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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

出発駅としての「理解」、終着駅としての「理解」

 

 
 
 「理解した」

 「よく分かった」。
 
 
 自分自身の手癖や執着について、「理解した」と答える人がいる。また、「あなたの心は○○△△です。分かりましたか?」という語りかけに納得を示す人がいる。そしてこうした人達を対象とした「わかりやすい心理学」「あなたのコンプレックスはこれだ!」みたいな帯のついた新書が、本屋に行けば山のように売られている。
 
 実際、それらの本は中学生でも読解可能なほど分かりやすい。断定口調ではっきりと、あなたはこのタイプだ、と教えてくれる本もある。“とてもわかりやすい”。
 
 しかし実際に“わかった”としても、だからどうだというのだろうか。自分自身の手癖や執着を理解したとしても、それだけでは何の意味も無い。理解は、実践や改変や制御へと結びつかなければ、単なる“わかった”という自己満足があるだけである。“わかった”ことに喜びを感じるだけで終わってしまえば、それはライフハック記事と何ら変わりが無い。尤も、書店を賑わせているその手の本の少なからぬ割合は、トリビア的な自己満足の為に消費されることを前提に企画されているのだろうから、それはそれで当然のことかもしれないが。
 
 コンプレックスや執着を「理解する」「よく分かる」ということは、手癖や執着をどうにかするプロセスの、ほんの一部分しか占めない。手癖や執着を改変する長い長いプロセスの出発駅か終着駅を占めることはあっても、それが全体となることは有り得ない。
 
 「理解する」「よく分かる」を出発駅とするタイプの場合、理解を参照しながら自分自身の手癖や執着を軌道修正していくには長い時間と、試行錯誤が必要だろう。自分自身の手癖や執着と、ことあるごとに対峙して、くたびれることもあるかもしれない。誰かの手助けも必要かもしれない。なんにしても、理解を実践へと変えるには膨大な手間隙がかかり、それなりの恥や苦しみを経由しなければ、言葉は血肉には変換できない。
 
 正反対のパターンも、時間がかかる。つまり、「理解」「よく分かる」が終着駅になるタイプだ。長年の実践の積み重ねや、長年のやりとりの蓄積の結果として、自分自身の執着に対する構えが軌道修正されたことに、ある日はたと気付くことがある。臨床レベルでも、案外、このパターンの人をみかけることが多い。
 

 例:47歳のKさん(女性)は、息子に対して強すぎる執着と期待を抱き、母子分離など夢のまた夢という状態。この強すぎる執着と期待が、Kさんと息子を苦しめ、息子との軋轢の一大要因となっていた。Kさんの息子に対する執着と期待、距離感の異様な近しさをそれとなく指摘してみると、その手の話をすればするほど話がどんどん逸れてしまうため、「理解」を出発点とすることは無理と判断し、具体的な問題を一つ一つ取り扱っていくこととした。
 
 しかし三年ほどのやりとりを経て、息子が異性と交際していることを喜べる段階にまで到達した頃、Kさんは「自分自身で自分と息子を苦しめていたんだと今は思います」と述懐するようになった。息子に対する執着や期待がほどほどの状態になり、母子間の距離がいくらかとれるようになった頃のKさんは、自分自身の変化を言語化できるようになっていた。「息子のことを、私自身の一部のように感じ取っていたけれども、実際には、別の人間なんですよね」「息子はいつまで私の息子だけど、私はそのことに強く拘り過ぎていたのかもしれない」。

 このKさんの場合などは、「理解」は終着駅だったと言える。長年かけての変化の蓄積や実践の果てに、「ああ、こういうことだったのか」と後になって気付くタイプの「理解」は、気付いた頃には、既に自分の血肉になっている。「理解」という言葉よりも「気付き」という言葉のほうが適切かもしれない。出発の段階での「理解」が困難な場合などは、おそらく、こちらの手法のほうが現実的だろう。ただし、このような手法は一人で出来るものではない。自分自身を軌道修正するにあたっての、水先案内人が必要になるだろう。大抵は、時間も手間もたっぷりかかるものだろう。
 
 「理解」が出発駅になるのであれ、終着駅となるのであれ、血肉にならなければ実践に至ったとはいえない。そして「理解」が血肉になるにあたっては、理解に向かって歩き出すにせよ、理解を端緒として歩き出すにせよ、その道中で体験する過程が必要不可欠で、その過程にこそ、血肉は宿る。逆にいえば、試行錯誤や歩みを伴わない「理解」、道中の風景を無視した「理解」、体験過程を欠いた「理解」なんてものは、たいして役に立つものではないと思う。少なくとも、自分自身の執着をどうにかするに関する限りは、実践と地続きではない「理解」だけが宙に浮いていても、影響なんて無いんじゃないか。
 
 手癖や執着を「理解」するために書かれた本やテキストを読む際には、この辺りのことを念頭に置いておかないと、色々とおかしなことになってきそうだ。出発駅になるにせよ、終着駅になるにせよ、「理解」は、自分の手癖や執着を改変し血肉としていく過程の、ほんの一部でしかない。実践や試行錯誤といった道中の体験を伴ってこそ「理解」だということは、何度も強調しておきたいと思う*1
 
 

*1:強調しておかないと、僕自身もうっかり忘れてしまうこともあるので