シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「長期的には我々は皆死ぬわけだし。」

 
 http://b.hatena.ne.jp/lakehill/20070710#bookmark-5220327
 

長期的には我々は皆死ねわけだし、とりあえず今をなんとか乗り切らないと未来もへったくもない人には長期的な視点など意味ない。10年20年後は社会もどうなってるかは誰にも判らんし結局なるようにしかならんよ

1.長期的に死ぬことが分かっているということや、案外明日にでも交通事故に遭って死ぬかもしれないという確率があるということを知っているからとて、それが中年期以降の己自身の慰めなり心の支えなりになるとは、僕にはあまり考えられないんですよね。
2.今を乗り切らなければならないという自転車操業な物理的状態/心理的状態の人が、現在を最優先にしなければならない、というのは理解出来る話です。今日の為に明日を食い潰さなければならない人は、日本国内にもいることでしょう。しかしですね、コーラを飲みながらblogをやっている皆様におかれても、皆が皆そうなんでしょうか?明日の為に植える種籾など持たず、種籾という種籾を余さず喰って飢えを凌がざるを得ないほど、多くの人達は致命的状況に至っているのでしょうか。将来にまわすリソースも、将来にリソースをまわす智慧も無いということなのでしょうか。
3.10年後20年後の社会がどうなっているかは、もちろん誰にも分かりません。分からないからこそ、汎用性を高くして「なるようにしかならないなかで、自分の裁量や判断でなし得る余地や期待値」を増やそうというのが、僕が望むことです。「将来が分からない」という未来の不可知さ加減を根拠として、「そのまさに分からない将来に自分がなし得る余地や期待値を改善させようと意図する」ことを無意味と仰るのであれば、なるほど、僕の藻掻きなり生への執着なりといったものは、確かに無意味とみえるかもしれませんね。
4.逆に、○月×日に死ぬことが明々白々な人の場合ならば、その日その日を大切にするという戦術も(僕などにも)納得可能です。ただ、○月×日に死ぬことが明々白々な人というのは、世間、とりわけブログなどを閲覧する立場の人達においては、あまり見受けられないようにも思えます。