シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

なし崩しの人生を恥じる必要はない

 
www.pasonacareer.jp
 
 
 リンク先では「キャリアなんて後から勝手にできあがってくるものだから、やりたい仕事がわからなくてもいいじゃない」的なことを書きましたが、ここは私のブログなので、もうちょっと私自身のことを書いてみます。
  
 リンク先でも書いたとおり、私の精神科医としてのキャリアは精神薬理学からスタートしました。薬の効果や代謝機序を片っ端から覚えて、仕事のなかでそれらを確認するのはやり甲斐のあることで、患者さんの治療成績にも直結していたこともあって真剣にやっていました。
 
 当時の私がぼんやり思い描いていた精神科医としてのキャリアは、たぶん、そういうオーソドックスなものだったと思います。
 
 しかし、紆余曲折を経るうちに私は精神分析や社会心理学に惹かれるようになり、と同時に、書籍を書くチャンスが巡ってきました。私と同じぐらいの年齢で、私のようなスタイルでブログをやっている精神科医が他に存在しないこと*1、私が娑婆について書き記したいことと同じことをやっている精神科医が周りに見当たらないことから、私は、私の行く道を行くことにしました。今の私は、精神医学~精神分析~社会心理学~社会学の境界線あたりの、モヤモヤっとしたところをライフワークにしているつもりです。
 
 「ライフワークにしているつもり」と書くと能動的にみえるかもしれませんが、この気持ちとて、はじめから持っていたわけではありません。十数年の歳月を経ていつの間にかできあがった、成り行きの産物でしかありません。
 
 もちろん、精神薬理学時代もそれなりインターネットはやっていましたし、斎藤環さんのようなユニークなことをやっている先輩精神科医に憧れてもいました。それでも、まさか自分がブロガーを十数年も続け、何冊も本を書くことになるとは想像していませんでした。
 
 こうした自分の来歴を思うにつけても、キャリアは前に向かって展望するより、事後的に、いつの間にか、自分が歩いた足跡としてできあがっていくものだと思わずにいられないわけです。
 
 

たぶん、人生も事後的に、足跡としてできあがっていく

 
 ここまでは仕事の話でしたが、人生も、だいたい同じだと思います。
 
 学生時代に思い描いたとおりの人生をおくる人なんてまずいません。結婚すると思っていなかった人が結婚し、結婚するつもりでいた人が結婚しないなんてことも人生ではザラにあります。「人生、一寸先は闇」といいますが、良いことも悪いことも本当に予測がつかず、思うにままなりません。
 
 むろん世の中には、順風満帆、ストレートな人生を歩んでいるように"みえる"人もいます。若い頃からプロの世界に飛び込み、活躍している人などはその典型と言えます。しかし、そういう人生を歩む人でさえ、他人に見えないところで「雑巾がけ」をこなしていたり、関わりたくもないことにも関わったりしながら、案外、くねくねとした人生を歩んでいるのが実情ではないでしょうか。
 
 なし崩しの、くねくねとした人生を恥じる必要はありません。というより、なし崩しでない人生なんて、この世のどこに存在するのでしょう? 計画どおりの人生なんて机上の空論にすぎず、ほとんどの人間はなし崩しに生きて、なし崩しに死にます。もし、そのことをもって悪い人生と言ってしまったら、ほとんどの人生が悪い人生ということになってしまいます。
 
 私は、人生を自分の思い通りに進めるかどうか、計画どおりか否かで人生の良し悪しをはかるのはナンセンスだと思っています。そんなことより、曲がりくねった自分の足跡をどう肯定していけるか、あるいはせめて否定せずにいられるかに心を砕く、あるいはそのための方法論を磨き上げるほうがいいんじゃないでしょうか。
 
 自分の足跡を肯定し、やたら否定しないための方法論はとうてい書き尽くせるものではありません。この問題には色々な要素が絡み、個人の努力だけでは追いつかない要素を含んでいることも認めなければなりません。それでも、おそらく確からしいことがひとつあります。
 
 それは、自分の人生の許容範囲を狭く取るより広く取ったほうが、自分の足跡は肯定しやすい、ということです。
 
 自分の人生を許容範囲を狭く取るとは、たとえば、「一流企業に入社して、30歳までに結婚して、子どもをもうけて、夫婦仲も良くなければ駄目な人生」みたいな人生の捉え方を指します。このような人は、一流企業に入社できなくても、30歳までに結婚できなくても、不妊に遭遇しても、離婚しても、人生を否定的に捉えてしまうことになってしまいます。
 
 それに比べれば、特別なポリシーを持つことなく、なし崩しを前提に生きている人のほうが、自己否定に陥らない生き方の範囲が広く、まだしも自分の足跡を肯定しやすいのではないでしょうか。
 
 誤解されたくないので断っておきますが、志を持つな・意識の高い人生を目指すなと言いたいわけではありません。志を持つのは素晴らしいことですし、意識が高い時には意識の高い人生を突っ走ってみるのもいいでしょう。また、未来に対してある程度の計画性や展望を持つことも否定されるべきではないとは思います。
 
 それでも、志を持つことと、実際に起こるであろうなし崩しの人生を肯定することとは、けして両立しないわけではありません。計画性や展望を持つことと、人生の許容範囲を広く取ることも、必ずしも両立しないわけではありません。だからその、ぐねぐねと生きる性根って渡世の技法として意外と大切だよね、というのが今日の私の意見(らしきもの)です。
 
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

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*1:ちなみに、他のスタイルでブログやウェブサイトをやっている同世代の精神科医なら存在していました