http://anond.hatelabo.jp/20130306163244
リンク先は、就職活動中の大学生が書いた長文だ。文中、「自分はクズ」「人間失格」といった文字がちりばめられ、「どうやったらスティーブジョブズになれるんだよ!」とも書かれている。リンク先の書き手が、精神的にどれぐらい余裕が無いのか・万が一にもメンタルヘルスに問題を呈しているのかは、文章だけでは判断できないので、触れないでおく。
それより、私や友人達の間で「クズ」という言葉が流行っていた年頃を懐かしく思い出してしまい、“自称クズ問題”について書きたくなってきたので、書き記しておくことにする。
「クズ君」の思い出
大学生だった頃の私は、自分のことをクズだと思っていた。学業は低空飛行で、世間から後ろ指を指されるような趣味に耽り、コミュニケーションにも自信が無い。さりとて“一般的な”クラスメートや親族の前で「自分はクズです」などと言おうものなら、後々面倒なことになる。クズという言葉は、「クズ感覚」を共有できる友人同士の間でだけ、こっそり出回っていた。いわば「クズ友達」だ。当時の私はまだ、インターネットに手が届いていなかった。
そんなクズ友達の一人に、「クズ君」を名乗ってやまない、とびきり自称クズの烈しい奴がいた。クズ君は就職活動の面接時間に遅刻してしまうような呑気な男で、それでいてちょっとしたアーケードゲーマー、エロゲーマーでもあった。いつもクズ君は、ゲームセンターの一角でジョイスティックを握りながら「僕はクズだ」「僕はクズだ」と呟いているのだった。
アナカリス*1の超必殺技を食らったら「僕はクズ」。
シーラカンスの背ビレ*2を取り損ねたら「僕はクズ」。
スーパーリアル麻雀P3では、勝っても負けても「僕はクズ」。
最初のうち、「クズ君は本当にクズクズうるさいな」と感じていた。ところが、あまりに頻繁にクズクズ聞いていると、段々気持ちよくなってきて、ああクズか、クズでも構わないやという気持ちになってきたから不思議だ。クズ君の、リズム感を帯びた「僕はクズだ」のお陰で、敗残兵の挽歌のような趣だった「自称クズ」は、仲間内では軽やかなニュアンスを帯び始めた。「ま、クズでもいいじゃないか」。
そうこうするうちに、卒業間際のクズ君が、神妙な事を言い始めた。当時、あまりに斬新だったので記憶に残っている。
「クズはクズなりに、頑張って生きていくしかないんですよ。」
「クズでも、なるべく程度の良い生き物になるしかないんです。」
いつもと違う、淡々とした語り口のクズ君の言葉に、私は胸をうたれた。ああそうか、クズもクズなりに頑張って生きていくしかないのか。クズでも生きて構わない。クズでも生きていかなければならない。その、福音とも運命ともつかない和音のような響きを、私は自称クズの心構えとして受け取った。
その後、私はインターネットにアクセスできるようになり、程なく、テキストサイトの自虐芸なるものを目の当たりにした。けれども、クズ君の「クズはクズなりに、頑張って生きていくしかないんですよ。」という言葉に匹敵するような文脈には、遂に巡り会わなかったと思う。
自称クズは、高い理想と表裏一体
その後、私はオフラインでもオンラインでも実にたくさんの「自称クズ」達に出会ってきた。“はてな”系のオフ会だけでなく、若い患者さんとの雑談のなかでも、意外と頻繁にクズという言葉に再会した。最近は、ネット上で「真面目系クズ」という言葉も目にする。案外、思春期のかなりの割合の人が、自称クズの季節を通過するのかもしれない。
そういう自称クズの皆さんには、はっきりした共通点があると思う。
それは、自分の理想と現実のギャップに苦しんでいる、ということだ。
「自称クズ」という言葉を聞いただけでは、その人が実際にどうしようもない人物かどうかは分からない。しかし内実がどうあれ、「かくあるべき」という自分の理想と、等身大の自分とのギャップに苦しんでいる最中なのは間違いない。
先ほどの「クズ君」も、ゲームをはじめ、色々な事に対して理想の高い男だった。難度の高い攻略目標を設定しては、それを実行できない自分をクズ、クズ、と連呼していたものだ。彼は、決してゲームが下手だったわけではない。理想と現実との相対距離がいつも遠かっただけだ。
だから、「自称クズ」の人が、「俺ってクズだよね」と同意を求めてきた時、「ああ、お前はクズだね。クズは黙って屑籠に入ってろ。」と頷いて構わないのか、判断が難しい。自称クズな人は、しばしば高い理想を目指していて、案外プライド高かったりすることもある。「クズだよねと同意を求めてきたくせに、いざ、クズだと断じられると面白く無い顔をする奴」――いかにも面倒くさそうな人物像が連想されるが、自称クズの季節とは、そういうものだ。
幸い、件の「クズ君」をはじめ、自称クズの季節はたいてい一過性のようにみえる。中二病などと同じく、おそらく思春期に一定確率でかかる“はしかのようなやつ”なのだろう*3。
自称クズを卒業する条件
では、自称クズはいつ治るのか?
彼らは「理想と現実のギャップに苦しんでいる」人なので、そうしたギャップが少なくなってきた時、ということになる。
一番ストレートな解決は、
1.自分が理想に近づき、ギャップが小さくなって自称クズをやめる
だろうが、実際には
2.理想に至れない自分を受け入れ、自分自身と和解する
というのも同じぐらい大切だと思う。血気盛んな人は忘れがちだが、理想が高い人は、えてして、その理想の高さで自分自身だけでなく周囲の人をもまとめて否定したり、焼き払ってみせたりする。けれども、高い理想に手が届かない自分と和解し、自分の至らぬところを許せるようになれば、理想と合致しない他人や、他人の不適当な部分にも優しくなれるだろう。自分自身の弱さや至らなさを認め、許せるようになることは、他人の弱さや至らなさを認め、許せる道にも通じている。ひょっとしたら、大人の階段を登っていくにあたっては、理想に近づいていくこと以上に、理想と現実のギャップを許すことのほうが重要なエッセンスかもしれない。
また、
3.目指していた理想が、唯一無二の理想ではないと気付いて自称クズをやめる
というパターンもあるかもしれない。クズを自称していた頃に絶対的だと思っていた事柄が、実は相対的にしか重要ではないと気付いた時や、他の要素で埋め合わせが利くと気付いた場合、理想と現実のギャップが横滑りしていく。これもこれで、視野や考え方が広がって結構なことだと思う。
実際には、これら1.2.3.が多かれ少なかれ混交した経過のなかで、思春期の“自称クズ症候群”が自然と治っていくのだろう。
いつか、クズを自称しなくなる日まで
なので、若い人が、等身大の自分をクズ呼ばわりしてまで理想を求めるのは、そんなに悪い兆候ではないと思う。アイデンティティ希求の一変奏として捉える限りにおいて、自称クズは病的でも異常でもない。ちょっと大袈裟なだけで、葛藤しながら明日を夢見る心があるのだろう。
若き自称クズ達は、傷つき、斃れ、それでもまた立ち上がる繰り返しのなかで、理想に近づき、弱い自分を許し、違った価値を見出していくのだろう*4。まさに思春期そのものだ。
*1:カプコンの対戦格闘ゲーム『ヴァンパイア』シリーズに出てくるキャラクター。
*2:3万点!
*3:ただし、クズを自称している自分のことを“クズのなかのクズ”“クズ・エリート”と思い込みすぎると、負のアイデンティティを身につけたままプライドばかり高いクズとしてズルズル生きてしまうかもしれない。とはいえ、そういう心境を三十代〜四十代になっても続けるのはなかなか難しく、大抵の場合、クズとも言い切れない自分自身を発見したり、正真正銘のクズ・エリートにかなわないと思ったりして、丸くなっていくものではある。
*4:とはいえ、理想と現実のギャップに悶える日々は、メンタルヘルスには相応に負担のかかるので、自称クズを続けていられるのは、普通はおおむね数年程度だろう。続けすぎたら自分の心が折れてしまうか、自分に対する理想の高さで周囲の人まで嫌ってしまって人間関係で詰んでしまうかもしれない。良いことばかりでもないことは付言しておく。