シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

みんな、残酷な娑婆世界で必死に生きている。だったらそれでいいと思う。

 以下の文章は、id:Masao_hateさんへの私信です。
 
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/04/post_2a86.html
 
 Masaoさんが、私の提示したコミュニケーション観に息苦しさを表明するのもよくわかります。正直、書いている私も胸がモヤモヤして、嫌になっちゃいますよね。感情すら個人の利得や優位を確立するための生得的なmachineだなんて考えたら、それこそ愛も夢もあったものじゃないです。もしも、今後コミュニケーションがいっぱい増えて、その傾向がますます「加速」するとすれば、そりゃ嫌だなぁって私だって思いますよ。

必要以上に「利害と感情の構造を操る能力」が重視される世の中は、嫌なんですよ。それになんだか凄く生き辛そうじゃないですか。お互いがお互いの「利害と感情」を常に計算に入れて付き合っていく世の中なんて。

そういった能力が、社会適応に必要かつ重要な能力だというのはその通りだと思うんですが、それが過剰に重視される世の中には反対です。そして今、社会はそういった「過剰に利害と感情の構造を操る能力が求められる社会」に向かっている気がしてならないんですよ。

 だから、このコメントを書くMasaoさんに深い共感を抱きます。情愛すら、本能や感情によって自動演算された利害行為なんだとしたら、何といやらしいことでしょう。全てのコミュニケーションが「他人の行動の確率を変化させて 自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセス」と理解されるなら、なんと人間関係は醜くみえることでしょう。
 
 だけど私は、その生き辛い世界こそが「娑婆」なんだと思うんですよ。
万人の万人に対する闘争と逃走。(恫喝や利他行動すら含む)コミュニケーションという名の働きかけを相互に展開しつつ、相互に適応競争を繰り広げる永遠のコロシアム。適応競争のなかには、共闘・同盟・敵対・反逆・疎遠・接近など色んな要素が含まれているだろうけれど、それらは全て「他者への働きかけを通して自分自身の適応を変化させる行動」という原則を免れることは出来ないと思います。一見すると無私の行為のようにみえる親から子への愛・英雄的行為とかも、遺伝的・社会的に大きな利得を当人にもたらす投機と捉えられるし、それらを惹起する感情も社会的利得・遺伝的利得*1を自動演算したうえでゴーサインを当人に発令するものなんだと推測します。こうした人間(というより生物全て)に当てはまる娑婆の法則を悪いものとして目を瞑り、「他人に優しいコミュニケーション」だけにコミュニケーションという単語を当てはめることも可能ですが、そんなことをしたって、娑婆はあくまで娑婆のままで、「社会適応能力」という単語に置き換えるか否かなんてものも、その単語を呼ばわる当人の心象風景を変える以上の意味を持っていないですよね(id:REVさんやid:fromdusktildawnさんはこの辺りに自覚的にみえます)。そういう定義遊びは、定義遊びをする当人の心理的葛藤や行動規範を変更するには有効ですが、娑婆の道理をひっくり返すには無力です。そのようなカテゴライズで、コミュニケーションという言葉に含まれる政治性を嫌悪したところで、実際私やMasaoさんが行う全コミュニケーション・全対人関係は「影響与え合い合戦」に含まれてしまっています。善なるコミュニケーション否かか、気楽なコミュニケーションか否か、ということとコミュニケーションに政治性が含まれているか否かは、実際は別命題です。全部政治性が含まれてる、たっぷりと。

「利害と感情の構造を操る能力」なんてものが、「必要悪」以上の力を持つ世界が、果たして「生き易い世の中」なんでしょうか?僕は、もっと気楽に「コミュニケーション*2」できる世の中のほうが好きですけどね。

 だから、こんな事を言ったって(残念ながら)娑婆は全く変わりません。生き易いか生き難いかとか、気楽に「コミュニケーション」できる世界が好きとか嫌いとか言っても意味がないのです。Masaoさんや私が泣こうが喚こうが、厳しい適者生存のパワーゲーム・差異化ゲーム・権力ゲームが娑婆の本質であり続けるでしょう。社会運動なんてものも、所詮はゲームのルールを微調整する程度のもので、原則ルール(=道理)は動かない。娑婆を知れば知るほど、真面目に娑婆をみればみるほど、「政治性の薄いコミュニケーションがいいよね」なんていう願いが白昼夢でしかないことを私は痛感します。勿論、そういう議論を通して娑婆から目を逸らしてキラキラ光る奇麗事に終始する自由は誰にでもありますし、そういう議論を通して何らかの利得を対人関係において回収する手続きを非難するつもりもありません。“利害と感情の構造を操る「政治力」は悪であり、汚物である。汚物は消毒だぁ〜!”と嫌悪するのも(ステロタイプな道徳観に照らしてみれば)自分が良い人間になれた気分を味わえるという利得があるので、これはこれで個人の心的適応にとっては実りある選択です。ですが、無残な娑婆世界の道理から遠くなることは避けられませんよ。
 

  • んじゃどうすればいいって?そのままでもいいからがんばろうよ(私は仏教サポート使ってますが)

 
 じゃあ、この汚らしい娑婆から目を逸らさずにどうやって個人は生きればいいんでしょうか?私は、実際のところ、どう生きたっていいんだと思います。娑婆から目を逸らす生き方を馬鹿にして溜飲を下げるも良し、娑婆を見つめ続けて目を潰した挙句に琵琶法師になるも良し、「情愛」と名づけられた利他行動の一種に過剰な意味を見出すのも良し。極論を言えば、空気の奴隷になったって別にいいじゃないでしょうか、それが当人にとって最適あるいは唯一選択できる答えなら。偉い人が「空気の奴隷め。この恥知らずめ。俺様が唾を吐きかけてやる。ぺっぺっぺ。」とやったって、そんなの知ったことじゃありません。どうせそういう言葉だって、偉い人の政治ゲームなんですし、「当人にとって最善の選択としての空気の奴隷」なんですから、余裕ある人にガタガタ言われたってどうしようもないですよね。あと、防衛機制をガチガチに展開して、人生を台無しにしたって別に構いません(大体、台無しって何なんでしょうね?)。その台無しっぷりとルサンチマン丸出しっぷりを選ぶしか、どうせその人にはなかったんでしょうから、それはそれでその人のベストなんでしょう。空想の世界で萌えキャラを蹂躙する日々が唯一且つ最高の選択肢っていうエロゲーオタを見かけたって、彼が「頑張ってないゴミクズ野郎」と断罪していいのか、最近の私にはわかんないです。いや、個人としてそういう人を見下したり騙したりは出来るかもしれませんよ、でも、彼らの存在や有り様を全否定することだけは、どうしても出来ないのです。
 
 Masaoさんに近い例で、「情愛的コミュニケーションスキル」なり何なりでコミュニケーションに枠組みを設け、「政治性が薄いコミュニケーションはgood、政治性が濃いコミュニケーションがbad」という議論に傾倒することだって、或いはいいのかもしれません。それが当人の適応にとってのベストだとすれば、その議論に今後も是非拘泥したほうがいいってもんでしょう。 ただし、そういうのって娑婆を直視する冒険旅行だとは思えないので、心的葛藤を緩和するクッションだとみなしちゃいますけどね*2。私はそういった在り方を“つまんねぇ”と差異化して快楽を搾取しちゃったりしますが、それは私の個人の収支の問題。別にそういう議論に傾倒し続けたってそれはそれで構わないことだと思います。それもひとつの有り様でしょう。
 

  • まとめとおまけ:ニーチェスキー、仏教スキー

 
 ニーチェは娑婆に矢を放ちましたが、釈尊スキーな私は、あの矢でも娑婆は貫ききれないと思ってます*3。利害を巡って、腕力・権力・体力・知力・審美性など様々のカードを言語/非言語でぶつけあうコロシアムで、空気読める奴も空気読めない奴も、男も女も、最善の適応を求めて四苦八苦しているのが娑婆だというのが私の現状認識です。だからといってニヒリズムに陥る必要もありませんし、(私の知るところの)仏教は、なんやかや言ってもニヒリズムや虚無を勧めてはいないと私は感じています。私は元気一杯にケダモノ根性で日々を暮らしていますし、その他の人達においてもおそらく同様でしょう(修道院に籠もるケダモノもいますよね?)。残酷な娑婆世界のなかで、道理(ルール)の無残さを認めつつも、そのなかで各人が各様に最善を尽くしていけばいいんじゃないかと思います。っていうか、そうするしかないですよね(なるようになるし、なるようにしかならない)。そして、その無残な娑婆世界のなかで、偶然の因果関係なり利害の一致なりによって「友情」「愛情」と私達が呼ぶような(一時の)花が咲いたら、素直にそれを美しいと思えばいいんだと考えてます。私はご覧の通りのケダモノですが、幸運にも、娑婆という名の泥沼に咲く一輪の花を美しいと感じる本能を授かりました。どうにもならない「北斗の拳」みたいな娑婆世界で、ときに感動したりときに絶望したり出来る自分を喜んでいたいですし、一時の幸福に出会った時にはかみ締めていたいものです。そして良いご縁と良い因果関係を得るという「自分の利害の為にも」知人縁者と強力で情緒的な同盟関係を強化していきたいと思っています。もし、偶然そこに美学に相応な花が咲いたら、にっこり笑って愛でたいですね。
 

*1:なお、遺伝的利得はその遺伝子が後世に伝えられる可能性の高さを示すものであって、人間個人の利得とは必ずしも一致しないものかもしれない。だが、遺伝子は淘汰圧をとおして「遺伝子が後世に残りそうな行動をとるような性向・行動傾向」を人間に与えてしまっている。遺伝子が後世に残りそうな行動や選択を快く思うように、人間の感情は設計されている。

*2:勿論、娑婆を直視しようしようとするイカロス気取りの私のこの選択にも、心的葛藤を緩和するクッションとしての機能が付随してますし、きっと私の卑しい利得に適ったもんなんでしょう。

*3:勿論ニーチェとニーチェファンは諦めてないでしょうし、ニーチェ自身も仏教に言及して幾らか評価しつつもあれこれ言ってた記憶があります。手元に今本が無い! 私もニーチェは大好きですが、やっぱお釈迦様のほうが好きだし、お釈迦様のほうが娑婆をよく見つめたんじゃないかと「信仰」しています