シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

【たすけて!所属欲求!】第二回:共同体消失と、SNSによる所属欲求の復活

 
 *現在、所属欲求についてのブログ記事を連載中です(全三回)。承認欲求はよくわかるけれど所属欲求はよくわからない人、『認められたい』の拡張パッケージ的な文章が読みたい人に、特にお勧めです。*
 
 
 第一回は、中年期以降まで見据えるなら、承認欲求だけでなく所属欲求もモチベーション源にして生きたほうがやりやすい、といった話をしました。
 
 また、承認欲求に過重がかかりやすくなってしまった時代背景として、所属欲求が軽視され、所属欲求を充たせるセーフティネットに相当するコミュニティが希薄化していった流れについても書きました。
 
 この第二回では、所属欲求を充たすための機会が一度希薄化し、2010年代になって一気に蘇った、そのあたりについて記します。
 
 

所属欲求に慣れる機会は遍在していた。が、ラクではなかった

 
 個人が独りで生き抜くことの難しかった江戸期後半~戦前の日本社会では、地域共同体や血縁共同体のメンバーシップの一員であることが重要でした。共同体への所属は、地元で生きていくのに必要不可欠な“立場”やスキルアップの機会を提供すると同時に、所属欲求を充たし慣れる機会をも提供していました。
 
 断っておきますが、「所属欲求を充たし慣れる機会がある」=「誰もがラクに所属欲求を充たせた」わけではありません。地域行事に必ず参加しなければならず、地縁や血縁のしきたり、上下関係に従わなければならなかったのは、けして楽ではなかったはずです。また、メンバーのなかには理不尽な年長者や意地悪な同輩といった人間もたいてい含まれていますから、それらとの付き合いに苦労することもあったでしょう。
 
 所属欲求を充たし慣れる機会の多い社会とは、否応なく所属欲求を充たしながら生きなければならない社会、それができなければ精神的/社会的にドロップアウトする危険の大きな社会でもあったわけです。

 個人単位で承認欲求を充たす意識や方法の乏しかった当時、所属欲求を充たせない境遇に置かれるのは、堪えたことでしょう。たぶん、承認欲求を主なモチベーション源としている人が承認欲求を絶たれるとすごく心が飢えるのと同様に、イエや地域を介して所属欲求を充たすことを主なモチベーション源にしていた人が所属欲求を絶たれたら、すごく心が飢えたのではないでしょうか。
 
 そのかわり、いくらか不満を感じる年長者やちょっとウマの合わない同輩ぐらいとならメンバーシップを共有できるよう、ほとんどの人がトレーニングされました。子守りも農業も冠婚葬祭も、なにもかもが地縁や血縁のなかで行われていた社会では、所属欲求を充たすことに習熟する機会が豊富でした。また、人的流動性が低く、メンバーが滅多に入れ替わらないので、対処の難しいメンバーに対しても、時間をかけて馴染んだり他の年長者から対応策を教わるだけの猶予がありました*1。馴染むための時間的猶予があった点は、臨機応変なコミュニケーションが苦手な人、たとえば新しいメンバーに馴染むのは苦手でも馴染んでしまえばうまくやれる人、口下手でも誠実で真面目な人には、有利に働いたことでしょう。
 
 

共同体の希薄化と、所属欲求の没落

 
 そうした、所属欲求に慣れやすい/慣れていかなければならない共同体は、時を経るにつれて、希薄化していきました。
 
 まだ、地域共同体で生まれ育った若者が大多数を占めていた高度経済成長期には、所属欲求は、人々のモチベーション源として、企業や地域を結び付ける重要なファクターとして機能しました。個人主義的なライフスタイルに憧れる人が増えてはいましたが、社員旅行や盆踊り大会が体現していたように、あるいは麻雀やボウリングの流行が示していたように、当時の壮青年は集団的なレクリエーションに対して積極的で、そもそも、娯楽や余暇の相当部分が独りでは遊べないレクリエーションによって占められていました。レクリエーションとは少し違うかもしれませんが、若者の政治運動が盛り上がったのもこの時期です。
 
 しかし、80年代にさしかかる頃から、こういった集団的なレクリエーションや運動はダサくて格好悪いものとみなされていきます。この世代の若者は『新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)』に象徴されるような、消費個人主義に適合したライフスタイルを志向し、「シラケ世代」「新人類」などと呼ばれました。そうした志向は、“トレンディ”な若者に限定されたものではなく、地域から乖離し、好きな趣味生活をひたすらに追究した若者*2とも共通したものでした。
 
 こういった個人主義的な若者が多数派を占めるためには、若者が独りで好き勝手なことをできるぐらいの、経済的余裕や空間的条件が揃っていなければなりませんでした。幸い、“一億総中流”と言われていた頃の家庭の大半には、子どもに種々のガジェットや子ども部屋を与えるだけの余裕がありました。また、塾通いや稽古事通いなどによって子ども同士のスケジュールが分断されやすくなったため、子どもが独りで余暇を過ごさなければならない時間*3が増えていきました。
 
 独りで過ごす時間が増え、その必然的帰結として、メンバーシップ意識よりも個人としての自意識が優勢な若者に対し、マスメディアは、モノやファッションを買い求めて自己演出する方法、つまり“恰好つけて承認欲求を充たす方法”をどんどん流し込みました。ファッション雑誌やDCブランドが全盛期を迎え、さらにバブル景気が重なり、そうしたモノやファッションを買って承認欲求を充たす手法は、年長者をも巻き込んでいきました。
 
 他方で、拘束力を伴った旧来の共同体は減り続け、たとえば、新興のニュータウンや高層マンションに生まれ、個人主義的なライフスタイルに忠実に育てられた子どもなどは、所属欲求を充たし慣れないまま成人することも珍しくなくなりました。“トレンディ”な若者は、いまだ土着性を引きずって群れている若者を「ツッパリ」「ヤンキー」と呼んで軽蔑し、時代遅れとみなしました。かつてはどこの学校にもありふれていた「ツッパリ」や「ヤンキー」はだんだん珍しくなり、と同時に、彼らを包摂していた地域共同体もますます衰退していきました。

 こうした変化の総仕上げとして、バブル景気が崩壊し、大企業の倒産やリストラの嵐が相次ぎました。自己責任論が台頭するなか、企業に所属意識やメンバーシップ意識を持つような、所属欲求をモチベーション源としたワークスタイルは完全に時代遅れになりました。飲みニケーションや社員旅行といった、メンバーシップ意識を前提とした“社内の付き合い”が敬遠されていったのもこの時期です。
 
 2000年頃、会社や組織に背を向けて自分自身の成果を追いかけたがる若者を「自己中心的な若者」とバッシングする向きがあったと、私は記憶しています。ですが、その背景として、そもそも所属欲求を充たせる/充たさなければならないような共同体が衰退し、子どもが独りで過ごさなければならない時間が増大し、老若男女がこぞって消費個人主義にのめり込んでいった、複数の社会変化があったことは踏まえておかなければならないでしょう。そのような変化のもとで育った若者達が、所属欲求よりも承認欲求を志向したライフスタイルと心理に傾いたのは、もっともなことだと私は思います。

SNSによって蘇った所属欲求

 
 かくして20世紀末~21世紀のはじめにかけて、日本人のモチベーション源は、所属欲求よりも承認欲求を充たす方向へと傾き続けていきました。自己実現や承認欲求をテーマにした書籍が毎年のように出版され、所属欲求は、体育会系の領域などを除いて希薄になる一方のようにみえました。
 
 しかし2010年代に入って情勢が変わってきたように思います。所属欲求を充たす新しい機会と空間を提供するようになったのは、インターネット端末、とりわけスマートフォンと、SNSです。
 
 ガラケーやmixi、スマートフォンやSNSが普及するにつれて、ネットコミュニケーションは日本社会全体に、着実に広まっていきました。2009年頃からはtwitterとFacebookが急伸し、のちにLINEが加わりました。はじめ、これらのツールに触れた人々は、こぞって「いいね」を求めて、つまり、承認欲求がモチベーション源となってコミュニケーションしているかのようにみえました。自分の書き込みを読んで欲しい、なにか反応して欲しいという気持ちがあればこそ、mixiのあしあと問題や、LINEの既読スルー問題なども話題となったのでしょう。
 
 ところが東日本大震災が起こった前後から、twitterやFacebookは、主義主張や立場ごとに寄り集まって意見をぶつけ合う、党派性を帯びたコミュニケーションの場としての顔貌を露わにしはじめました。

 原発を巡って、与野党を巡って、ジェンダーを巡って、表現規制問題を巡って、たくさんの人が「こちら側か」「あちら側か」にわかれて集団を形成しました。いや、集団未満と言うべきでしょうか。リツイートやシェアによって暫時的に繋がっただけの現象を集団と呼ぶのは――まして共同体と呼ぶのは!――私には過大評価のように思えるからです。

 とはいえ、リツイートやシェアには同調する者同士を集める強い力があります。もし、SNSに「いいね」ボタンしかついていなかったら、ひとつのアカウントが別のアカウントに承認される以上の展開は望めなかったでしょう。ところが、リツイートやシェアは、ひとつの投稿に集まる承認の上限を高めただけでなく、リツイートする者同士・シェアする者同士が同族意識や仲間意識をリアルタイムに体感できる、便利な手段*4だったのです。
 
 膨大なリツイートやシェアを伴った投稿やトピックスは、さながら、祭りの神輿やトーテムポールのような役割を帯びます。SNSとスマホの利便性のおかげで、いつでもどこでも誰でも、この所属欲求の祝祭に飛び込むことができます。自分では弁が立たない人、美しい写真やイラストを作れない人でも、リツイートやシェアをすれば集まりに加わって、所属欲求が充たせます。さしずめ「リツイートやシェアすることによって、“神輿”や“トーテム”をいつでもどこでも誰でも持ち上げてワッショイできる」、といったところでしょうか。
 
 たぶん、私達ネットユーザーは、「いいね」をもらうことによって承認欲求を充たしながらも、リツイートやシェアで所属欲求を充たせることに、だんだん気付き、味をしめていったのではないでしょうか。
 
 ネットを使った所属欲求の相互充当が、SNS以前に無かったわけではありません。趣味のオフ会、2ちゃんねるの実況板、ニコニコ動画のコメント弾幕などは、所属欲求を充たしやすい機会だったと言えるでしょう。しかし、これらはユーザー数においても拡散力においても今日のSNSに比肩するものではなく、社会全体に所属欲求を介した繋がりをつくりあげるほどのものではありませんでした。
 
 圧倒的な人数が利用し、いつでもどこでも誰でも承認欲求や所属欲求を充たせる手段として定着するには、SNSとスマートフォンの普及と、ユーザーの習熟を待たなければなりませんでした*5
 
 SNSによる所属欲求の相互充当があまねく定着した結果、私達はますます投稿やトピックスをリツイート・シェアするようになり、ときに、数千人~数万人単位で所属欲求の相互充当をかたちづくるようになりました。2016年に相次いだエンタメ作品の大ヒットや種々の炎上騒動などの背景には、SNSを用いて所属欲求を充たせる喜びを知り、それをもモチベーション源としながらコミュニケーションに時間を費やす現代人の社会適応の姿があります。
 
 20世紀後半から21世紀のはじめにかけて、多くの日本人は承認欲求に夢中になり、所属欲求を忘れかけました。しかし、社会的生物としてのホモ・サピエンスの性質が変わったわけではない以上、いつでもどこでも誰とでも所属欲求を充たせる手段が与えられれば、所属欲求がそれに即したかたちで復活したのは当然だったのかもしれません。
 
 なんにせよ現代人は、SNS上で所属欲求にも強く動機付けられながら群れ集い、旧来とは異なったかたちの世論、流行、党派性といったものを生み出すようになりました。次回は、そのような新しい所属欲求のかたちがもたらす、可能性と危険性について、述べてみる予定です。
 
 

認められたい

認められたい

 

*1:尤も、よその地域から嫁入りする女性に、そうした猶予があったのかは怪しいところですが

*2:のちに、彼らはオタク、サブカルと呼ばれるようになります

*3:たとえば塾帰りの時間のような

*4:あるいは導線

*5:日本においては、SNSを介した所属欲求の相互充当に皆が習熟していくきっかけとして、東日本大震災があったように思われます

【たすけて!所属欲求!】1.承認が足りないおじさん・おばさんは所属しろ!

*これから、所属欲求についてのブログ記事を連載します(全三回)。承認欲求はよくわかるけれど所属欲求はよくわからない人、『認められたい』の拡張パッケージ的な文章が読みたい人に、特にお勧めです。*
 

認められたい

認められたい

 
 

はじめに

 
 新著『認められたい』では、承認欲求と所属欲求について、なるべくわかりやすく解説したつもりです。それでも、よく見かける承認欲求という言葉に比べて、所属欲求という言葉はイマイチわかりにくい読者さんもいらっしゃったかもしれません。
 
 また、執筆段階では十分意識できていませんでしたが、最近、ネットユーザーのモチベーション源として、所属欲求が承認欲求に並ぶほど機能しているさまが捉えやすくなってきました。2010年代後半のネットユーザーは、明らかに、承認欲求と所属欲求の両方に強く動機づけられて行動しているようにみえます。
 
 そういった動向も踏まえて、もう少し所属欲求について書き足したい気持ちが堪えきれなくなったので、これから三回にわたって、所属欲求についての補足説明や今後の展望などについて記してみます。
 
 なお、この連載は『認められたい』が未読でも読めないことはありませんが、少し難易度が高いかもしれません。既読のほうが、絶対に理解しやすいと思われます。こちらを先にお読みになって興味を持たれた方は、本屋さんで『認められたい』を手に取ってみてください。
 
 

所属欲求とは

 
 所属欲求とは何か、ここでも振り返っておきます。
 
 所属欲求とは、心理学者のA.マズローが提唱した欲求段階説に登場する、人間関係にまつわる欲求のひとつです。
 
 マズローのモデルによれば、人間は、衣食住や身の安全といった基本的欲求が充たされると、ついで、人間関係にまつわる欲求を充たしたくなり、稀に、自己実現欲求に芽生えるそうです。
 

 
 人間関係にまつわる欲求は、マズローのモデルでは承認欲求と所属欲求に分けられています。承認欲求は、個人単位で褒められたい・注目されたい欲求、所属欲求は、誇れるメンバーシップの一員でいたい・敬愛する人と一緒にいたい欲求などです。
 
 マズローが活躍した1960年代のアメリカは、現在よりも地域コミュニティが機能していた“古き良きアメリカ”で、そういったコミュニティに属さず“根無し草”的に生きていける人がまだ少なかった時代でした。そのような時代背景があってか、マズローは、所属欲求を承認欲求よりも前段階の欲求として記しています。生まれながらにして誰もがコミュニティに属し、仕事や生活を支え合っていた社会では、たぶんそれが自然なことだったでしょう。日本でも、たとえば団塊世代の多くの人は、まず所属欲求ありきで年を取っていき、個人主義的な考え方とライフスタイルが浸透していくにつれて、承認欲求のウエイトの高いライフスタイルに移行していったように見受けられます。
 
 ただし、郊外化や都市化が進行した後の社会、たとえば1980年代以降の、日本の郊外などで生まれ育った子どもの場合は、この限りではありません。コミュニティへの所属がずっと希薄となり、親から個人主義的な考え方とライフスタイルを専ら叩き込まれて育った子どもは、むしろ逆で、スタンドアロンな承認欲求がデフォルトで、所属欲求が乏しい人が珍しくないよう見受けられます。
 
 そのことを踏まえて、私は、承認欲求と所属欲求の間に優劣はつけられず、育った環境や社会状況次第で、どちらが優勢になるのかが変化するという風に捉えています。と同時に、どちらか一方だけをモチベーション源として生きるのは難しく、『認められたい』で触れたように、どちらの欲求も、適切な経験を積み重ねて、適切なかたちにソーシャライズされていかなければ(=レベルアップさせていかなければ)、心理-社会的な適応が難しくなる、とも考えています。
 
 

思春期が終わった後に重要になる、所属欲求のアドバンテージ

 
 で、タイトルの「承認の足りないおじさん・おばさんは所属しろ!」について詳述していきます。
 
 承認欲求は、自分自身という個人に評価や注目が集めることで充たされることで専ら充たされる欲求で、これが、スキルアップのモチベーション源として重要なのは論を待ちません。
 
 ですが、そういった承認欲求を主たるモチベーション源としてスキルアップしやすく、それを生き甲斐にしていられる時期は、そんなに長くはありません。
 
 人間は、年を取っていく生物です。生物学的にも、社会的にも、老いていきます。経験の積み重ねによって老いをカヴァーできる部分もたくさんありますし、人は生涯かけて成長し続けていくものですが、後発世代の目覚ましいスキルアップを、朝日を仰ぐような気持ちで眺める日は、必ずやって来るでしょう。中年期以降の心理的成長のなかには、自身の衰えと向き合う姿勢や、自分よりも若い世代が台頭していくのを眩しく思い、見守り、祝福する姿勢も含まれて然るべきでしょう。
 
 そうでなくても、立身出世の限界、才能の限界、体力の限界、家庭の事情などによって、自分自身の栄達やスキルアップに集中できなくなる状況が起こりがちです。E.エリクソンは、中年期の発達課題を生殖性Generativityと位置づけ、問われるべき徳として「世話すること」を挙げましたが、これは、中年期以降の加齢の影響と社会的ポジションを考えると言い得て妙だと思います。自分自身の可能性の限界がみえてくるタイミングで子どもや後輩の世話や指導が期待されるようになり、年下世代にリソースを差し向けたほうが自分自身の成長よりも伸び幅があると感じたりもします。そこに、高齢者の世話や後見といった役割も入ってきます。
 

幼児期と社会 1

幼児期と社会 1

 
 だから「自分」「個人」という小さな器に固執するのでない限り、中年期は、自分自身以外の対象に気持ちを傾けたほうが手応えを実感しやすい時期と言えます。少なくとも、自分自身の成長に手一杯な思春期以前や、生命を保つのも大変な老年期以後に比べれば、そうでしょう。
 
 そんな境遇になった時、承認欲求しか眼中になく、自分自身が褒められたり評価されたりすることだけをモチベーション源にしていては、自分自身の伸びしろの限界に直面するばかりです。あるいは、子どもや年下世代を、自分の承認欲求を充たすための道具としてこき使う中年もいるかもしれませんが、そのような生き方は、いわば後発世代を食い物にして思春期の延長戦をやるようなもので、勧められたものではありません。
 
 いつまでも思春期が続き、いつまでも自分自身の成長やスキルアップに夢を託して生きていけるのなら、所属欲求をほったらかしにした、承認欲求に軸足を乗せっぱなしのライフスタイルも悪くないかもしれません。が、実際の人間はそうではないので、思春期においても所属欲求を完全に放棄するのでなく、中年期以降のモチベーション源として無視できないであろう所属欲求にもなんらかの形で馴染み、その充たし方を洗練させつつ(=レベルアップさせつつ)生きたほうが生きやすいはずです。実際、まずまずうまくやっている中年の大多数は、承認欲求と所属欲求をうまく折衷させながら生きている人々で占められているようにみえます。
 
 

「認められたい」でも梯子を外されたロスジェネ世代

 
 20世紀後半の日本は、大人も子どもも「自分」「個人」に向かって突き進みました。と同時に、エイジングの曖昧な、終わりなき思春期がいつまでも続くかのような気分が蔓延した結果、人々は承認欲求に根差したライフスタイルにしがみつき、所属欲求の必要性は語られず、古臭くてダサいものとみなしました。成人はコミュニティの希薄なマンションや郊外で“ニュー・ファミリー”を志向し、若者はワンルームマンションで好きなように暮らすのが“トレンディ”な、そういう状況が数十年にわたって続いたわけです。
 
 個人主義が浸透したこと自体は、私達には必要なことだったのでしょう。しかし、「個人」や「自分」に老若男女が固執した結果、「認められたい」という気持ちに占める承認欲求の割合は、高止まりし続けました。“ツッパリ”“ヤンキー”“体育会系”といった、所属欲求寄りの若者をダサいとみなす人達においては、特にそうだったと言えます。
 
 その結果、所属欲求という、承認欲求と同じぐらい重要なモチベーション源に不慣れなまま中年期を迎えてしまう……というのが、団塊ジュニア世代~ロスジェネ世代にありがちな心理的陥穽だったのではないでしょうか。
 
 「認められたい」の移り変わり、モチベーション源の移り変わり、という視点でみるなら、フリーターが流行語になったバブル全盛期も、自己責任論が台頭した就職氷河期も、内実はさほど変わっていなかったとも言えます。一貫して、承認欲求をモチベーション源としたワークスタイルやライフスタイルが若者に支持されていたと言って良いでしょう。
 
 しかし、そのような風潮の陰で進んだのは、「認められたい」を巡る大きな格差でした。経済面だけでなく心理面においても、持てる者が多くを掴み、持たざる者は持たなくなってしまいました。承認欲求中心なライフスタイルが流行ったとはいうものの、実際に社会的地位やスキルアップの勘所を押さえたのは、所属欲求の取り扱いに慣れている人々、つまり、同輩や先輩と心理的同盟を結ぶことにモチベーションを感じやすい人々でした。
 
 所属欲求を敬遠してきた者は、スキルアップのためのモチベーション源を、専ら承認欲求に依存せざるを得ません。企業も地域も所属欲求を充たしてくれない個人主義社会が到来した以上、所属欲求のセーフティネットに相当するものは存在しません。それによってしがらみが無くなり、自由になったのも事実ですが、集団に所属し、そこから心理的・社会的・技能的なメリットを汲み出す機会は、個人の意志と能力次第になってしまったとも言えます。
 
 所属欲求を充たす機会が乏しい人は、そのぶんも承認欲求で充たすしかありません。承認欲求がクローズアップされる社会の背景には、所属欲求を充たす意識と手段が減り、それによって、承認欲求に過重をかけざるを得ない人が増えた、という流れがあるように思います。この変化が、20世紀後半~21世紀初頭にかけての日本の社会病理を形づくった、おおきな要因になっていたのではないでしょうか。
 
 

所属欲求を諦めるのはまだ早い。

 
『認められたい』で記したように、所属欲求を充たし慣れていない人でも、なんらかの人間関係に所属意識を持ち続ければ、所属欲求を充たし慣れていく可能性はあります。なにせ、人間は太古から群れて過ごしてきたのですから、同胞意識を持ったり望ましいリーダーに率いられたりするのが心底嫌いな人は、そんなにいないはずです。欲求を充たし慣れているのか、欲求を年齢相応なかたちで充たすための適切な社会化(=レベルアップ)ができているかが問題なだけで。

 一般に、所属欲求を充たし慣れていない人は、やたらとハイレベルなメンバーシップや指導者を求めがちで、そのことが災いして、カルトな集団や教祖に吸い寄せられることがあります。カルトな集団のリーダーやメンバーは、そのような人を積極的に探しています。
 
 では、どうやってリスクを回避しながら、所属欲求に慣れていけば良いのでしょうか。
 
 『認められたい』では、その回答をH.コフートの提唱した変容性内在化という概念に求めました。つまり、お互いに百点満点とはいかない者同士でも付き合いが続き、そのなかで、ほどほどに「認められたい」気持ちが充たされていく体験を積み重ねることによって、所属欲求を充たし慣れていくのです。
 
 所属欲求を充たし慣れていない人、つまり仲間意識を持ったり誰かをリスペクトしたりする機会が乏しいまま成長した、たとえば『山月記』の李徴のような人にとって、ごく普通の同世代に仲間意識を持ったり、上司や先輩の良いところに着眼したりするのは、簡単ではありません。仲間意識やリスペクトを抱ける人間関係には、ときたましか遭遇しないでしょう。それこそ、李徴にとっての袁傪のように。
 
 ですがもし、そのような人間関係を掴んだら、なるべく短気を起こさず、簡単に相手を見限らず、長い付き合いを心がけましょう。自分だけ褒められたい・他人は自分を盛り立てるためのアクセサリだ、などと思うのはもうやめましょう。もし、それがあなたの今の本心だとしたら、それは、加齢に伴う衰えとともに中年期危機を招く危険な賭けだと私は思います。
 
 そうではなく、完璧とはいえない他人にも敬意を払いましょう。完璧とはいえない他人に敬意を払うことは、完璧とはいえないまま生きてきた自分自身に許しを与える道にも通じています。いろいろな意味で、他人に払った敬意は自分自身に返ってくるのです。
 
 今日では、オフラインの世界だけでなくオンラインの世界でも、「認められたい」を充たせるような人間関係が生じ得るようになりました。この文章をお読みの方は、きっとオンラインでもコミュニケーションしてネットコミュニティにも属しているでしょう。たとえば、はてなブログ-はてなブックマークから成る(株)はてなのコミュニティなどもそうです。もし、そういったコミュニティを見つけ、一目置き合えるようなアカウントや敬意を払えるようなアカウントと相互認識が芽生えたら、長くお付き合いしていただきたい、と思います。
 
 かく言う私も、たぶんそうやって、このネットコミュニティで所属欲求を充たしながらブロガーを続けてきたのだと思います。ときには怒り、ときには失望し、ときには喧嘩することがあっても、関係性が途切れなかったブロガーやブックマーカーのおかげで、私の所属欲求はいくらかなりとも成長したのだと思います。でも、それは一朝一夕にできたことではありません。古参アカウントの皆さんと長い歳月を共にし、オフ会でお目にかかることもあったからこそ、「雨降って地固まる」や「適度な欲求不満」を含んだ、所属欲求のレベルアップにつながる体験が成立したのでしょう。
 
 専ら承認欲求をモチベーション源にしている人のなかには、「駄目になったら、また別のコミュニティに行けばいい。他人は他人で俺は俺だ」的に、コミュニティに居つく機会や長く付き合う機会をぞんざいに扱って生きている人も少なくないように思います。しかし、それだけでは所属欲求を充たし慣れることはできませんし、承認欲求に過重がかかった状態が長く続いてしまうでしょう。属しているコミュニティ、仲間意識を感じられる同輩、敬意の対象にしている師匠や先生のたぐいがいるなら、大切にして欲しいと思います。
 
 所属欲求を充たし合えるような、敬愛の気持ちが通い合った人間関係とは、基本的に良いものです。お互いの承認欲求や所属欲求を充たし合える関係が長続きすれば、それらを充たすための適切な社会化も進んでいきます。所属欲求を充たし合うのに、遅いということはありません。承認欲求にとらわれ過ぎてキツいという人は、もうひとつの「認められたい」、所属欲求に着眼して、その充足と成長に心を傾けていただきたいと思います。
 
 

コミュニケーションのプロトコルを「茶番」って呼ぶのは、身に付けてからにしましょうね

syakkin-dama.hatenablog.com
 
 世の中には、上記リンク先で「茶番」と言われているような場面が尽きません。
 
 その典型が就活面接ですが、似たような「茶番」は、仕事に就いた後もずっと人生についてまわります。
 
 必要な時に、大きくハッキリした声を出せること。
 嘘ではないが本音どおりでもない「夢」や「目標」を語ること。
 無意味に思える指示にも、「わかりました」と答えること。
 
 こうした「茶番」に対し、はてなブックマークには「未開民族の儀礼や慣習に似ている」って書いている人もいます。ですが、それを否定的にでなく、肯定的に捉えるべきだと私は思いました。
 
 もし部族Aで、会った者同士が頭を下げる慣習があるとわかっているなら、それを身に付けておいたほうが部族Aではコミュニケーションしやすいでしょう。その慣習を突っぱねたら、無用な誤解や無礼を招くかもしれません。
 
 同じことは、相手が部族Bや部族Cの時にも言えます。いや、先進国でも事情は同じでしょうし、宇宙人とコミュニケーションする時も同じでしょう。
 
 どの部族、どの文化圏にも、そこで重視され、通用するコミュニケーションのプロトコル、様式が存在するのですから、上手くコミュニケーションしたい人は、それらを知って身に付けるのが望ましいはず。それらを身に付けずに軽蔑してばかりでは、そのぶん、コミュニケーションに失敗しやすくなるでしょう。
 
 コミュニケーションにまつわる風習やプロトコルは、無意味なものではありません。それが通用する人々の間で円滑にコミュニケーションできるようにするための、共通の決め事なんですよね。
 
 冒頭で借金玉さんが仰っている「茶番」も、これとまったく同じだと思うのです。日本文化圏、特に日本のホワイトカラー文化圏でコミュニケ―ションしていくための、基本的なプロトコルが就活では問われているのだと思います。もちろん、昨今の就活状況は「やりすぎ」の域に突入しているように聞こえますし、プロトコル以外の部分もきちんとチェックされているのだと思いますが。
 
 こういう、コミュニケーションにまつわる風習やプロトコルって、就活になって唐突に姿をみせるわけではありません。学校の入学式、卒業式、運動会、文化祭、参観日、さまざまな場所で、さまざまに姿をみせるわけです。ときには生徒指導のようなかたちで伝授され、ときには先生や親が集まる場でお手本を見ることもあったはずです。
 
 つべこべ言っても、学校ってのはホワイトカラーな人間を再生産する場ですからね。
 
 テレビや新聞で、やたらとキラキラした学生のスピーチを見かけることがありますが、あれだって「茶番」といえば「茶番」ですね。「茶番」というより「盛っている」という表現のほうが妥当かもしれませんが。でも、メディアに向かってああいうことが言えているのは、コミュニケーションのプロトコルをキチンと守れているってことだと思いますし、あれはあれで社会適応のスキルの発露と言えます。

 ああいった「茶番」やプロトコルによって失われてしまうもの・隠蔽されてしまうものがあるのも事実でしょう。青臭い若者なら、「ありのままじゃない」「嘘くさい」とか言い出す人もいるかもしれません。正直に言うと、私にもそういう感覚は残っています。
 
 でも、逆に考えると、「茶番」すなわちコミュニケ―ションのプロトコルを守ることによって、自分自身の内心のゴチャゴチャしたところを丸出しにすることなく、社会的に適切な表現にモディファイできているってことでもあるんです。それって、便利なことではないでしょうか。
 
 

「茶番に慣れていない」=「コミュニケーションに慣れていない」

 
 就活のような、「茶番」をやるべき時にやれない人は、「コミュニケーションする意志と能力が足りていない」とみなされるかもしれません。
 
 だって、日本じゅうで採用されているコミュニケーションのプロトコルなのに、就活という重要場面ですらそれが実行できないってことは、「ははあ、この人は、コミュニケーションする意志が無いか、コミュニケーションする能力が無いか、どちらかなんだろうなぁ」と思われても仕方ないとは思うんです。
  
 さきほど述べたように、こうしたコミュニケーションのプロトコルは、就活の時期に唐突に現れるわけではありません。学生時代から繰り返し学ぶ機会があったはずです。「大きな声で返事をしなさい」などは、学校の先生、特に、生徒指導の先生あたりが耳にタコができるほど言っていたはずじゃないですか。
 
 他方で、体育会系の人達などは、生徒指導の先生には忠実でなくとも、先輩-後輩の関係をとおしてプロトコルを叩き込まれます。彼らは、自分のアタマで考えて「茶番」を身に付けたのではなく、先輩の言うとおりに「茶番」を強制インストールしただけなのかもしれませんが、結局、世渡りがうまいのは後者です。
 
 「下手な考え休むに似たり」といいますか、自分のアタマで考えて「茶番」は要らないと判断した人達は、就活に限らず、コミュニケーションのあらゆる場面で損をし続けるのでしょう。プロトコルの不実行によって負うことになるコミュニケーションの失敗確率が、-3%程度のペナルティだったとしても、何年も、何十年も続けば、計り知れない損失です。人生と社会適応に大きな影を落とすでしょう。このあたりは、オンラインゲームやソーシャルゲームをやり込んでいる人なら実感できるんじゃないでしょうか。
 
 

「茶番」スイッチをon-offにできる人間が最強

 
 ちなみに、芥川龍之介は『侏儒の言葉』のなかでこんな箴言を言っています。
 

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

 

 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。
 芥川龍之介『侏儒の言葉』より

 ここまで述べてきた「茶番」=コミュニケーションのプロトコルとは、まさに社会的因襲にほかなりません。
 
 この箴言を私なりに解釈すると、“「茶番」をこなしながらも、それに呑まれず、自分自身は醒めていなさい”って感じになります。
 
 ただ、冒頭リンク先で借金玉さんがおっしゃっているように、「茶番」に対してシニカルになりすぎると、それが態度に出てしまってトラブルの元になるので、実際には、「茶番」モードとシニカルモードを on-off できるのがベストだと思います。
 
 コミュニケーションのプロトコルは便利ですが、しょせん、因襲でしかありません。万有引力の法則などに比べれば、揺らぎやすいものです。本当の本当に必要な場面では、あえて破ったほうが良いこともあるかもしれません。だから「茶番」を絶対視してしまうのも、それはそれで融通のきかない生き方です。
 
 まあしかし、コミュニケーションの決め事やプロトコルを「茶番」と呼んで軽蔑するのは、そのあたりの切り替えがスムーズにできるようになってからであるべきで、ロクにできないまま放置しておくのは、長い目でみて損の多い生き方だと思います。
 
 コミュニケーションは、剥き出しの真実や純粋な心がぶつかり合うのでなく、風習とか因襲にコーティングされた、プロトコルのなかで進んでいくものです。これは、仕事場面だけでなく、恋愛や友人関係についても言えることです。そういったプロトコルによって助かっている部分もあるし、それで捉えにくくなっている部分もありますが、とにかく、そういうものとして、適応していくっきゃないよね、と私は思います。
 

全国書店さまにて、『認められたい』フリーペーパーを配布しております

 
 『認められたい』、本日発売です。Amazonではたちまち売り切れてしまい、現在は、購入できない状態となっております(追記:入荷しました!)。つきましては、他のネット通販系か、お近くの本屋さんにアタックしてみてください。
  
 なお、一部の書店さまで、「あとがきのあとがき」という特典冊子(追記:無料で置いてあるフリーペーパーの扱いだそうです。そのかわり、なくなり次第終了です)を配布しております。『認められたい』の執筆には間に合わなかった、2016年末~2017年の動向を踏まえて、これからの承認欲求と所属欲求のゆくえについて書き足しました。
 
 なんていうんですか、私が想定していた以上のスピードで、承認欲求ベースから所属欲求ベースに振り子の針が傾いているようにみえるんですよ。たぶん、承認欲求が突出していた時代は2010年以前に通り過ぎて、現在は、承認欲求と所属欲求が均衡する方向に向かっていると私は感じています。00年代と比べると、自分の承認欲求しか眼中にない若者って、もうそんなにいないんじゃないでしょうか。
 
 『認められたい=承認欲求と所属欲求』って構成にして本当に良かった! もし、承認欲求のことしか書かなかったら、この本は発売した瞬間に時代遅れになっていたでしょう。
 
 ちなみに、このペーパーの内容は「このはてなの片隅に」というオフ会でペラペラ喋ったことにかなり近いので、オフ会に参加された方には馴染み深いものだと思います。ですが、そうでない方は、『認められたい』本体とあわせてお読みいただくと楽しめるんじゃないかなぁ、と思います。
 
 
 
 取り扱っている書店さまは、以下のとおりです。
 



 
【配布書店さま一覧・敬称略】
 
北海道
ヴィレッジヴァンガード イオンモール札幌発寒店

青森県
紀伊國屋書店 弘前店

宮城県
喜久屋書店 仙台店
紀伊國屋書店 仙台店

茨城県
ACADEMIA イーアスつくば店

埼玉県
ブックエキスプレス ディラ大宮店

東京都
三省堂書店 池袋本店
MARUZEN&ジュンク堂書店 渋谷店
東京旭屋書店 池袋店
ブックファースト 新宿店
真光書店 本店
ジュンク堂書店 立川高島屋店
オリオン書房 アレア店
オリオン書房 ノルテ店
コミック高岡
ブックエキスプレス 渋谷店
紀伊國屋書店 新宿本店
文教堂 浜松町店
ブックエキスプレス エキュート上野店
三省堂書店 有楽町店
中央大学生協 多摩店
くまざわ書店 池袋店
明正堂 アトレ上野店
芳林堂書店 高田馬場店
書泉ブックタワー
書泉グランデ
ヴィレッジヴァンガード 下北沢店
ブックファースト 大井町店
ブックファースト 渋谷文化村通り店
ジュンク堂書店 池袋本店
ヴィレッジヴァンガード 町田店
ヴィレッジヴァンガード 八王子東急スクエア
HINTINDEXBOOKエキュート東京
有隣堂 新宿店

千葉県
喜久屋書店 千葉ニュータウン店
東京理科大学生協 野田店
紀伊國屋書店 流山おおたかの森店
ヴィレッジヴァンガード 津田沼パルコ

神奈川県
有隣堂 横浜駅西口店
くまざわ書店 ランドマーク店
くまざわ書店 大船店
ヴィレッジヴァンガード 横浜ルミネ店

長野県
平安堂 飯田店

新潟県
ジュンク堂書店 新潟店
知遊堂 上越国府店

静岡県
TSUTAYA 佐鳴台店
TSUTAYA 藤枝店
ヴィレッジヴァンガード イオンモール富士宮

愛知県
三省堂書店 名古屋高島屋店
ヴィレッジヴァンガードビックカメラ名古屋

滋賀県
ヴィレッジヴァンガード イオン近江八幡店

京都府
アバンティブックセンター 京都店
ブックファースト 京都店

大阪府
ブックファースト なんばウォーク店
MARUZEN&ジュンク堂書店 梅田店
喜久屋書店 阿倍野店
紀伊國屋書店 高槻店

和歌山県
ヴィレッジヴァンガード イオンモール和歌山

岡山県
丸善 岡山シンフォニービル店
喜久屋書店 倉敷店
ヴィレッジヴァンガード イオンモール倉敷
ヴィレッジヴァンガード イオンモール岡山

広島県
MARUZEN&ジュンク堂書店 広島店
ヴィレッジヴァンガード イオンモール広島祇園店

徳島県
ヴィレッジヴァンガード フジグラン石井

福岡県
フタバ図書 GIGA今宿店

大分県
ヴィレッジヴァンガード 大分わさだタウン
 



 
 街の本屋さんで見かけましたら、ぜひ、手に取ってみてやってください。
 
 
 
認められたい

認められたい

 

ブロガーの道は諸行無常。それでもあなたは、ゆくのですか。

 (※このメッセージはブログやtwitterやYouTube等で何かを発信している人向けです)
 
plagmaticjam.hatenablog.com
 
 
はてな村の権威とは、ネットにおける権威とは、いったい何でしょうか。
 
 権威と言われるとピンと来ませんが、ネットアカウントの存在感威信ってのは確かにあると思います。「このアカウントの言葉なら耳を傾けよう」とか、「このアカウントの動きはまた見よう」とか、そういうのですね。影響力の大きさ、と言い換えてもいいかもしれません。
 
 では、その影響力の大きさは何に由来するのでしょうか。
 
 それは、今までに獲得してきた信用だったり実績だったりします。「この人はデタラメなことを言わない」「この人のつくるものはだいたい面白い」と思ってくれる人がたくさんいて、それが長く続けば、そのアカウントの影響力は大きくなるでしょう。
 
 たぶん、動画配信でも同じではないでしょうか。「どこかの馬の骨」ではなく「この人の新作なら、見てみてもいいかな」と思ってくれる人が増えるってことが、ネットにおいて影響力を得るってことなんだと思います。
 
 でも、ネット上で積み重ねる信用や実績って、本当にはかないですね。
 

はてなブログを叩く声

諸行無常の響きあり

はてなスターの星の色

盛者必衰の理をあらわす

おごれるブロガーも久しからず

ただ春の夜の夢のごとし

アルファブロガーも遂には滅びぬ

ひとえに風の前の塵に同じ

 
 信用や実績によって影響力を蓄積するには長い時間がかかりますが、それを失うのは簡単です。影響力に執着しているブロガーが、影響力が損なわれそうな危機に陥って焦ったあげく、下手を打つこともあります。ネット炎上のたぐいを眺めていて思うのですが、一発で信用を丸ごと失うことは少なくても、二発、三発と続くと連続技ボーナスが入ってしまうように見受けられます。こうなると、個人ブロガーのちっぽけな影響力など、たちまち無くなってしまいます。
 
 じゃあ、影響力が大きくなったら炎上しないかといったら、そんなことはありません。むしろ逆で、影響力があればあるほど人目に触れる機会も増え、言動が絶え間なくチェックされるぶん、危ないのではないでしょうか。国会議員などが典型的ですよね、影響力が大きいからこそ、あらゆる立場の人々から言動をチェックされ、そのいずれかに引っかかれば「失言」とみなされます。芸能人のネット炎上なども同様でしょう。
 
 ネット上では、いや、メディア上では、影響力を稼げば稼ぐほど、言動が厳しくチェックされて燃えやすくなるってことです。先に進むほど細くなるロープの上を綱渡りしているような状態ですよ。少なくとも私は、そうだろうと想定しているので、身に余る影響力を手に入れたいとは思いません。だって、影響力が高くなればなるほど、綱渡りが辛く厳しくなるのが目に見えているんですから。
 
 だから、冒頭リンク先の
 

つまりはてな村では「権威」がないのだろう。誰の言うことだから聞くとか誰の言うことだから気の迷いだと判断する。そういう信頼の積み重ねがない。信頼がないからそこで失言するような自由もまたない。

 
 これは間違いで、信頼を積み重ねるほど失言に気を遣わなければならないのだと私は思います。もちろん、信頼も影響力も要らないなら自由に発言すれば良いのですが。言い換えると、その手の自由を失いたくないなら信頼や影響力に執着してはいけないということです*1
 
 ここでばブログの話をしていますが、SNSやtwitterやYouTubeにも同じことが言えることではないでしょうか。
 
 ネット上で、いや、メディア上で信用や実績や影響力を積み上げるってのは、かように過酷で儚いものです。だから、野心を剥き出しにして突き進む年下のアカウントを見かけると、私は、応援したくなるような、満開の桜を愛でたくなるような、なんとも言えない気持ちになります。そこには嫉妬も混じっているんでしょうね。私には、そこまで果敢に攻める勇気はもうありませんから。
 
 
 冒頭リンク先には、
 

針の穴を通し続けるほどの神経を僕はとてもじゃないが持ち合わせていない。ブログにクソ文を投稿しても許されるだけの権威が欲しい。権威などというと傲慢のように見える。許しだ。許しがほしい。

 
 とも書かれています。
 
 それなら、影響力より許しを優先させるようなブログ運営しかないでしょう。できるだけ影響力を持たないよう、地を這う節足動物のようなスタイルでブログを書きましょう。プロフィール欄に、「私は地を這う節足動物です。有害です。私の影響を受けてはいけません。」と明言しておくのも良いかもしれません。いっそ、はてな匿名ダイアリーや匿名掲示板に溶けていくのも良いかもしれません。個人アカウントとしての影響力はゼロになりますが、許しは得られると思いますよ、法に触れない範囲では。
 
 私自身、やたらとボウボウ燃える昨今のインターネットには色々と思うことがあります。そして、中途半端に綱渡りを続けても得られるものは少なく、その苦しみを理解してくれるのは一部の人間だけで、大半の人は「おまえが望んでやっているんだろ、さあ、綱渡りを続けるんだ」以上の感想を持ってくれません。辛いですね。寂しいですね。でも、そういうものなんです。結局、その手のブロガーの道とは、暗夜行路の孤独な綱渡りなのです。
 
 あなたは、それでもブログを続けますか? 影響力なる虚栄の王冠を求めて、綱渡りのようなブログ運営をこれから何年も続けるおつもりですか? もし、そういった酔狂をやりたい動機や衝動があるなら、是非挑戦してみてください。大丈夫、あなたのブログが消えても、私はきっとあなたのことを忘れないでしょう。ブログのお墓にお線香をあげて菩提を弔うぐらいのことならできます。後顧の憂い無く、ブログ道を進んでください。
 
 他のブロガーさん、他の発信者さんについても同様です。お互い、長く生き残った側が消えていった側を記憶して、語り継いで、弔っていきましょう。先に逝くのは、あなたかもしれないし、私かもしれない。どうあれ、ネットという修羅の国で生きようとした者同士、頑張ってまいりましょう。
 
 きっと、あなたが燃えても私はあなたを助けられないし、私が燃えてもあなたは私を助けられない――ブロガーの仲とはそういうものだと思いますが、執着の灯火を燃やしながら、お互い、良い思い出を作っていけたらいいなぁと願います。
 
 
 [関連]:「実は貧乏」じゃなくて、「実は金持ち」が悪口になる世界 - いつか電池がきれるまで
 [関連]:『はてな村オンライン』の遊び方
 

*1:げんに、信頼や影響力を度外視して好き勝手なブログ運営をしているアカウントはごまんといます。