シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

【たすけて!所属欲求!】1.承認が足りないおじさん・おばさんは所属しろ!

*これから、所属欲求についてのブログ記事を連載します(全三回)。承認欲求はよくわかるけれど所属欲求はよくわからない人、『認められたい』の拡張パッケージ的な文章が読みたい人に、特にお勧めです。*
 

認められたい

認められたい

 
 

はじめに

 
 新著『認められたい』では、承認欲求と所属欲求について、なるべくわかりやすく解説したつもりです。それでも、よく見かける承認欲求という言葉に比べて、所属欲求という言葉はイマイチわかりにくい読者さんもいらっしゃったかもしれません。
 
 また、執筆段階では十分意識できていませんでしたが、最近、ネットユーザーのモチベーション源として、所属欲求が承認欲求に並ぶほど機能しているさまが捉えやすくなってきました。2010年代後半のネットユーザーは、明らかに、承認欲求と所属欲求の両方に強く動機づけられて行動しているようにみえます。
 
 そういった動向も踏まえて、もう少し所属欲求について書き足したい気持ちが堪えきれなくなったので、これから三回にわたって、所属欲求についての補足説明や今後の展望などについて記してみます。
 
 なお、この連載は『認められたい』が未読でも読めないことはありませんが、少し難易度が高いかもしれません。既読のほうが、絶対に理解しやすいと思われます。こちらを先にお読みになって興味を持たれた方は、本屋さんで『認められたい』を手に取ってみてください。
 
 

所属欲求とは

 
 所属欲求とは何か、ここでも振り返っておきます。
 
 所属欲求とは、心理学者のA.マズローが提唱した欲求段階説に登場する、人間関係にまつわる欲求のひとつです。
 
 マズローのモデルによれば、人間は、衣食住や身の安全といった基本的欲求が充たされると、ついで、人間関係にまつわる欲求を充たしたくなり、稀に、自己実現欲求に芽生えるそうです。
 

 
 人間関係にまつわる欲求は、マズローのモデルでは承認欲求と所属欲求に分けられています。承認欲求は、個人単位で褒められたい・注目されたい欲求、所属欲求は、誇れるメンバーシップの一員でいたい・敬愛する人と一緒にいたい欲求などです。
 
 マズローが活躍した1960年代のアメリカは、現在よりも地域コミュニティが機能していた“古き良きアメリカ”で、そういったコミュニティに属さず“根無し草”的に生きていける人がまだ少なかった時代でした。そのような時代背景があってか、マズローは、所属欲求を承認欲求よりも前段階の欲求として記しています。生まれながらにして誰もがコミュニティに属し、仕事や生活を支え合っていた社会では、たぶんそれが自然なことだったでしょう。日本でも、たとえば団塊世代の多くの人は、まず所属欲求ありきで年を取っていき、個人主義的な考え方とライフスタイルが浸透していくにつれて、承認欲求のウエイトの高いライフスタイルに移行していったように見受けられます。
 
 ただし、郊外化や都市化が進行した後の社会、たとえば1980年代以降の、日本の郊外などで生まれ育った子どもの場合は、この限りではありません。コミュニティへの所属がずっと希薄となり、親から個人主義的な考え方とライフスタイルを専ら叩き込まれて育った子どもは、むしろ逆で、スタンドアロンな承認欲求がデフォルトで、所属欲求が乏しい人が珍しくないよう見受けられます。
 
 そのことを踏まえて、私は、承認欲求と所属欲求の間に優劣はつけられず、育った環境や社会状況次第で、どちらが優勢になるのかが変化するという風に捉えています。と同時に、どちらか一方だけをモチベーション源として生きるのは難しく、『認められたい』で触れたように、どちらの欲求も、適切な経験を積み重ねて、適切なかたちにソーシャライズされていかなければ(=レベルアップさせていかなければ)、心理-社会的な適応が難しくなる、とも考えています。
 
 

思春期が終わった後に重要になる、所属欲求のアドバンテージ

 
 で、タイトルの「承認の足りないおじさん・おばさんは所属しろ!」について詳述していきます。
 
 承認欲求は、自分自身という個人に評価や注目が集めることで充たされることで専ら充たされる欲求で、これが、スキルアップのモチベーション源として重要なのは論を待ちません。
 
 ですが、そういった承認欲求を主たるモチベーション源としてスキルアップしやすく、それを生き甲斐にしていられる時期は、そんなに長くはありません。
 
 人間は、年を取っていく生物です。生物学的にも、社会的にも、老いていきます。経験の積み重ねによって老いをカヴァーできる部分もたくさんありますし、人は生涯かけて成長し続けていくものですが、後発世代の目覚ましいスキルアップを、朝日を仰ぐような気持ちで眺める日は、必ずやって来るでしょう。中年期以降の心理的成長のなかには、自身の衰えと向き合う姿勢や、自分よりも若い世代が台頭していくのを眩しく思い、見守り、祝福する姿勢も含まれて然るべきでしょう。
 
 そうでなくても、立身出世の限界、才能の限界、体力の限界、家庭の事情などによって、自分自身の栄達やスキルアップに集中できなくなる状況が起こりがちです。E.エリクソンは、中年期の発達課題を生殖性Generativityと位置づけ、問われるべき徳として「世話すること」を挙げましたが、これは、中年期以降の加齢の影響と社会的ポジションを考えると言い得て妙だと思います。自分自身の可能性の限界がみえてくるタイミングで子どもや後輩の世話や指導が期待されるようになり、年下世代にリソースを差し向けたほうが自分自身の成長よりも伸び幅があると感じたりもします。そこに、高齢者の世話や後見といった役割も入ってきます。
 

幼児期と社会 1

幼児期と社会 1

 
 だから「自分」「個人」という小さな器に固執するのでない限り、中年期は、自分自身以外の対象に気持ちを傾けたほうが手応えを実感しやすい時期と言えます。少なくとも、自分自身の成長に手一杯な思春期以前や、生命を保つのも大変な老年期以後に比べれば、そうでしょう。
 
 そんな境遇になった時、承認欲求しか眼中になく、自分自身が褒められたり評価されたりすることだけをモチベーション源にしていては、自分自身の伸びしろの限界に直面するばかりです。あるいは、子どもや年下世代を、自分の承認欲求を充たすための道具としてこき使う中年もいるかもしれませんが、そのような生き方は、いわば後発世代を食い物にして思春期の延長戦をやるようなもので、勧められたものではありません。
 
 いつまでも思春期が続き、いつまでも自分自身の成長やスキルアップに夢を託して生きていけるのなら、所属欲求をほったらかしにした、承認欲求に軸足を乗せっぱなしのライフスタイルも悪くないかもしれません。が、実際の人間はそうではないので、思春期においても所属欲求を完全に放棄するのでなく、中年期以降のモチベーション源として無視できないであろう所属欲求にもなんらかの形で馴染み、その充たし方を洗練させつつ(=レベルアップさせつつ)生きたほうが生きやすいはずです。実際、まずまずうまくやっている中年の大多数は、承認欲求と所属欲求をうまく折衷させながら生きている人々で占められているようにみえます。
 
 

「認められたい」でも梯子を外されたロスジェネ世代

 
 20世紀後半の日本は、大人も子どもも「自分」「個人」に向かって突き進みました。と同時に、エイジングの曖昧な、終わりなき思春期がいつまでも続くかのような気分が蔓延した結果、人々は承認欲求に根差したライフスタイルにしがみつき、所属欲求の必要性は語られず、古臭くてダサいものとみなしました。成人はコミュニティの希薄なマンションや郊外で“ニュー・ファミリー”を志向し、若者はワンルームマンションで好きなように暮らすのが“トレンディ”な、そういう状況が数十年にわたって続いたわけです。
 
 個人主義が浸透したこと自体は、私達には必要なことだったのでしょう。しかし、「個人」や「自分」に老若男女が固執した結果、「認められたい」という気持ちに占める承認欲求の割合は、高止まりし続けました。“ツッパリ”“ヤンキー”“体育会系”といった、所属欲求寄りの若者をダサいとみなす人達においては、特にそうだったと言えます。
 
 その結果、所属欲求という、承認欲求と同じぐらい重要なモチベーション源に不慣れなまま中年期を迎えてしまう……というのが、団塊ジュニア世代~ロスジェネ世代にありがちな心理的陥穽だったのではないでしょうか。
 
 「認められたい」の移り変わり、モチベーション源の移り変わり、という視点でみるなら、フリーターが流行語になったバブル全盛期も、自己責任論が台頭した就職氷河期も、内実はさほど変わっていなかったとも言えます。一貫して、承認欲求をモチベーション源としたワークスタイルやライフスタイルが若者に支持されていたと言って良いでしょう。
 
 しかし、そのような風潮の陰で進んだのは、「認められたい」を巡る大きな格差でした。経済面だけでなく心理面においても、持てる者が多くを掴み、持たざる者は持たなくなってしまいました。承認欲求中心なライフスタイルが流行ったとはいうものの、実際に社会的地位やスキルアップの勘所を押さえたのは、所属欲求の取り扱いに慣れている人々、つまり、同輩や先輩と心理的同盟を結ぶことにモチベーションを感じやすい人々でした。
 
 所属欲求を敬遠してきた者は、スキルアップのためのモチベーション源を、専ら承認欲求に依存せざるを得ません。企業も地域も所属欲求を充たしてくれない個人主義社会が到来した以上、所属欲求のセーフティネットに相当するものは存在しません。それによってしがらみが無くなり、自由になったのも事実ですが、集団に所属し、そこから心理的・社会的・技能的なメリットを汲み出す機会は、個人の意志と能力次第になってしまったとも言えます。
 
 所属欲求を充たす機会が乏しい人は、そのぶんも承認欲求で充たすしかありません。承認欲求がクローズアップされる社会の背景には、所属欲求を充たす意識と手段が減り、それによって、承認欲求に過重をかけざるを得ない人が増えた、という流れがあるように思います。この変化が、20世紀後半~21世紀初頭にかけての日本の社会病理を形づくった、おおきな要因になっていたのではないでしょうか。
 
 

所属欲求を諦めるのはまだ早い。

 
『認められたい』で記したように、所属欲求を充たし慣れていない人でも、なんらかの人間関係に所属意識を持ち続ければ、所属欲求を充たし慣れていく可能性はあります。なにせ、人間は太古から群れて過ごしてきたのですから、同胞意識を持ったり望ましいリーダーに率いられたりするのが心底嫌いな人は、そんなにいないはずです。欲求を充たし慣れているのか、欲求を年齢相応なかたちで充たすための適切な社会化(=レベルアップ)ができているかが問題なだけで。

 一般に、所属欲求を充たし慣れていない人は、やたらとハイレベルなメンバーシップや指導者を求めがちで、そのことが災いして、カルトな集団や教祖に吸い寄せられることがあります。カルトな集団のリーダーやメンバーは、そのような人を積極的に探しています。
 
 では、どうやってリスクを回避しながら、所属欲求に慣れていけば良いのでしょうか。
 
 『認められたい』では、その回答をH.コフートの提唱した変容性内在化という概念に求めました。つまり、お互いに百点満点とはいかない者同士でも付き合いが続き、そのなかで、ほどほどに「認められたい」気持ちが充たされていく体験を積み重ねることによって、所属欲求を充たし慣れていくのです。
 
 所属欲求を充たし慣れていない人、つまり仲間意識を持ったり誰かをリスペクトしたりする機会が乏しいまま成長した、たとえば『山月記』の李徴のような人にとって、ごく普通の同世代に仲間意識を持ったり、上司や先輩の良いところに着眼したりするのは、簡単ではありません。仲間意識やリスペクトを抱ける人間関係には、ときたましか遭遇しないでしょう。それこそ、李徴にとっての袁傪のように。
 
 ですがもし、そのような人間関係を掴んだら、なるべく短気を起こさず、簡単に相手を見限らず、長い付き合いを心がけましょう。自分だけ褒められたい・他人は自分を盛り立てるためのアクセサリだ、などと思うのはもうやめましょう。もし、それがあなたの今の本心だとしたら、それは、加齢に伴う衰えとともに中年期危機を招く危険な賭けだと私は思います。
 
 そうではなく、完璧とはいえない他人にも敬意を払いましょう。完璧とはいえない他人に敬意を払うことは、完璧とはいえないまま生きてきた自分自身に許しを与える道にも通じています。いろいろな意味で、他人に払った敬意は自分自身に返ってくるのです。
 
 今日では、オフラインの世界だけでなくオンラインの世界でも、「認められたい」を充たせるような人間関係が生じ得るようになりました。この文章をお読みの方は、きっとオンラインでもコミュニケーションしてネットコミュニティにも属しているでしょう。たとえば、はてなブログ-はてなブックマークから成る(株)はてなのコミュニティなどもそうです。もし、そういったコミュニティを見つけ、一目置き合えるようなアカウントや敬意を払えるようなアカウントと相互認識が芽生えたら、長くお付き合いしていただきたい、と思います。
 
 かく言う私も、たぶんそうやって、このネットコミュニティで所属欲求を充たしながらブロガーを続けてきたのだと思います。ときには怒り、ときには失望し、ときには喧嘩することがあっても、関係性が途切れなかったブロガーやブックマーカーのおかげで、私の所属欲求はいくらかなりとも成長したのだと思います。でも、それは一朝一夕にできたことではありません。古参アカウントの皆さんと長い歳月を共にし、オフ会でお目にかかることもあったからこそ、「雨降って地固まる」や「適度な欲求不満」を含んだ、所属欲求のレベルアップにつながる体験が成立したのでしょう。
 
 専ら承認欲求をモチベーション源にしている人のなかには、「駄目になったら、また別のコミュニティに行けばいい。他人は他人で俺は俺だ」的に、コミュニティに居つく機会や長く付き合う機会をぞんざいに扱って生きている人も少なくないように思います。しかし、それだけでは所属欲求を充たし慣れることはできませんし、承認欲求に過重がかかった状態が長く続いてしまうでしょう。属しているコミュニティ、仲間意識を感じられる同輩、敬意の対象にしている師匠や先生のたぐいがいるなら、大切にして欲しいと思います。
 
 所属欲求を充たし合えるような、敬愛の気持ちが通い合った人間関係とは、基本的に良いものです。お互いの承認欲求や所属欲求を充たし合える関係が長続きすれば、それらを充たすための適切な社会化も進んでいきます。所属欲求を充たし合うのに、遅いということはありません。承認欲求にとらわれ過ぎてキツいという人は、もうひとつの「認められたい」、所属欲求に着眼して、その充足と成長に心を傾けていただきたいと思います。