シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

誰が為のウェブサイト、誰が為のコミュニケーション

 
 他人に知覚され判断の対象となり得る全行動を「コミュニケーション」と規定する私にとって、ウェブサイト/ブログ上にテキストを(概ね一方向的に)書き連ねる行為もまた、当然「コミュニケーション」として認識されるものだ。何をどう影響するかはともかくとして、私が書いた文章&誰かが書いた文章は、読み手によって評価されたり、読み手に対して零〜甚大までの範囲において影響を与える可能性を孕んでいる。
 
 ネット上で文章を書くこと/読まれることもまた、コミュニケーションだとするならば。
 
 あなたは、果たしてどう振る舞う(=書く)のだろうか?相手に与える影響を望ましいものにする最大化する為に精一杯努力するのだろうか?自分の書いたテキストによって他人に影響や評価を与えることが望ましいと思う人は、読者の期待するところのテキストを発信することによって、高い評価を受けたり望ましい影響を与えたりするチャンスを得られるかもしれない。
 
 ただし、読者に対して望ましい影響を最大限に与えるべくテキストを書き綴り続けた場合、コミュニケーションという観点から視て一つのリスクを背負うことになる。私はそれを恐れるので、一生懸命に「読者を喜ばせるテキスト」を書きまくり続けることが出来ない。というかそんな事は怖くて考えたくもない。
 
 読者の期待に応えようと常に努力した時、私と読者との関係はどうなるのか?もし、読者の期待に十分応え得る文章を十分な期間呈示しすぎたなら、読者と私の関係は「面白い文章をいつも書く人と、それを期待して眺めやる人」として形成されていくことだろう。一度や二度ぐらい、ある種の指向を持たせた文章が好評を博した程度では、『書き手→読み手関係』は規定されないだろうが、十回も二十回も繰り返せば話は変わってくる。読者は一定の嗜好のもとに私のテキストを眺めやるようになるだろうし、書き手たる私もまた、そのような関係性に足をとられて、読者と自分との関係を意識せざるを得なくなってしまう可能性が高い。もし、いったん規定されてしまった『書き手→読み手関係』が、苦痛を伴うものだったり死にものぐるいの努力を要するものだとしたら?私は更新のたびに全力を尽くして「読者を喜ばせるテキスト」を生産しなければならなくなりそうで、だとしたらじきに参ってしまうだろう。あるいは“申し訳ない”*1などと思いながら、不承不承『書き手→読み手関係』を改変するか。どちらにしても、私は感情的エネルギーを消耗しやすく関係性に拘束されやすい『書き手→読み手関係』を余儀なくされるリスクを背負うことになる。書き手たる私は、読み手の快楽に使役される奴隷のような自分に気付かざるを得ないかもしれない。
 
 勿論、そんな『書き手→読み手関係』に陥る可能性を私は恐れている。たかが垂れ流しサイトとは言えども、それが人間間のやりとりである限り、コミュニケーションには違いないのだ。自分でも知らず知らずのうちに『妙な関係性』が私と読者の間に構築されたら(または、私個人のなかに沈殿すれば、と言い換えるほうが適切かもしれない)、私はその関係性に由来する束縛・苦痛に苦しむことになるかもしれない。
 
 じゃあ、どんな関係性を読者との間に構築していくのか?望むらくは、自分自身が気楽な『書き手→読み手関係』を目指していったほうが良い。だから私は、好き放題に書く。書きたいものを、書きたいだけ書く。時にはウケ狙いなネタを書くのも大変良いので時にはやるにしても、(例えばウケ狙いの強迫的繰り返しによって)自分自身と読者との関係を規定してしまう事は、出来るだけ避けたいところだ。みんなに認められるけれども『書き手→読み手関係』が『奴隷剣闘士→観客』と規定されたウェブサイト/ブログをやっちゃったら、書きたいことを書き散らすことが出来なくなるんじゃないかな?多分*2。きっと息苦しくなってきて、今みたいに好き勝手にやれなくなってしまいそうだ。
 
 そんなわけで、私は好き勝手に書くことにしている、それが一番マシな自分自身と読者とのコミュニケーションの形だと信じて。ひょっとしたら、『読者の期待に添うような努力』を頑張ればもうちょっと読者の多いサイトに出来るかもしれないが、どうせそれをやったって『書き手→読み手関係』にすぐ私はくたびれてしまう*3。逆に、こんな糞味噌なサイト=自分自身の他人ウケじゃない所も含めた等身大に割と近い自分 を顕わにした状態で書き込みを続けた場合、私は『書き手→読み手関係』を私の側から規定することが出来る。即ち、好き放題書きたい放題をやる事によって、結果として私は読者との関係性を決めつけてかかることが出来るのだ――『こんな糞味噌なサイトでも見たいっていう物好き以外は見なくていいので、好き勝手やらせていただいてます』、と。この企てによって、私は潜在的読者を失ってしまうかもしれないと同時に、それでも読んでくれる酔狂な読者に対しては、気兼ねなく書き放題に書けるような関係性を維持出来るかもしれない(或いは、そう自分自身に言い聞かせることが出来るかもしれない)。
 
 この、書きたい放題による『書き手→読み手関係』規定法は、コミュニケーションの手法としては荒っぽく、読む人が誰もいなくなってしまうリスク・読む人に罵倒されるリスクを負ってはいるが、一方で、比較的書きたい放題に近い、肩の力を抜いた書き込みをダラダラ続けるには向いていると信じている。もちろん、あまりに愚かな事を書き過ぎてまずい事にならないようには気を遣わなければならないし、『書き手→読み手関係』がコミュニケーションである以上、完全なる一方向的発信など不可能には違いないけれど、否応なく一定の関係が読者との間に構築されるとするなら、自分にとって望ましく、長続きしそうなものを指向しないと辛いことになりそうだ。書きたい放題によって規定された『書き手→読み手関係』が惨めな失敗に終わったとしたとて、“奴隷剣闘士”のペルソナをつけたまま成功するよりは長続きしそうだし、書くことそのものは楽しめるに違いない*4。だから私は、(時にはペルソナをつけることすら含めて)出来るだけ何でも楽しく書いて差し支えないような『書き手→読み手関係』を志向する。これを「お前、我が侭だよ」と指摘したあなたはおそらく正しいが、私はまさにその我が侭をやっているわけだ。とはいえ、私が“奴隷剣闘士”のペルソナに閉塞感を覚える限りは、どのみちペルソナを着けたまま書き続ければ窒息死を免れないので、私は私なりの関係性を読者に押しつけ続けようとせざるを得ない。無論、そんな押しつけを必要とする事は“客観的なサイトの価値”とやらを追求するうえでは大きな足枷に違いない。だけど、その足枷がなければ萎れてしまう程度にナメクジらしいから、まあ、そんなところなのだろう。気にせず、マイペースにやっちゃおう。
 
 [追記]:もちろん、ウェブサイト/ブログへの書き込みを自慰や自己研鑽として捉える向きはあるし、それはそれで重要な視点には違いないが、一人でも読者がいる限り、アクセス数が1でも増える限り(それがBOTの巡回であっても、である)、もうコミュニケーションとしての呈を為し始めることには、幾ばくかの注目があって然るべきだろう。 
 

*1:この、“申し訳ない”という感情は、おそらくは本来必要で済ませることが出来たであろう、回避可能な感傷に違いない、と信じる

*2:勿論、奴隷剣闘士になるブログを一個用意して、別のウェブサイトで別の事を書くという手は、ある。だけどそれをやったとしても、奴隷剣闘士ブログではあくまで奴隷剣闘士たらねばならないという制約は残る。それを割り切れる人は、それでもいいんだとは思う

*3:書く快楽に溺れまくってくたびれ果てて、まるで呑みすぎた飲兵衛のように大の字になってくたばるのは大歓迎なのだが

*4:しかも惨めな失敗を“これはペルソナだから”と言い訳せずに受け容れることが可能になるという点でも優れている。