りにしたまま歳をとっていくということが、人間には起こり得るのだなぁとは感じるし、ああいう男性がいざ“感動”や“夢中”を呼び覚ますとしたら、エモーションを使い込めなかった頃の----例えば幼稚園や小学校ぐらいの年齢水準の----未訓練なエモーションが現れたって驚くにはあたらないだろう、とも感じる。あるいは、そういった使い慣れていないエモーションが湧出するような事態に、戸惑いや不安を感じたり、尻込みしたりすることもあるかもしれず、それがために「キョン」のような処世術を採用するかもしれない。
 
 

ハルヒがキョンのエモーションを再訓練している?!

 
 こういった視点で『涼宮ハルヒの憂鬱』をみていくと、“ハルヒがキョンのエモーションを無理矢理再訓練している物語”、という風にもみえる。キョンはハルヒに振り回されているのを迷惑がっているけれど、彼はハルヒのおかげで“感動”や“夢中”をレベルアップする機会に恵まれまくっているのだ。しかし、その幸運さ加減には気付いていない。*4
 
 

*1:ex.小泉君

*2:いや、無難な人生を歩んでいればこそ

*3:つまり、学習に応じてそのようなエモーションを発達させていくアーキタイプのようなもの

*4:なんてやつだ!ハルヒにも少しぐらい感謝しないと、罰あたりめ!